第2回・霧立越シンポジウム

タイシャ流棒術350年と霧立越

と き 1995年10月21日〜22日
ところ 鞍岡祇園神社

第1部 記念講演

タイシャ流と丸目蔵人佐
講師  渋谷 敦氏
熊本県文化財保護指導委員

  

秋本 本日は第2回霧立越シンポジウム「タイシャ流棒術 350年と霧立越」に多数ご参 加いただきましてまことにありがとうございます。

 五ケ瀬町の鞍岡地方に古来より伝承されております「タイシャ流棒術」は、熊本県人吉、つまり肥後国相良の剣豪「丸目蔵人」のタイ捨流から派生したものと考えられております。

 タイシャ流の秘伝の巻物は、椎葉の尾前に1巻、五ケ瀬町鞍岡に3巻保存されていることが確認されておりますが、そのいずれもが神社のご神体であったり、各家々の神棚に祭られていたりして門外不出、誰も見てはならないものとして保存され、神秘のベールに包まれています。

 私は、過去2回ほどその一部を拝観しました。五ケ瀬町の町史にも一部記載がございますが詳しく解読されておりません。秘伝の巻物の内容については、なかなか理解できないわけですが、巻末に師範免許を伝授した年号と名前が記載されています。

 それによりますと、「九州日向国肥雲働山、一能院友定」「柏村十助殿」と記されており、伝尾判は「正保2年 山村四兵衛」から始まっております。以来、元禄、宝永、享保、寛政、文化、嘉永、安政まで次々と伝授の記録があります。

「柏村十助殿」と記された年代は正保2年よりさかのぼるかもしれませんが、「正保2年 山村四兵衛」が最初の伝授者としますと、正保2年を当地における「タイシャ流棒術」のはじまりと考えられるわけであります。正保2年は、西暦 1645年ですので、今から350年前ということになります。こうしたこ とから、今年はタイシャ流棒術伝授から350年という節目にあたり記念すべき年と位置づ けたのであります。

 また、最初の伝授者「山村四兵衛」と2番目の「山村善兵衛」は、五ケ瀬町鞍岡の人といわれますが、3番目の伝授者「八田長右衛門」は、蘇陽町馬見原の人といわれ、4番目、尾前権八からは椎葉村尾前の人といわれています。鞍岡に保存されている巻物は最期に鞍岡の人に伝授されて終わっています。これから考えられることは、人吉の丸目蔵人のタイ捨流が九州脊梁の道を経て椎葉村尾前、五ケ瀬町鞍岡、蘇陽町馬見原に伝えられたことになり、これはまさに霧立越ルートにあたります。タイ捨流の武芸者が秘伝書の巻物を懐に、辺りの気配を伺いながら霧立越を行き来していたと思いを馳せますと感慨深いものがあります。

 第2回霧立越シンポジウム「タイシャ流棒術 350年と霧立越」は、これまでほとんど知 られていないタイ捨流棒術の神秘のベールにせまっていこうということでございます。幸いにタイ捨流を今日まで伝授されておいでの球磨郡錦町在住、山北竹任先生がいらっしゃいます。山北先生は、丸目蔵人のタイ捨流宗家第13代師範として現役でいらっしゃいまして、藤原定宗の雅号をお持ちでございます。今回は山北先生のご指導をいただくことになりました。

また、同じ錦町在住の渋谷敦先生にもご指導願うことにいたしました。渋谷先生は、熊本県文化財保護指導委員や錦町の教育委員長としてご活躍でありますが、丸目蔵人についての研究家としても有名でございます。熊本日日新聞社から『剣豪丸目蔵人佐』のご著書も出版されました。

 今回は、このおふた方の格別なるご支援をいただきまして、このシンポジウムを開催することができました。先ずは、渋谷先生のご講演をお聞きしタイ捨流の開祖であります丸目蔵人の生涯について学びたいと思います。大変興味深いお話をお伺いできることと存じます。その後、山北先生のほんもののタイ捨流の演武を拝見させていただきます。

尚、こちらに展示してあります秘伝書は、山北先生に特別にお持ち頂いた丸目蔵人のタイ捨流免許関係の巻物と鞍岡に伝承されております巻物でございます。はじめての公開でありまして、後程ゆっくりご覧いただきたいと存じます。これまで秘伝書を見たら目が潰れるとか、罰が当たるといわれておりまして非常に緊張をいたしております。

 それでは、渋谷先生ご講演をよろしくお願い申し上げます。

 講演


 ただいまご紹介いただきました渋谷と申します。どうぞよろしくお願いいたします。熊本県の球磨郡から来た者でございますが、非常に遠いところという印象を受けますけれども、歴史をたどってみますと私共の相良藩は御地の延岡藩や高鍋藩としょっちゅう行き来しておりますね。椎葉を越え米良を越えて高鍋藩から養子をもらったり、嫁さんをもらったりというようなことでずっと仲良くしてきたわけです。それから私たちのところに国東半島の修験道が伝わっておりますけれども、これもたぶん霧立越を通って伝わったんだろうと思っております。明日みなさんの御供をして霧立越を越えます。皆さんとご一緒に歩くのが嬉しくてなりません。明日はおそらく良い天気でしょうから元気で歩きたいと思います。

 いろんな物資や人物がこの霧立越を行ったり来たり、向こうからもこちらからもということを考えます。同じようにこのタイ捨流もこの霧立越を通って交流したんだと思っています。

「恐ろしい子であった」
 タイ捨流を始めた人は、丸目蔵人佐という人ですが、この方は今の人吉市の出身で、お墓は私たちの錦町にございます。私たち錦町のイベントとしまして、春は剣豪丸目蔵人顕彰少年剣道選手権大会をやります。秋は剣豪丸目蔵人顕彰全日本選抜剣道七段選手権大会をいたします。春は少年たちが 700人集まります。秋の大会は今月の29 日でございます。今日は21日で、29日は今度の日曜日です。私たちの錦町が町制施行をして今年は40周年に当たりますので、それにあやかって全国から40人選抜。七段の方は全国にたくさんいらっしゃいますけども、その中でも選りすぐった選手を集めて選手権大会をいたします。もちろんその試合の審判をされるのは八段以上の先生方ですから、これまたすごい先生方がたくさん集まります。前日、丸目蔵人の墓前祭をいたしまして、翌日一日かかって試合をやっていただきます。よろしかったら、ひとつ皆様もぜひお出かけいただきたいと思います。

 さて、丸目蔵人についてお話し申し上げますが、丸目蔵人は天文9 (1540)年に生まれ、寛永6(1629)年に亡くなった。今から455年前に生まれて366年前に亡くなった。だからおよそ400年くらい前に活躍した人だと理解してよろしい。亡くなっ たのは89歳でございます。丸目蔵人は剣術も書道も、それから長刀も槍も、馬も手裏剣も二十一流に通じた人でありますから、ここの棒術もおそらく丸目蔵人の創始だろうと思いますけども、私たちのところには残念ながらこの棒術は伝わっておりません。今日いらっしゃったタイ捨流の山北先生、こちらはもう刀法だけです。棒術は伝わっておりませんので、この地にタイ捨流の棒術が伝わっているということは非常なご縁であります。さっき申しましたように人吉とここ、350年、あるいは400年の歴史の間にお互いにつながっておった。深いご縁を感じます。

 さきに丸目蔵人の活躍したのは 400年くらい昔だと申しましたが、これをみなさん方 に分かりやすいように申しますと、丸目蔵人は織田信長よりも六つ若い。豊臣秀吉よりも四つ若い。徳川家康よりも二つ年上。従って織田信長が小学校の6年生の時、豊臣秀吉は4年生。丸目蔵人は1年生です。そして徳川家康は幼稚園。そういう関係ですから、織田信長が天下を狙う。豊臣秀吉が天下を掌握する。そして取って代わったのが徳川家康。これらの人たちと丸目蔵人はほとんど同じ世代です。武田信玄とか上杉謙信とか、あるいは北条早雲とか、こちらはちょっと古い。仙台の伊達政宗は、こちらはちょっと若い。そういう世代です。

 海音寺潮五郎という小説家がいました。この人は鹿児島の方です。この人が「おどんな日本一」という小説を書いております。新潮文庫にはいっています。「おどんな日本一」。誰のことか。丸目蔵人のことです。この本の書き出しにこう書いてあります。「恐ろしい子であった。七歳の時に、人を殺した」。七歳といいますと、小学校の1年生くらいですか。その時もう人を殺したんだそうです。

 どういうことかというと、ご承知のとおり私たちの郷里には球磨川が流れていて、これは最上川・富士川とともに日本三急流の一つで、その球磨川で丸目蔵人は7歳の時泳いでおったというのです。泳いでガバーッと潜って、こ〜んな大きな鯉を捕まえて上がって来る。またガバーッと潜っては鯉を捕まえて上がって来る。今の7歳の子供ではとてもできませんね。球磨川で泳いだなんて言ったら、親は青くなって怒りますよ。ところが最近のひ弱な子供とは違います。丸目蔵人は7歳の時に川に潜って、こんな大きな鯉を捕まえて上がって来る。それを村の者が見つけ、河童だと思ったんです。さあ河童だというんで、走り帰って火縄銃を持ってきて狙った。今ではすぐにバーンといきますけども、昔は火縄銃、フッフッフッ、ジジジジジ燃えてバーンといくでしょ。フッフッフッやってるところを丸目蔵人水の中から見た。鯉を捕まえながら。「おのれっ」というわけでガバーッと潜って淵から向こうに回った。そして鉄砲で狙ってる男の後に上がって、「やいっ」。振り返ったところをバーンと胸を蹴ったそうです。タイのキックボクシングですな。ドギャーンと蹴ったらひっくり返ってジャボーンと。

 「恐ろしい子であった七歳の時に人を殺した」。そして「十歳の時戦場に出て大手柄を立てた」。 10歳というと小学校の4年生ですか。戦場に出て大手柄を立てた。これは人吉から球磨川を下って八代にでて、その頃相良家の領地は非常に範囲が広うございまして、八代、水俣から宇土、芦北、天草へんまで領有しておったんですが、その宇土あたりで戦争がある時に「お父さん、僕も連れてって」と言ったんです。お父さんは「十歳の子が何を言うか。戦争は遊びごとじゃないんだから、生意気な。お前、留守番じゃ」。そこでお父さんが出掛けて行った後、丸目蔵人は一人舟に乗って球磨川を下って行った。矢のように下る舟の上から竿をもって、岩の間をヒラリヒラリと八代まで一人で下って行った。今そういう恐ろしい子はいませんね。とにかく八代に行って、そしてお父さんたちと睨み合っている敵のお城の後にまわって石垣をはいながら上がった。さて、戦争には馬は絶対必要ですから、城の中に馬屋がある。その馬屋に行って火打ち石でカチカチカチ、馬の敷藁に火をつけたのです。子供は火遊びをしちゃいかんと今は言うけど、丸目蔵人はやるんですよ。それがバーッと燃え広がったところで馬屋のかんぬきを抜いたから馬がみんな走り出して城内は上を下への大騒ぎ。そうして火をあちこち広げたもんだからお城全部が燃え上がった。翌朝、お父さんたちがワーッと攻めてきた時には、敵は一人もいなかった。「お父さん、お先しました」。「十歳の時戦場に出て大手柄を立てた」。こう書いてあります。ま、どこまで本当か知らないけれど。

さて、次に、「十六歳の時初陣した。」というのは本当のようです。隣の鹿児島の島津と戦って、この時は本当に大手柄を立てたようです。「十七歳で天草の本渡城主天草尚種のところに二年間逗留」いたします。ここ天草は非常に良い樫の木が出ます。木刀が良いんですよ。木刀が欲しかったから行ったという説もありますが、これもどこまで本当かわかりません。しかし、天草に行ったということはたいへんな収穫でありました。なぜかというと、当時天草には随分いろんな国々からいろんな文物が集まってきます。また、イスパニアとかポルトガルの船は来てりません。けれども、中国のアモイとか台湾とか沖縄あたりに来ておったイスパニアやポルトガルの物資がそれぞれの国の船に載って天草にたくさん来ております。だから一般の人たちがまだ見たこともないような例えば鉄砲も見たでしょう。ギヤマン即ちガラス細工も地球儀も見たでしょう。だからもう17歳の時に外国に留学したと同じで、非常に広い視野が持てたんです。これがまた丸目蔵人にとっては、幸いしたと思います。

 若い時分にそういう文物に接したということでさらに人間が深まって京都に上ります。京都に上って、上泉伊勢守信綱という人の弟子になるわけです。

 上泉伊勢守信綱と無手勝流
 上泉伊勢守信綱は剣聖と言われる人です。剣の聖人です。何が剣聖かと申しますと、上泉伊勢守は 56歳くらいになってから弟子を連れて全国を武者修業して歩きます。

 愛知県のとあるお寺を通りかかった時に村人が大騒ぎをしています。「どうしたのか」って聞きましたら、無頼漢が、みんなに追い詰められて小さな子供を人質にとって一軒の家の中に逃げ込んでいる。「来ると殺すぞー、来ると殺すぞー」と子供を抱いておってどうしようもない。どうしたら良いかとみんなが心配している。みなさんならどうします? 上泉伊勢守は天下の剣聖ですから、パーッと飛び込んで即座にやっつけたとお思いですか。違います。どうしたかというと、「じゃあ僕の髪を剃ってくれ」。いそいで髪を剃ってつるつる坊さんになります。そしてお寺さんに行って僧衣と袈裟を借りて本当のお坊さんになりすまします。

 それから「握り飯二つ作って下さらんか」。握り飯を二つ持って家の中にトコトコ入って行くわけです。すると無頼漢は子供を抱え「来るなっ来るなっ」とやっている。「いや、俺は坊主じゃ。墨染の衣を着ている。子供が腹へっていると思うからこうして来たんじゃ」。「これを子供に食わしてやれ」。ポーンと投げたんです。無頼漢はとっさですから刀をパッと置いてそれを握るでしょ。握った。ついでに「お前も腹がへったろ。俺は仏さんの弟子じゃから仏さんはみんなに平等じゃ。お前にも握り飯やろう」。もう一つ投げたから無頼漢は子供を離してパッと握った。とたんに伊勢守は飛び込んでいって無頼漢をねじふせた。

 これが無手勝流ですな。無刀流。刀無くして相手をやっつける。しかもこれは活人剣です。人を活かす剣。だいたい剣っていうのは人を殺すためのものでしょ。刀を抜いたら切らにゃという訳で、テレビではバッタバッタと切り倒す。あれは殺人剣であります。しかし伊勢守は人を殺す剣はもう流行らない。人を活かす刀を使おうという、それが上泉伊勢守の流儀であります。したがってその時も握り飯二つでポイと。これで子供を助けた。

 また、ある時、伊勢守は舟に乗り合わせてギッチラコギツチラコしておりましたら、一人の酔っ払いがおりまして、船頭にからんでどうにもならん。「船頭、あっちにやれ。船頭こっちにやれ」。そこで上泉伊勢守が立ち上がります。「おい、お前の相手は俺がする。岸につけろ」。自分で船頭の竿を持ったんです。そしたらその侍いきりたって「お〜のれ貴様、よ〜し、さぁこい」というわけで、舟の舳先に立って舟が着いたと同時にパーッと向こう岸に飛び渡った。飛び渡った瞬間に上泉伊勢守は持っとった竿で岸を突いてスーイと舟を離してしまった。「卑怯者〜、何をするか〜」と相手がいうけれど、大きな声で「泣け泣け」と言ってどんどん舟を離してしまった。これまさに無手勝流です。

 相手と喧嘩せずに勝った。無刀の勝利。そういう刀法を使い出したのが上泉伊勢守であります。非常に新しい考え方でしょ。激情を持って相手を切るんじゃなくて、非常に理性的。刀を使わずに勝利を収める。これが上泉伊勢守の新陰流です。陰流というのは宮崎県が発祥の地でしたね。愛洲移香という人が鵜戸神宮に籠って始めたのが陰流でしょ。それを更に発展させたのが新しい陰流、即ち新陰流であります。新陰流の極意というのはそういうものです。これを上泉伊勢守が称えたんで、だんだん広がっていきます。

 袋竹刀というのを始めたのも上泉伊勢守です。それまでみんな木刀だった。ヤーッってやると勢いあまってカポーンと叩くことがあったり、腕や腰を怪我してしまう。そこで割竹をたくさん集めてこれを束にして木刀の代わりに使うと、これはいくら叩いてもちょっと痛いくらいですみます。そういうのを始めたのもこの上泉伊勢守でありますから、この人の剣は活人剣。人を活かす剣ということになります。その教えを受けましたので丸目蔵人の剣は、本当に人を活かす剣であったはずです。人をバッタバッタと切りきざむようなことはないわけですね。この点はひとつご理解賜わりたいと思います。

 上泉伊勢守の門弟はたくさんおりますが、その中には疋田文五郎とか穴沢浄賢とかそれから柳生石舟斎。ご存知でしょう、柳生石舟斎宗厳。それから宝蔵院覚禅房胤栄。こういう人たちが上泉伊勢守の弟子になります。それに当時の将軍の足利義輝。この人は最期は切り死にするのですが、この将軍様は大変剣も達者だったそうですよ。これは襲われて切り死にするときに、沢山の刀をならべておいて刃こぼれすると差しかえ引きかえ切ったといいます。その足利義輝から上泉伊勢守は大事にされて、足利義輝の口ききで正親町天皇の御前で模範試合をします。これは最高の名誉ですね。上泉伊勢守と丸目蔵人が御前試合をやったわけです。その時にいただきました感状が残っておりまして、こういう文面です。「上泉の兵法古今比類なく、天下一と言うべし」。上泉の兵法は古今に比類がない。刀法は天下一と言うべし。「丸目の打ち太刀これまた天下の重宝となすべきものなり」。丸目の打ち太刀、これまた天下の重宝、天下の宝物だ、そういう意味の感状をいただきました。その上、丸目蔵人は上泉伊勢守から新陰流の免許皆伝もいただいた。即ち活人剣の免許皆伝をいただいて意気揚揚と人吉に帰ってまいりました。

 

 大口の戦い
 ところがその頃人吉は、もう戦争の真っ只中。薩摩の島津と戦いのまっ最中。向うは島津。 77万石ですよ。こちらは相良2万2千石。これは後の話で当時は対等に戦いました。山を越えたむこうに大口というところがあります。ここは当時相良氏が領有してた。そこに出城があった。島津から取り囲まれて何とかせにゃならんというところに丸目蔵人が帰ってきたんです。天下一の剣の達人です。今こそ俺の実力を発揮する絶好のチャンスということで、彼はガゼン張り切った。いうならば、私たちの村の草野球に今をときめくイチローが帰ってきたようなもんです。「わーっ、オリックスのイチローが帰ってきた」。(笑い)そこで早速「丸目、よう帰ってきた。戦場に行くか」「もちろん、行きます」。みんなの期待を背負って戦場に行くわけです。

 ところがその大口の城というのは小さな城で島津が十重二十重に取り囲んでおります。「出るな。門を開くな。篭城せよ」というのが至上命令であります。「決して出てはならんぞ。篭城せよ」というんです。食うものはなくなる。腕は振るえない。これは丸目蔵人ならずともつらい。でしょう。俺はホームラン打ってみせたいのに試合には出れない。もうやっきもっきしてる時に島津の罠に引っ掛かります。島津というのはよく伏兵戦法をやった。兵隊をかくしておいて、敵を誘いだしてはワーッと取り囲む。ま、そんないわば卑怯ですがな。それで、わが相良軍がやられたんですがね。(笑い)お城からこうやって見ますと、お城の下を兵糧を積んだ荷車が、ズラーッと並んで米を積み野菜を積み豚を積み鶏を積み、ガラガラガラやってヘイヘイーッってお城に向かって手をふって行く。こっちは腹へって何も食うものがない時に、下では食物いっぱいあって、ヤーッヘイヘイーッ。中には焼酎飲みながら。こっちは腹がへってるうえに腹まで立ってどうしようもない。とうとう若い丸目蔵人、堪え切れず、あれを襲って奪ってくるから、ちょっと城門開けと。そして城門ひらいて 300人の兵隊を!

引きつれて、お前たちは前に行け、我々は後から行く。そしてあれをひっ捕まえて兵糧をもってこようと。簡単だい。行こう。それっ〜という勢いで出て行った。その戦場は今でも残っていますよ。それで取り囲んだら、向こうはみ〜んな逃げてしまった。ばんざ〜いって、兵糧を引っぱって帰ろうとしたとたんに、その辺の山々谷々からウワ〜ッと喚声が上がり、法螺貝ブーッと。これが島津の罠、いわゆる伏兵戦術に引っ掛かったわけです。そして散々やられた。 300人のほとんどが殺されました 。丸目蔵人だけは、剣の達人ですから、バッタバッタと切り倒す。だが部下はみんな死んでしまった。お城に帰ってみんなから白眼視されますね。自分だけは刀傷ひとつ負わずにおって、部下は全部殺してしまった。日本一の剣豪も大したもんじゃねえぞと。軍規を破って敗戦に導いたのです。

 相良の殿様も非常に立腹された。本来ならば切腹ですよ。あるいは打ち首ですよ。だけども天下一の剣豪だということで、死一等を免じて、もうお前の顔は見とうない。来るなといわれて、それから 17年間天下を流浪します。死にもまさる恥辱、苦しみでした。

 タイ捨流と示現流
 しかしこういう失敗があの人の人生の一つのステップになったわけですね。それからまた一生懸命剣を修業します。上泉伊勢守からついに東日本は柳生に任せる。西日本は丸目お前にまかせる。お前が新陰流を拡げよ。いいか、西日本はお前に任せたぞ。試合は無用だ。試合をする必要はない。もう喧嘩はするな。喧嘩せずに相手に勝て、そういう剣法を広めよというわけです。そして少なくとも九州一円に新陰流より編み出した丸目のタイ捨流が広がっていきます。本当に九州一円にタイ捨流は広がります。

 たとえば鹿児島の島津もはじめはタイ捨流でありました。しかし、そのうち京都から伝えた示現流というのが非常に強い。そこで島津家久公は当時タイ捨流ですけども、東郷重位が示現流というのを始めたそうじゃが、どのくらい強いか、おいお前相手してみよと東新之丞に命じます。東新之丞は丸目蔵人の弟子です。東新之丞と東郷重位。タイ捨流と示現流の御前試合になったわけです。どちらも構えて2時間動かなかったと。しびれを切らしたのは島津家久公。何をしてるか2時間も。な〜にをしてるか東新之丞、お前イケイケって声をかけられた。タイ捨流行け〜っていうわけです。そう言われては、東新之丞はもう決死の覚悟でイヤーッと打ち込んでいったのをバッと肩を打たれて、鎖骨を折ってしまいます。そしてどこへともなく逐電したというのです。以来薩摩藩は示現流になりました。だけどそれまではタイ捨流だったのです。

 その頃もう 60歳台であった丸目蔵人はすでに許されて相良藩に帰参しております。相良藩で117石をもらっております。剣道の先生が117石って少ないなとお思いかもしれませんけど、その頃相良の殿様は2万石ですから、2万石でそのくらいもらったら上士です。

 宮本武蔵と丸目蔵人
 丸目蔵人は 60歳を越えていて示現流とどう勝負したらいいかを考えます。そして考えた挙げ句に二刀流を編み出します。新陰流は一刀です。だけれども二刀を思いついた。丸目蔵人は左利きであったらしいです。だから左に大刀を持って右に小刀をとってそして構えるわけです。示現流はチェストーと一気に来るでしょ。そのときに、タイ捨流二刀の口伝。これあんまり言っちゃならんのですけど、「投げ剣」というのであります。頃合いをみて小刀を投げ付けるんだそうです。そうすると向こうは一刀流。ヤーッとそれを払った時にこちらの大刀でエイッ。こうしてタイ捨流の中に二刀の刀法が生まれたわけです。

 さてこの二刀流でみなさんご存知の宮本武蔵。巌流島の決闘で佐々木小次郎をやっつけた。その二刀流の宮本武蔵が私たちの錦町までやって来ます。何しに来たかというと丸目蔵人にお手合わせを願いたいというわけです。小山勝清著『それからの武蔵』によると、その時、丸目蔵人 73歳、宮本武蔵29歳。73歳の爺ちゃんに29歳の青年剣士。しかもあの巌流島で佐々木小次郎をやっつけて一番意気があがっておる宮本武蔵が一つお手合わせをとやって来た。

 皆さんならどうしますか。俺もう年とったから駄目だ。帰ってくれと。ま、焼酎でも飲んで帰ってくれと言うか、やっぱりいろいろ考えるでしょ。佐々木小次郎をやっつけたばかりの天下の剣士だから、いま俺風邪ひいてるもんなとか何とか。(笑い)

 丸目蔵人はそれまで畑を耕していた。そこに宮本武蔵が来てひとつお手合せをお願いしますと言う。とたんに今まで聞こえていた蔵人の耳が急に聞こえぬようになります。これ今は使っちゃならん言葉でしょうが、分かりやすく「勝手つんぼ」と。都合の悪いことは聞こえない。みなさん方のじいちゃんとばあちゃんも、そんな人居らっしゃいませんか。(笑い)今まで聞こえておったのに、小遣いくれといわれて急に聞こえなくなるあれ。丸目蔵人はその手を使ったんですね。今まで聞こえておったのが、とたんに何じゃ? あ、そうか腹へったか、「おいでおいで。」「いや、一手お願いします。」「遠慮するな。芋粥なりと進ぜよう。」と家に連れていった。

囲炉裏の火の上には鍋がかかってごとごとごとごと。それを丸目蔵人自ら芋粥をついで渡す。武蔵は少しも油断せず芋粥を食う。丸目蔵人は平気で芋粥を食う。食ってしまうと、また畑に行くといって、鍬をかついで出てゆきます。そしてこちらが家、こちらが馬屋。家と馬屋の狭い通路を丸目蔵人は鍬をかついでひょっこひょっこ。 73歳の老体が歩いていくわけです。宮本武蔵もその後から油断なくついて行った。

中ほどまで行った行った時にパーッと振り返った丸目蔵人。肩の鍬を頭上に振り上げた。宮本武蔵どうしたと思います。左右がせまくて刀が抜けません。ましてや二刀の剣抜くわけにはいかん。丸目蔵人は鍬で今にも打ちかかってきます。だかさすが宮本武蔵。タッタッタッターッと後ずさって出口まで行って身構えた。ところが蔵人はその様子を見てニタッと笑って向こうに行ってしまう。それから後をついて行ったらもう黙―って畑を耕している。そこで宮本武蔵は「無敵、遠く及ばず」「ご教示、心根に徹しましてござります」と言って何処へともなく去って行った。これ小山勝清の『それからの武蔵』という小説です。小説ですよ。(笑い)だけど私たちの町では、みんな信じております。鍬なら振り上げられるでしょ。刀は抜けないもの。右も左も家だから。あーっと行き詰まったところでニタリと笑って向こうに行った。そこで「ご教示ありがとうござった」と言って帰ったと。宮本武蔵との対決の一席これで終わりといたします。(笑い)

 

 一武の丸目蔵人
 丸目蔵人は一度上京します。何しに上京したかというと、当時天下を席巻し、徳川幕府の武芸師範をやっておりました柳生流。ご存知ですね、柳生但馬守宗矩。この人は徳川家から1万2千石もらった。だから東日本は柳生に任せる。西日本は丸目にまかせる。それがだんだんそうじゃなくなってこっちは 117石。向こうは1万2千石です。だから講談の世界では丸目蔵 人はそれを不腹として江戸まで試合に行ったのだと語りますが、試合じゃないと僕は思います。柳生宗矩に会って、おまえのお父さんと俺は同級生ぞと。この時柳生が30歳くらい丸目蔵人は60歳くらいです。わざわざ60歳が30歳に試合を申し込むはずもない。しかも徳川将軍の指南番というのは簡単には試合しません。

これはもう将軍のご命令がないかぎり試合しません。へたに試合して敗けでもしたら即座に首でしょ。だから他流試合はしないということがわかっておって、丸目蔵人がわざわざ試合しようとでかけて行ったというのも妙な話し。試合はしません。最初から。そしてお互いに盃を交わして君のお父さんと俺はズーッと新陰流の道統を伝えている仲間だということで、私は西日本一の兵法者、あなたは東日本一の兵法家ということを改めて確認し会って帰ってきた。こういう話しだと思います。これが真相だろうと思います。

 そして晩年は私たちの熊本県球磨郡錦町の一武というところに隠遁して、そしてたくさんの門弟を育てます。開墾もします。大谷という谷、それから汁谷という谷、曲り谷という谷。そこから用水路、谷川がずーっと流れていますがそれを使って水田を開きます。全部で7 haくらい。そして今日のように天気の良い日には弟子たちと一緒に稲刈をしたり畑を耕したり、そして夜になると兵法を談じ、そしてある時はお互いに武術を練るという生活をしておったわけです。そして89歳で亡くなりました。そのお墓が今も残っておりまして、丸目家は今12代。丸目千之助さんという方がその跡を継いでおられまして、愛用の刀も、薮を切り払ったナタとかも今に伝えられております。それから丸目家には棒術用の棒も残っております。だから棒も教えたはずと思います。だけども棒術は向こうは伝わっておりません。そういうご縁で当地と今日ここで結ばれたということは非常に嬉しいことだし、有り難いことだし、丸目蔵人先生もきっと喜んでくださることだと思います。

 丸目蔵人の肖像なども丸目家には伝わっております。一方タイ捨流の流儀を伝えていらっしゃるのは、今日みなさん方にご覧いただきます、山北先生です。タイ捨流の師範です。それからその打太刀をされる人は木野幸雄師範代、師範と師範代のお二人で今日は演武をしてくださるはずです。

 タイ捨流の特長を一つ二つ申し上げます。他流にない右半開に始まり、左半開で終わる。これが他の流派にはない。みんな正眼でやるでしょ。それからもう一つは全部斜め切りであります。斜めで切り上げ切り下げる。この斜め切りというのが特長であります。それから試合を始める前に摩利支天神呪経を唱えられます。口でずーっとお経を上げてそれから始められます。そんなことが他流にない剣法の特徴であると思います。日本の古い剣法その他を研究されている加来耕三先生は、このタイ捨流について新聞や雑誌にもずっとお書きになられましたが、それによりますと、「実に凄まじいそして美しい剣法である」と言っておられます。この後、ご覧いただいたらタイ捨流はすばらしい剣法だということが分っていただけると思います。

 あれこれ雑多なことを申しましたがだいたい時間が来たようです。これで終わります。ご静聴有難うございました。



続く