―山の神考―

山の神谷の山の神

2015.05.10更新
やまめの里
秋本 治

はじめに
五ヶ瀬町鞍岡波帰の通称山の神谷に鎮座する山の神は、波帰集落上流から西に分岐した谷川の険しい崖地の中にあった。その谷川の源は、五ヶ瀬ハイランドスキー場のある向坂山山頂が分水嶺である。
お社(やしろ)は、桂の巨木の根元近くに建立されていた。桂は老木になると萌芽して次世代の木を創ることから「桂限りなし」といわれるのでそういう場所を社地(やしろち)として祀られていたものと思われる。
神像は、正面左側に男神、右側に女神の二体が並び、男神はヨキ(斧)を持ち、女神は両手で丸い球を持っている。その前庭には、座した四足(よつあし)の動物の像が左右に一体ずつ神社の狛犬のように配置されている。これは、山の神のお使いをする「眷属(けんぞく)」と思われる。
山の神は、一般的には御幣(山の神幣)をご神体として祀ってあるが、「山の神」と刻んだ石や、巨木を祀るものなど地域によってさまざまな形で祀られているようで、自然崇拝の信仰である。神像をご神体とする場合は、男神であったり女神であったり地域によって違いがある。
こうした中で、山の神谷の山の神は、夫婦と思われる二体の神像と「眷属」と思われる二体の動物像が配置されるという極めて珍しい形態の山の神で、社は建立時や修復、彩色時を記録した棟札が多数残されている。
この付近は、昭和初期から水力を利用した製材所があったところで、外部からもいろいろな山関係の人々が出入りしていたとみられることから、山の神の信仰思想も多様な情報が持ち込まれ、神像が充実したのではないかと思われる。
この独特の体裁をもつ山の神は、地元氏子の信仰によってこれまで保護継承されてきた。正月にお参りすると氏子衆によって三段重ねの大きな鏡餅が供えられ、カケグリ(お神酒を入れた竹筒)、アライネ(洗米)などがそれぞれで供えられ、鳥居と社のしめ縄は新しく取り換えられて、榊は勢いよく活けられ、清々しい新年が迎えられていた。
それが、今日では社地が山深く、険しい崖地ゆえに行き来に困難を極め、氏子は高齢化して膝が痛くなるなど参詣できなくなり、社は訪れる人もなく朽ちはててテンなどの動物の棲家のようになっていたのである。
そうした現状を見るにつけ、今日ここで何らかの保存に取り組まなければ、貴重な文化財を失うことになる。いつの時代か民俗学者など研究に必要とされる時代が来るかもしれない。このように考えて地区公民館の地域づくり活動の一環として山の神の移転に協力して地域の文化財を未来につなぐ活動として保存に取り組んだ。
幸いにも地元有志の方々の深いご理解のもと、平成26年10月2日に波帰集落より約1km上流のスキー場へ行く町道沿いに小さな社を建てて神像を移転完成したところである。

山の神信仰について
農民と山民
山の神は、日本全国に見られる民間信仰であるが、その信仰思想は、地域や生業によってかなり違いがあるようである。
里山の農村地帯では、山の神は「春先になると山から里に下りてきて田の神となり、秋収穫が終わると山に帰って山の神になる」とされている。 一方、山深い山村では山師、猟師、炭焼などを生業としてきたことから山の神は「いつでも山の何処にでもいて、山全体を守護している神」とされているのである。

祀り日
山の神のお祀り日は、鞍岡では、正月、5月、9月の各16日を祀り日とされてこの日は、山の仕事を休むという習わしがある。また、ハツリ20日と呼んでハツリ山師は20日も山の神の日とされて山の仕事を休む。
他の地方をネットで検索してみると祀り日はいろいろと違いがあることがわかる。東北、北海道などの東日本では12月12日と1月12日が山の神の日と定められて、この日は山の神が山の木の数を数えているので山に立ち入ってはならないとか、山の神が山で弓を引いているので山に入るのを禁じているなどがある。新潟では2月9日、関東地方では17日、北陸では9日、近畿地方では7日、四国では9日と7日などと地方によって祀り日は大きく異なる。
こうして見ると、正月、5月、9月の各16日を祭り日としているのは九州山地独特の祀り日ではないかと思われる。祀り日の違いは、それぞれの地方によって気候や風土、生業の仕組みが違うことから暮らしに合わせた祀り日が定着したものと思われる。

男神
神道(神社)では、山の神は大山津見神(おおやまつみのかみ)で男神とされている。神話の系譜を見ると大山津見神は、父が伊邪那岐命(いざなぎのみこと)で母が伊邪那美命(いざなみのみこと)である。
民間信仰の男神は、手にヨキ(斧)を持つ。ヨキは左側に三本の刻線、右側に四本の刻線があり、四本の刻線は、それぞれ土、日、水、気を指しているという。ヨキを山に泊まらせる時には四本の刻線が入った右側を地面に向けて置くという。ヨキは木の命を削る道具だから木の命の再生に欠かせない土と太陽と水と空気の四つの気を刻むということは、輪廻転生、自然循環の思想が感じられるのである。ヨキの語源はこの四つの気からきたものと思われる。
ヨキの左側の三本の刻線は、お神酒を奉げるミキに通じるともいわれる。このように、山の神の神像を男神としてヨキを持たせるのは、山師、炭焼きなどを生業とする山民による山の神信仰と思われる。

女神
山の神は、多くの地域で女神とされている。山の神は容貌(ようぼう)がよくないので嫉妬深く、山に若い女性が入るのを嫌う(女人禁制の山神祭り)とか、海のオコゼが見にくい顔をしているのでオコゼを奉げると山の神が喜んで獲物を授けてくれるというオコゼ祭りや、血を忌み嫌う風習などがある。こうしたことから女神は、狩猟を生業とする山民の山の神信仰と思われるのである。
神話における位置づけとしては「大山津見神は、娘である木花之開耶姫(このはなさくやひめ)と姉の磐長姫(いわながひめ)を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に送ったところ、瓊瓊杵尊は容姿が醜い磐長姫を送り返した。大山津見神は怒って云々」などと大山津見神の姉娘の磐長姫は容姿が醜いとされている。このことから山の神の女神は磐長姫ではないかと思われる。

夫婦神
男神と女神の二体を配置した夫婦神の神像は極めて珍しい形態である。男神はヨキを持っているので山師の神様、女神は丸い球を持っているが、前述のように狩猟の神様ということができる。すると、夫婦二体の神像はどのように考えたらよいか。
夫婦神の山の神については、柳田国男監修の『民俗学辞典』によると木地師が祭る山の神は夫婦神であるとされていることから木地師由来の信仰思想が入っているのではないかと思われる。
当地周辺にはキジヤ、キジゴヤ、キジフジヤシキ、キゴウヤなど木地師にちなんだ地名が多くある。また、通称キジヤの山中には「木地屋・小椋礼次郎」と記した夫婦墓の墓石がある。ウト谷や朝の戸谷などを記した木地師の文書(町史)もあり、古くから当地は木地師が活動した地域であることが知られている。こうしたことから、夫婦神の山の神は、木地屋信仰の山の神と思われる。

眷属(けんぞく)
神庭に配置された四足の動物像二体については、神社仏閣の狛犬像と同じ構成と見えるが、猟犬の神をコウザキと呼び、山の神のお使いとする考え方が九州山地の山の神信仰にある。 以下の記録は隣村椎葉の尾前地区で昔からの狩猟儀礼作法を伝承されている尾前善則さんの話で1996年11月の霧立越シンポジウムで記録したものである。
「若い時は、大きな獲物が捕れた時は何発でもヤタテ(空砲)を撃っていました。『山の神とコウザキ殿にヤタテを撃って上げ申す。火の車にお上がりになってたもり申せ。よく聞いてたもうれ、また捕れるように』と言ってですね。
コウザキ殿というのは、犬を祀ってあるのがコウザキです。犬は、山の神の家来なんです。山の神のお使い者です。猟師というものは、犬を大事にしなければならない、厳しくしなければならない、と言った意味はここにあります。山の神様だけを祀っても、お供のものを祀らなかったら、獲物は授からないということです。」
このような伝承を見ると二体の眷属神はコウザキで猟犬の神様ということになり、狩猟民による山の神信仰であることがわかる。

山師について
ここで、山師について私見を述べたい。一般的に山師はペテン師などと同義として使われることがある。国語辞典などでも「山師」の項を引くと詐欺師というような表現がある。 けれども、山師は自然の仕組みを最も知り尽くした人たちで、自然を敬い、山の神を信仰し、自然循環の哲学を持って作法を重んじる専門技術に長けた匠の人たちを指しているのである。
木を伐採するには木の周辺の灌木を切り払い、どの方角に倒すかを見極めて段取りをつける必要がある。こうした仕事を先山(サキ山)という。伐採する人は受け口をヨキで切り、一方から鋸を入れてねらった方向にぴったり収まるように倒す。この仕事を伐採山という。玉切った丸太を下して集める作業をコバ山という。木挽き鋸で木を引き分ける人をコビキ山、ハツリヨキで木材を削る人をハツリ山、下駄材を作る人をゲタ山、ノリウツギの皮を剥いで樽に詰めて運び出す人をノリ山などと呼び分けていた。シイタケのことを方言でナバとも呼ぶが、今日でもシイタケ栽培する人をナバ山さんなどと呼んで、○○山というように山が付くのである。言い換えれば、その道の達人、プロフェッショナルの人たちの○○山を総称したものが山師となるわけである。
詐欺師とされるのは、昔の鉱山師のことで、地下資源のありかをだまして鉱区権を売買したなどによるもの。地下資源探査の技術がない時代のお話である。鉱山師をヤマシと読ませることに混同の原因があると思われる。

棟札
社の棟札によると昭和7年4月8日新築、施主岡田秋蔵 製工・熊本懸鹿本郡米野岳村黒田大平と記されている。熊本県の黒田大平なる人物はどんな人であったのか、どうしてこの山峡の杣地とかかわりがあったのか不明。
次に、昭和19年11月1日改築、製工大阪府堺市東本通(番地不詳)辻栄次郎と記録されている。これは、大阪からこの地に分け入り、水力で帯鋸の製材工場を作った人で、山の神社の下流に辻製材所跡がある。太平洋戦争による物不足で製材品の需要が旺盛であったことが伺える。戦後もしばらく続いていたように思う。それにしても今、当時の製材所跡に行ってみると川の水量はごくわずかしか流れていない。製材所を回していた水は一体どこへ消えたのであろうか。
以下、昭和41年8月17日再建波帰氏子中、昭和55年9月25日改築、昭和56年2月20日彩色、平成4年3月13日新築、などとなっている。

仏師
木造の神像や仏像は、木喰上人(1718-1810)が全国をまわって木彫りの神像、仏像を彫り続けたことで有名である。日向に7年留まって仏像を彫ったと記録されている。
この山の神の神像は、いつの時代に製作されたものか定かではないが、こうした木喰上人の影響を受けたものか、または別の派の仏師がいたのか、あるいは木地師が彫ったのであろうか。
夫婦神の山の神は、木地師の信仰によるものということから考えれば、木地師はお椀などのロクロ製品だけではなく神像の彫刻も行っていた可能性もある。
波帰の鶴田友則氏(92)によれば岡田畩義氏宅の裏山で、幼少の記憶として掘立小屋のようなところで仏像のようなものを彫っていた老人を見たという。
町史による当地の木地師記録ではとくがわ江戸時代とされているが、木地師が定住始めた昭和初期からも当地へ木地師が訪れていた可能性がありる。いわゆるボンクリさんで戦後も再び訪れていたように思う。
各地の神像と比較できればいろいろなことがわかるものと思われるが、今後の専門的な研究が待たれるところである。

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