―生態系の危機―
鹿の異変
2003年5月
秋本 治
消えた葉ワサビ
九州山地の内、熊本県の緑川源流域から南側の宮崎県五ヶ瀬川と耳川の源流域にあたる霧立山地は天然ワサビの宝庫でありました。それがここ数年で消えてしまっているのです。
かつては、この山域のどの谷川を遡っても天然ワサビの群落があったものです。湧き出る清水が落ち葉の中をもぐっては消え、消えては噴き出しながらちょろちょろと流れる水源付近には、5月から6月にかけてみずみずしい広い葉のワサビが茂っており、茎の根元から伸びた蔓には白い花を一面に咲かせていました。若くて太い葉の茎の根元をつかんで引っ張るとポキッと音がして抜き取れ、茎の断面からは数条の繊維が抜けてだらりとくっついてくるのです。地元ではこれを葉ワサビと呼んで珍重していました。
採取して持ち帰った葉ワサビは熱湯をかけ、まな板の上でゴリゴリと揉み、醤油を振りかけてタッパーなどの密閉できる容器に入れます。そうして翌日取り出して食べると、もう、ツーンと辛味が鼻を突き、ぱりぱりとした歯ざわりとにじみ出る旨味は言葉では尽せない春の味わいがしました。「ああ、今年もワサビの季節がきたなあ」と山地の住民誰もが感動する至福の時間でありました。こう書いていているだけでも口の中によだれが噴き出します。
この葉ワサビはまさに春を感じさせる森の恵みの王さまです。栽培のワサビ葉は同じやり方で作っても、当初は苦味が強く時間の経過とともに旨味より辛味が強過ぎるようになって葉ワサビにはかなわないのです。
昭和30年代の始め頃までは、国有林といえども山地の民にとっては生活の場でありました。村人は、誰もがカルイを背負って国有林の水源付近をめざして上り、葉ワサビを背負いきれないほど採集していたものです。昭和30年代の後半から森林開発が再び奥山に始まり、国有林内は払い下げを受けなければ無断での葉ワサビ採集は禁じられました。
そうして森林開発に伴って林道が奥地に伸びると、いつのまにか林道近くの谷川では葉ワサビがしだいに消えていきました。自然環境の変化というより誰でも入れるようになって無断採集が増えたことが原因のようです。
山地の住民は、葉ワサビ採集には決して根を取りませんでした。根は栽培ワサビのように太くはならないのです。根がおいしいという意識すらなかったようです。しかし、他所から入りこむ人々は根まで採集するのです。都市の人がオタカラコウを葉ワサビと形状が似ているため、間違って食べたという話もよく聞いたものです。村人は、奥山の葉ワサビのありかを秘密にするようになりました。
―――それが、ここ数年できれいに消えてしまったのです。もちろん人工林地では杉や桧の成長に伴い消えてしまいましたが、生息環境が適して葉ワサビが群落を形成していた天然林の中でもその葉ワサビは陰も形もなくなった。鹿が食べ尽くしたのです。近年の鹿は、葉わさびの芽が出たら食べ、出たら食べするのでいつ見ても茎の根元からきれいに食いちぎられた食痕と鹿の痕跡がありました。そして、とうとう葉ワサビは芽を出さなくなってしまいました。
昔の鹿は葉ワサビは全く食べなかったのに・・・です。「昔は」といっても昭和30年代の筆者が中学時代のお話ですが。本来の鹿は、スズタケの若芽や笹の葉っぱを主食としていました。山に連れて行かれるとスズタケの葉が食いちぎられている食痕を良く見たものです。昔は、カモシカもかなりの頭数が生息していたようで、その食痕を見てきちんと食いちぎられているのはカモシカであり、数条残っている食痕は日本鹿ということを教わっていました。
それがどういうわけか、野生鹿が食べた笹の葉の食痕を見ることがなくなりました。鹿は笹の葉を食べなくなってしまったのです。
山菜や貴重種が絶滅
近年の鹿の食習慣の変化は葉ワサビだけではありません。タラの芽さえも絶滅に追いこんでいるのです。鹿があの鋭い刺のあるタラの木の幹をきれいに皮を剥がして食べている。かつては山野のどこにでもあったタラの芽がなくなりました。もう奥地では絶滅に近い。今年もあの大きな一握りもあるようなタラの芽はとうとう口に入りませんでした。昔のあの大きなタラの芽が懐かしい。
タラの木は、丈が3メートルにも伸びるので若芽を手で摘むのは難しい。そこで、ほどよく伸びた若芽のある幹を棍棒でポカリと叩くのです。すると勢い良く育っている若芽のやわらかい茎は、その衝撃に耐えられずポキンと折れて足元に落下する。これが一番の食べごろなんです。既に大きく育って茎が固まったものは、叩いても落下しないのでそのまま残して繁殖に備え、まだ若くて小さいものは、叩けば落ちるまで残して育てます。棍棒を背中に隠して近づき、いきなりぽかっと幹を叩けば良く落ちるというオチもあったほどです。
タラの芽以外にも鹿はいろんな木の皮を食べるようになりました。植林した杉桧類も鹿の食害で林業者を困らせている。ノリウツギやツリバナ、リョウブなども片っ端から皮を剥いで食べて枯らしています。リョウブだけは、皮を全部剥いでも再生するので問題ありませんが、その他の木は次から次へと枯らしています。
草本類もオタカラコウ、フキ、カラマツソウ、ツクシクサボタン、キレンゲショウマなど何でも食べるようになりました。キレンゲショウマはかつては谷を埋め尽すほどの群落を形成していたものです。お盆が近づくと咲き始めるので、村では盆バナとして先祖の墓にも手向けていました。それほど大きな群落を形成していたキレンゲショウマが絶滅寸前にあります。もう、霧立山地では数えるほどの株しか確認できなくなりました。
キレンゲショウマとは、ソハヤキ要素を持つ代表種です。ソハヤキとは中央構造線と仏像構造線に囲まれた古生層の秩父累帯の山岳地帯にのみ育つ植物で霧立山地、祖母傾山地、四国山地、紀伊半島の一部にまたがる部分で、九州山地を熊襲の「襲」と表現し、四国山中を速水の瀬戸の「早」、紀伊半島の山中を「紀」としてソハヤキと呼ぶのです。和名が学名と同じという珍しい植物です。
キレンゲショウマについては、1996年の霧立越シンポジウムで当時熊本大学教授の今江正知先生をお招きして霧立山地の植物について講演頂きましたが、講演録にキレンゲショウマのお話しがあるのでその部分を掲載します。
----------------------------------------------------------------------
講演録から
―――「BOTANY」というプリント、NO43と書いてありますが、この記録に載っているのが面白い。これは大正4年8月の記録です。大正4年と申しますと1915年ですから今から81年前で、その頃の踏査記録です。これは徳永眞次という当時熊本の済々黌という中学校の先生をしておられた方が書いておいた日記が、熊本県の図書館の資料になっているのを掘出して収録したものです。この踏査をしたメンバーは牧野富太郎先生を東京から呼んで先生の指導のもとに五家荘から洞ケ嶽まで行っています。この範囲全体を本格的な調査をしようということで計画されたものです。ただ、牧野先生は都合がつかなくなって来られませんでした。牧野富太郎先生の九州支店長みたいな形で九州を管轄しておられた田代善太郎という、後に京都大学の先生になられました先生を中心にして、九州の植物研究のトップクラスの先生たちが全部揃った形で調査をしたものです。これは画期的な調査です。調査は、熊本に集りまして五家荘から入り、那須越を通って尾手納から尾前に出て更に霧立越を通って鞍岡に下りています。そのところを少し読んでみます。
「谷間より迸り出る清水を掬して、しばし立ち止まったとき、田代氏は流れ行く谷間を眺めしきりに拍手して興がっている。見渡せばキレンゲショウマが一面に花をつけて咲いている。」
多分これはカラ谷のことではないかと思います。今は伐採してだめになっておりますが、元は一面にキレンゲショウマがありました。
「これは、分布上もっとも珍種であって、牧野氏はこれが産地を発表しないと云う。」
この時代は盗掘なんていうのはあんまりないわけですが、それでも牧野先生がこれは珍しいから人に教えないというほど大事にされたわけです。それがもう谷いっぱいにあったというのですね。
「この山にして、これほどたくさんあろうとは夢にも思わなかったと田代氏は語る。このあたりは一面に群生して、きれいな黄色の花をつけている。麓の波帰に来た時は、もう暮れていた。道を尋ねて下ること半里、本屋敷というところについて茶店に休憩した。空腹で空腹で耐られないほどであったが、有り合わせの菓子と夕食を喫したので、ようやく我が体のようになった。鞍岡まで1里半ほどもあると云う。4人疲れし足を引きずりながら広い往還を北に向かって進んで行く。空には月が照っている。いつの間にか眠気を催し、道側の材木によりかかって4人とも夢を辿っていた。ふと目を覚ませば誰か呼ぶ者がある。暗がりに透かしてよく見れば、田口君が帰りの遅いのを気遣って迎えに来たのであった。宿に着いたときは10時頃であった。」
この中にちょっと感動的なようすが見えるように、これはもう日本の中でも非常に特異な植物のまさに宝庫であるという感激がでています―――――。
----------------------------------------------------------------------
このように貴重種であるキレンゲショウマの大群落が鹿の食害で絶滅とは、ただ、ただ、おろおろするばかりです。「祖母傾でも見ることはなくなった」、「四国山中にもなくなった」、という便りが届きます。
霧立越の歴史と自然を考える会では、森林管理署のご支援のもと、カラタニ上部の沢沿いに鹿の侵入防止のネットを張り巡らして、葉ワサビとキレンゲショウマの再生をはかることとし、この3月に350mのネットを張り巡らして再生実験を始めました。
異常繁殖の原因を考える
鹿の異常繁殖について、この会の副会長をしてくれている椎葉英生さんは、「最近、椎葉の1部地域ではメス鹿も狩猟の対象になっているが2頭の子が腹に入っているのを確認した」といいます。鹿は年1回1頭1産がこれまでの定説ですが、異常繁殖はこうした変化にも原因があるのでしょうか。
また、猟師たちは「最近の鹿は昔の鹿とは違う」「あれは種類が違う」といいいます。体型が小型になってキリズノだという。キリズノとは角が大きく育たないことをいい、毛色も違うといいます。「最近、ズーダの実(ミズナラの実のことでドングリ)を食べるようになった」といいます。稲も食べれば、イモもトウキビもなんでも食べるようになりました。草食動物の鹿の食習慣に異常がでてきたのです。
もともと、ブナ帯の自然界においては、ブナやミズナラなどドングリ類の実を付ける樹木が多く、これを食べる猪が圧倒的に多く生息し、草食動物の鹿は、森林の下層には草本類が少ないので生息頭数は少ないというパターンでありました。筆者が子供のころも猪が多く獲れ、鹿が獲れたときは話題になるほどでした。
それが今、奥山では1頭で6〜7頭も出産し繁殖力が旺盛な猪が少なくなり、1頭1産の鹿の方が圧倒的に増えています。これは天然林がなくなり、且つ伐採後の林地に草本類が茂ったことが原因でしょう。また、樹木も荒廃地では幼木や若枝が食べ易い高さにあることも原因でしょう。自然界の動物の生息数は、餌の量に比例するからです。
これから山地の人口はますます過疎化し多くの集落が消えていく運命にあります。猟師もいなくなる。そうしたことを考えると合歓の郷でみた光景が脳裏をかすめるのです。紀伊半島の南端にあるヤマハリゾート「合歓の郷」は素晴らしい景勝地のリゾートですが、早稲田大学の後藤春彦先生が三重大学にいらっしゃるとき先生にご案内していただきました。この時、山の斜面に突然緑が消え、葉のない立ち枯れの樹木が連なる異様な灰色の森が視界に入りました。良く見れば、そこには鹿がたくさん放し飼いされていました。動物が死の森にしたのです。
欧州の森は、かつて森林が全滅した後再生された森が多いと聞きました。戦争や森林開発もありますが、動物が異常繁殖して森を枯らしたといいます。日本のブナ林は、高木、低木、下層植物、シダ苔類と4層になっていますが、欧州の森は、高木と下層植物で2層といいます。植生が単純なほど、それに適合した動物が異常繁殖し易い。なぜ日本の森は動物が破壊しなかったのかと疑問を持っている学者もいるといいます。それは植生が多様で豊かであったからでしょう。単純な森は何かの弾みで一挙に全滅するという可能性が高くなります。
ブナ林の自然更新のサイクルは概ね300年以上と見ています。森林開発地帯がその後の手入れができずに放置されたり、もともと人工林に適していない標高の高い地帯では人工林が消滅して元のブナ林に返りつつあります。自然は300年以上の年月をかけて極相の森に近づいていくことを考えれば、それ以前に鹿が異常繁殖を繰り返し、人が住まなくなり猟師もいなくなる過疎の森林地帯では、かつての欧州の森のように動物によって植生が破壊され森がなくなる可能性もあります。合歓の郷で見た死の森のように。鹿対策はそれほど重大な問題をはらんでいると思うのです。
鹿の食習慣が変わった謎の考察
これまでの鹿と違うという猟師の言葉に謎をみるのです。長年の経験を有する猟師の直感は鋭いもので、転石が落下するようなスピードで樹間を飛び去る獣をチラッと見ただけでその種類や大きさ、オスメスの別を正確に判断するのです。その猟師が従来の鹿と違うという意味は、明らかにその土地の獣ではないということです。
それではどこから来たのか、それは違う植生をもつ森林地帯から来た鹿ということが考えられます。九州山地の森林地帯は、概ね標高300m以下は、樹木が冬でも落葉しないで活動しているいわゆる照葉樹林帯です。標高600以上の森林地帯では、秋に水を上げるのを止めて落葉し、冬の細胞凍結をさける性質を持つ落葉広葉樹林帯、いわゆるブナ帯です。
照葉樹林帯の鹿が温暖化とともに、森林開発されて豊富な餌を蓄えているブナ帯に入りこんでくると、これまで食べたことのない数多くの植物に遭遇します。すると何でも片っ端から食べてみるようになります。動物はどれか1頭が新たなものを食べ始めると連鎖反応を起こして全部が食べるようになります。照葉樹林帯にはスズタケはありませんから、ブナ帯に入りこんだ鹿はスズタケを食べません。そこで原住鹿の食べなかったワサビ、キレンゲショウマ、そして、ドングリ、なんでも食べるようになった。それが鹿の食習慣が変わった原因ではないかと考えられます。
餌が豊富にあって栄養状態が良くなると当然繁殖力も高まります。それが今日の食害に発展し、やがては森林を破壊し、餌がなくなって全滅、その後新たに森の再生がはじまり、再び動物が育つ。壮大な自然の法則かも知れません。
人間が破壊した自然、人間が手を入れた自然界のバランスを保つには、最後まで人間が面倒を見る責任があるのです。それができなければ大きな自然のしっぺ返しを受けることになるでしょう。