霧立越について
霧立越は、九州脊梁山地の向坂山( 1684m)、白岩山(1620m)、扇山(1661m)を陵線伝いにたどる尾根の道です。その昔、山地に暮らす人々は尾根の近くに住んでいましたので、尾根伝いの道が発達しました。尾根の道が最短距離であり、歩き易く、道の手入れも容易であることが想像できます。
急峻な地形の山地では、尾根付近が緩斜地で住居の建設に適しています。住居の周辺も緩斜面であることは、焼き畑や家畜の飼料のための草地、茅葺き屋根の材料となる茅場つくりが便利です。
尾根は、標高が高いので雪が降ります。自給自足の生活では、雪が降って、しかも根雪にならない地帯が一番自然の恩恵を受けることができます。雪は落葉広葉樹林をつくり、栗などの木の実が豊富に実り、ウドなどの山菜が育ち、獣が増えます。狩りをするには雪の上に残る獣の足跡が狩りの効率を高めます。水は谷川の水源地帯ですから、尾根近くの窪地には湧水があります。
また、尾根の住まいは、侵入者や外敵に対して常に高い位置から対応できますので、侵入者や外敵に対して優位な立場で臨むことができます。「隣半道、そこ1里」という言葉があります。半道は2 kmで1里は4kmです。これは、まさに「隣」は次の尾根を指し、「そこ」は次の次の尾根を指すというスケールの大きさが伺えます。このようにして尾根の広大な山地に山の民は暮らしていたといわれています。
近年、車社会の出現によって谷底近くを車道が開削され、多くの人々は住居を車道近くに移転したという経緯があります。霧立山地の深い森にひっそりと残る杣道は、熊本から椎葉を結ぶ塩の道で、古来より歴史に残る多くの人々が通ったロマンの街道でもあります。
霧立越の駄賃つけ
馬の背で荷物を運ぶことを駄賃つけと呼び、昭和初期まで椎葉村から熊本県馬見原まで馬の背で生活物資を運んでいました。椎葉からは、木炭、カジ皮(和紙の原料)、ノリ樽(ノリウツギの皮)、シイタケやコウムキナバ(ムキタケ)などのキノコ類、カワノリ、毛皮、轆轤製品などを運び出し、馬見原からは酒、醤油、味噌、塩、砂糖、衣類など生活物資を運び込みました。
駄賃つけは、通常1人で 2〜3頭の馬を引き連れて数人のグループで行動しました。先頭の馬の鞍に次の馬をつなぎ、さらにその馬の鞍に次の馬をつないで1列に歩きます。1人での単独行動は、長く険しい道のりのためトラブルに対処できないこともあり、数人がグループになって移動したといわれます。ですから15頭〜20頭もの馬の集団で移動していました。駄賃つけの朝は早く3〜4時頃に家を出発して峠に上って夜明けを迎えたといわれます。
椎葉からは、馬見原口の他に南郷村神門に通じる神門口、球磨郡水上村に通じる球磨口、西米良村村所を経て西都市に通じる米良口の 4ルートがあり、いずれもが20〜30kmもの峠越で、峻険で厳しい駄賃つけの道でした。
昭和初期の駄賃つけ馬の価格は、1頭 70円から100円。駄賃は、木炭4表で1円20銭、もどり荷の焼酎かめは1斗5升入り1本が1円で、焼酎かめ1本の値段は15円でした。駄賃つけは、昭和8年、日向から椎葉へ通じるいわゆる百万円道路(今の国道327号)が開通するまで続けられました。この駄賃つけの労働歌が現在でも椎葉村で唄い継がれています。
霧立越のタヌキ伝説
「霧立越には人を化かすタヌキが出る」と恐れられていました。タヌキが悪さをして牛馬を谷底に突き落としたり、駄賃つけが魚を馬に積んでくると馬を化かして荷物をくすねたり、時々酒樽や焼酎かめの中身を抜いたり、薄くしたりして悪さをしました。駄賃つけさんが馬見原から酒樽を馬の背に積んで一日がかりで霧立越の難所を越して椎葉に到着した時、酒樽の中身が減っていたり、酒のアルコールが薄くなったりしたといわれます。
白岩山頂から 20分ほどカシバル峠よりのところに「かめ割り」と呼ばれる場所があります。ここでは時折馬が暴れだし、馬の背に積んだ焼酎かめが近くの岩角に当たって割れたりしたことから「かめ割り」という地名がついたそうです。
那須大八郎宗久の霧立越通過説
文治元年 (1185)3月24日、壇ノ浦の合戦に敗れた平家の残党は、源氏の追討をのがれて九州山地へと逃避行を続け、鞍岡にたどりつきました。更に、鞍岡からは峻険な山道の霧立越を越えて椎葉山中に分け入り隠れ住みました。
鎌倉幕府は、全国に散った平家一門の追討の手を弛めず、元久元年 (1204)3月平賀朝雅は、伊賀、伊勢の平家残党を平定(3日平氏の乱)し、翌、元久2年、鎌倉幕府は九州山地に逃れた平家一族追討を那須大八郎宗久に命じました。
命を受けた那須大八郎宗久の一行は、椎葉山へ向かう途中、鞍岡の里に入りました。鞍岡では平家落人の戦意のないことを悟り、長旅の慰安をかねて呉越同舟の踊りを催し、勝者のおごりを捨て敗者への哀れみをなしたといわれています。その踊りが鞍岡に伝承されている臼太鼓踊りに起源といわれます。
更に、那須大八郎宗久は鞍岡から椎葉へ向かうに際して、霧立越が難所のため鞍岡に馬の鞍を置いて霧立越を越しました。その時、置いた馬の鞍が今でも鞍岡に大切に保存されています。鞍岡の地名のおこりは馬の鞍を置いた村、鞍置村が訛ったものと伝えられています。
タイシャ流伝承の道
五ヶ瀬町の鞍岡に「心影タイシャ無双流」という古武術が伝承されています。真剣と三尺六尺棒による立ち会いで、火花を散らすようなすさまじい打ち合いの武術です。毎年7月 15日鞍岡祗園神社の夏祭りに「白刃」と呼ばれてその演武が奉納されます。
この武術の秘伝書「心影タイシャ無双流極秘師範免許書」数巻が鞍岡に保存されています。同様の秘伝書が椎葉村にも数巻あり、いずれもが神棚に祀られたり神社の御神体として祀られたりして、門外不出として誰にも見せてはならないものといわれています。これを見た者は目玉がつぶれるとか罰があたるなどと言伝えられています。
その秘伝書には、巻末に伝受者が記録されていますが、最初に伝受を受けたのは正保2年 (1645)鞍岡の山村四兵衛に始まっており、椎葉、馬見原を転々として江戸時代末期まで続いております。
タイシャ流は、心影流の開祖、上泉伊勢守信綱の門下丸目蔵人佐 (1540〜1629)が天正13年に開眼したといわれ、豊臣秀吉から徳川時代にかけて東の柳生流、西のタイシャ流と呼ばれ、剣豪日本一を競った流派です。丸目蔵人佐は相良藩出身で晩年は球磨郡錦町に隠居したことから、タイシャ流が人吉、椎葉、鞍岡へと霧立越によって伝承されたことがわかりました。
かっては、球磨や椎葉、馬見原でもその演武の型が伝承されていたといわれますが、今では鞍岡だけに残っています。
タイシャ流の武芸者が秘伝書の巻物を懐に、あたりの気配を伺いながら霧立越をかっ歩していました。
西郷隆盛率いる薩軍が行軍した
〇西南戦役・西郷隆盛敗走路の「霧立越」
明治10年3月、田原坂の戦いで敗れた薩軍は、4月21日通潤橋のある矢部町へ集結しました。ここで西郷、桐野、村田等諸将会議し「一先ず人吉に退き、日向、大隈、薩摩の兵を募り、機を見て再び進撃に移る」との決定をなし、隊の再編成を行ないました。
部隊再編成を終わった薩軍は、23日男成神社で戦死者の招魂祭と新隊編成の親睦の宴を行ない、翌2
4日男成村を発し、馬見原に至り一泊しました。翌25日午前8時、風雨をついて各隊馬見原を出発し、霧立越を越えて椎葉に入り、球磨越えを経て人吉に向かいました。「硝煙弾雨」や「戦袍日記」によると霧立越行軍の艱難辛苦の模様が以下のように記されています。
佐々友房は、
『「初全軍ノ馬見原ヲ發スルヤ事倉卒に出ツ。各草鞋二〜三両ヲ齎ラスノミ。而モ山路険悪。加之大雨ヲ以テス。草鞋悉ク断絶シ。衆徒跣シテ走ル。偶壌鞋ヲ路頭ニ見レハ。争テ相撰ムニ至ル。余僅ニ一両ヲ餘ス。曰ク戦死ノ日ニ非サレバ此ヲ用ヒスト。是日椎葉ニ小憩ス。部下卒某ナル者堅鞋一両ヲ余ニ興フ。松崎迪、松野直鎭、傍ニ在リ。羨テ止マス。余謂フ獨私ス可ラズト。松野ニ興フ。松野信セス。以テ戯トス。之ヲ強ユ。乃拝伏再四喜色満顔ニ溢ル。曰ク万戸侯ニ勝ルト。此事小ナリト雖モ以テ當見スルニ足ラン。」
「北村隊曰ク、那須越八里ノ間積雪数尺、絶テ人家ナシ。蓋シ胡麻山越ノ企及スル所ニ非スト云フ。北村隊弾薬掛山路唯顯雪中ニ仆レ、 3日起ツ能ハズ。薩人之ヲ発見シ、舁テ本隊ニ送致ス。足指悉ク腐燗ス、降服ノ後、延岡病院ニ於テ其十指ヲ裁断シ去リ、復元指ナシ。」』
宇野東風編「硝煙弾雨丁丑感舊録」には
『(4月)25日、暁来風雨益々甚し、午前八時、各隊馬見原を発して人吉へ向ふ。――――抑も椎葉奈須のニ道たるや、蛾々たる峻山を越え、崎嶇たる絶壑を經、亂雲道を埋め、欝樹空を蔽いて昼猶ほ暗く、山又山を超えて、峻坂を攀つるに、樹根岩角、路頭に露出し、羊腸を渉り馬鬣に跨る思いあり。偶ら蹊谷を下瞰すれば、懸崖数百仭、遙かに奔澗の響きを聞くのみ。或は深谷釣橋を渡るもの三回、若し過ちて一歩を失せば、数百仭の渓澗に陥らむとす。人をして戦慄、皮膚粟を生し、毛髪を堅たしむるものありき。加之、連日風雨、道路泥濘、深さ脛を没し、且つ高山にて残雪を見、衣褌全く濡ひ、又寒気に冒され、頗る艱難を極む。山谷の間偶々茅屋あれども、固より大軍を収容するに能はず。露臥星宿するもの少なからず。終夜火を焚きて暖を取り、豫め備えし餅或は焼米等を噛み、以って餓を醫するを得たり。』
椎葉村史には、
『4月23日午後頃に熊本隊は男成村を出発し、夕刻馬見原に到着しそこで民家に一泊した。翌24日、雨風の激しい中馬見原を立ち、午後に国見山に到着した。そこは、雲で人の顔も見えなくなるほどで、老樹が頭上を覆って、寂寥感のあるところだった。また、悪路のため荷物や弾薬を運搬していた牛馬が何頭も谷底へ落ちていったという。雨が激しく降り続く中、一行は泥道を膝までつかりながら歩き、夕刻には胡麻山の民家に到着した。しかし、そこは通過し、芋ノ八重に宿泊することになる。芋ノ八重には、三軒の家があった。
「当地ハ人家両三家、人淳厚清幽実に仙家ノ如ク、言語屋舎等閑雅高尚ナラザルナシ、宿翁予等ニ対シテ事々ヲ談ズルニ其ノ體総テ古代ノ人ノ如シ。」
この表現にあるように、芋ノ八重の老人は純朴で、その様子は古代人の人のようであったという。このとき、一行は空き家を見つけて泊まり、用意してきた餅を噛んですごした。4月25日に芋ノ八重を出発し、内の八重を通過していく。そして鹿野遊・處ノ八重を経て椎葉山に到着するが、その過程に関する描写がある。
「山路猶前日ノ如ク白雲自ラ足下ニ生ジ、飛雁幾度カ袴下ヲクグリ、高嶺灑水実ニ身ハ遊仙トナッテ送迎ノ雲ニ乗ルカト思エバ、忽チ幾千丈ノ谷ニ至リ、緑樹陰々数里日光ヲ見ズ、藤痩セテ縄ノ如ク苔肥テ絮ノ如シ、足音響キテ自ラ閻魔ノ声ヲ聞クガ如シ。」
非常に険しい山道を歩いていたことや、一行が追われているという不安感を抱いていたことがよくわかる一文であろう。また、このとき各人の草鞋が擦り切れてしまい裸足で歩かなければならなかった様子も描かれている。處ノ八重で昼食をとり、上椎葉に到着すると、休憩となった。上椎葉には、人家が十余戸あった。(佐々友房によれば、上椎葉で昼食をとったという。)上椎葉を出発して、桑弓野を通過し夕刻に小崎へ到着した。そして民家に宿泊することになったが、その家の三人が「焼酒」(焼酎)と鹿肉を振舞ってくれ、「大牢(りっぱな料理)ニ勝ルコト萬々」と喜びを表している。
4月26日、小崎を出発して古屋敷へ向かった。風雨ともに激しい中の行軍であり、蓑や笠は破壊され、苦労して歩かなければならなかった。しかも、胡麻山に匹敵するような険しい山道であり、一行は「尺退寸進」の状態であった。そして古屋敷を数里進んだところで「那須越え」を進んだ北村隊と出会った。そのとき、北村隊は次のように行程を説明している。「那須越八里ノ間、積雪数尺。絶テ人家ナシ蓋シ胡麻山越企及スル所ニ非スト云フ。」この積雪のため、足の指全てがひどい凍傷にかかった兵士もいたという。午後江代に到着した。西郷軍の人吉本営は、江代に出張本営を置いて兵士を集め、人吉に兵士が入ることを禁じたが、古閑は、道に迷ってしまい隊士十名を伴って湯ノ前に宿泊し、翌27日には人吉に到着していた。』
五ケ瀬町史には、
『「明くれば4月22日、西郷は村田、池上と共に兵二千人に護られて矢部を出発、日肥の国境黒峰を越えて日向に入り、鞍岡村に入った。始めて日向に入った西郷は、鞍岡の金光寺に一泊して出発、本屋敷から道は二つに分かれており、右すれば霧立越、左すれば胡麻山越であるが、西郷は、左して椎葉村に入り仲塔に宿営したという。何しろ大軍ではないけれど二千という西郷の本隊が、総人口全部で千六百十人位の草深い鞍岡村に宿泊したのであるから、恐らく民宿出来たのはわずかのの隊員で、大方は野宿であったろうと思われる。
その翌日は桐野利秋が残兵を率いて本道を通り、馬見原から鞍岡に入り、同じく金光寺に一泊して西郷の後を追い、椎葉から球磨郡の江代に至りここに駐屯した。桐野は金光寺に宿泊した時、寺の行燈に墨黒々落書樹して、中村半次郎と署名したが、寺では中村半次郎が桐野利秋の別名であることに気付かず、この落書はいつの間にかなくなつたという。当日連日連夜の風雨で九州脊梁山嶺の、日肥の嶮をよじての難行軍は言語に絶するものがあり、本隊が人吉に着いたのは矢部郷の浜町出発後実に一週間後の四月二十七日であった。」
「また、その時人夫に狩り出された三ヶ所の百姓貝長捨太郎の日記として「鎮台に陣を破られ候に付き、引陣にて御船に陣を構え、その時も又陣を破られ、大層な手負、討死人有是候に付、矢部町江陣構之候。其の時手負
1000人よう、馬見原、荻原までギッシリと送り来り候。其の時の夫肥後、鞍岡、三ヶ所、桑野内男別にて毎日馬見原より三田井迄、昼夜無しに相送り申し候。このところ百竿より三月朔日(三月一日は新暦四月十四日)の頃より、十日余り送り申し候らいけれども、すぐさま矢部より馬見原通り、鞍岡から那須(椎葉地方を昔は那須といった)胡麻山通り立ち帰り申し候。(西川註実際は八千人位であった)」』
一方、平成元年度宮崎県地方史研究紀要第十六輯の「倉岡郷と丁丑之乱」(西南戦役) 井上重光氏編(宮崎市文化財審議会委員)によると
『「矢部郷で部隊再編成を終わった薩軍は、二十二日行動を起こし、西郷は村田新八や池上四郎などとともに兵二千を従え、鞍岡村に向かって出発した。そして、二十三日鞍岡の金光寺に一泊した。矢部郷から鞍岡に行くには、馬見原街道(本道)を通れば一日行程であるが、西郷は間道を通り沢津(清和村)に一泊。黒峰山(
1283)を越え、翌二十三日鞍岡に着いたのである。
矢部郷から鞍岡を経て椎葉に入るのは、三つのルートがあった。その一つは、鞍岡の本屋敷から胡麻山峠を越えて、下椎葉から上椎葉へ至る道。これが本道であった。本道と言っても、それは人がようやくすれ違いの出来る程度の道である。第二のルートは本屋敷で胡麻山越えと別れ、波帰集落へ向かい、向坂山(1684)と白岩山(1646)の間の峠を越え、上椎葉の上流約五粁の横野集落に至る道である。霧立越と称する道であるが「薩摩血涙史」には、奈須越えとある。
第三のルートは、矢部郷から直接九州の尾根三方山(
1578)や高岳(1563)を越え、有名な雷坂(1513)を通り上椎葉の上流約十粁の尾前集落に至る道である。距離的には一番近いが一番の難道であった。干城一番中隊一番小隊に属した郷士山口辰巳は、その日記に次のように記している。『四月二十五日雨、夜前(昨夜のこと)十二時矢部を出立、午后十時尾前着、道程十一里(約四十四里)』十一里の道を所要二十二時間にして椎葉の尾前集落に着いているのである。なんと一里(約四キロ)の所要時間二時間である。険阻のほどがしのばれる。さて、それでは西郷はどの道を通って椎葉に入ったのであろうか・・・。
「薩摩血涙史」には、鞍岡から椎葉に出るには、胡摩山越えと奈須越えのあることが記載されているが、西郷がどの道を選んだか全く記されていない。熊本一番隊を率いる佐々友房は、「戦袍日記」に、
『二五日暁来風雨益々列シ前八時各隊馬見原ヲ発ス。行ク里許、芋ノハエ、及舊屋敷諸村ヲ経テ胡摩山ニ登ル山又山、土坂峻絶、恰モ壁ニ攀ルガ如ク一歩ハ一歩ヨリ高ク所謂後人前人ヲ戴テ登ルガ如シ径廣サ尺餘ニ過キス樹根巌尖路頭ニ突出シ羊腸ヲ渉リ馬鬣ニ跨ルノ思アリ俯瞰スレバ懸崖数千仭、老樹森鬱、唯遥ニ飛瀑ノ響ヲ聞クノミ人々心悸レ骨慄ス歩々意ヲ用ヰザレバ忽チ陥テ絶谷ノ鬼トナラントス現ニ大小荷駄弾薬ヲ運搬セル牛馬ノ陥死スル幾頭ナルヲ知ラス其危険知ル可キナリ加之雨益々密ニ風益々烈シ満山濛々咫尺辧セズ云々』
と書き記している。このことから佐々友房は、二十五日馬見原を発ち、胡摩山峠を越えたことは明白である。しかし、西郷の動向については何も触れていない。思うに、西郷はおおむね間道を選んでいる。さきの馬見原街道でも然りであった。とすれば、本道の胡摩山越えではなく樵夫道霧立越(奈須越)を選んだことに、ほぼ間違いない。この向坂山の峠からは、椎葉の山々を一望に見渡すことができる。また、ここは五ケ瀬川の源流となっている。」』
と記してあります。ここで困りました。
町史では、西郷隆盛は胡摩山通過説をとっているが、宮崎県地方史研究紀要第十六輯の「倉岡郷と丁丑之乱」では、霧立越となっている。西郷を護って胡摩山越えをしたとされる佐々友房が
「是日椎葉ニ小憩ス。部下卒某ナル者堅鞋一両ヲ余ニ興フ。松崎迪、松野直鎭、傍ニ在リ。羨テ止マス。余謂フ獨私ス可ラズト。松野ニ興フ。松野信セス。以テ戯トス。之ヲ強ユ。乃拝伏再四喜色満顔ニ溢ル。曰ク万戸侯ニ勝ルト。此事小ナリト雖モ以テ當見スルニ足ラン。」
と書いている様子からすると、隊長の佐々友房の傍には西郷がいたとは思えない気もして「倉岡郷と丁丑之乱」の方が説得力があるように思えますが、あとは皆さんにそれぞれ判断して戴きたいと思います。
波帰村では、薩軍が波帰を通って霧立越を行くという情報に婦人や子供たちを村外れの岩穴などに隠して薩軍を迎えたといわれています。波帰から幾人もの村人が荷物を送る夫方に呼び出されて霧立越を越えたそうですが、秋山文太という人は着物を取り替えさせられて明け荷を担いで人吉までお供をしたと故秋山君義氏から伺ったことがあります。もしかしたら、桐野利秋に似ていて影武者として連れて行かれたのかも知れません。また、長岡人見氏宅には変わった西郷札が保存されています。故永岡大四烽ニいう人が持ち帰ったということです。