「ヤマメに学ぶブナ帯文化」

9.闇夜のブナ林ミッドナイトウォーク
 
ブナ林の究極の自然体験ツァーは、古代から体の奥に秘めていた感覚を呼び覚ますかのような感動がある。以下はやまめの里で行う秋のイベント「闇夜のブナ林ミッドナイトウォーク」の記録である。

 午前4時、バスは、つづら折りの林道を喘ぎ喘ぎ登り、標高1500mの霧立越の登山口に到着した。バスから降りると急に真っ暗な闇の世界だ。ひんやりとした空気に身震いする。ここから小さな懐中電灯の明かりを頼りに闇の恐怖に絶えながら一歩一歩踏みしめて登る。 時折、ギィッギィッ、バキバキッという不気味な音が響く。風に揺れて樹木が擦れ合う音であろう。電灯の薄明かりに照らし出された歩道には真っ赤な落ち葉が夜霧に濡れて光っていた。

 静まり返った闇の森からヒーィ、ヒーィと細い竹笛を吹き鳴らすような寂しい声がした。あれは鵺(トラツグミ)の鳴き声だ。突然、至近距離で野獣が「カンヒョー、ウオーン」と体にズンと響くように吠えた。交尾期の鹿だ。命をしぼりだすようなけたたましい鳴き声である。一瞬立ち止まりまた歩きだすと、どこからともなく獣の匂いが漂ってくる。猪の吐く白い息を風が運んできたのであろうか。落ち葉の上にパラパラっと音を立てて落下するブナやドングリの実を拾っているのかも知れない。

 やがて杣道は尾根に上がった。ここから稜線を辿る。枯れ葉の触れ合う音が大きく響いたような気がした。かすかに谷川のせせらぎの音も聞こえた。森の妖精たちの仕業だろうか。頭上には樹間を通して星がキラキラと輝いていた。

 白岩山の山頂に近づく頃、東方の山なみの稜線がまるで横一文字に切り裂かれたようにばっくりと口を開いて茜色が漏れ出した。まるで黄泉の国の光のように。その茜色は金色に輝いたり紫に変わったり微妙に変化しながら刻一刻と広がっていく。闇の世界から昼の世界へ切り替わる自然のダイナミックな営みが始まったのだ。ふと、森に生きる動物たちもこの瞬間を固唾を呑んで見つめているのだろうかと思った。西空を振り返ればまだ星がまたたいている。

 山頂にたどり着き岩場に腰を下ろしていると眼下に紫に染まった深い谷があらわれた。カラカラカラーとキツツキのドラミングがこだまする。キョッ、キョッという鳴き声を合図に、チチッチチッ、ヒョイヒョーイ、ピーィピーィと野鳥たちは一斉に声をはり上げながら上空に舞い上ってくる。朝のあいさつを交わすように羽音をたてながら山頂の岩場をかすめる。凛とした森の冷気がざわめき始めた。

 遠くの山並みでは谷底から牛乳を流し込んだような真っ白い雲海が涌いてきた。谷間に溢れた雲海は稜線を越えて次の谷間に向かって落ちていく。見事なカーブを描きながら飛沫を上げてゆっくりゆっくりとなだれ込んでいく。

 東の茜色はより一層金色に輝き始め、やがて太陽が頭をのぞかせた。生まれたてのやわらかい光だ。思わず両手を合わせたくなるような瞬間である。森に荘厳さが漂う。宇宙を感じ、魂が洗われるようなひとときである。どれくらいの時間が経ったであろうか。気が付くとあたりはすっかり明るくなり、小鳥たちは地上に降りていた。静かだ。森は静寂を取り戻し、何事もなかったように1日が始まっている。我にかえると身体中が幸せ感に包まれ、喜びに満ちているのを感じた。

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