禁・無断転載
第6回・霧立越シンポジウム
日本上流文化圏会議1997 in 五ケ瀬]
セッション2:ブナ帯文化圏からの国づくり
パネリスト
日本上流文化圏研究所から |
下河辺淳さん |
日本上流文化圏研究所理事長 |
ブナ帯北限の文化圏から |
小笠原正七さん |
北海道黒松内町 |
プナ帯文化圏のメッカから |
田村一郎さん |
秋田県峰浜村(海と川と空の塾長) |
プナ帯文化圏のメッカから |
結城登美雄さん |
宮城県仙台市(民俗研究家) |
プナ帯南限の文化圏から |
尾前善則さん |
宮崎県推葉村(狩猟儀礼伝承者) |
プナ帯の食文化から |
林のり子さん |
東京都(食研究工房) |
コーディネーター |
秋本 治 |
宮崎県五ヶ瀬町(やまめの里) |
秋本 みなさん、お疲れかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。日が陰りましたので、これから寒くなりそうでございます。話の内容は熱い内容にしていきたいと思いますが、毛布等を用意しておりますので、寒い方は周りのスタッフに声をお掛け下さい。
まず、パネラーのご紹介をさせていただきます。先ほどから引き続きまして、下河辺さんです、よろしくお願いいたします。
北海道の黒松内町からおいでいただきました企画調整課長の小笠原正七さんです。ブナ北限の里づくりの中心的な役割を果たされていらっしゃいます。
宮城県の仙台からお出でいただきました結城登美雄さんです。東北だけではなく全国各地の民俗文化などを調査していらっしゃいます。
東京からお出でいただきました食研究工房の林のり子さんです。ブナ帯の食文化など、縄文時代にまで遡って、世界中の情報を集められて研究されていらっしゃいます。
秋田県の田村一郎さんです。海と川と空の塾を主宰されていますが、以前には峰浜村の村長さんでもありまして狸共和国をおつくりになりました。
それから、九州を代表して、椎葉村の尾前善則さんです。狩の名人で、東北にはマタギがいましたが、九州山地で今もって昔からの狩の作法を守って実践されています。
尾前 尾前です。みなさん、お見知り置きを。
秋本 第一セッションでは、日本上流文化圏からの挑戦ということで、行政・自治体の立場から上流域の過疎山村の先進的なお取り組みで成果を上げられている方々にお話を伺いました。
第二セッションは、ブナ帯文化圏からのくにづくりがテーマでございます。このセッションのパネラーは皆さん民間でございます。黒松内町の小笠原さんが、唯一行政のお立場ですが、ひとつ民間の立場から現場論を論じることができればと思います。す
日本上流文化圏と日本ブナ帯文化圏についてですが、過疎山村の多い日本の上流域は、殆どブナ帯であります。九州においても標高500b以上の地域は基本的にはブナ帯に入るわけでありますので、日本の上流文化圏はすなわち、ブナ帯文化圏に通じるということです。そうしたブナ帯文化圏からの現場の情報をお聞かせいただければと思います。
それでは、まず、ブナ帯の食暦をつくられたり、世界の食文化を研究されてブナ帯文化に非常に詳しい林のり子さんに、ブナ帯文化とは何かという概念的な部分をお話しいただきたいと思います。
林 林です。今日は、九州ブナ帯にお招きいただきましてありがとうございます。こちらには、熊本空港から参りましたが、ため息をつくほどのきれいな紅葉で、観光に来ているのかと錯覚いたしました。東京では、紅葉は多少ありますが、落葉樹が少なく、一年中同じような緑、変化のない生活を年間送っております。
日本の西半分の低地部分は照葉樹林帯という森で、夏も冬も葉が茂っています。新しい葉が出てから古い葉が落ちる木々で、常に茂っていて木の下には光が入らない森で覆われています。春日神社の春日の森が照葉樹林の原生林として一番有名ですが、そこは、昼なお暗い殆ど生き物がいないと研究者の方が言われています。お弁当を食べるような場所がないという森です。
それに対してブナ帯は、落葉樹の森で紅葉が美しい。ブナ帯の典型的なところでは半年間も雪に閉ざされています。その後、雪が解けてきますと、東北の七十数歳の方の言葉を借りれば、四月の半ば過ぎには、地面は雪、中間に山桜、上はブナの新芽ということになります。白い雪と桜色と新緑の三層の色に染められて、その頃が山は一番きれいだということです。
そのように、まず、春が来て、山菜が出て、木々が緑になりますが、葉は軽くて、光を透す葉が多いので、非常に爽やかな風通しの良い緑です。そして、九月を過ぎ二一○日になりますと今度は木の実を落としますので、みなさん二一○日、二二○日をきちんと守って、木の実を拾いに行かれます。
それから、黄葉が進んで、落葉して、空は晴れているけれども空気が冷たい。宮沢賢治の言う「キラキラとガラスの破片のように冷たい空気」になって、いよいよ雪が降るわけです。
根雪がそろそろ降るときというのは、すごく嬉しいと言うのです。半年間雪に閉ざされるということは、大変だけれども、いよいよ雪だという季節にはわくわくする。その方達のことばで言うと、「半年は遊んで暮らすんだから」というのです。
つまり、何もできないので、囲炉裏端で手作業などをやりながら話をする。それが、さきほど「よろしく」とおっしゃった尾前さんのように、黙っていらっしゃると普通のお年寄りのような方が、非常にしっかりした声で、みなさん話術を心得ていらっしゃるのです。どうも、半年の間に囲炉裏端の話術というものが育つらしいのです。
その方たちは、一日一度は大笑いしていたと言います。伺ってみると、「何年前の今日、どこそこの誰ちゃんが、あそこでころんで何とかしたんだよね」ということが、毎年、毎年、語り継がれて、少しずつ尾ひれが付いて、一つの物語として完成していく。一方で話し手も、どういうところでみんなに受けるかということを身につけていく。そういうことがわかりました。
あとの半年間は非常に忙しいわけですが、雪に閉ざされている半年間のゆったりとした時間の流れがある。自分が動かなくとも、自然が勝手に、白からグリーン、黄葉、落葉へと移り変わっていく。回り舞台の真ん中に自分は座っているという環境だと思います。
その回っているものを観ながら、たとえば、あの花が咲いたら何をやる、あの鳥がきたらどうするという風に、自然をサインとして見ながら暮らす。そういう技術を持っている人でしたら、その中で豊かに暮らしていける。
木の実を採り、川の魚を獲り、あの花が咲くと海ではあの魚が獲れる、というように生活環境に必要な全ての情報を、自分に近い場所で得ることができて、獲れるところに出かけていく。そうした暮らしができるのが、ブナの森であるということを色々な方から伺いました。
そうした森の分布というのは、日本の場合には、東日本や九州・四国の脊梁地帯。ドングリ類が実をつける地帯です。ブナ帯というのは、ブナ科のブナやナラとか落葉系の実をつける木が多いものですからブナ帯といいます。
学者には、ブナは一度伐ってしまうとその切り株から萌芽しないので、焼畑の地域では、ナラ帯と言いたいという人もいます。 ブナ帯は世界で考えると、日本と朝鮮半島、北米、ヨーロッパなどです。ヨーロッパは大きなブナ帯で、ケルト文化などを支えてきました。豚がドングリを食べて肉食を支えるという形がヨーロッパにはありました。北米の東側は、インディアンの暮らしていた地域がやはりブナ帯です。この三つの地域が典型的なブナ帯で、ブナ帯文化を作り上げたわけですが、この三つは文字を持たない文化圏でもありました。
ブナ帯では、叙事詩が非常に発達して、たとえばアイヌの叙事詩、ケルトの叙事詩、北米インディアンの叙事詩というように、語り伝えが非常に発達していました。先ほど申しましたように、自然が全てサインとして読みとれるわけですから、わざわざ文字を書かなくても良いわけです。おじいさんが子どもと歩きながら「あの木がどうなったらこうなる」というように、一緒に生活をしていれば全てを伝えることができる。そういう世界がブナ帯ではないかと思います。
秋本 ありがとうございました。ご説明頂いたパネルが遠いので、後ほど近くでご覧いただければと思います。あの一枚の紙の中に、ものすごい情報量が入っています。よく、ここまで調査してまとめられたものだと感心いたしております。私たちも大変勉強になります。
さて、ブナ帯は大変豊かであるということですが、その中心的な例として、白神山地がございます。世界遺産に登録され、地域の人々の取り組みなども色々あるようですが、その辺りのことから、田村さんにお話いただければと思います。
田村 秋田から参りました田村です。五ヶ瀬までは大変遠い道のりでしたが、実は、一五年前に一度こちらへヤマメを見に来たことがございます。また来るとは思っていませんでしたが、とても楽しみにして参りました。
私どもは昨年、海と川と空の塾をスタートさせましたが、秋本さんにもメンバーになっていただいております。今回お招きを受けて大変感動いたしております。五ヶ瀬は、同じブナ帯の我々があこがれるようなことを色々取り組んでおられ、感動しております。
白神山地という一万七○○○ヘクタールのブナの原生林が、世界遺産に登録され、大変な宝物だといわれていますが、実は、この中には人が殆ど踏み込めないのです。それはそれで立派なことだと思いますが、私はやはり、森の中には人が生きていないと寂しいし、私たちの考えている森というのは、人が暮らしている森を考えていたのだということを、改めて感じました。
私の村は、日本海に面しておりまして、海を持っている村と、海のない村が合併して、村民から名前を募集した結果、峰浜村と決まったところです。およそ一八○○ヘクタールの田圃と畑、こちらから見ると大変な面積だと思いますが、北海道に比べれば小さいという田圃と畑で農業をやっています。
秋田は大変うまい米の穫れるところで、米をつくって酒をつくって飲んでいた、という大変贅沢な地域でしたが、今は米をつくっているところほど困っている状況です。これは、以前から、農村が困ったといわれてきて、先ほどの話にもありました地域おこしということが、農業ではなかなか難しいとされてきましたが、私たちの村では、こんなに良い土地があって農業ができるのだから、農業で一旗揚げよう、農業で儲かる戦略を立てよう、といって頑張ってきたところです。
そして、どこでもそうなのですが、私たちの村には何もないというところが多い中で、しかし、ここまで人が暮らしてきたからには、何もないはずはないだろうという所までは辿り着くのですが、そこから先は何もできない。どこでも、ヤマメの養殖をやるわけにもいかないという現実に直面するわけです。
私どもの村には、ぽんぽこ山という標高三○メートルの丘がございます。ぽんぽこ山には狸が似合うのではないかということで、ぽんぽこ山たぬき共和国をつくりました。しかし、ぽんぽこ山の狸を日本中の誰も知らないし、実は狸の話もないわけです。
それでは地域おこしに使えないから、狸の話しを作ろうということで、ぶんぶく茶釜とか、月夜に腹鼓を打つ話だとか、そういうぽんぽこ山の話を全国から募集いたしました。しかし、ぽんぽこ山の話にそんなにたくさんの人が応募してくれるはずはないので、どうしようかということになり、ふるさと創生の一億円の中から一○○万円を賞金としました。
これが、あとで大変問題になりまして、たかが狸に一○○万円をかけるというのと、たかが一○○万円で狸の話ができるというのが、争点となりました。
たかが一○○万円でぽんぽこ山の狸の話ができれば、ということで募集をしましたら一六七○編くらいの狸の話の応募がありました。一○○万円の賞金を上げて、絵本を作って、一○○編を選んで「狸一○○話」という童話集を作って、しかも、佳作になったものについても、紙芝居や漫画をつくったりいたしました。
そんなことをやっていた村ですが、行き着くところは貧乏な百姓しかできないではないか、ということでした。あとは、何もない。しかし、先に申しましたように、昔から人が住んできたからには何もないはずはない。
私たちの村に隣接する所に白神山地がありまして、今は世界遺産に登録されて全国から人がたくさん訪れるようになりましたが、その時は、私たちの村にもブナはたくさんあるけれども、それがそんなに大切なものだとは気づいていませんでした。ただ、お金にならない山があるだけでどうしようもないと思っていました。
お金にならない山には国の方でも、お金をかけることをしませんでした。しかし、国が全然お金をかけないそうした所が今は世界遺産に登録されるような貴重な場所であるということに気がついたら、それにつながっているうちの村も、世界遺産ほどではないが、大変良いものなのではないか、という風に、地域の考えが変わってきました。
私は、お金にならない山といっても、大変な役割を果たしていたと思います。五十数年前、日本は第二次世界大戦で敗戦しましたが、負けた国だから、滅びるかと思ったら、五○年足らずで経済大国にのし上がりました。それは、国民の努力や素晴らしい政治家の指導など、色々あったと思いますが、廃墟に化した日本がなぜ立ち上がれたかというと、戦争は日本の都市が爆撃されるだけで終わって、山や田圃や畑は爆撃から免れました。
戦争が終わった途端に、兵隊さんは故郷に帰ってくるし、焼け出された都会からも帰ってくる。その人たちが農村や漁村で食糧を生産して生き延びたわけです。その力がやがては、都市の建設や工業の発展に、中学生や高校生が集団就職をする形で頑張ることになったと思うのです。
あの時、食糧生産の基地が爆撃されたりして壊れておったら、日本の復興はできなかった。あるいはずっと遅れたかもしれない。そんな素晴らしい底力を持っている日本の故郷の山があり畑があり田圃がある。これを今でも大事にしなくてはならないのではないかと考えております。
戦後、教科書をつくる紙もなかった時代、山の良い所のブナはそのためのパルプ材として殆ど伐られてしまいました。私が三十代で百姓をやっていた時に、毎日のように大きなブナが伐り出され、運ばれていくのを実際に見ながら、将来、これがどんなことになるのかは、全く考えなかったのです。
今になると、そのために、あれだけこんこんと流れていた川に水が流れなくなり、洪水で農業施設がめちゃめちゃに壊れるということが続いたりします。今考えてみると、あの時、ブナを伐ったことが、そうなったのだと気がつきました。
しかし、これを、元に戻すということは非常に難しいわけです。ブナを伐って、杉を造林したところが大多数でありますが、杉の造林もできなかった約一千ヘクタールのブナの伐採あとに、笹藪が茂りました。地元では根まがり竹といって、そこがタケノコ狩りの名所になっています。
秋田県と青森県にまたがる十和田湖とか、あるいは田沢湖の周辺には、有名なタケノコ狩りの山があるし、その他の町や村でもタケノコ狩りが非常に盛んで、毎年のように遭難がある。その笹藪が、日本を水不足にしたのではないかと考えています。
先ほど福岡の水不足の話もありましたが、水不足は全国至る所にあります。ここ五十年の間に日本が繁栄した中で忘れていた、この笹藪をブナの森にまた返す、これを戦後処理としてやらなければならないのではないかという風に感じておりまして、つくりました海と川と空の塾は、その仕事のための塾でございます。
先ほどのセッションで色々話がでました、日本の森林が持っている価値ですが、これは決して森林と共に暮らしている農山村の人たちではなくて、都会に住んで水を飲んでいる人たちにとっても同じように大切な遺産であって、これを守り、あるいは壊されたところを修復するという役割が今大事だと、こんな観点から今植林の運動をしております。
秋本 ありがとうございました。最初のほうのお話のぽんぽこ村ですが、応募には間に合わなかったのですが、実は、こちらにも色々な狸の話がございます。霧立越を、駄賃付けさんが馬の背で酒を運んで行きますと、狸に化かされて、酒が減ったり薄くなったりしていたというのです。たちの悪い狸が出たときには酒がすごく減っていたというような話がありました。これは、第一回の霧立越シンポジウムでとりあげたテーマでもありますが、狸に化かされたという話は昔からこちらにもたくさんありました。ところで、田村さんは、一時期、お名前から田を抜いた、「村一郎」というタヌキの名刺をお持ちでしたとか。
田村 どうせなら、自分もタヌキになりたい。タヌキはとても素晴らしい話をたくさん持っています。地域おこしで太鼓を叩くのは、夜な夜なしょうじょう寺のタヌキが太鼓を叩いたことから始まったと言われていますし、ぶんぶく茶釜は、正直な人を助けるために綱渡りをして、そのお金が溜まってきて綱渡りを止めてくれと言われたときに、それじゃ止めるけれども、タヌキに奉仕された貧乏な屑やさんは、自分だけのものではないからと半分を神社に寄贈するのです。今の金持ちとは大分質が違っていると思いますし、そうした素晴らしい狸の話があります。
駄賃付けの酒が盗られたとか、祭りの帰りにご馳走を盗られたというのは、恐らく狐だったのではないでしょうか。タヌキはそんなことはしません。自分は化けるが、人は化かさないというのが、狸の鉄則です。人を化かした狸は、仲間外れにされますので、それはきっと狐だったと思います。(笑い)
秋本 さすがにたぬき村を起こされただけあって、狸を擁護されますね。これは本物でしょう(笑い)。
森の問題は、守るだけでなく、修復しなくてはならないということで、色々な活動を展開されているということですが、森には、人が暮らしてこそ、森であるという話がありました。その森の中で、昔からの狩猟の作法を守り続けていらっしゃるのが、尾前善則さんです。昨年のシンポジウムでは詳しくお話いただいたのですが、おさらいも含めて、そうした狩の作法についてお話しいただけますか。
尾前 私は狩の作法については、親父に教わりました。親父も、爺さんも猟をやりおったわけです。知っとる限りでは私が三代目です。山に入る猟師というものは、もともと自然を大切にするものであるということを親父から教わりました。自然を大切にしない限り猟はできない。自然を大切にするということは、山の神さんを大切にするということです。山の神さんというのは、家を一歩出たら、どこにでもいる。川に行ったら水神さんがおるし、道に行ったら道にはドウロク神がおるということを親父から教わりました。
親父から教わったけれども、私が一四歳の時、親父は亡くなりました。私が小学三年生くらいから、冬休みになると毎日ではないけれども、猟に行くときには私を時々連れていって、山はこういうものだ、この木はブナである、この木は楓である、というふうに教えてくれました。
ブナは六○年に一回しか実がならない。三、四年に一回はなるけれども、本当に成熟した実は六○年に一回しかならないということなども教わりました。私は一二、三歳の頃まで、このようにして、親父と山に行きながら、山とはどういうものなのかを学び、大切にせにゃいかんなあということをつくづく考えていました。そして、成長して二四歳から猟を始めました。
二四歳から猟を始めて四五年余り。五○年近く猟をやりおるわけですが、これまでずーっと山の神さんを大切にしながら猟を続けてきました。山の神さんを大切にするためには、猟師というものは、先ず、サカメグリということを知らなければならない。
サカメグリとはどういうことかと言いますと、狩人に追われた動物には逃げる方向があります。その逃げ込む方向にサカメグリというのがあるわけです。磁石を立ててみるとはっきりしますが、今、東であれば東、西であれば西から後の区間は一二日間の間、狩猟に行ってはいけない方向があるのです。
昔の農家暦を見ると、暦に干支がついています。今は干支がついていない暦が多いですが、その干支によって、甲(きのえ)、乙(きのと)など、干支の方位があります。その方位は必ず一二日で一回りします。そして、狩りで山に入る場合は、その順番に山に入るということです。その順番の逆に山に入ること、それがサカメグリ。どうして、サカメグリというかというと、時計回りでなく反対回りをするからです。それを私たち兄弟は未だに守っています。
今、全国で言われている保護区とか休猟区と言われているようなものだと思います。そういうことを守りながら猟をするなら、全国の猟師さんが今のように保護区とか休猟区を設けなくても、自然と獲物を増やしながら獲るという考え方につながるわけです。私の小さい頃は小鳥なんかも随分いましたが、今は全然いません。
私はここから山の向こうの椎葉村の尾前という部落に住んでいます。もともと六二戸ですが、その六二戸で六○○○町歩の山を持っていました。その六○○○町歩余りの内、現在四○○○町歩余りが国有林になっています。そして、国有林四○○○町歩の内三○○○町歩余りが保護区になっています。昭和四○年から保護区になって、特別保護区も加わっていますが、だいたい六○年までの二○年間という話だった。
私どもは山が国有林になる前から、伐採には相当反対していたわけですが、長いものには巻かれろ、大きいものには飲まれよで、いつの世も、どうしても、上々が下々をいじめる。私に言わせると、全然先が見えていなかったって思います。私たちのように、学校も出てない者たちさえ、子どもの時から木を伐ればどうなるかがわかっていた。大学を出て、法律を勉強してきた人間がそんなことがわからない。
私は、今年、猟友会から昔のそうしたしきたりなどの話をするように頼まれたけれども、今の人に話をしたって、年寄りが何言うとるのかと、今は時代が違う、と言われるだけなので話しませんでした。私のように、自然を守りたいという人間がおったならば、とことん昔の作法を教えてあげます。
昔の作法は、山へ行って、猟をして、獲物を獲るのが猟師じゃない。獲物を増やしながら、山の神様から授かったものだけを獲物とする。私の親父が言いおったのは、「のさらん福は、願いもうさん」と言う言葉です。授けてもらったものだけで良いというような意味です。山の神を大切にすると山の神が自然と獲物は授けてくれるということです。
猟をやって、獲物を獲って、それを解体して配分するま数多くのしきたりがあります。獲物を仕留めたら、山の神さんにヤタテを撃って、コウザキ祀りをして、そしてシシマツリをするまで相当な時間もかかりますが、色々な唱え言もあるわけです。 ですから、今日明日で全部の話はできませんけれども、このシンポジウムにお出でいただいたみなさんは、みな私と同じような気持ちで来ておると思うんです。それで、私は声を高らかにこれだけは言いたい。それは、猟をする人ばかりでなしに山仕事をする人も、山の神さんは大切なものであるということです。それと、全国の猟師の皆さんに知っておってもらいたいものがあります。それは「すわの祓い」というものです。
「そもそも諏訪大明神と申するは、弥陀の三尊にてまします。ううおう元年庚戌の年、東山ぜんしょうぜが嶽より天下らせ給うては、千人の狩子を揃え、千頭の鹿を射止め、ふいかま、ないかま、はやいかまとて御手に持ち、右にはかまの大明神、左には山宮大明神、身をつく杖は残りきて、雨は降りくる高天原を通りきて、諏訪の原で会うぞ嬉しや、南無阿弥陀仏」
山の神は神さんでありながら、末は、獲物を獲って成仏させるから、最後に南無阿弥陀仏という言葉が入っている。知っている方もあるかもしれませんが、全国の山に入る方に、これだけはぜひ知ってもらいたい。いかに自然を大切にせにゃあいかんか、ということがわかると思います。猟をやる方は、サカメグリ。無駄な獲物は獲らんで良い、獲物を増やして獲っていくということにつながると思います。私はこのくらいで。
秋本 どうもありがとうございました。尾前さんの狩りのお話は昨年の霧立越シンポジウムでもお聞きしたところですが、その中で「オコゼ祀り」というのが非常に面白かったと思います。ついでに、短くまとめてお話いただけますか。
尾前 オコゼ祀りというのは、「うーりゅーし」と「こりゅーし」という猟師がおるのです。うーりゅーしというのは、欲の深い猟師。こりゅーしというのは、欲のない真面目な猟師。昔で言えば、花咲か爺さんのような人です。
あるとき、奥山に、欲の深いうーりゅーしが猟に行ったのです。途中で、山の神さんがお産をするところに出会った。山の神さんが、今、自分はこういう状態で飲み物も、食べ物も持たんから、なんとか恵んでくれませんかと言ったところが、うーりゅーしは、お前のような汚らわしい者にやるものは持たん、と言って、過ぎ去っていった。
その後、こりゅーしが通りがかった。こりゅーしは、お前さんのような人がおると思って、自分はこういう物を持っておったといって差し上げた。それは、ご酒という甘酒。稗とか粟でつくった甘酒を差し上げた。そうした時に、山の神さんは「うーりゅーしには、鹿子一匹も授けてやらん。こーりゅーしは、毎日、猟に出なさい。私が獲物を授けてやるから」と言った。
そこで、こりゅーしは、毎日のように猟に行ったと。すると毎日、獲物が授かるので、自分たちだけでは食べきれないから、獲物を街に売りに行った。こりゅーしの奥さんが、街へ行く途中の橋から下を眺めたとき、毎日獲物を頭に担いで売りに行ったために、頭の毛が抜けておるのが、水鏡に映ったちゅうわけです。水鏡に映った姿を見て、おかみさんは、女として恥ずかしいことだと、身投げして死んでしまった。おかみさんは、海に流れ着いて、オコゼという魚になったと。
夫のこりゅーしは、おかみさんを探し回ったが、オコゼのような醜い魚になってしまったと。オコゼを持ち帰って祀った。自分のかみさんを祀ったというのがオコゼ祀りまつりの始まり。オコゼ祀りというのは、獲物を一頭獲るごとに、半紙にくるんだオコゼを祀る人もあるし、年まつりといって、正月の年の晩にまとめて祀る人もあって、今、椎葉では、何戸か祀っている人がいます。
私はオコゼ祀りはやっていませんが、そのかわり朝、山に出るときに、山の神のお祓いから、コウザキ祀りからして、御神酒を上げています。隣の爺さんは、オコゼ祀りをやりおったですが、亡くなって四○年くらいになります。今、椎葉に博物館ができて、オコゼ祀りの様子はそこに行かれるとわかります。
秋本 ありがとうございました。僕は、オコゼ祀りの物語は非常に哲学的であると思うんですね。柳田国男さんも、どうもここまでは聞き及んでいなかったようです。つまり、うーりゅーしのように強欲であってはならないということが、一つあります。そして、こりゅーしのように、花咲かじいさんのように、真面目で、サカメグリも破らない猟師でないといけないということが説かれています。
そうかといって、穫れるだけ獲って、自分たちが必要とする以上のものまで獲って町に売りに行くと、奥さんのようになっていくんだということですから、必要以上のものは獲らないという戒めがあるような気がいたします。 こういう「のさらん福は、願い申さん」とか、オコゼ祀りの話を聞きますと、まさに、自然の循環の中に組み込まれた生き方、そういう哲学が、姿勢の中に、あるように思います。
今日、色んな問題が出ている中の一つは、こうした哲学の欠如によるものが多分にあるのではないかと思います。山の神がいて山の秩序が保たれ、そして水の神がいて自然の秩序が保たれていたと思うわけです。それが、近代化の過程で失われた。そういったことを迷信とすることによって、一歩先に進んだわけですが、その迷信とされるものの中にはすごい哲学があったと思うのです。
かっては、自然というものは人間の力ではどうにもならないという凄さがあった。そこで、自然への畏敬や畏怖の念があり、自然と共生していくための哲学が、山の神や水の神の形で分かりやすく罰が当たるなどという表現で伝えていく知恵があった。
先ほどの近藤庸平さんの話でも、ヨキという四本の線の意味は、太陽と土と水と空気だということを表しているということでしたが、私の父も、山にヨキを置くときには、四本の線を地面の方に向けて伏せて置くと言っていました。
五穀豊穣という話もありましたが、木を伐るということは、木の生命を奪うことですから、木を育てる四つの気を考えたのだろうと思います。ただ、木を切るだけの小さな道具でもこのように哲学的なんです。
人間の力だけで大きな木を一本伐り倒すには、ヨキで受け口を切ることからはじめて、大変な労力が必要なわけです。倒そうとする方向へ受け口を切り込むだけで半日も一日もかかってしまう。木を倒すこと自体も大変な労力が要る。それから、道をつくったり、田圃を開いたりするときも、火を焚いて石を燃やして水をかけて割ったり、つるはしで道を掘ったり、とにかく人間の力では、自然はどうにもならないというところがあった。
それが、今は、近代化されて、機械化されて、技術が進み、重機に乗ってオペレーターがやれば、何の苦もなくどうにでも変えてしまうということで、自然界を甘く見る部分ができたような気がいたします。
そういう森の暮らしについて、色々な民俗文化について調査されたり、研究されたりしていらっしゃる仙台の結城さん。山村の昔からの民俗文化や、自然の価値感や人間の失ったもの、興味を持たれたことなどについてお話しいただけますでしょうか。
結城 仙台から来ました結城です。一昨日、鹿児島を発ち、二泊して今日は三日目です。昨日はすぐそこのキャンプ場に泊まりましたが、たくさんのドングリが落ちていました。これは儲けたなあと、たくさん穫ってきました。
今日ここに来たら、榧の実がずいぶんなっていて、挙げ句の果て、誰も穫らないせいか、アケビも相当ありました。もったないなと、正直なところ思ったわけであります。これは、美味しいものでありますから、ぜひ大事に利用されたらと思いました。大地にばかり栄養をやっては勿体ないので、人が穫れる範囲は高々知れています。ここからも、相当、今日の食糧が穫れるなあと思ったしだいです。
アケビですが、これは皮が大変美味しい。中味も良いですが、中味は金網で濾してそのまま甘くて美味しい。種は大地に戻すと、千個に一個くらいは芽が出てきますし。冷凍庫なんて便利なものがありますので、シャーベットにしてもすごく美味しいので、やまめの里のオリジナルメニューになるといいなあと思った次第です。榧は煎って、パンだとか色々なものに入れれば良いし。
先ほどの尾前さんのブナの実の話ですが、僕は六〇年に一度という年に、一度だけぶつかったことがあるんです。ブナグルミと言いまして、大変うまいもんです。クルミと全く同じです。これは人間も大好きなんですが、その辺をちゃんと見ているのがブナ蜂とか、蟻とかで、ちゃんと食べに来ていて、僕らはいつも遅いわけです。豊かだなあと思うのは、木の実がなる、果実がなる、それがブナの森であって、なおかつ明るいということがブナ帯に大変期待をさせるものだと私は思っています。
本当は、尾前さんの話をもっと聞きたいと、うっとりして聞いておったわけですが、私も今の山の神さんの話を聞きながらいろいろと思い出しました。第一セッションでアルバイトで公務員という方もいましたが、私も会社をずっとやっておりましたが、会社を辞めまして、社長が辞めるということは倒産なんですが、倒産ではなくて、まあ、四年程かけて、全員解散したみたいなことです。
解散して非常に身軽になりました。身軽というのは何よりであります。稼がないけれども、使わないという。今までは、たくさん稼いで、急ぎに急いで、時には死ぬヤツもいたりして、しかめっつらして暮らしていたわけです。
本当は、稼ぐのは、明るい暮らしをつくるためのはずだったのが、経済なんて言葉に惑わされて、良い経済があると良い暮らしがあるという風に、いつの間にか僕らは呪文にかかってしまったような気がしまして、そこを全部はねのけると、雪の冬でも六ヶ月間、大笑いして暮らす。
どうも僕らは、むらづくりであれ、地域づくりであれ、一日に一回ぐらい大笑いする暮らしを実現したい。その手段としてお金もいるなということですが、先ほどのオコゼじゃないですけど、食いきれなかったら売りに行こうかい。それで、反物でも年に一回買おうかい。というところだったと思うんです。
それを、どこからか、戦後過程で言えば、よく言われるのは高度経済成長、たくさんあることは、少ないことより良いことだと、いつの間にか袋小路の中に入っていってしまったような気がして、どうも暗い森になっています。
村の森というのは、明るいわけで、道具とかをいっぱい背負って行ってもしょうがない森なんです。先ほど林さんがおっしゃったように、風もサインを送ってきます、光もサインも送ります。 ここに来るまで、阿蘇の外輪山をぐるぐるまわってきました。宮崎は榧が多かったです。良い榧がありました。宮崎は異国だと思っていましたが、ここに来て、広葉樹があって、東北だなあという気がします。その下に水田がありますが、たいてい水田の上の方の山には、山の神さんがいる。全くそうだと思いました。
それで、思い出したのは、山形県の西川町です。上流文化圏研究所にも、確か松田さんが入っていたと思うんですが、そこに、「山の神様背負い」という習俗があります。だいたい山の神様は上の方の森の中に祀られてまして、男女二体あります。
それを、新暦ですと二月の末くらい、子供たちが、山の神さまの祠に行きまして、別当さんから下ろしていただいて、そこで儀式をやりまして、背負って降りるんです。集落が小さいために六年生が去年は五人でしたが、今でも学校が休みになってやります。
それは、おしらさまのでっかいものだと思えばいい。これを背負って、子供たちは、五四軒くらいの大井沢という集落を、一軒一軒回るわけです。「山の神様が来ましたあ」と告げていくと、そろそろ田植えとか里の準備をしなきゃならんぞという。山の神様を村人に告げるというのは、ある種、聖なる子供たちでなければならないということだろうと思います。
こういうのは、誰も見ないもので、観光にも何にもなりません。観光なんてする必要がないくらい、僕は人にあまり教えたくないぐらいです。そういう良い祭りがある。後ろに神さんを背負っていて玄関に腰掛けると、お爺さんやお婆さんたちが、お餅やお金をちょっと上げて、拝むんですね。山の神さんを。
要するに、山までは行けないというか、山に行ってはならないということもあると思います。それで、子どもが降ろしてくれた山の神さんにお供えをして拝む。五四軒の家々を回ると、一人暮らしのお婆さんもおりますし、色々複雑です。明るい家もあるし暗い家もあるし、これをどうするかというのは、行政の方もご苦労だと思うのですが、その祈っている姿を見ると、お金というものだけが、暮らしというものを支えるんじゃないんだなということ教えられたりもするのです。そのことを山の神さんで思い出しました。
それで、どうしてこんなことが続いているのだろうと思ったら、もらったものは、全部子供たちが山分けできるのです。回る内に、リュックサックいっぱいになって行くのです。それが楽しみで毎年やる。少しは欲が絡むと、子どももついてくるもんだと思いました。
こちらの上流文化圏というのもそうなんでしょうが、私の方から、今日は特別に何の話も持ってきてないのですが、こんなにたくさん良い食べ物があるのに、ぶん投げておきなさるな、ということを一つ言いたい。それにちょっと工夫を加えると、楽しい食事ができる。楽しい食事ができることくらい幸せなことはないわけです。
我々は、なんのために生きているのかといったら、ゆっくり美味しいものを良い友達と楽しく食べるということではないか。
ヨーロッパだってそうだったと思うんです。産業革命以来、くそ忙しくなって肺病だなんだかんだっていくうちに、俺らは何のために稼ぐんだろうと。それでパブをつくっちゃったりして。金稼ぐことが目的じゃなかったぞ。楽しむことだったじゃないか。楽しむためにもうちょっと時間をかけようじゃないか。スペインあたりでは、二時間もかけてメシ食うとか、そういう風になってます。
僕らだって、お祝いの時には、たくさんの時間をかけて食べるし酒は飲むはです。僕はそれがブナ帯の暮らしなのかなと、そういうものを、今、もしかすると、少しずつ人々が必要としてきている。それで、秋田の田村さんがさっき話されましたが、僕も時々あの辺をうろうろするわけです。そこから山を意識し始めました。
先ほど、オコゼの話もでましたので、今日はその中で、宮城県の唐桑町の話をしたいと思います。今日は、北海道から小笠原さんもいらしていますが、襟裳とかあの辺もそうですが、水とか川とかの影響を一番受けやすいのは海です。
話はずれますが、ここに蝶々が飛んできました。明るいときには、トンボがワーッと飛んでいたのです。山の恵みがあると、人間は全然気づきませんが、昆虫や色々なものはみな集まってきます。先ほど、みなさんがここで話されていたときも、僕は向こうの森の奥の方ばかり気になっていました。
あの森かげの付近に無数のトンボがいるのです。それらの中に蝶もいますし、蜂も飛んでいました。そいつらを読めば、どこにうまいものがあるかわかる。さきほどは、それを見て、林さんに、トンボがいて、蝶々がいるから、うまいものがあるよって言って探したらアケビがあった。それは、余談ですが。
海も、沿岸で漁をしていた暮らしが、三〇年代くらいから変わってきた。金が欲しいために、沖合へ出るようになり、遠洋漁業へとなった。
隣もテレビが入った、冷蔵庫が入った、炊飯器が入った、俺んとこだけは釜焚きかということで欲しくなる。洗濯機も欲しいと。洗濯がどれほど大変かというと、漁師も百姓も同じで仕事はどろどろになりますから、かみさんが、爺さんと婆さんには言えないけど、父ちゃんに拝んで初めてなんとかしてもらいたいと頼んだのが洗濯機であります。
毎日どろどろの暮らしをしていて、それを洗うわけです。洗濯機が初めて来たとき、洗濯機を拝んだなんて話はあちこちにあります。
そのくらい人間は良い暮らしをしたい。だから沿岸で漁をするより、沖合へ行こう、沖合より遠洋に行こうと言って、マグロを獲りに行ったのが、気仙沼の唐桑の漁師たちです。もちろん、三崎だ焼津だといったところもマグロを獲っていますが。
そうしているうちに、彼らは乱獲と、はっきり言っていますが、完璧な乱獲になりまして、今、遠洋マグロ船の三○○トンの縄は、延縄という太い浮きをつけ、一五○キロの長さがあります。それに、かつては枝縄と言って、一五○○本の針を付けていました。それに、サンマとか烏賊を餌に付けて一五○キロ流すわけです。
ところが、もっと獲らなきゃいけないということで、四五○○本になりました。そうすると、寝られないわけです。引き上げるのに八時間かかります。入れるのに四時間。それで、どれくらい獲れるかというと、昔は大漁と言っても、マグロが一トン獲れれば大漁でした。一トンだと、一○○キロくらいのマグロが一○匹です。四五○○本の針をつけて一○本。それが、今は一本か二本くらいしか獲れなくなった。当然漁師は乱獲だとわかるわけです。そして、沿岸に戻ってきました。
三陸あたりでは、大きくした漁業はつぶれていきます。つぶれていくと深刻ですが、船主は、倒産して三ヶ月くらいすると、少しずつ若返ってくるのです。
破産者として、あらゆる責任から解放されて、会うと年々若くなっていくようにあります。それくらい過酷な漁業経営をやっていた人たちが、漁船を降り、そして、沿岸に戻ってきて、小さな小舟を買います。それを年金丸と言います。五五歳から年金をもらえますので、その年金で小舟を買って、浜や磯で漁をして暮らそうかということです。
すると、沿岸に魚がいなくなっている。何故いなくなったんだ。どうも餌が無くなったんだ。藻が育たなくなった。藻は卵を産む場所なのに、絶滅して磯焼けになったりしている。そこで、初めて遠洋に出ていった漁師たちが三○年振りに浜に帰ってきて、海が死んでいくということにぶつかった。
牡蠣や帆立などの養殖業者は、かつては、一年で大きくなった貝が、今では三年かかっても成熟しないという現象があるわけです。それは、なぜかということを調べると、どうも川から餌がやってこない。川からくる餌の元というのは、先ほどここにごちゃごちゃおりました昆虫などの生き物たちが食べて出したウンコとかがバクテリアになって流れてきたものです。
それらが、もともと海中にある動物性プランクトンと植物性プランクトンとうまくブレンドされたものが、豊かな海の基だったわけです。それが今は死んでいる。
ならば、どうするか、と明日の漁業、明日の暮らしを考える人たちが、たどり着いた結論が、山に木を植えることでありました。
漁師が山に木を植え始めて、今年で九年目になります。山には、伐らなきゃならない木もあるわけですが、そういう境や分別が見えなくなってきている。だから、、もう一つその時に、片付けておかなければならない問題があります。
実は、戦後たくさんの木が伐られて、ブナも伐られて、代わりに杉を植えました。確か、杉は、当時、昭和二七、八年から三二、三くらいにかけて、一反歩、つまり一○アールあたり二八○本の苗木を植えたはずですが、大変申し訳ないんですが、そのころ既に補助金がありまして、補助金をやるからということで、四○○本植えたはずです。
その四○○本は密植です。その中から良いのを選んで、間伐していくと言っているうちに、いつしか木材の自由化で間伐もままならなくなって、本来、東北のブナ帯は明るい森だったわけですが、暗い森になった。
光が入る森には、チシマザサ、つまりネマガリタケが生える。春に光が当たると、地面が暖められて、ワラビ、ウド、コゴミ、ゼンマイがわーっと出てくる。これを穫って食べる。
そこからしみ出した豊富な水には、餌があるから、イワナやヤマメが育つ。秋になれば木の実がなる。クマが食べる、色々なものが食べる。動物が増える。それを猟師が鉄砲で撃ってさ、そして尾前さんの「こりゅーし」がいてオコゼ祀りという循環があって、冬は大笑いして暮らして春を待つという自然の循環があったわけです。それが、壊れ、さてどうしようか。このツケをどうしようかという問題が相当あります。 暗い森は、苔とかそれに類したものしか生えない、植生がものすごく貧相になります。ブナ帯の中には六七○種類くらい、食べようと思えば食べられるものがあるわけです。もう少し少ないかも知れませんが。だいたい、ブナ帯はほら吹きなので、お気をつけ下さい。狸もほら吹きですが。(笑い)
実に豊かなご馳走が向こうからやってくる。こちらは待っておればいい。いつくるかというのを知っておれば、寝て暮らせるわけです。
それを、五○年経っても、胸高一五センチくらいにしかならない杉で、下に苔しか生えないところは、苔に群がる動物も昆虫もおりません。そうした植生の貧困さが海との相関関係にあるというのが、私どもの推測であります。
四○年前、五○年前のツケが来ている。だから、それは伐りなさいということを言っています。伐って光を当てれば、地面は応えてくれるわけです。そうしたことをやりつつ森を修復しなければ、只やみくもに植えるだけではいけない。
白神山地は大事であります。しかし、人が暮らす領域までオフリミットにしてしまうのは不健全だなあと思いますし、イエス、オア、ノーであっちは良いけど、こっちは駄目だという、日本人のデジタル的なすぐヒステリーになる考え方ではなくて、尾前さんとかそうした方達の暮らしの知恵に学び、というより動物あたりに学べばいいですね。彼らの暮らしに学べば、我々も楽しく笑って暮らせるようになるのではないかと、今日お話を聞いて思っていました。
どうやら、漁師も深刻さ故に本気であります。山の神さまに、猟師がオコゼ祀りというのと同じですが、海の漁師も三○年、五○年と木を植え続けよう、次はそれを間伐して光を当てよう、ということであります。それを、実は、若者に期待している。
下河辺さんもそうおっしゃったけれども、彼らは、お金も欲しいけど、やりがいのある仕事がしたい。これが、若い者の最大公約数です。ところが、日本の行政も企業もそうでありますが、ようやくNPO法案を国会でも動かしたりしていますが、これだけ自然とか環境とか、人間の暮らしにとって大事なところに、人の手が掛からないと、どうしようもないわけです。
そこに若者が行こうとしているけれども、逡巡して迷って、結局はネクタイぶら下げる暮らしに行ってしまう。この一つの大きな要因は、残念ながら、この三、四○年くらいの間に、暮らしていくためには金が欲しいと、お金という概念が非常に強くなった。 僕が大学で授業を教えたりする時に、彼らから色々質問を受けます。苦肉の策として、あまり良いアイデアではないのですが、「農業公務員とか森林公務員制度いうのがあったらどうだい、お前さんたちはどれくらい金があったらいいんだ」と聞くと、二五○万円くらいあれば良いんだと。それくらいあれば、それ以外に自分で収入を得る技術や知恵を身につけてその裁量でやっていく。
その土台の半分くらいは、農業公務員制度というのがあったら、これは準公務員でも、消防団でも何でも構わないのですが、補償してやればどうだと。すると宮城教育大学の一五○人くらいの三割くらいの学生が大いに盛り上がって、先生、いつになったら農業公務員制度とか、森林公務員制度はできるのですかと言われております。今日は、下河辺先生がいらっしゃるので、それだけは伝えておこうと思ったしだいです。
これは、言葉は足らないわけでありますが、要は、森林警備隊とか、自然保護員とか、世界を見ると、金にはならないかも知れないが、それは誇り高い仕事がある。環境が大事だ、高齢化社会が大事だといって、それを業として、それを仕事として胸を張って、金はないけど俺は国を守っている、森林を守っている、環境を守っている、自然を守っている、みんなの下流の暮らしを守っている、漁業の暮らしを守っているということができないものかと思うのです。
僕は、デカップリングを小賢しくやるよりは、育っていく若者たちに良い仕事の場を、誇りうる仕事の場をつくっていくことと併せながらてやっていくことが大事だと考えます。
そして、人間にとって自然は最大の学校であります。学びの場であります。そういうところで暮らせば、かつての子供たちのような溌剌とした顔や尾前さんのような哲学者のような良い顔になるのではないかなあと。それを育むブナ林、ブナ帯文化。ぜひ、そうありたいものだと思いました。
秋本 ありがとうございました。そういうブナ帯での人々の暮らし、色々な考え方の中で、黒松内町は、日本のブナの北限地帯でございます。かつて、日本列島がバブルでリゾートブームに沸き上がっているときに、全然違う方向を向いて、もくもくとブナ北限の里づくりをされてきました。いくつもの財団法人をつくられたり、色々な素晴らしい取り組みをされてきました。小笠原さん、その辺のところからお話いただけますか?
小笠原 北海道の黒松内町から参りました小笠原です。今日お集まりの皆さんの中で、黒松内町をご存じの方は、殆どいらっしゃらないのかなと思っています。昨日、朝一○時に出まして、着いたのがちょうど夜の一○時で、一二時間かけて、この地に来ました。
今日、こういう境内のアウトドア環境の中で、こういう会議ができるということが、私は初めての体験でありますし、やはり九州だからこういうことができるのかと、感激いたしております。
今、それぞれ先生方からブナ帯文化についてのお話がございました。特に、マタギや山の神などの話がでまして、その後行政の私が、どのように話をつないだら良いか非常に困るわけですが、私の町は、道南に位置し、長万部町というとご存じの方もあろうかと思いますが、カニ飯で有名な長万部町から車で約二○分北に向かいますと黒松内町に至ります。
黒松内町の北側には、日本海の寿都町という町がございます。ここは、昔は鰊の本拠地でございました。また、南には今言った太平洋に面する長万部町。つまり、渡島半島のちょうど付け根にあたるのが、黒松内町ということで、地質学的には、黒松内低地帯というところに位置いたしております。ちょうどここが、色々な植物動物の北限地帯であるということで、国の天然記念物に昭和三年に指定されております。
私どもの地域づくりは、ブナをキーワードにしてやっているわけでございますが、素材自体が非常に地味であることからして、まず、地元の住民自体にいかに理解をさせるかに、今でも試行錯誤をいたしております。
酪農中心とする農村ですから、非常に閉鎖的でありまして、なかなか他の人を受け入れるという心の広さがまだまだないわけです。人口も三七○○人くらいですから、非常に小さな過疎地です。
私は、企画調整課を担当するに当たりまして、新しい発想を持って行政を展開していかないと生き抜いていけないだろうと判断いたしまして、まちづくり推進委員会という、民間の方一五名で、三○代から四○代の公務員、農業者、商業者の方々がまじった組織を作りました。そして、お前ら何か考えれと問題提起をいたしました。
それが、昭和六○年でございまして、ある面で本町が、農業の衰退の最低ラインまで落ちてしまった時であります。やはり、我々も含めて、地域住民というのは、乱暴な言い方かも知れませんが、落ちるところまで落ちないと危機感を感じないというのが考え方であり、また、私自身もそうなのかなと考えております。そういう状況の中で提案されたのが、ブナ北限の里づくり構想という地域づくりでございました。
なぜ、ブナに着目したかといいますと、本州方面からも非常に視察が多いわけですが、北海道自体のブナに対する関心は無いに等しいと言って良いと思います。そうしたことから、本州の方は、北海道にもブナがあるのかと言う方もあって、ここが北限ですよと申し上げますとみなさんびっくりされます。
やはり、これからの地域づくりで一番大事なことは、黒松内町を一般的な観光地にするのか、あるいは知る人ぞ知る、知的観光と言いますかそんな町にするのかの選択だと考えたわけです。
私自身、観光地という言葉は使いたくないと思っています。観光地というのは一過性のものがかなりのウエイトを占めておりまして、一回行ったら二度三度と行く方はあまりないという経験上、やはり選択制としては、私は観光地よりもむしろ、行政と住民が一体となった手作りの、誇れる地域づくりに最終的にもっていきたいというのが私の考え方です。
先ほど秋本さんからも、ご紹介がございましたが、リゾート法ができて、昭和六二年から三年にかけて、全国がリゾートブームに沸いたわけですが、当町も、近隣の町村と手を組んで、リゾート構想の構成町村に入っておりました。
ご承知の通り、リゾート法につきましては、民間デベロッパーの成熟の度合いが相当高くなければ成功しない、そういう部分もございますし、地域の主張を取り入れてくれないデベロッパーが入ってきても、何もならないという、色々な総合的な判断の中から、結論的には、平成元年度に、この広域的な大規模リゾートから、黒松内町は撤退をいたしまして、現在のブナをキーワードにした手作りの地域づくりをめざしているわけです。
平成元年に、議会に全体構想を提案いたしましたが、議会から総スカンをくらいました。企画調整課は頭が狂ったのじゃないかと言われました。というのは、議会も新しいものに対する挑戦に慣れていないということです。私自身も、疑心暗鬼で提案いたしておりますから、どういう質問が出るか期待しておりましたが、かなり否定的な意見が多かったわけです。
それはそれとして、私も汗を流しながら、色々説明し、各町村の事例を説明しながら、どうにか構想への了解をいただきました。そして、平成二年度から、事業に着手いたしました。ハード整備はあまりしたくありませんが、都市と農村の交流という視点を持って地域づくりを進めるにあたって、最小限のハード整備は必要です。
今、五つの交流施設を持っています。その中で、体験型の手作りのリゾートづくりを進めようということで、町直営の宿泊施設で、四○人という半端な定員ですが、それを最初に整備いたしました。
今日は、首長さんも来ていらっしゃいますけれども、首長さんというのはハードをつくることが目的になりがちなところがあります。しかし、ハード整備は、やはり手段であって目的ではないと思っておりますし、一番大事なのは、そのハードをいかに有効に活用して目的を達成していくかということ。それが我々公務員としての、プロとしての、工夫のしどころ、色々な知恵を出すところではないかなと考えております。
私は、現在、人口にはあまり拘っておりません。平成七年に第二次の長期計画をつくりましたが、その中で、人口設定を具体的にしませんでした。大体町村というのは、府県もそうですが、長期計画をつくる場合に、最終目標年度の人口を何人にするかという設定が非常に重要なポイントになってまいります。通常ならば、現在の三七○○人を五○○○人にしますよというのが、今までのパターンだったわけです。
私は、現在の三七○○人が五○○○人になるということは、あり得ないと思うわけです。あり得ないことは、出さない方がよいと主張いたしまして、町長と喧々囂々やったわけです。最低限現状維持できれば良しとしなければいけないだろう。そういう風に思っております。
そして、もう一つは、やはり現在住んでいる方がいかに豊かな生活ができるか、これを第一優先で考えるべきだ。そして、そのためには、都市と農村の交流という外部の力も借りながら、地域の活性化、この活性化には二つの意味があると思います。一つは心の活性化、そして経済的な活性化。この両面を達成していくということで、現在色々な事業を展開しております。
秋本 ありがとうございました。一通り皆さんからじっくりお話を伺ったところですが、下河辺先生、これまでのお話の中で、お感じになったことを少しお話しいただけますでしょうか。
下河辺 とても、現実的なと言いますか、現場型のご意見が続きましたから、私はとても勉強になりました。その中で、時間もないですから、主だって私が関心を持った点についてお話ししておきたいと思います。
それは、白神山地のブナ林なのですが、これは世界遺産になりました。これは、私は、手伝うチャンスがなくて殆どノータッチでした。ですけれども、鹿児島の屋久島の方は、頼まれて全面的に手伝いました。その時、屋久島をユネスコに説明する時に、屋久杉林の自然を守ろうという遺産にしたくない。ここに、人が七千年住んでいて、その知恵が、文化財であって、これからも生き続けるということを含めて屋久杉を世界遺産にしてくれと言ったわけです。
そうしたら、ユネスコの中のセクションが二つに分かれていまして、一つは自然保護、もう一つは法隆寺やアンコールワットのように人間がつくった遺産なのです。私は、それなら嫌だとさえ言ったわけです。そして、最後にどうなったかというと、第三の世界遺産ということを言ってくれるようになって、屋久島は人が住む屋久杉の島ということで登録してもらったわけです。
その時に私は、白神山地は、あれでいいの?って思いながら、自分の仕事に関係ないから触れなかったんです。もし、私が秋田県と議論するチャンスがあったら、同じことを言ったんじゃないかと思うのです。
それは、なかなかちょっと面白いテーマで、今日のように、ブナ林文化というものをやろうとする時には、人間なしでは考えられないんですね。それを、今日のみなさんの議論で再確認されたんじゃないかと思って、嬉しかったです。 もう一つ、オコゼの話や狸の話が出て、面白かったんです。それは、人間にとって、迷信とか、邪教とかって言われているものの中で、大切なものがいっぱいあるんですね。一括して切り捨てられないわけです。
しかも、それは、今後学問が発達すると、学問的に理論化されるような言い伝えがいっぱいあるんですね。それを、人間は、何億年と語り伝えて繋いでいたわけです。それが、二○世紀の文明で、どうも断ち切れてしまうという事態になったのです。
今、私が関係しているので面白いのは、アイヌ文化です。アイヌ文化は、今日尾前さんがおっしゃったのとおんなじ考え方です。相談もしないのに、同じ考え方が人間にはあり得るんですね。五ヶ瀬の山で猟をする方の発想と、北海道の片隅で熊と戦っているアイヌとが、思想が全く同じというのは愉快ですね。
ところが、我々が今心配しているのは、それがわかるのが、アイヌの中にいなくなっているのです。今はもう、調査をする最後のチャンスでしかないのです。今いるおじいちゃん、おばあちゃんが死んだら、もう二度とわからないというので、アイヌ文化の研究機関を発足しようというのです。
そして、何をやるかと言ったら、アイヌの年寄りからすべてを聞き取ろうということをやっているんです。そのことを思いながら聞いていたんで、尾前さんが亡くなったら、というのは変な言い方ですが、語り伝える人がいるのかなあと。尾前さんのおじいさんの話さえも、十分には記録されていないんじゃないかと思いました。
これは、こういう勉強会の一つのポイントだと思うんで、五ヶ瀬の猟の儀礼といったものは、ちょっと正確な記録を必要としているんじゃないかなあということを思いました。ちょっと失礼ですが、尾前さんのお子さんはお坊さんですか?
尾前 私の息子は設計士です。それで、今から五年くらい前に、私がやるのを見て猟をはじめました。それまでは、国有林になったこともあり、また、このような過疎の地では、自分のような暮らしは子どもにはさせられないと思って諦めていました。
それで、子どもは学校を出して就職して宮崎にいます。一級建築士をとって働いていますが、今、息子もこの会場に来ています。私があまりに一生懸命ですから、息子も私の方に傾いて来ております。自然を大切にするということは、子どもの頃から息子に言っていたことなのです。
下河辺 そういう青年たちの動きを伺っていて、私は面白いと思いました。根は絶えないだろうと。もう一つ、三番目にお話ししたかったのは、さっきおっしゃた農業公務員のことです。これは、私個人としては、わりに急いでやりたいというテーマなのです。
ただ、農業に限らない方がいいと思っています。それで、市町村が、ボランタリーのアルバイトグループをちゃんと職員として認めたらどうか、と思っているんです。恐らく、市町村のプロパー職員は、年間、三○○○時間近く働く状態にあると思うんです。
そして、それは、大都会でも、ソフトウェアをやっているような人は三○○○時間働いて、若者が遊ぶなんていうんじゃなくて、働くことへの魅力を持っているのです。
ところが、若者の中で、年間一○○○時間くらい働きたいという希望がわりと多いのです。ですから、全国三三○○の市町村で五○○時間公務員というのをつくると、応募者はものすごく多いんじゃないかと思うんです。
そして、会社に勤めていても、休みを利用して五○○時間公務員を希望する人がいるんじゃないか。これは、実は、高齢者の在宅看護がそういう形でないときっとできないだろうということさえ思うので、やはり、そういうことをおっしゃる方が既にいるんだなあと今日嬉しく思いました。
秋本 ありがとうございました。時間が残り少なくなってきましたけれど、旧暦祭りという問題にどうしても触れておきたいと思うのです。
林さん、旧暦による祭や生活慣習というものを、アジアの中で唯一日本だけが失ったのではないか、その辺りをすみませんが、手短にお願いします。
林 お手元にお渡ししております図について、簡単に説明いたします。これは、ブナ帯について、山梨の八ヶ岳山麓の方達からお話をうかがう間に、新暦と旧暦の間のずれが出てきてめちゃくちゃになってくるので、整理しようということから、はじめてまとめてみたものです。
一番最初の新年一月一日といいますと、みなさん冬の寒い時期と思われると思いますが、新年というのは、暦の数だけあるわけです。結局、一月から一二月まで、宗教の種類によって、ほぼ一年中どこかで新年のお祭りをしているということになります。
一番上の波型は遊びですけれども、新年が昔は冬至から冬至であり、一番下の冬至からはじまって、一番上の夏至があって、また下がった所が冬至という一年のサイクルの中に、月のサイクルがあって、その中にまた地球のサイクルがあるという一つのパターンであるわけです。
次の頁は、冬至―春分、夏至―秋分という太陽を中心にした暦と、満月と新月の暦の中にもう一度、色々な地域での祭りを落とし直すと、何月何日というのが狂っていても、夏至の後の満月にどこそこで会いましょうというと、暦が違っても誰かとデートができる。そういう風に、まず、ある基準を自然の仕組みの中に戻し直そうとしたのが二番目の表です。
次の頁が、先ほどの新暦と旧暦の関係を考えようとしたときに、旧暦の中国暦はどこからでてきたのかを辿りまして、五千年間の暦の変遷をアバウトに整理したものです。
それは、太陽太陰暦、太陰暦、太陽暦、自然暦の四つです。旧暦は、だいたい太陽太陰暦です。新月の真っ暗な時を一日として、満月は一五日。ですから、一五日の祭りというのは、必ず満月であるということは、わかりきったことです。
それでいくと、一月が二八日になりますから、ずれていくわけです。それを、冬至が一一月に来るように、間で調整しながら一年を三六五日に収まるようにしてあるのが、太陽太陰暦です。これが、新暦に代わるまでの動きを整理してみますと、新暦というのは太陽暦です。全く月とは関係ない状態です。
太陽暦というのは、結局、キリスト教とユダヤ教の二つだけが、昔からそれを続けてきたということが、この図をつくって色分けして初めてわかりました。それはやはりキリスト教が砂漠の宗教だということなどで、あとは殆ど太陰太陽暦できていたわけです。
自然暦というのは、たとえば、一一月は凍る月とか、葉が落ちる月とか、そういう風な自然を読み込んだ暦がありましす。日本は、狩猟・採集の期間が長かったので、ずっと自然暦できまして、紀元前後に初めて朝鮮半島から旧暦が入ってきましてそれから、その後に新暦に代わっていったということで、自然暦の期間がとても長かったと思われます。
そんな中で、せっかく月が見えるとか、自然のことを考えるという風なことを、もう一度思い出して、今までずいぶん世界のあちこちで太陰太陽暦を使っていたということを思い出して、その意味をもう一度味わうことの手がかりにしていただければと思って、この表を持って参りました。
秋本 ありがとうございました。子どものころ、お盆といえば、満月の夜で、非常に楽しかった思い出があります。今は、お盆といっても満月ではありません。何千年もの、自然界を見て、一番良い時を決めて祭りや行事を設定したのが旧暦であったわけですけれど、新暦に変えてからは、その日が自然界と合わなくなってきた。そういうことから、祭りの本来の魅力やエネルギーが衰えてきた面もあるのではないかと思います。
時間になりまして、みなさん言い足りないこともたくさんあろうかと思うのですが、下河辺先生の総括の時間がまいりました。続きは炉端談義でお話いただければと思うのですが。
下河辺 私の総括なんていうのは、いいからみなさんでもっと話したらどうですか。
秋本 よろしいでしょうか。それでは、総括の時間を短くしていただくということで、みなさんにもう少しお話しいただきましょう。先程の暦に関連しまして、もっと深めていきたいのですが、結城さんお願いいたします。
結城 林さんがおっしゃったことを、陸(おか)と海に分けて考えると、漁師の暮らしというのは、潮の満ち引きの関連で漁が決まりますので、お月さんの暦以外ではできない。東北には約四○○の自治体がありまして、僕はそのうちの三百二、三○まわったのですが、沿岸部には、まつりがちゃんと生きているところがあります。
先ほど、マスコミの話も第一セッションで出ましたけれども、三○○数カ所取材した中で、一カ所だけどうしても入れてくれなくて見せてもらえない祭りがあります。祭りとは本来そういうものだと思いますので、こちらもいたずらにあばく必要はないわけですが、それは、満月の日の祭りであります。
その日は海に入って、潮ごりをとって籠もってやるという釜石にある祭りです。それを、今、思い出したのですが、潮と魚の関係があります。 今頃ですと、ケムシカジカというのが獲れます。さきほどのオコゼのとんでもなくデカイやつです。こいつが来ると、浜の連中は何を言うかというと、そろそろ大根がうまくなる、人参が良さそうだ、牛蒡が良い、根ものが良いからということです。
我々の旬というのは、陸(おか)で考えますと、品種が変わり、温度が変っていくと旬も変わりますが、浜では、やってくるケムシカジカなど、その時々の魚のやって来方によって判断します。
それは、あまり狂わないと思われます。その時に、陸(おか)に大根がなくて、人参がなくて、というのは、陸(おか)の方のずれではないかと思います。それは、陸(おか)が太陽暦に合わせているからではないか。たとえば、五月の連休に合わせて田植えをするようになったり、祭りを日曜日にするようになったり、人の都合でするようになった。すると、そこには大変な無理がかかる。その無理がかけられない、人間が制御できない海の魚の力といったものを、林さんの話を聞いていて感じました。
僕は、宮崎にお伺いして、これから日向に行くことにしていますが、実は、日向は、東北の漁業、日本のブナ帯の漁業の恩人なわけですが、ここに、突きん棒漁というカジキを獲る漁があります。
それは、船の舳先に銛を持ってカジキが浮かんでくるのを待って追いかける漁です。それは、漁法としては、変な保護団体が残酷だなんて馬鹿なことを言っていますが、一網打尽で何万匹も獲るよりも、はるかにいい。人間が一対一で向かい合って、二日にいっぺんくらいカジキを獲るという漁です。一番ガソリンのかからない漁です。
彼らはそのために、山量りと言いまして、この季節にはどこに魚がいるかということを、あの山とあの山を結ぶこの線あたりにカジキがいるというように、山と海流と月とで総合的に判断しながらやっています。それで出港の日も決まります。獲れる予測も大体つきます。
そういう意味では、暦というものが、漁業に大きな意味を持ち、また、それを検証していきますと、おかの狂い、陸地のずれ、そういったものまで見えてくるのではないか。そのためには、良い鍋料理、沿岸部の鍋料理を見ると、日本の植生なり旬なり様々なものが見えるんだということも感じました。
アイヌ文化の話がでましたので、鮭漁について一つだけ付け加えます。その沿岸を歩いてる漁師さんは数少ないですが、日向に行かれるとわかりますが、鮭漁というのがあります。四月くらいにスタートして、三陸沖には、だいたい六月一五日くらいに着きます。そして、九月いっぱい漁をして帰ります。
これは、補助金事業であります。食べないで、卵をとってふ化事業をするというわけですが、やりすぎまして生態系を壊しています。
北海道の方はおわりだと思いますが、一千万粒とか二千万粒という単位で卵をふ化して流すために、四年後くらいに戻ってきますが、なおかつ、帰りすぎて、漁師の言葉で言えば、七回信号待ちくらいに、渋滞して川を上れないわけです。鮭は非常にどう猛な魚で、その時に、沿岸の稚貝から小魚からみんな食べてしまうわけです。
上った途端に、一○○メートルに金網が張ってあってお陀仏になる。それは肥料にもならずに捨てられてあったりするところもある。困るのは、小さい魚、中位の魚と色々ある中で、鮭だけが人の手で、補助事業あるいは子供たちがカムバックサーモンということで、川の美しさの指標ということで教育的にも使っておられますが、一方で、魚や海の側から見ると、人間が、とんでもない善意で、食物連鎖を断ち切っているということになっています。
そういう意味では、先ほどの暦というものもそうですが、自然と生物との関連をきちんと踏まえないと、僕らの無意識の善意とか、良かれと思う地域振興策が、実はとんでもない破壊をしているということになりかねない。育てているんだか、破壊しているんだかわからないということになるなあということを思いまして、暦は祭りだけでなく重要なんだと思いました。
暦を厳格に守っている祭りがなんであるかということを、本気で徹底して調べていかないと、それは単に祭りだけではなく、祭りと関連する我々の暮らしとかに広げてやっていかないとまずいのではないかと思いました。
秋本 単純に、うちはお盆を旧暦でやろうよとか、うちは旧暦で正月をやるよとか、というのがあっても面白い、年賀状を書くのが楽でいいんじゃないか、なんて思ってみましたが、暦はもっともっと奥の深いものがあるわけですねえ。それでは田村さんお願いします。
田村 私たちは、去年から山に木を植えようという運動をやりだしたのですが、昔はブナを伐った後に、拡大造林で杉がどんどん植えられて、今になると暗い森ということで、意味が薄れてしまった。
しかし、昔は山持ちというのは、庄屋さんか金持ちで、貧しい農村では、「本当に、私も杉の山が欲しい」という憧れの的だったのです。拡大造林というのは、そういう意味では、貧しい百姓でも山が持てるということにつながったわけです。だから、一生懸命山に木を植えて世話をしてきが、今になると息子もそんなものは金にならんと言ってふりむかなくなった。
東北では、学校林というものがあって、学校を建てるときや、物を買うときに役に立つだろうということで、子供たちも植林したし、父兄も行いましたが、今は振り向かなくなってきた。遠足に行っているところはあるかもしれないけれども、作業は殆どしない。
父兄たちも、山仕事は負担となって誰も出なくなって、お金を集めてやろうか、ということになったけれども、そこまでしてやって何になるのというところまで来てしまったんですね。
しかし、この木を植えるということは、人生の一つの大きなロマンだと思うんですね。今まで木を植えたのは、将来お金になって、財産をつくるということだったんですが、これからの森林というのは、今日のお話に出ているように、環境として、海を育てる、あるいは水を育むとか、あるいはまた景観をつくるとか、狸も住める雑木林をつくるとか、色々な文化的な意味があって、木を植えること自体を今までとは違った価値観で、農山村の人たち、そして都会の人たちも、私の植えた一本のブナがやがて水を育んで、みんなの役に立つだろうということが一番大事だろうと私は思うのです。
木を植えるということが非常に素晴らしいから、生きている間に、一本でも二本でも植えようという価値観が、国民に共有されていない。木を植えることが、何か仕事を手伝うとか、奉仕をしているというようなことで、自分のライフワークとして、生きている証、生きている喜びとして木を植えるというところまで、私たちの心がまだ育っていないんじゃないかという気がします。
森に対する関心はいまいち盛り上がっていないのですが、これからグリーンツーリズムで都市と農村の交流といったことを考えるときに、価値観ということから見直しをする必要があるのではないかと思っています。そういうことで、これからも、木を植えることを続けていこうと思っています。
秋田県には、秋田音頭という歌があって、ハチモリ、ハタハタがでてきます。ハチモリというのは、米代川から流れ出た土砂で、波打ち際から二五メートルくらいは磯焼けしているのです。海草がないので、ハタハタが卵を産み付ける草がなくなっているのです。しかたない現実なのですが、それに対する対策というのは僕は、改めて山に木を植えることではないかと思っているのです。
今、新しいテトラポットを埋めて、それに卵を産み付ける草を生やそうということをやっています。それから、三年続けてハタハタを禁漁にしました。禁漁にしたので、今、少しは獲れているのですが、漁師さんは、そこのハタハタではなく、別の産卵場所で孵ったハタハタがたまたま来た、あるいは沖合で獲れるだけだ、この海はもう死にかけていると言うのです。そういう面で、大胆な見直しをしないと、山が魚を育てることまで結びつかないとだめではないかと思うのです。
農業にしても、水が大切です。うちの村の川は小さいですが、きれいな水です。それを、海に捨てているという議論がありました。この間の干ばつの時には、町に給水車で持っていったら、一トンが千円になった。ところが、小さな川でも、毎秒一○トンとか一五トンの水が流れているわけで、しかも山が育んでいる水というのは、一○○年、二○○年続くものなのです。杉を植えて、伐って何億かになっても、また一から植え直さなければいけないことを考えると、森の水というものは、非常に大きな要素です。
昔は川の流域に文明が発達したと言われているけれども、最近は、逆に、川がそのようなものを汚染したり壊したりして、マイナスの要素にもなっているので、それを見直すことは、単に木を植えることからできる一つの大きな地域の形成ではないか、また大げさに言えば、国家の衰亡までそれにかかっているのではないか、と思いますので、もう一度山を見直すことを早くすべきではないかと思っています。
秋本 近年、山村の水不足というのは非常に深刻になってきています。ここ、二○、三○年くらいの間に三分の一から五分の一くらいに、渇水期の水量が減ったということをよく聞きます。
小笠原 田村さんと同じ意見なのですが、私は最後に、提案というと大げさですが、お話したいことがあります。
ブナの公益的機能というものは、他に代えられない、絶対的な価値といっても良いほどのものをもっている貴重なものです。そういう観点から、今、ブナは木へんに無と書くのが一般的なのですが、これではブナがあまりにかわいそうだということで、ブナ帯文化とブナの復権のために、木へんに貴と書いて、ブナと読ませるような運動を、皆さんの力の中でやっていただきたいと思うわけです。
実は、黒松内町はこの字で、ブナと読ませておりますし、地方新聞でもこの活字を使っております。ぜひ、これを全国的に広げて、ブナに対する認識を高める運動をこの会議を通じて広げていただければ幸いです。
秋本 ありがとうございます。私、黒松内町に伺った時、木へんに貴と書いてあってびっくりしました。木へんに貴と書いてブナと読ませ、ブナ雫などというお酒があるのですね。そういう取り組みをされていて素晴らしいと思いました。
是非これからはブナのことを木へんに貴という文字をつくって書くように申合せを行いまして、本日のセッション2を終わらせたいと存じます。
尾前 先ほどの暦の話ですが、猟師には、旧暦の正、五、九月というのがありまして、正月の一六日、五月の一六日、九月の一六日に、山の神祀りをやっていました。今はもう、新暦も旧暦でも山の神祀りをやらないのが普通になっています。
私はいまでも旧暦で続けています。正月、五月、九月の一六日に、全国の猟師さんが、無事に猟をできるようにという願いをやっています。それから、まだ話しておきたいことはたくさんあるのですが、これくらいで。
秋本 本当に時間が欲しいですね。もっと、みなさんの話をお聞きしたいですし、色々なテーマが見えてきましたので、これを掘り下げていくと非常に面白いと思うのですが、時間が参りました。尾前さんの狩りの作法のお話は、霧立越シンポジウム第四回の記録にありますので詳しくは、そちらもご覧になってください。
それでは、第二セッション「ブナ帯文化圏からのくにづくり」を終了させていただきます。パネラーの先生方それから会場のみなさん。本当に長い長い時間ご協力いただきましてありがとうございました。
参加者名簿一覧
続く