禁・無断転載

人間性回復の森・九州ブナ帯文化圏

フォレストピアから21世紀WAKAYAMA

財団法人和歌山社会経済研究所


森林文化社会へ・フォレストピア宮崎構想

 
フォレストピア宮崎構想は、昭和61年宮崎県総合長期計画の21世紀を拓くリーディングプロジェクトとして位置づけらたプランである。昭和62年にモデル圏域として県北西部の森林地帯の五つの町村(五ヶ瀬町、高千穂町、日の影町、椎葉村、諸塚村)が指定され、翌63年に県北フォレストピア実行委員会が設置され、整備基本計画の策定に着手した。

 この構想は、山村の自立精神のもと、森とむらの文化圏を構築しようとするもので、これまでの拡大造林政策一辺倒から一転して森林文化社会という理念を掲げた、新しい概念を持つ総合プランであった。 当初プランの目玉の一つに国際森林大学の構想があったが、この構想は揉まれるうちに全寮制の県立学校となり、中学高校一貫教育の学びの森学校へと具体化した。森の自然や人々の暮らし、伝統的な生活文化や郷土芸能など自然や文化に触れながら人間性の高い教育をめざそうとするものである。

 場所は、廃校になった高等学校分校の跡地に白羽の矢がたった。この町の先々代の町長が町民の教育に心血を注ぎ、苦労して開校した唯一の地元高等学校であったが、過疎の波には勝てず、生徒数が激減して廃校になったばかりであった。そこに平成6年、リゾートホテルと見まがうばかりの全寮制の県立学校が姿をあらわし、生徒募集がはじまった。

 応募資格は県内在住者限定であるが、応募はなんと10倍を超える競争率となった。過疎で廃校になった学校が10倍以上もの競争率で応募してくる有名校へと大きく変容したのである。今後、当初の構想にあった国際森林大学まで実現できれば、そして、日本の森林文化社会を探究し、世界に情報発信できれば素晴らしいと思う。

 更にこの構想は、人おこし、交通の促進、産業振興、基盤整備、福祉の増進とフォレストピアの錦の御旗を掲げた政策が次々と打ち出された。中でも諸塚村から始まった国土保全森林作業隊は国土保全奨励制度として県の事業となり、このほど国土保全事業として国の制度につながった。 全国250万ヘクタールの森林管理を担う10万人を支援する制度であるが、この10万人はそれでも確実に減少していく。次は都市部から10万人の人たちをどうやって山村へ呼び込み、森林を担ってもらうかの仕掛けづくりである。


九州ブナ帯文化圏論
 五ヶ瀬町の観光振興計画の柱に九州ブナ文化圏五ヶ瀬構想がある。これは、これまでの画一的な町づくりの反省から、地域のアイデンテイティをブナ帯文化に求めたものだ。ブナ帯文化は過去一万年も続いた縄文文化に通じる日本文化の基層をなす大事な部分である。九州は照葉樹林帯といわれる中であえてその違いを際立たせる戦略でもある。

 私は、昭和18年九州山地の標高八百bの村で生まれた。子供のころ夏は川でヤマメ漁をし、秋はムキタケなどのキノコ狩り、冬は猪や鹿猟、また野鳥や貂、兎などの罠猟を教わり、春は山菜狩りをして育った。中学校では、3学期末テスト期間中、毎日猟に行って試験を受けないことがあったほどだ。

 秋になると木の実がなって山々は燃えるように紅葉し、やがて落葉した木々の眠る裸の森を白い雪が覆う。春、雪解けの後には山菜が顔を出し、山菜採りが始まる。森は、明るい。そして、新緑が山裾から山頂にかけて覆ってくる。子供の頃のそうした経験は、今、森を論じるとき、冬も葉っぱが落ちない森なんてまるで考えられないのである。こうして照葉樹林文化とは違うという思いはだんだんと高まっていた。

 一方、昭和38年頃からは川のヤマメがしだいに姿をみせなくなったことからヤマメの養殖に挑戦した。ヤマメの養殖に成功してからは、都市と山村の交流をめざしたやまめの里づくりに取り組み、日本最南端のスキー場の発想へと発展した。その思いも遂げられ、スキー場ができて振り返ってみると、それらは、すべてブナ帯につながっていることに気づいた。

 ヤマメは源流にブナ帯を持つ河川にのみ生息しており、ブナ帯が遷移したことにより陸封されてできた魚と考えられる。スキー場はブナの木を伐り払ってできたリゾートである。スキーは日本の場合、温暖多雪の象徴であるブナ帯文化ともいえる。思えば、祖先はブナの森の恵みにより今日まで私たちを育ててきた、振り返ればすべてがブナ帯に帰結してしまうのである。昭和30年代まではずいぶんブナの木を伐採したものだ。

 その昔、山住みの民は、尾根の近くに住んでいた。雪が降って根雪にならない、このような地帯が森の恵みがいちばん豊富でもっとも暮らし易い場所といわれる。今でも数百年を経過した立派なお家が残されている。車社会になってから谷や里の方に降りてきた。今、ブナ帯で培ってきた九州山地の暮らし、縄文に続くブナ帯文化はまさに危機的状態にある。

 私どもの町の中心部、標高五六○b付近に気象観測のロボットがあり、ここから様々な気象データが気象庁に送られている。この地点の平均気温を調べて見ると、だいたい一二・七、八度、雨量が三○○○ミリ前後といった気候である。ブナ帯の気候は平均気温が六度から一三度、雨量が一三○○ミリ以上だといわれている。その一三度がちょうどわが町の中心部。九州では、鹿児島県の大隅半島にある高隈山がブナの南限で、北限は北海道の黒松内町であるが垂直分布では五ヶ瀬の町辺りも南限と言えることになる。そうすると九州山地の標高四○○〜五○○b付近の住まいも、古来より生活慣習や作法、宗教観、伝統芸能など暮らしにブナ帯文化をもっている地域ではないか。 

実際、九州の森林を観察してみると、たとえば、神社の鎮守の森や、過去において森林開発のない断崖絶壁の中の森、不伐の森などを観察すると、だいたいにおいて標高三○○b地点あたりまでは、純粋に照葉樹林の森である。三○○bから五○○bまでは照葉樹林と落葉広葉樹の混合林帯。五○○b以上は完全に落葉広葉樹林帯となっている。その落葉広葉樹林の象徴とされるブナは、七○○bからイヌブナ、九○○b付近からブナが今日でも残っている。


霧立越シンポジウム
 九州脊梁山地に霧立越という尾根伝いの杣道がある。昭和初期まで馬の背で物資を運んだといわれる駄賃付けの道で、ブナ原生林が広がる標高一、六○○b付近の尾根を延々と歩く道である。鎌倉時代、平家追討の命を受けた那須大八郎はこの道を通って椎葉に入ったといわれる。この道は、ブナ帯の暮らしを象徴するもので、学ぶほどにいろんな暮らしの歴史が見えてくる。私たちは、民間サイドでこの霧立越をテーマに平成7年からむらおこしに取り組んだ。 先ずは、この歴史の道一二`のスズタケを刈り払い、歩けるようにした。尾根伝いのためアップダウンが少なくトレッキングコースとしても人気が高い。今では、霧立越のロマン二万八千歩の旅として、年間数千人の方が六時間コースを歩いている。

 次に、新緑と紅葉のシーズンにシンポジウムを開催して学ぶことにした。第一回は、駄賃付けの道をテーマにした。二回目は、三五〇年前に霧立越を行き来した剣豪丸目蔵人のタイシャ流の古武術、三回目は、植物を学び、四回目は人と自然。五回目は世界の森と日本の森。六回目は、日本上流文化圏会議としてブナ帯文化をテーマに全国から集まった。

 これらの記録は製本もしているが、インターネットのホームページにも掲載して広く情報を発信している。紙面が少ないので、ご紹介はできないが、昨年の感動的なシーンの一部だけでもご紹介して、本稿を終わりたい。


闇夜のブナ林ミッドナイトウォーク
 1997年11月3日。霧立越登山口で待機するバスの中から、窓を開けると、落ち葉を踏む乾いた音に混じって笑い声がこだまし、朝もやの樹間からヤッケに身を包んだ登山者の姿がチラチラと視界に入ってきた。生まれたてのような明るいオレンジ色の陽光が幾条にもなってブナ林を水平に突き抜け、その光に当たった顔は皆んなニコニコとして弾み、全身が笑っている。

 「お帰りなさい」私はそういいながらバスへご案内する。「とてもよかった」「感動しました。」「素敵でしたよ」。皆んな口々に嬉しそうな笑顔で応えてくれた。まるで宝物でも捜し当てたように、ひそひそと大事なものを自分だけでしまいこむように、嬉々としてバスに乗り込む乗客の姿に、私はハッとして、人とはこんなにも美しいものだろうかと目を見張った。演奏会のホールから出てくる人々もこんな感動的な笑みを全身に湛えた姿を見せない。街で行き交う人々にこのような美しい姿を見かけることはない。この時ほど、人が美しく感じられたことはない。まるで後光がさしたように神々しくさえ見えた。

 思えば、昨日は、午後1時から6時過ぎまで神社の境内で寒さにふるえながらのシンポジウムであった。夜は、ブナ林食の「森の恵みの晩餐会」。山唄に山伏問答、お神楽に炉端談議と深夜を通り越して続く。今朝は、ほとんど寝る間もなく午前3時にバスで出発、標高一.六○○bの五ヶ瀬ハイランドスキー場に着いた。バスから降りると凍てつく凜とした空気が肌を刺す。闇夜を見上げれば、きらきらと満天の星が手に取れるほどで輝き、遠くにぼんやりと山並みの稜線が、またたく星空との境界を引いている。

 ここで、3人づつに分かれて、懐中電灯を頼りに息をひそめて尾根伝いに向坂山へと向かった。闇夜は、森の精を驚かせないように静かに歩かねばならない。大声を立てたり、大勢で喋ると山の神もびっくりするという。静かに向坂山から日肥峠、白岩山へと歩をすすめた。獣の匂いが漂ってくる。すでに落葉したブナ原生林は、落ち葉のふれあう微風でも大きな音に聞こえたりする。深い闇の森はときとして森の妖精の存在を感じることすらある。

 白岩山頂で休息していると、山々の稜線がしだいに姿を見せはじめる。やがて一点が茜色に輝きはじめ、朝霧が渦巻き、鹿や野鳥の鳴き声が山々に響く。耳をそば立てると水の音が通りすぎていく。はるか彼方の谷川のせせらぎが上昇気流に乗って届いたのであろう。ブナ原生林の山頂で迎える夜明け。それは魂が洗われるような神秘的空間である。いかに人間の存在が小さいか。宇宙を感じ、自分がそこに立っていることすら忘れさせる。下界は何をするものぞ。人が山にいて仙人と書き、人が谷にいて俗人と書く。まさに、ブナ林の夜明けに佇むは仙人の境地である。

 こうした感動覚めやらぬまま下山した参加者は、強引なスケジュールに疲れも見せず、ひそひそと嬉しそうにバスに乗り込んでくださる。その姿は、まさに後光のさしたように神々しく見えた。自然は人間性を回復させてくれる。森は人間の母だと思った。
                     
終わり。