三ケ所中学校立志式講演
日時 2000年2月22日14:30〜
場所 五ケ瀬町三ケ所中学校
秋本 治
郷土の未来を想う
これから長い将来のことを考えて見ましょう。皆さんの人生は今始まったばかりです。これからの皆さんの人生は 70年もありますので長い先のことを考えなければなりません。そこで思いを廻らしますと70年と言わず50年後はどうなっているでしょうか。今のままで進みますと五ケ瀬には恐らく人はほとんど住まなくなっているのではないかと思うのであります。国の全総と呼ばれる国土庁の全国総合開発計画の資料によると日本の人口は今の半分の7千万人以下に落ち込むことが予想されています。今や東京生まれ東京育ちが全人口の3割を超えたのです。
足元を見てみますと例えば、私の住む鞍岡の波帰は現在 26戸ほどの小さな集落です。平部きょう南の「日向地史」によると明治の中頃は19戸の民家があったことが記されています。それが昭和30年代には35戸となり、現在は26戸に減っています。私どもの波帰は、恐らく五ケ瀬町内でも一番若者が多く元気のある村だと思っています。村おこしグループや雪だるま共和国とか、村おこしカンパニーなどの組織をつくって元気に活動しています。神楽やタイシャ流棒術、臼太鼓踊りなどの伝統芸能を復活させたり、霧立越を始めたり、民宿などの新しい産業に挑戦したり元気がある村です。けれども今、後継者の子供のいるお家は3割もありません。
これを標準として五ケ瀬全体をみまわした時、ほんとうに荒っぽい計算なんですが、現在の 1,500戸が3/1の500戸以下となったとしますと村として維持できなくなるのではないでしょうか。
そうなると魅力のない五ケ瀬は、荒れた山や川だけが残ることになるのではないでしょうか。これまで数千年培った郷土の文化も自然もなくなってしまうかも知れません。みなさんが帰る郷土がなくなってしまうかも知れません。
それを防ぐのは皆さんたちの知恵と行動力以外にありません。知恵さえあればこれからは山村の時代だと思うのです。いくら条件不利地域でもそこに住む人たちの知恵と熱意があればすばらしい村になることができるのです。過疎とは人口が少ない地域をいいますが、人口は少なくてもそこに住む人々が豊かで充実した暮らしができれば過疎は決して悪いことではありません。
一番問題なことは、人材の過疎なのです。多くの優秀な人材がいる過疎地はとても豊か郷土になります。そして、これからは、山村の出番が近づいていると私は思うのです。
ヤマメの教訓
なぜ、山村の出番なのか。それはヤマメが教えてくれました。ヤマメは、皆さんご存知のようにサケ科の魚で河川陸封魚とも言われています。その昔、日向灘にもサケ科の魚が泳いでいたのです。日向灘で育ったヤマメは、五ケ瀬川源流の三ケ所や鞍岡の谷川の奥深くまで遡ってそこで産卵しておりました。稚魚が育つとまた海に降りて行き、日向灘に出てそこで大きな親魚に育つのです。それが気候の変動で海に出られなくなり、谷川の奥深いところだけで生息するようになったのです。
いつ頃からでしょうか。それは、地球の気候の変動の歴史を調べれば大体想像がつきます。今から約 3万年前、地球はひどく冷え込んだ氷河時代でした。それからしだいに気温が上昇して、今から1万2千年くらい前になりますと相当温暖化して今にやや近いような気候に変わりました。そして自然は氷河期の寒帯針葉樹の森から落葉広葉樹の森へと変わりました。いわゆるブナ帯になりました。
ブナ帯は、どんぐりなどの実のなる森ですから、人々はそのどんぐりを加工して食べることを考えました。鍋にどんぐりを入れて囲炉裏の灰で煮るのです。そうして水に晒しているとどんぐりのアクが抜けて美味しく食べられることを考えました。そこで、鍋となる土器が発明されたわけです。まさに必要は発明の母です。その土器は縄目が入っているので縄文時代といわれ約 1万年も縄文時代が続くことになるのです。土器は後には祭祀用具として発達しました。
その縄文時代の中でも急激に温暖化した時期がありました。急に地球の平均気温が 3度以上も高くなったので氷河が溶け出して海面が上昇し、今の日本列島がかたちづくられました。このことを海面が進むとして縄文海進といわれていますが、それが今から約6千5百年前です。
日本におけるブナ帯の北限は、北海道の黒松内町です。黒松内町ではブナ北限の里づくりをおやりになっていますが、現在温暖化が進んでブナ帯は年に数メートルづつ北進中なのです。この北海道にブナが渡ったのは 6千5百年前です。ですからこれも縄文海進のころです。
そう考えるとヤマメもそのころ陸封されたのではないかと推測ができます。サケ科の魚は水温が概ね 22℃以上になると死んでしまいます。その例は島原で経験しました。島原の雲仙には海岸近くのいたる所に湧水が出ています。そこではそうめん流しななんかが一時は流行りました。島原市役所に近藤さんという体格の良い水産課長さんがいましてその湧水を利用してヤマメの養殖振興計画を打ち出されたのです。
私たちは、島原にヤマメを運びました。それから数年後今度は、有明海で漁師の網に珍しい魚がかかり始めました。島原のヤマメの池は海に近いので逃げ出したヤマメが海で成長していたのです。そこで、ヤマメの海面養殖の話しが持ち上がりました。
島原では、ハマチの海面養殖が盛んな地があります。ハマチは、お正月用に出荷して冬はイカダが空っぽです。そこで、 12月空っぽになった生簀に100gほどのヤマメを海水に慣らしながらそうっと入れます。池では海産魚をたらふく食べさせます。すると4月頃には1キロ近い大型のヤマメに育つのです。
これは新たな産業になると試食会を開催したり大変な力の入れようでした。ところが、 5月になりました。5月には海水の温度が22℃以上に上がりはじめます。するとヤマメがばったばった死んでいったのです。以後ヤマメの海面養殖の話題は立ち消えとなってしまいました。
このことから考えますとやはり縄文海進に原因があると思うのです。日向灘のサケ科の魚たちは、海水の温度が上昇したため北の冷たい水域に移動しました。谷川のヤマメも下流は水温が高いので海に降りれません。そうして現在のヤマメができたと思うわけです。
そうしますと、ヤマメの陸封の歴史は、約 6千5百年前と言うことになります。6千5百年も長い時間を狭い小さな谷川で種を保存していくためには、環境に適応できない種の相当な淘汰が進みます。100年に一度、いや1,000年に一度というような大渇水や大豪雨があるわけです。大渇水が起こり、ちょろちょろの水になった狭い谷川では水鳥や獣たちがヤマメを狙います。そこでぼんやりしているヤマメはこの世にいなくなります。水面に少しでも動物の気配を感じたらさっと矢の様にひらめいて岩陰深く隠れることのできるたくましい遺伝子を持った種のみが生命を受け継ぐことができたわけです。だから、ヤマメは警戒心が強く釣りでは姿を見せると釣れないのです。
また、谷川が埋まってしまうほどの大洪水もあるわけです。この時、事前に天候の変化が予知できて湧き水のある安全地帯に避難できたヤマメは生き残りますが、集中豪雨に備えることができなかった種は滅んでこの世に存在しないわけです。ですから、大雨の前に釣りにいきますと餌をいっぱい食べて湧水のある安全地帯へ避難しようとしていますので警戒心もなく餌をとるのに夢中になっているので良く釣れるわけです。
こうした野生の強いたくましいヤマメだから養殖が難しかったのです。このヤマメが養殖を重ねるにしたがってだんだん野生が失われてきました。先ず、産卵行動が衰えてきました。人工的に卵を取り出しますので産卵の経験がなくなったのです。水がさらさら流れる砂地があれば産卵しますが、孵化までの歩留まりは恐らく数パーセントくらいではないでしょうか。養殖ヤマメの自然産卵した卵を掘り出して見れば100粒のうち5〜6粒が発眼して残りは夢精卵や死卵となっています。
ヤマメの養殖をはじめた時、天然魚を生け捕るためにあらゆる方法を試みました。自然産卵の跡の砂地を掘り返して産み付けてある卵も採集しました。その時は、100粒掘り出せば100粒の卵すべてがキラりと発眼していました。たまに1〜2粒白くなった死卵もありましたがほとんどが生きていました。養殖ヤマメは人工孵化のため産卵行動が弱くなったのだと思います。
また、天然魚では、高気圧が張り出して安定した晴れの天気では警戒心が強くあまり餌を取りません。反対に大雨の前には猛烈に餌を取ります。ところが養殖を重ねた魚は、高気圧に覆われた晴天だろうが、低気圧の張り出した雨模様の天気だろうが餌を食べる量は変わらなくなりました。積算温度で管理できるようになったのです。水槽育ちはミミズにも驚いて逃げてしまいます。
ヤマメの養殖をはじめたころは、配合飼料などの乾燥したペレットはまったく見向きもしないし、生きた餌しか食べませんでした。見学者が池を覗きこむとその日は餌を食べなくなり困ったものでした。それが今では、池の縁に立つと餌を求めて集まってきます。ペレットを放りこむと水面から飛びあがって食べます。ここまでヤマメが変化するとは予想しませんでした。だいたい養殖歴 4代目の魚から急激に変化がありました。
私は不思議に思います。天然ヤマメは天候の変化を予知できる能力があるのに「私たち人間はなぜわからないのだろうか」と。昔の人は雲行きや囲炉裏の灰の色、森のかすみ具合、山の岩の色などいろんな現象を見て天気の予想をしていました。「夏の夕焼け田のいで走れ、秋の夕焼けかまを研げ」などの言い伝えもあります。
もっと古代の人々は、風や空気の湿度などを感じて天候の予知能力が高かったのではないかと思うわけです。たとえば、縄文時代の 1万年も続いた暮らしは狩猟採集あるいは漁労採集の暮らしですから、事前に天候の変化を予知できなければ生きていけないわけです。今年は木の実も不作であろうと予知できればそれに対応した暮らし方があるわけです。こうした予知能力もないのんびりとくらしていればこの世に存在できなくなるのです。
もうかなり前になりますが、鹿児島の今給黎教子さんという女性の方がヨットで世界一周の偉業を達成されました。この方のお話しが面白い。ヨットで単独航海を続けて 3ヶ月くらいたった頃から低気圧が近づくのを体で感じるようになった。というお話しがあります。もともと人間にもそうした自然を感じるたくましい能力があったことがこのお話しでわかります。
人々は、弥生時代以降、自然を排除することによって快適な暮らしができるようになり、次第に自然から離れていくようになりました。そして、明治からの 100年、特に戦後の50年に築いた究極の都市文明は、自然から隔離されたような文明を築いたのです。
以前、ある新聞のコラムにこういうことが書いてありました。東京のマンションの 16階に住む方がある時、生まれ故郷に子供さんを連れて行きました。郷里は雨風の強い日でした。風がうなり、木がなびく姿にびっくりしたそうです。それ以後、都心の大きな木のある公園などにでかけると怖がって泣き出すというのです。高層ビルでは、台風の時でも窓ガラスに雨が落ちるだけで幼稚園もビルの屋上にあります。自然から隔離された状態で育てますと身の回りのことができなくなるということです。
また、こんなコラムもありました。公園でバラの花が咲いているので親御さんがそのバラの花の匂いをかがせようと花のところに行きました。すると子供さんは、いいにおい、トイレのにおいと言ったということです。トイレの芳香剤の匂いが先にあるわけです。自然界から隔離されたような暮らしは、どうも人間がいびつにそだつのではないかと思うわけです。まさに養殖ヤマメであります。
人間性がいびつになり、養殖ヤマメのようになりますと人間の正しい遺伝子を後世に伝えることはできません。間違った判断をしてしまいます。まさに、都市文明は人間性の喪失に向かっているのではないでしょうか。そのためにこの五ケ瀬のような自然が必要なのです。自然の中で育ったみなさんの出番があると思うわけです。
発想の原点
ヤマメの発想
私が、初めてやまめの孵化稚魚の姿を見たのは昭和 39年の冬でした。20歳の時です。孵化稚魚というのは、孵化直後の状態をいいますが、それは魚とは思えない姿をしています。始めて見たその日の朝は、雪も止みおだやかな天気でした。私は谷川の小さな小屋をめざしてスコップで雪かきしながら降りて行きました。
トタンで屋根を架けただけの小屋の中には、杉板でこしらえた水槽を置き、谷川の水をパイプで引いてその水槽に流し込んでいました。水槽の中にはヤマメの卵を入れていたのです。
小屋にたどり着いて、水槽にかぶせた蓋の上の重しを取り除き、蓋をそーっと開けて水中を覗くと水底に薄く沈殿している泥の上に幾条もの線ができているのです。よく目をこらして見るとそこには、はじめて見る生き物がうごめいていました。泥についた線は、その生き物の動いた跡がついていたのです。
一瞬これは何だろうとびっくりしました。そのような生き物は初めて見るのです。しばらくして、それはヤマメの孵化稚魚であることがわかりました。なぜならそこにあったヤマメの卵がなくなり、代わりにその変な生き物が動いているからです。
3〜4ミリくらいのぶよぶよとした袋、ピンクの透きとおったよう小さな袋から首をのばしてその先端には、目玉が光っていました。その反対側には針のように尖った尾がのびており、その尖った尾っぽをクリクリと振り回しながら動き回っているのです。初めて対面したその姿はとても魚とは思えない姿をしているのに驚きました。こうして初めてヤマメの孵化稚魚と対面した日の感動は今でも時々鮮やかに思い出します。
昭和 39年といえば、その前年の38年はすごい大雪でした。今、標高1600mのスキー場は人工雪を加えてようやく積雪1メートルになっていますが、私達の村の波帰地区は自然雪だけで1メートルを越えていました。雪崩による被害が発生した程です。当時はとても雪が多く降りました。余談ですが、それから考えると今は、その時の三分の一以下ではないでしょうか。地球温暖化は短期間の間に急速にすすんでいるのを感じます。
その大雪の年の冬、私は 18歳を過ぎましたので車の運転免許を取りに熊本の自動車学校に通っていました。それから春になって私は、材木を運ぶトラックの助手になり、材木運搬の仕事を手伝いました。そんなある日、町へ下るトラックの助手席で考えました。山の仕事もいつかは無くなる。自分の一生かかって取り組める自分だけの仕事がしたいと。つまり今でいう自己実現の世界を求めていたのです。
いつもそんなことばかり考えていたのですが、その時走るトラックの中で急にひらめきました。「そうだヤマメがある。あの魚をなんとか人工的に増やせないものか」と。ヤマメについては、子供のころは毎日のように川にヤマメ釣りや箱眼がねで水中を覗きカナツキで魚を突いて遊んでいました。遊ぶというより食料の確保のためでもありました。そのためヤマメの生態については、ある程度の知識があるつもりだったのです。
背筋に何かぞくぞくっとしたものがはしりました。「そうだそれが良い。是非やってみよう」と思いました。「この思いは忘れたくない」。よく、これはいい思い付きだと感じても時間の経過とともにだんだんと色あせてきてそんなものやってもしょうがないと思うようになります。その時も「これは忘れてはならない」と強く自分に言い聞かせました。
やがて、トラックは熊本に到着して材木をおろしました。帰りは荷台は空っぽとなります。この時、財布をとりだしてお金を数えました。少しのお金しか入ってはおりませんでしたが全部はたくと何俵かのセメントは買えると思いました。そこで運転手さんに「すみません、建材店に寄ってください。」とお願いしました。こうしてセメントを買って帰ったのです。
「ヤマメの養殖をするために池を造ります」とはとてもいえません。周りの人から「何をはじめるの」と聞かれても恥ずかしくて話せません。「うん、ちょっとね」とごまかしていましたが、内心は「よしやるぞっ」と燃えていました。
今、思いおこしますとあの時すぐセメントを買って帰らなかったらヤマメの養殖は始めなかったかも知れないとの思いがあります。家の入口にセメントが積んでありますと毎日それを見てヤマメのことを思い出すわけです。セメントは、時間が経つと固まって使えなくなります。そこで必ずいつかはヤマメを入れる池をつくるであろうと自分自身に宿題を投げかけたのです。
ヤマメの養殖は簡単にはいきませんでした。大きな壁が次々に立ちはだかり何度もつまづきながら試行錯誤が続きました。何しろヤマメ養殖の前例がないわけですから本当にヤマメは養殖できる魚かどうかということもわかりません。この先どうなるかまったくわからないわけですから、村人から「どら息子ができた」と笑われるのがおちなんです。
スキー場の発想
話しは飛んで、私は、 35歳から14区の公民館長を5年間程させられました。公民館長は、行政の公報と住民からの公聴のパイプ役を果たさなければなりません。そのため自分のことよりも優先して住民のことを真剣に考え、住民のための行動を興さなければならないのです。
当時は、冬になると雪に閉ざされます。毎日のようにスコップで家の周りや道路の雪かきです。今考えると本当に夢のようなお話しですがこれが現実でした。夏は、一生懸命働いて冬に備えます。冬は仕事ができないので食い込んでしまうわけです。その上、公民館長は、毎月各戸から税金を集めて町に収めるのです。当時 54戸程でしたがそれでも月に百数十万円を集めて納税するわけです。
そこで、出稼ぎが盛んになりました。冬になると熊本や福岡などで臨時で働く馴染みの職場を大抵の人は持つようになりました。冬、村に残る人は、家にお年よりや病人をかかえているお家なんです。残っている人たちが、スコップを持って雪かきをし、コタツにしがみついて冬を過ごしているわけです。これではいつになってもこの村は豊かになりません。
私は、波帰川にヤマメを放流して釣り客を呼び、夏は山登りなどの客を呼んで民宿村にしようと考えました。運動の成果は住民の組織による「五ケ瀬えのは国民釣り場」が誕生し、民宿に取り組んでくれる家が何軒かできました。けれどもお客様はあまり見向いてくれません。
民宿というのは、たまに時々のお客さんでは困るわけです。頻繁にお客様があると玄関からお風呂やトイレの掃除は行き届いていますので苦になりませんが、久しぶりのお客様だと洗濯物もいつもは放っていてもいいものを慌てて片付けなければならないし、トイレの掃除からお風呂からお布団のカバー替えから次から次と大忙しです。その上食事の献立まで考えなくてはなりません。
そこで、予約のお客様が見えたとき「すみません、今日は農作業が忙しかったので準備ができていません。どこか他の家に行ってくれませんか」と断られてしまうという笑うに笑えない現象が出てきました。
「困った。村だけの小さな取り組みだけでは産業にならない。もっとこの地域ならではの切り札はないものか」と考え込みました。そこで浮かんだのが「雪」だったのです。「この波帰の村は、昔から雪に悩まされ続けている。こんなに雪が降れば山のどこかにはスキー場ができるような場所があるに違いない」。
そう考え始めるともうじっとしていられません。
さっそく町長室へ出かけて「町長さん、うちへんの村は冬は雪が深いので働けません。夏働いて冬食い込んでしまいます。将来は人の住まない村になってしまいます。これだけ雪があるとどこかにスキー場ができるはずです。是非調査をしてみてください」と陳情に上がりました。
町長さんは「君の話しは面白いが、町の予算というのは町民のための大事なお金だ。そんな何とも知れないものに注ぎ込むわけには行かないんだよ」といわれます。私はとてもすばらしいことに思えるのですが、なかなか通じないわけです。その後も毎月 10日に公民館長会が開かれますので機会ある毎にスキー場のお願いを続けていました。これは昭和52年のお話しです。それからも根気よくお願いし続けました。
そうするうちに昭和 54年になりました。この年は、宮崎国体が開催され、五ケ瀬は山岳競技の開会式会場になりました。国体を成功させようと官民一体となって全員一生懸命取り組みました。今、考えますとこの時のように官民一体となって目標に真剣に取り組んだことはありません。炬火リレーや沿道の花の植栽、料理献立講習会、いろんなプログラムに各団体や住民も熱心に参加して燃え上がりました。
その年の秋、私はまたもや町長さんにスキーのお願いをしっこくしました。すると業を煮やした町長さんは「そこまでいうなら地元で調査してみたらどうか、可能性があれば考えてみてもいい」といわれました。そこで、私ははっと気付きました。具体的に自信のないものを陳情してもだめなんだと。
それから「一体どうして調査したらいいんだ」という悩みが深まりました。スキースキーといいながら現実にはスキー場を見たことも滑ったこともありません。テレビでスキーを見る程度の知識ですからスキー場はどれくらいの斜度や長さ雪質が必要なものか皆目わからないわけで、考えてみれば無茶なことを言っているわけです。
冬が過ぎて雪解けの季節になりました。スキー場の調査調査と考えるだけで冬が終わったわけです。いつもそのことが頭から離れずにいると頭上でヘリコプターのパタパタという音が近づいてきました。へりはもっこをつりさげて低空飛行をしながら山深くに飛んで行っては引き返します。植林用の杉苗木を植林現場に運搬しているのです。
それを見た瞬間「これだ」と思いました。どこにスキー場適地があるかは先ず上空からの調査だ。そしてそれは雪解けの季節が一番だと思いました。さっそく田んぼの中のへりポートへ出かけて「乗せてください」と申し込みましたが「これは遊覧飛行はできないのだ」とあっさり断られました。
そこを持ち前の粘りでしっこく食い下がり作業発注先の県の許可を受けたりして仕事が片付いてから乗せてもらいました。 1分間に付き6千円位だったと思います。そうして空から九州の脊梁山地の残雪状態を調べ、2箇所をマークしました。その一箇所が今のスキージ場です。もう一箇所は、国見岳の北斜面です。国見岳もとてもよい場所でしたが残念ながら熊本県でした。
数回へりで飛びましたが、最初の飛行は昭和 55年3月1日でした。それから歩いて現場に入り調査をはじめたのです。その後がもっと大変な難問が山積することになるのですが、きっかけはこのようなことです。
ヤマメの養殖をはじめようとした時も、スキー場を考えた時もまったくその業界の知識や基礎知識はありませんでした。無謀なお話しです。でも、ヤマメの養殖ができるようになって当時の町長さんに連れられて県の知事室に通された時、知事さんから「秋本君はどこで水産の勉強をしましたか」と尋ねられ、私は「私は中学を卒業したばかりで水産のことはまったく解かりません」と答えました。すると知事さんは「うーん、それが良かったんだよ。なまじっかに専門的なことをかじっていると既成概念がはたらいて先に結論をだしてしまいできないことがあるんだ」とおっしゃいました。
後日談ですが、知事さんは、県の水産試験場にヤマメの養殖を開発するようにと指示を出されていたということです。当時の水産試験場の方が「民間の方が先に進んでいるではないかと知事にやけられましたよ」と笑って語ってくださいました。
スキー場を発想した時もそうでした。スキー場を見たことも滑ったこともないのに無茶なことを考えたものです。けれどもそれから、東京のセミナーに毎年出席したり、全国のスキー場を回ったり、カナダやスイスのスキー場まででかけたりして勉強しました。今では、宮崎県スキー連盟の会長をさせられてしまい宮崎県のスキー振興に頭を悩ましています。今、スキー離れが進んでいるからです。
けれども、嬉しいこともあります。私どもは、毎年スキー国体にアルペン競技の選手を出しているのですが、私が役員を引き受けた頃は、出場枠は 6人でした。それが10人となり今年は、12名の枠を県から頂きました。それでスキー場のある我が町から今開催されている富山国体に学びの森の高校の選手が出場しています。町内の生徒もいます。22日にジャイアントスラロームに出走します。親御さんたちもどうしょうかと迷っていましたが、いてもたってもいられなくなり応援にと駆けつけて行きました。
みなさんも是非挑戦してみてください。優秀選手になるには、持って生まれた天分もありますが、一定の法則みたいなものがあります。良い指導者に出会うことと、年間に 40日以上の練習を重ねることです。五ケ瀬には夏も滑れるような施設も造ってあります。東北、北海道などの雪国には夏のスキー施設はありません。五ケ瀬では今は休止されていますが、再開の運動を続ければ夏も練習できるのです。1年間に40日とは、月に3〜4回の練習ということです。是非取り組んでいただきたい。そして優秀な選手がでて欲しい。それが五ケ瀬にスキー場があるという意味にもなります。
さて、これまで私は、岐路に立った時の人生体験を二つあげてお話ししました。皆さんが、将来長い人生の中である決断をされるときの参考になればと思ったしだいです。