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闇夜のブナ林ミッドナイトウォーク

 
午前4時、きらめく星空を見上げながら眠たい目をこらえてホテル前からマイクロバスに乗り込む。バスは、つづら折りの林道を登り、カシバル峠を越え、標高1500mのゴボウ畠に到着した。バスから降りると急にひんやりとした空気と真っ暗な闇の世界に呑み込まれた。ここは霧立越の登山口だ。ここから闇夜の杣道を小さな懐中電灯の明かりを頼りに一歩一歩踏みしめながら歩いて登る。

風に揺れて樹木が擦れ合う音であろうか、時折、ギィッギィッ、バキバキッという不気味な音が闇に響く。懐中電灯の薄明かりに照らし出された歩道には真っ赤な落ち葉が夜霧に濡れて光っている。

 サクサクと歩く音だけが聞こえる。静まり返った森に耳を澄ませばヒーィ、ヒーィと細い竹笛を吹き鳴らすような寂しい声が闇を渡る。あれは鵺(トラツグミ)の鳴き声だ。突然、至近距離で野獣が「カンヒョー、ウオーン」と体にズンと響くように吠えた。交尾期の鹿の命をしぼりだすようなけたたましい鳴き声である。

しばらく歩くとどこからともなく獣の匂いが漂ってきた。猪の吐く息を風が運んできたのであろうか。獣たちは落ち葉の上にパラパラっと音を立てて落下するブナやドングリの実を拾っているのだろう。こちらを見ていれば目玉が光るはずとあたりに懐中電灯の光を当ててみる。

 20分ほどで尾根に上がり稜線伝いとなる。森の妖精たちの仕業だろうか枯れ葉の触れ合う音が大きく響いたように聞こえた。かすかに谷川のせせらぎの音もしたようだ。深い谷底から上昇気流に乗って届いたのであろう。樹間を通して天を見上げると星がキラキラと輝き、流れ星が尾を曳く。

白岩山頂に近づく頃、うっすらと浮かぶ東方の山なみの稜線がまるで横一文字に切り裂かれたようにばっくりと口を開いて茜色が漏れ出した。黄泉の国の光のように。その茜色は金色に輝いたり紫に変わったり微妙に変化しながら刻一刻としだいに広がっていく。闇の世界から昼の世界へ切り替わる自然のダイナミックな営みが始まったのだ。

森に生きる動物たちもこの瞬間を固唾を呑んで見つめているのだろうか。西空を振り返ればまだ暗い闇だ。星がまたたいている。やがて白岩山頂にたどり着く。岩場に腰を下ろして眺めると空はしだいに明るさを増して眼下には紫に染まった深い谷が姿をあらわす。

カラカラカラーとキツツキのドラミングがこだました。キョッ、キョッという鳴き声を合図に、チチッチチッ、ヒョイヒョーイ、ピーィピーィと野鳥たちは一斉に声をはり上げながら上空に舞い上ってくる。朝のあいさつを交わすように羽音をたてながら山頂の岩場をかすめる。時折獣たちも雄叫びを上げる。凛とした山の冷気が震えてざわめく。

遠くの山並みに目を転じると谷底から牛乳がわき上がるようにして真っ白い雲海が谷を埋めはじめた。谷間に溢れた雲海は稜線を越えて次の谷間に向かって見事なカーブを描きながら飛沫を上げて、しかしゆっくりとなだれ込んでいく。

茜色の東の空にやわらかな光がさし出し、太陽がぽっかりと浮かんだようにして少しづつその姿をあらわしてくる。思わず両手を合わせたくなるような荘厳さが森に漂う。紫色の谷間の峯々に生まれたての美しい光が映える。宇宙を感じ、魂が洗われるような瞬間である。

すっかり明るくなった頃、小鳥たちは地上に舞い降りてしまった。餌場で朝食をついばんでいるのだろうか、静かだ。すっかり明るくなった森は再び静けさを取り戻し、何事もなかったように1日が始まっている。

どれくらいの時間が経ったのであろうか、ふと我に返ると身体中に幸せ感が満ちているのに気付く。感動の余韻に浸りながら白岩山頂を後に帰途につく。ブナの巨木を見上げながらここにこんな森があったのだろうかと闇夜と昼の世界があまりにも違うことに驚きながら林道へ向かう。

バスの中でも茜色のあの光景が瞼に浮かんでくる。ホテルに帰着。朝食をとって、シャワーを浴び、ベットにもぐり込む。やがて幸せの眠りに深く深く吸い込まれていった。

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