宮崎のアイデンティティ
ーみやざきの物産を育てるためにー
神話のふるさと考
(社)宮崎県物産振興センター
理事 秋本 治

天照大神

 五ケ瀬町鞍岡の神楽は、鞍岡の祇園神社に伝承されてきた神楽であるが、もともと古来から鞍岡各地の集落のお祭りに舞われていた鞍岡特有の神楽である。最も盛んに神楽祭りが行われた処は大石の内地区の「おてんとさん」であった。
「おてんとさん」とは天照大神(あまてらすおおみかみ)をお祀りした天津神社のことで、「おてんとさん」のお祭りのことを「おひまち」とも言う。お社にお籠りして朝日を迎える神事で、日を待つから「おひまち」ある。
 
「おひまち」は、昔は旧暦の10月14日に行われていた。旧暦10月14日は、太陽暦の11月下旬に当たり、1年中で最も月が冴えて美しい季節だ。14日は満月の前夜になる。月明かりの中で夜を徹して神楽33番が舞い通され、しだいに夜明けが近づくにつれ天岩戸(あまのいわと)の舞となり、神庭に造った天岩戸から手力命(たじからのみこと)が天照大神をお供して朝日の昇る時に合わせて神庭にあらわれる。

 この時の天照大神は、稚児が舞うことになっている。稚児が天照大神のお面を付けて天冠を被り、赤い頭巾に白装束のいでたちで両手に鏡を持って天岩戸からあらわれる。この神楽が鞍岡神楽の大きな特長の一つでもある。

 冬至が近づくとしだいに太陽が低くなる。古代の人々は、夏、万物を育てた太陽は、しだいにそのエネルギーを失っていくものとして太陽の蘇りを願って、冬至が近づくと神楽をはじめたのであろうといわれる。したがって天照大神がお年寄りでは具合が悪い訳だ。限りなくエネルギーに満ちた未来のある小さな子供でなくてはならない。

阿波岐が原
 伊勢神宮の20年式年遷宮に鞍岡の神楽を奉納しようという話がでてきた。伊勢神宮のご祭神は天照大神であることからの発想だ。そこで神楽保存会は、太鼓や注連縄、ささ竹、榊、舞道具一式をマイクロバスに積み込んで伊勢神宮へ出かけた。神宮では能楽殿で岩戸開きの一連の舞を奏上し、神宮から大変お誉めの言葉を頂いた。

 この時、伊勢神宮に正式参拝した。ピーンと緊張した空気の御殿に宮司の朗々とした祝詞奏上の声が響いた。「かけまくも畏き、伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐が原で禊ぎ祓い給う時に成りませる祓え戸の大神たち、諸々の罪穢れをば祓い給え、清め給えと申すことを聞こし召せと畏み畏み申まおうすー」。

 皇祖神として、日本の神社の中心となる伊勢神宮で「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐が原で禊ぎ祓い給う時に成りませる祓え戸の大神たち・・・」と祝詞奏上されることに感慨ひとしおであった。

 その後、神楽保存会は日本神話のもう一方の因幡の白兎系統の神話で知られる島根県の出雲大社に出かけた。出雲大社の御祭神は天つ神に国を譲ったとされる国引きの神「大国主命」(おおくにぬしのみこと)である。この出雲大社の正式参拝でも祝詞は「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐が原で禊ぎ払い給う・・・」と奉上されるのである。

 伊勢神宮でも、出雲大社でも「・・・阿波岐原で禊ぎ払い給う・・・」と奉上されている。伊勢神宮は、全国に摂社、末社と多数の神社がある。こうした全国の神社で「・・・阿波岐が原で禊ぎ祓い給う・・・」と奉上されているのである。

 日向の橘の小戸の阿波岐が原とは、今、シーガイア付近から宮崎港にかけての場所である。1999年、宮崎県はグリーン博の大イベントをおこなう。その会場がこの阿波岐が原である。今、松林の阿波岐が原は、古代において神話に因む何かがあったところに違いない。

お清めの塩
 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)は、西洋のアダムとイブのような、はじめての男神と女神である。この二神は、天之御柱を周りながら、国土をはじめ水神や穀物の神など諸々の神を産んだ。そうして火の神を産んだ時、神通力がなくなり伊邪那美の命は黄泉の国に行く。伊邪那岐命は伊邪那美命の制止もきかず後を追って黄泉の国に行ったところ、変わり果てた伊邪那美の姿に驚き、妖怪のような世界に足を踏み入れたことに恐れをなして黄泉の国から逃げ帰ってきた。そして、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐が原で禊ぎ祓いをした。

 伊邪那岐命は、死の国の穢れを祓うための禊ぎで左の眼を洗われた時「天照大神」がお生まれになった。同様にして右の御眼からは月読神、鼻からは、須佐之男命がお生まれになった。こうしてお生まれになった天照大神と月読神は、伊勢神宮の内宮と外宮の御祭神である。

 葬儀参列の時、香典返しにお清めの塩が付いている。このお清めの塩は、祝詞奉上にあるところの「阿波岐が原で禊ぎ祓い給う」に因んでいるといわれる。阿波岐が原はお清めの塩の発祥の地である。

神話発祥のロマン
 神話には、いろいろな見方があるが、日本神話発祥の基本は、縄文人すなわち原住民がいる国に弥生人が渡来してきて、大和国家を造ったことを神格化して語り伝えた物語である。渡来人が船で渡ってきたことを天から降りてきたと表現した。国つ神は縄文人で天つ神は弥生人とみると神話は理解し易い。

 神楽に登場してくる天つ神は、弥生人的イメージをもっており、国つ神は縄文人的イメージを伝えている。手力命や猿田彦、山の神、荒神様などの国つ神のお面は下顎ががっしりとして角張っており、まさに狩猟採集民族の縄文人のお面である。天照大神は、瓜実顔のほつそりとした農耕民族の女王のお面である。

 原住民族である縄文人を征服した渡来人、すなわち弥生人は、高千穂へ天下った後、美々津へ出て、美々津からお船出され、東征して大和国家を築かれた。その神が天照大神の直系である神倭伊波礼毘古神(かむやまといわれひこのかみー後に神武天皇)である。神倭伊波礼毘古神の兄に「五ツ瀬の神」がある。これは五ケ瀬川の語源ではないかと考えれば面白い。

 こうした神話は、宮崎に縄文と弥生の接点となる何かがあったことを物語っているのではないか。日本民族発祥となる何かが・・・。熊襲伝説も縄文人に違いない。県北の高千穂峽の高千穂と県南の霧島の高千穂の峰の高千穂とやや複雑ではあるが、お船出の美々津では今でも地元の漁師さんたちは神武天皇のお船出を信じて、お船出された方向には決して船を出さないという。そして、西都原古墳群は何を物語っているのか・・・。

 神話では、皇族の発祥を日向の橘の小戸の阿波岐が原と読ませている。このような古代のロマンを宮崎は秘めているのである。

神楽は地域の遺伝子
 神楽はお祭りになくてはならないものであった。お祭りに1日で歩いて集まれる範囲が最初の集落の原点だ。そのお祭りのメインイベントが神楽である。交通の便がよくなった近代では、市町村合併で集落の単位が広範囲になったので同じ町村の中にそれぞれ違う神楽が存在する。

 このようにして宮崎には、ほとんどの市町村に神楽がある。神楽は宮崎の文化であり、神楽は地域の遺伝子であり、宮崎の神話を伝えている。「神話のふるさと」「神話の国・宮崎」はまさに宮崎のアイデンティティではないかと思う。 「シーガイアと神話のロマン」。阿波岐が原一帯に神話の国の朝市が立ち、夜は県内各地の神楽が上演されて日本神話の精神世界を体験し、神話を民俗学的に学習できる。「宮崎に足を踏み入れたら必ず立ち寄らなければ宮崎に来た意味がないよ」というような、そういった宮崎の顔の「物産センター」ができたらと思う。

 今、宮崎では「Mの国・みやざき」とか「ビタミンリゾート・みやざき」などのキャッチコピーで売り出されている。国際化の中で「Mの国」が理解されるはずがなく、また「ビタミンリゾート」も宮崎だけを表していることにはならないのではないかと思う。

 これまで宮崎をイメージしてきた「太陽と緑の国・宮崎」も国際化の中で色褪せてしまった。このあたりで原点にかえって、本来の宮崎を考えてみることが必要ではないかと思う。
 宮崎の物産や観光にどのようなイメージをのせて売るか。どのようなイメージが物産や観光を育てるのか。広く議論の場をつくって頂きたいものと思う。