「ふるさと活性化セミナー」

宮崎県地域興しマイスターで美山町のセミナーに参加しました。大変有意義な講演でしたので講演録を作成しました。聞き取りにくい部分は、判断して解釈しておりますのでご了承ください。

平成13年度 第2回「ふるさと活性化セミナー」参加報告書

とき 平成13年11月29日(木)
ところ 京都府美山町美山文化ホール

基調講演
「都市・農村交流と農村景観の将来を考える」
講師 鳥取環境大学環境政策学科教授
中川聴七燻
講演録 文責 秋本 治

はじめに
 只今ご紹介いただきました中川です。私は、昭和36年、農林省に入省。大臣官房参事官、国土庁農村整備課長、農林水産省大臣官房調査課長、経済企画庁経済企画参事官、審議官など役所は29年くらいやりました。それから財団法人都市農山漁村交流活性化機構の前身の財団法人21世紀村づくり塾専務理事を4年、その後、愛媛大学から来ないかと相談がありまして、じゃ行こうかという話になっただけでありますから、行政の連中は「中川は役人だから学者は出来ないだろうな」という話しがありますし、学者の方からは,「あれは役人だからな」てな話で両方から信頼されない。どうしたらええんかと思ってたところ最近ではこのような席で喋れという話が起ったりもして参っているところであります。(笑い)

村づくり推進委員会
 本日は、「景観保全と都市農山漁村の交流」ということですが、私が国土庁の農村整備課長をやっておった時にアメニティコンクールというのを農政局長と考えました。その時に、農村景観の保全という事が一つ重要なテーマということで15年前ですけれども提案し実行に移ったという経緯があります。
 その際、美山町が話題になりまして、私も、何回か勉強に寄せて戴きました。その時に、私が美山町に来た時の印象はですね、いろんな地域の中で特異だなと思った行政区がありました。行政区というのは、回り持ちで順番に役をこなしていくわけですが、これは行政ルートでお仕事する時には絶対に必要な組織なんですね。そこに「村づくり推進委員会」というのが各集落中にもう一つあってですね。そのパイプで民間の自発的な運動の中で仕事が出来上がっていくというお話がありました。
 当時、15年前でありますから、まだ、そういう、二本立てで住民の自治と行政の自治と、この2つを使い分けながら役場が行政を進める手法をとっている所が少なかったように思います。
 5〜6年前、やはりアメニティーコンクールで、優秀な成績を収められた高宮町ってのが広島にありますけども、そのときも、やはりそういう住民自治的組織の力が行政を盛り上げるという形で村づくりが進んでる事に頷きましたけれども、やはり、美山町方式というのはちゃんと成功している所ではやってるんだな、という感じが致します。

困難を廃して突撃する
 美山町のもう一点の特徴はですね。河鹿荘という凄いホテルみたいなのが有ります。その河鹿荘を造るにあたって住民の間で大議論があったというふうに聞きました。ここは由良川の源流地域でありまして清流が流れて鮎が取れたり、山が深くて山菜が取れたり、とても自然豊かな処なんです。したがって、ささやかな民宿が多少有るわけですけども民宿を中心に民業を圧迫するという意見が非常に強まってきたんです。
 けれども「いや、そうではない」と河鹿荘に一つ拠点を置くことによって地域開発を全体として進めるんだという説明をして取り組んだところ観光客が見事に何倍増にもなったのです。
 もちろん、地道な努力があるんですけども、そういう形でみんなの意見を聞きながらやるというよりは、ちょっと強引に小泉さんと同じように少し強引にやった。それが見事に成功したという事が非常に印象的に思い出されました。美山町の独特の取り組みというのは、困難を廃して突撃するという側面を持っているという事も第2点の特徴点だと思います。

農村振興と景観保全
 第3点は、ご存知のようにずっと営々として民家の集落が保存されていくという努力があったとのではないかというふうに思います。やはり農村景観というのは、田園風景、森林の風景、清流、そういうものが組み合わさって全体として空間を形成してる訳で、この空間が健全に美しく維持出来るかどうか、その中心である産業としての農業なり林業なりが元気良く活動してるという条件がなければ景観保全をするという事はほとんど有り得ないというふうに私は思います。
 私は、地域の農業が元気になっていく姿の中に景観が保全されていくと思いますので本日は農村振興とは、農業をこれからどうしていくんだという議論に中心を置いてお話をさせて頂いたらどうかなと思います。ちょっと的外れになるかも知れないけれども、これから、わが国の農業はどうなって行くかというところに焦点を当ててデーター等お見せしながらお話を進めていきたいと思います。

コンピューターリズムと稟議主義
 凄い激変する21世紀、もうこれはいうまでもありませんがアフガン戦争が今始まっている。21世紀になって始まった訳ですが、全く世界の様相が一転するようなことが勃発した。こうした変貌を捉える。これは単なるアフガン戦争だけではなくてコンピュータリゼイションというのか、要するにコンピューターが凄く支配力を持つ様になってきてコンピュータを使わない限りは全ての情報を処理できない、あるいは、情報から政策を生み出せないというところまで行ってしまった訳であります。
 21世紀は農業の時代だとか、21世紀は環境の時代だっていう人もありますけども非常に楽観的でありまして実は、我々日本人にとってはとても困難な時期に入ったということであります。これは、農村地域でも日本全体でも言える事だと思うんですけれども、結局、経済不況になったのはバブルを経験したからであり、バブルというのはお金を土地に投機してそれで土地の値段が下落したら不良債権になったという所から始まるのでしょう。けれども、バブルの崩壊で構造改革と小泉さんがいってもなかなか自民党の構造の中で政治が変わっていかないし、小泉さんは大胆不敵にやっている。
 それで、この21世紀のコンピュータ時代にいち早く乗っかったのが東アジアでは、韓国であったり中国であったり、インドであったりという事であると見た時に、そういう風に見るのが正しいかどうか分からないんですけども、日本はアメリカとの関係ではグローバリゼーション、要するに自由貿易が原則だというグローバリズムに目を奪われてる間にコンピューターリズムというのが東アジアで凄く浸透して、それで仕事の業態が変わったという事があると思うんです。
 それで、企業が商取引をする時、日本の場合には例えば商社の中堅どころの20〜30代の働き手が情報をかき集めてきて上司に相談する。上司と稟議して社長の決裁を得てそれを契約するかどうかを決定する。そのような仕事の仕方は、韓国でも,中国でも、もうそういう時代ではないとしているのですね。つまりコンピュータの中に新しい情報が蓄積されきて、それで瞬時に判断しなければならない時に、その決断力は日本の場合には非常に時間がかかるという社会的体質を持っていた。
 韓国とか中国は、現代社会に突っ込んでまだあまり時間がかかっていない。従って行政の方の機構もそんなに大きくはない、堅固でもない。その行政を構成する末端の若い連中が情報を握ってしまう、それでその情報を即時判断する権限を与える。そうすると、もの凄いスピードで経済が動いていくという可能性が出て来たわけです。日本の大企業主義は、稟議主義を取っていますから、太刀打ちできない位にスピードの差があるという事に着目して考えた時に、日本の社会というのは完全に立ち遅れたのではないか、そこから抜け出すにはどうしたら良いのかということであります。
 それで私の意見ですが、学者でもない人間が言ってる訳ですから信用は出来ないかも知れないけれども、この数年間の韓国,中国と日本の商取引の変化を新聞等に於いて見ておりますと、明らかに決断のスピードの差というのが出てきてるような感じがします。特に注目しますのは、十数億の人口を抱えながらあれだけ機動的的に政策を打ち出していけるというのはこれまたもの凄い事でありまして、やっぱり根底的に言えばそこにコンピュータの世界があるという事ではないかなという風に思います。

サークリングによる意思決定
 私は、アメリカのオレゴン州立大学と提携関係にございまして、アメリカの行政機構なんかも調査させて頂く機会をいただいた事があるんですが、特に農業関係で言えば普及組織が違う。皆さんの中には普及組織出身の方も沢山いらっしゃると思うんですけども普及組織というのは日本のように行政が担当しておるのではなくて大学が担当しているという処に一つの大きな特徴があります。
 それで、この普及組織の運営の仕方ですけれども、普及センターは大学の組織としておいてある。そこで所長さん達にあんた等どうやって仕事しとりますかというとピラミッド型の仕事はもう出来ませんという話が出てまいりました。所長が最終決済をしていろんな計画とか新しい技術を開発する。あるいは、新しい技術を農家に供用するという風なピラミッド型はちょっと駄目だというのです。
 例えば1センター25人から35人位の大組織になっている訳ですけども、その中で若い人がコンピューターを駆使出来る、メールできるという事で情報を集め、それをこねくりまわして新しい事業に繋げて行く、それは、若い人が年寄りよりも進んでいる。そうすると普及センターとして政策を実行する時の決断はどういう形でなされるんですかって聞くとピラミッド型ではなくてサークリングですっていう。
 横に丸い円テーブルに全員を着かせて、今日はどういう情報ですか、と所長さんが聞くと若い人がこういう情報がありますよという。まあそういう状態であれば、次どういう手を打つべきかいうと中堅どころが、それは過去の経験からして、とか何とか言って議論に参加するという事で水平的なサークリングの中で物事が決まっていく。
 それで結局その普及センターの所長さんが言ったのはコンピューターはあらゆる情報が集まってくる機械であってお百姓も全部メールで問い合わせてくるからメールで答えるという形にならざるざるをえない。やはり、コンピューターを基軸に組織を運営して行くという体制を持っていくことでやっているんだという。そういうことでサークリング的な同時決裁というのかな、サークリングで同意したものが成果品になるという風な形で運営されているのを見て、日本の役所もまだ、そこまでとても行ってないなという感じが致します。

普及センターは大学に
 それで、普及センターが役に立つかどうかと言う点で言えば行政改革の中で各地方で普及組織は潰されて行ってますよね、人員を削減して、非常に間違いであると思うんですけれども、それで、愛媛県の場合7年居りましたがそこでは、普及センターを潰さずにむしろ増強するという形、つまり地域農業の先達と言うか誘導役としてのセンターの役割を認めた訳なんです。
 そこで、行政との関わりで言えば、普及と言うのは技術は中立的でありますから行政に帰属するより大学に帰属した方がいいと言う意味で農学部に普及センターを吸収したらどうかと、農学部が中立的な技術を普及させる、あるいは中立的な技術を開発して提供する。それなくしては現場の農業の改革はなされないんではないかと言う提案を私はしました。アメリカの真似をしてと言う事になるんですけども、そう言う風に、そもそも何であるか、例えば普及が何であるかと言う風に考えていった時につき当たった問題は、やはり技術は中立的でなければならないのに行政の道具にされていると言うところにに行き詰まりが有るような感じが致します。

農村情報を都会へ
 ちょっと横道にそれてしまったんですけれども、それで、普及だけではなくって農業の場面で日頃の感覚をちょこっとだけ申し上げれば、農村現場で情報が非常に不足ている。JAさんが非常に広域化して地域に対して影響力なくしてきた。それで行政は、相変わらず農水が中心になって農水から県、県から役場、役場から農業者の方に降りていくと言うスタイルでやってきて、このシステムが変わってない。これからも、なかなか変わりそうにないんですけども、これはちょっとまずいなと言う感じが致します。
 それで最も具合が悪いのが若者が農村の中にもうほとんど居なくなってしまっておる。それで新規参入対策が必要だ。そう言う時代が来たのに農地の情報とか農村の情報が都会の若者たちに全然伝わらない世界と言うのは何だろうか。つまりコンピューター社会が発展して韓国対中国の企業の中もサークリングの世界になって来ているけれども農業者に行く情報は農業者が自分で情報を開発していく力がない場合に行政がお手伝いするけれども、その行政の情報は非常に遅い。ましてや役場がマーケティングと言うか市場に参入してやるという風な事は、行政の役割としては出来ません。
 だけども最近は販売なんかも行政の人が一生懸命やってらっしゃる。公社造ったりしてですね。それは、まあ公社造ったらいいけれども役人が兼務しながらやってる訳ですからちょっと下手くそな商売をやる。本来の主旨はちょっと違うんじゃないかなと僕は思うんです。
 けれどもまあ、そんな事はともかくとして田舎の情報が、あるいは、あの農地が空いていてそれを使った場合に近所に小学校があるとか幼稚園があるかないか、あるいは、買い物に行く場所があるかないかと言う情報を、一緒にセットしてホームページに書いてですね、私の所はここの土地でこういうような事をしております、町は、もしお見えになればこれ位の助成措置やります。と言う情報をきちっと都会に発信するということがどうして出来ないんだろうかと思います。と言うのは、僕の非常に素朴な疑問に最近はなってきたのです。

制度疲労した農地法
 それで、はたとぶつかるのは、農水省の昔の非常に重要な政策であったところの農地制度。農地制度と言うのはここにも農業委員会の方いらっしゃってちょっと頭にくるかもしれないけれども、農業委員会さんが農地法の三条許可の決定権を一応持っておる。で、農地法のバイパスとして基盤許可促進法によって利用権が集団的に公示する事によって契約が成立するような形になってきたので、全体としては農業委員会の世話はしなくて済むんだと言う意見もあるかもしれない。けれどもそうではなくて、農業委員会が基本的に管理していると言う意味合いと言うのは今の時点で言えば少し考えた方が良いんではないかなと言う風な感じがするんですね。これが、ひょっとしてI.Tに情報を発信できない部分かもしれない。
 皆さんにすぐにどうなるかという事ではないんですけれども、根源的に考えた時に、なぜ若者が居ないんだ。で「農業が儲からんから」と言えば「うーんそりゃ儲からんな」と。しかし最近は凄く儲けている農業者多いですよね。これは、独特のブランドを持ったり、市場開拓したりした連中は、もの凄い儲けてますよね。皆がそう言う才能についていけるかどうかは別として、農業の内部はもの凄く変化しておる訳ですけれども、全体の面的な部分というのはずーっと衰えてきておる。
 けれども制度が創った農業委員会あるいは、農協にも言える部分があります。これは例えば、理事の選定法式なんですけれども、理事さんは総代会で決める。総代会の総代には集落から一人ずつ。この集落から一人ずつというのは回り持ちでやって行くという形が多くの場合採られている訳ですけれども、現場の農業はごく少数の方が元気良くやっている。それで、農協を使いたいけれども一人一票主義でお年寄りが多数を占めていて、そこで決められていく事を守っておっては時間がかかる。しょうがないから辞めにするといって員外に組合員でない方がええちゅんで組合に入っていて出資金をほったらかしにして農協以外で仕事をするという人の方が若い人の間では多くなってきた。
 現代社会は激変している。特にコンピュ−タからどんどん情報が手に入る。それを駆使できるのが若い人達。若い人達が田舎に入らん限りは田舎は元気にならん。そうしたら田舎に来るような算段は都市農村交流すべてがテ−マで田舎に来るように情報発信することです。
 鮎がおいしいとか景色が美しいとか言う情報だけでは若者たちはもうこないですね。やっぱり自分達の働き場を求めておる。どういう条件であれば働けるかということを知りたい。その情報発信は今のところ役場はやっていない方が遥かに多い。やっているところはものすごく少ない。これは農地法との関係でやりにくいからですよ。
 そういうふうに考えてみたら有力な組織として土地改良区とかですね、農村にはいっぱいある。役場はそれをもとに行政が作られているから農業はものすごく小さくなっているけれども組織的な外形はものすごく大きい。県庁も同じですね。大きいですね。それで肝心なことがなされていないのではないかなと思ってしまう。これは役人出身で非常におこがましいことを言っていますがちょっと極端に今日は言ってですね,今の世の中をやはり構造的に捉え直さないとちょっと競争に勝てないのではないかという意識ばかりで話しております。

耕作放棄地が増加
 ちょっと失礼なことを言っているのかもしれませんけれども、日頃の考えをもう少し丁寧に述べたいと思います。その前に日本の農業というのは実際にどうなっているのか、僕はデ−タ−で整理しました。ちゃんとしたデ−タ−が出来なかったんで誠に申し訳ないんだけどもこのパンフレットの17ぺ−ジを開けていただきましょうか。ほとんど見た事のないようなグラフだろうと思うんですけども、これ全国地域のブロック別ということで去年の2月に農業センサスがありまして、その中で農業就業人口というものをデ−タ−で描いたものです。農業就業人口というのは仕事をする時には農業が主である大人、センサスでは14歳以下を切っておりますので15歳以上で、仕事をする時は「農業を主とするもの」を農業就業人口といっているものです。
 17ぺ−ジは下に表がありまして絵柄をカラ−で印刷して頂いておりますけれど、北海道、東北、北関東、北陸、東海、近畿、山陰、山陽、四国、北九州、南九州、一応ブロックは沖縄を落としましたけれども、これで就業人口の横に1歳刻みで15歳以上100歳まで書いてある。高さが相対比でやってありますけれども、だいたい就業人口の1歳ごとの割合を示している。だからこれは高さでその年齢の人は多い少ないとなる。
 例えば、おおざっぱに言いますと黒は実は北海道なんです。北海道を横にのけますと残りは全部府県なんですね。府県のピンクになっている部分というのは70歳から74歳位と言うふうになっています。つまりこれは加算すればパ−センテ−ジがでてきますけれど大部分は60歳から80歳の間の人が農業労働力として働いているという事ですね。
 これは数年前の農業白書にも一度載せて頂いた事があるんですけれども改めてまったく新しいデ−タ−でやってみたところ、これだという感じになったんです。お年よりは76歳位からトラクタ−に乗れなくなりますから、降りた時に農業はほとんど廃業になっていく。それでこの山がずっと崩れていく、それが生理的限界であります。したがって日本農業の現在担っている、特に水田農業を担っているかなりの部分はこのお年よりの大きな山の中にあるというふうに思っていいと思います。
 小さな小山が48歳から52歳位のところにあります。この部分が実はやっぱり全国的に商品を旧農業基本法による選択的拡大によって牛乳を作ったり、果物を作ったり、野菜を作ったりという先進的な農業者の分がここらへんにあると思っていいのではないかというふうに思います。
 それで、もうひとつの山は15歳から20歳位までの山。これは在宅して高校に通っていて親父なりおじいちゃんが手伝ってくれと言われた時に手伝っている高校生、あるいは浪人中の子供だというふうに思ったらいいと思うんです。ところがこの小山は就職先を見つけたり大学に入ったりすると途端に止めてしまいますので20代30代は、ほとんど農業に従事しないという形になるわけです。これが果たして将来を語っているかどうかといいますと、実はこの70歳から75歳位の大ピ−ク、大山のピ−クがずっと右へずれていった訳です。
 これから5年経った時にこのピ−クを維持して続くかどうかというと、先ほど70代後半から生理的限界になってトラクタ−から降りると言いましたが、同様に完全に右にシュ−トしない。その分、土地が遊休地化するということを物語っているというふうに私は受け止めます。
 高齢で農業ができないということになりますから、ぼちぼちとこの山が崩れている。県によってはお年よりが78〜79まで働いたけれど、もう私はこれで限界だということでやめてしまうということが、ここで起るわけなんです。そういうふうにこの大きな山のピ−クは見るべきで、この山がぼちぼちと各県差がありますけれど崩れてきております。つまりそこで大量に耕作放棄地が発生、特に中山間地が発生していることを説明できます。
 そこで北海道はですね、おじいさんを引退させてお父さんが農場を継いでやっていると言う経営上制度的にきちんとされておりますから、お年よりがやるというのは府県に比べて小さいわけですね。おじいさんもいる、だけどお父さんがしっかり働いている。若者も20代30代もある程度ついてきているというふうに捉える。
 つまり従来の家族経営型農業というのが北海道ではまだ生きているというふうに思えると言う事です。日本の農業が今、特に府県を中心に末期的と言うか最終段階に入ったと言う風な事を言っても良いんではないか思うのは、このピークの75歳から80歳位の部分が大量に引退し始めた時に地域の農業が無くなっていくという風に思わなければならない。その後始末をどうするかがこれからの政策課題である。

農村景観を維持するために
 だから農村景観という風にテーマを与えられましたけれども、農村景観を維持するというのは、農業を維持すること。お年よりも共に維持してくれたら良いんだけれども、そのお年寄りがやめてしまうと言った時に、これは非常に無理算段を言うかも知れないけれども、一時役場が借り上げる。で、景観作物かエネルギー作物を植えておくってな事をしないと、耕作放棄と言うのは退避出来ません。5年ないし10年たった時に入り込んでくる若者たちに対する土地の手当てをする為にも農地は残しとかないといけないだろうと思います。
 愛媛のある町村のエネルギー開発の委員を今でもやっているんですけれども、私は特に、都市近郊地帯においては景観作物を作るべきだ、市役所が作るべきだ、と言う提案をしてですねそれで、今作物の大探しをやっています。
 九州農業試験場の開発したケニアグラスと言うのは、非常に草丈の高いサトウキビみたいな草らしいんですけれども、これは多濃度化すればかなりエネルギーの効率が高い。しかし、これも日本でエタノール化してアルコールで使うんだと言う話になれば、東南アジアというか熱帯の人が使ってしまえば、それで競争力が無くなる訳ですけれども、それはしょうがないですよね。それでもいいから農地を保全する観点で言えば、あるいは農村景観を存続させる意味ではそういうこともある。
 それから、学生に問い掛けた時に大麻と言う話しが出た。これは、僕らが戦中戦後、子供の頃にどんな処でも作っていた大麻です。今は、麻薬が出るから裁判許可制度をとっているらしいんだけど、ちょっと扱い難しいらしいんですけれど、ああいうものは探してくればある。
 琵琶湖の周辺で菜種作って景観作物として作って、その菜種を絞ってガソリンの中に混ぜて動かす、そういう連中には県が助成するみたいなことがホームページで見ると出ているようです。滋賀県はちゃんとやってますね、という感じで見ているんです。けれども、やがて土地はどんどん空いていきますね。明らかに。それをどうやって始末するかというと、次の世代を呼び込んでいく為の予備軍としてきちっと役場が管理する以外にないんではないかと。それで、新しい基本法に基づく基本計画が出来て、自給率45%、20年後にするという政策目標を立てた。それは大変結構な事なんですけれども、実際には現場はそんな形には成ってないし、成ってほしいけれど成らない。

地域政策は国とは別の視点で
 それで、その人工ピラミッドの話をもう少し説明すれば、16ページこのブロック別の上ですよね、上にあるこれは、私が現在勤めている大学の県内の主な農業地帯、鳥取という余り大きくない県でそれなり農業は維持されているという、脅威なんですけども中身を見たら20世紀梨とかあるいは、らっきょうとか長芋とかあるいは、牛肉、牛乳ブランド化した物がかなり有るんですよね。
 しかし、大部分の町村はもの凄く疲弊しておると言う風に僕は捉えました。これが、鳥取の最も農業で元気の良い地域の市町村がばっとコンピューターに出てしまった。そうすると、先程、説明したピークが少し崩れてきておりますけれども、ずっと70歳から80歳くらいの所に主力があるという事が分かります。それで、水田地帯はほとんど、他は全く働き手がいないという状態があります。
 その中で40代の部分が少し賑やかになっているのは、らっきょう作ったり、長芋作ったり、牛乳作ったり、肉を作ったりという、そういうゼネレーションがある。けれども、20代、30代は全くいないという状態であります。これが、山陰地方から富山,新潟,福井,鳥取,島根、ずっとこういうパターンでいきます。
 それで、もう一つ、北海道の形をちょっと見る為に11ページを見て戴きたい。これは、あくまで参考的なんですけども、先程、ブロック別で見たように北海道は、ちょっと変わってるなという感じがするんです。その中で11ページは十勝の畑酪地帯と言うか、畑もやってる酪農もやってる、あるいは、畑と酪農を複合でやっているという農家が多いですね。
 日本で最強の農業地帯と位置付けられるここは、鳥取の場合と明らかに違うという事、つまり、お年寄りも多少居るけれども主力は、40代、50代、あるいは30代、20代まで主力で戦っているというのかな、そういう形が見えます。これをベースに考えた時にやっぱり20代の部分をダッと呼び込んでいくかという議論を、各地においてきちっとやらなければいけないだろうというふうに思うんです。
 それで、国は国で外交の立場がありますから新旧方法で、多面的機能で、WTOで主張して一部EUが同調しながら、という体制が一応出来た事は凄く大きく評価できますけれども、調査原理主義にまとめている政策ではですね、末端は生き延びられない。
 やっぱりここで、地域政策というのが出てくるんですね。これは、村づくりも地域政策の一環としてとらえれば、非常に明快に役割が出てくるんですけども、国は、国の政策として各市町村、各県が協力しながらやったら良いと思うけれども、主体的に住民を動かせる、そいう政策というのは、やっぱり末端で地域政策を、国とは別の視点で構築しないと、農家は救われないし、農業は潰れるというふうな感じがいたします。

10年後の農村
 10ページ上の方は、道東ですよね。別海とか、標茶とか、標津とかあるとこです。十勝と同じようにお父さんも一所懸命、若い人も一所懸命やっている。10代の人も参入する気構えを持っているということが分かります。
 次が12ぺ−ジ、青森の方。僕がりんごがよくわからないんで青森は相馬村と弘前、五所川原。拾ってみたけれど正しいかどうかぜんぜんわからないんですけれど。ちょっと20代の部分がすごく弱くなっておる。ここらへんのてこ入れが必要だなという感じがします。
 渥美半島は、これは日本の最強の農業地帯の一部です。これはお父さんもおじいさんも頑張っておる。ただ10代の部分の層が非常に薄いけれど、これはいったいどうしたことか、これから原因を追求すべきところだと思う。
 それから14ぺ−ジ。みかんどころ愛媛と熊本とを招待してみかん地帯の全体的傾向を伺ったんです。そうしたら、やはりお父さんもおじいさんも頑張っているけれど、ちょっと20代が薄いんですね。りんごよりはちょっとまだ強みというか厚みっていうのを残しているかなと思います。要するに必死に品種開発をし、あるいは品種転換をしながら、やがてみかんの時代は来るということを睨みながらまだ一生懸命やってらっしゃるようなイメ−ジです。この20代の部分をどうやって呼び込んでくるかというのは課題になるということです。
 人工ピラッミットはそういう状況でありまして、これがすべてのことを語っているとは決して申しませんけれども、とても大事な部分というのかな。やっぱり主な部分がこういう状態になっていて、もう5年か10年で草だらけの農村が出来上がってしまう。もっと突っ込んでいきますと20年経った時には、都会の周辺が草だらけの山になっていて山の中に点々として、都会が孤立して存在するという姿をイメ−ジしてしまう。
 農村景観もくそもないという時代がくるのを非常に恐れますけれども、今のピラミッドはまさにそのような事を予感させる。そういう姿に府県ではなっている。特に中国地方が厳しいですけれども、然らばこれからの世界と日本について少し僕の考え方を整理して書いておいたので紹介をさせて頂きたいと思います。

食料不足は起るか
 それで、いろいろと議論をする時に必ず将来は食料不足が起るんではないかという点、特に農業関係で説明する時に県の議会とか市町村議会で話題になるのは食料不足が起るとすれば農業を大事にしとかんといかんじゃないかということで一応行われるわけですよね。
 あんた何ぼやぼやしているんだと、農業にもっときちっと有効な手だてを講じろというのが議員さんの命令になるわけだけれど、人口爆発というのは現実に起っているわけですね、そういうふうにいえば。
 今61億のなかで2050年には、ほぼ50億増えるというのが国連の推計の中でもできておる。ずっと毎年日本の農地ぐらいがつぶれている。9000千万人ぐらいが増えてきているというふうにいわれると思う。食料は足らないなという、それは素朴な実感なんだけれど、だからそうすると日本人は飢えてしまうかなというと現在の経済の活力とか技術力、あるいは技術開発力を考えればやはり経済戦争において苦戦はしているけれども勝ち続けている部分ではないかということで、お金がある以上は物は買えるということです。
 食料不足論というのは現実に起りえます。それは具体的にはどういうかたちで起るかというと今8億人ある飢餓が拡大する、というかたちで起こるわけで、日本人が飢えるということではない。飢えるから農業は残しておけという議論はとてもあたらない。むしろ国際的に、やはり町は発展を遂げる意味で農業は残しておいた方がいいだろうという議論はどこかでしなくてはならないんですけれど。
 しかし食料供給が不安定になって国際価格が変動するということは予見されますのでそこらへんを睨んでおく必要がある。科学技術も無際限に発達していく。神様の領域にだんだん突っ込んでいくというのが現在そのようになっています。我々がそれを受容するかどうか非常に危険水域にまできておるように思うんですけれど、特にバイテクノロ−ジの分野では我々コピ−人間ができるところまでいってしまうとどういうことになるか、倫理関係との問題とか非常に難しい問題が出てくる。

循環型社会に向けての農業
 経済は一体化していくということも当然皆さん経験されている。グローバリズムというアメリカが主導する貿易自由化の流れというのは今のところとめられないということであります。経済が一体化してくる。しかし、経済は一体化するけれどもナショナリズムというのはきちっと残る。今回アフガン戦争がナショナリズムであるかどうかはともかくとして、ある種の民族主義がやはりきちっと世界の中に存在しており、それは大きくなったり小さくなったりするわけで、我々も民族的な誇りをきちんともって生活を維持していくという、そういうことは望ましいことだと思います。
 説教するまでもありませんけれども、だから非常に経済的には一体化する点では文化的には多様性を容認するというかたち、我々にとっても最も大切な部分はこれ以上環境を汚さないというふうな取り組み、これはその中には環境保全型の農業の推進という課題も当然あるわけでありますから循環型社会の移行についての皆さんの意識的な取り組み、これはものすごく重要になると思う。
 そういう意味で農業に対する風あたりが非常に強くなってきて、新しい基本法でも家畜の排泄物の野積禁止とか農薬の使用制限とか、ばしっとして農家は驚きましたけれどもやらざらるを得ないということで、鋭意努められておるわけですけれど、これは全国民的な課題になっているだろうというふうに思います。
 全体的にいいますと食料・農業との関係でいえば、飢えは起らないけれども、しかし循環型社会という大きな課題からすると京都会議を提議して、京都会議を世界の実戦プランとしてもっていくというところまできた。日本としては循環型社会に向けての農業の取り組みもきちんとやっていかなければならないだろうというふうに思います。

グローバリズムと日本の農村
 そうした中で、日本はどういう状態になるか。この近未来の日本の状態を見ますと、これは多くの人口論者がいっているように日本の人口が激減するという。そういう世界と全く逆です。今61億の中で1億3千万だから2パ−センとちょっとの人口の比率があるんですけれど、片方が100億人になってですよ、こちらが7千万の人口になる50年先には、もう力関係でいうと0.7パ−セントと、こんなことになります。これはむしろ農業はどうするかということよりも、将来の労働力がなくなるのをどうするかという議論をまず今からやらないといけない。
 子供達は結婚をいやがるけれども、女の子を抱えたお母さん連中もいらっしゃるようですけれども、結婚せんでも子供を産んだらどうかというふうなことを言ってもいいのか知りませんけれど、それぐらい切実に、やはり次の未来のために私どもはしなければならない課題はものすごく多いと思うんです。
 もう一つ、アメリカとの関係はこれは拭いきれない部分がある。そうするとグローバリズムをアメリカは主張しています。今回のアフガン戦争でグローバリズムを一回やめた感じにはなっていますけれど、しかし、WTOはこの間の閣僚会議で交渉開始と宣言しました。向こう3年の間にやります。アメリカの意思はやはり自由貿易の推進という観点を非常に強く打ち出しておりますから、やはりグローバリズムは厳しく展開される。それらが、やはり我々の未来からいうと、ビジョンとして頭の中におく必要がある。
 次に来るのは、さて皆さんの関心の農業とか農村が残るだろうかという関心で先ほどにご説明しましたように、主力が70歳から80歳の連中が担っておる農業の現状。そういう農業はたぶんなくなるだろうというふうに思わなければならない。列車からみていくとやはり耕作放棄地が最近山間部でものすごいたくさんある。そういう現象がすでに起こっている。
 京都駅八条口からバスでずっと来ましたけれども、これは奇跡的にあまり雑草も生えていない。畦畔とか法面も美しく手入れされた農村がずっと続いているのを見て私びっくりしました。これだけ美しい景観を地域として保全されている。美山町だけではないんですよね。すばらしいなというふうに思いました。その活力はどこにあるかなと思うと、これはやはり都会に近い、京阪神に近いですね。車で1時間も行けば何でも買える、何でも手に入れる、あるいはふり売りしてもちゃんとお金になるという世界があるんですね。それができない、飛行機かトラックでしか運べない田舎の地域ではこういう美しい状態はやはり維持できていませんね。
 私、愛媛とか鳥取のずっと山間部を歩いていますけれども、ちょっと厳しい状態に入っているというふうに思います。マ−ケットが遠いということと関係しているんですけれども、だからこのまま若者をシャットアウトして入れないよ、いや入れたい入れたいけれども、どうしたら入ってくるかわからないという現状で、それに対して僕が提案したいのはIT社会だから、もっと現場情報を都会に発信できるような制度を皆さんで地域政策のなかで作ったらどうですかと。農業委員会さんがいろいろ注文つけるかもしれないけれども、しかし地域の人々のほうが大事なんで、農業委員会さんはひとつの意見として聞くが最後は首長さんに決断させるみたいな話もいろいろでてくるかもしれないけれども。実務やってませんからわかりませんが要するに現地情報をもう少し丁寧に的確にITで発信するというシステムは、僕はできると思うんです。そういう情報こそ若者達はほしいと思っています。これは、明らかに。

農は趣味・料亭用に残る
 私、環境大学に行きました。若い人で、農業を語っているのは、50人のスタッフのうち僕一人です。だけど、僕の授業とか、僕の周りには学生が集まってくるし、やっぱり、農業にもの凄く関心があるんですよね。彼らが言うのに、「じいちゃん、ばあちゃんが農業をちょっとやってますけど、私興味あるんですよ」という女の子がいて、例えば、女の子が看護大学に入り損ねて環境大学に来るとか、あるいは、何とか大学の医学部に入り損ねて環境大に来るとか、ちょっと、医学部くずれ、看護学くずれ、というタイプが多い事は多いですけど、そういう学生程、農業に対する関心が非常に強い。それで、いろんな事教えてやるんです。そんな事はともかくとして、農業を今のままの状態でずっと眺めとくと、このままでは地域の面的な農業としては無くなるなという感じです。たぶん皆さんもそう思ってらっしゃるのではないでしょうか。
 それで、この間、率直に愛媛県知事さんにに来ていただいて話をしましたら「正直言って、農業はもうおしまいですな」ということをあの知事さんが言いましたね。要するに、いかにも、今の農業のシステムが古色蒼然として見えるんではないですか。
 文部官僚ですけれども岡山の山の中に、ある調査に行きました。で、役場に行って、町長に話をしました。「農業どうなりますかね」と、「いや、農業は大丈夫だろう、僕は、一生懸命やってるんだ」と言う。「だけど大丈夫ですかね」と言うたら「いや、農地からの、百姓からのお金、全然出てこんからのう」って言われるんですよね。
 要するに、形は、農水省に協力して凄く一生懸命にやっているんだけれども、形はですよ。腹の中では別の事を考えとるということが良く分かる。やっぱり、金のなる木を持たない農業というのは、町村の中でも継子扱いですな。これは駄目だな、という感じですね。もうちょっと、元気が付くような、戦略的な手法がないと、ちょっと難しいんですよね。
 そういう意味で、そういう観点から農業者の一人というのを眺めていると、僕の勝手な判断だけど、鳥取にはブランド化された商品が多いんですけれども、もの凄く頑張ってますよね。結局、白ねぎにしても、スイカにしても、牛乳にしても、牛乳は、料亭に行かないかもしれないけれど、牛肉にしても、豚肉にしても、らっきょうにしても、まず、京都が大お得意なんですね。京都が大事なお得意というのは、錦市場、それから、京都生協ですな、そいう所に商品をぶち込んでいく訳ですね。販路をそいう形で確保してるという事ですね。ここで、農というのは、趣味、料亭用に残るという凄い事を言って失礼かもしれませんけど、ブランド化した物しか残らないというのが現代のイメージで、そこから新しい農業が出来てくるのではないか、その新しい農業を守られる、保全される環境というのは、今の農業支援態勢ではないというふうに思うんですね。

女性を拒否する農村
 要するに、護送船団方式が農業に適用したかどうか分からないけども、やはり、農業委員会とか、土地改良区とか、普及センターとかあった訳ですね。で、これに、なんぼ金をついでもどないにもならなかった部分を直す。これ、どうしたら良いか。
 例えば、従来から何度も言うんだけれども、いろんな所で、いろんな人が、いろんな事言うんだけれども、まず、農業委員会で女性の委員はほとんどいないと言っていい。農協の理事さんもいないですね。それで、議員さん、町村議会議員もほとんどいない。パーマ屋のおばちゃん一人ぐらい通っているぐらいの感じで、女性の議員さんはいないですね。そういうふうになってくると町村長さんにもなってない。
 田舎は何故か、女性を拒否してるというシステムがある。このシステムを本気で議論をやらないとだめじゃないかな、という気がしました。そういう観点で鳥取県知事にインタビューしました。そしたら「中川さんの言うとおりだ」と。要するに、貴方は農政をやっていたから農業委員会とか、土地改良区とか、農林派議員の事をいうんだけれども、農業以外の分野でも地方自治法、戦後制定されて憲法の中にあって、88章くらい地方自治法に書いてあって、で、地方自治法が出来て、公選制でいろんな議員を選ぶ、農業委員会もその中に入っている訳ですけど、そういう公的な仕組みの他に、何とか協議会、何とか振興会、という条例とか作っているのが無数ある。
 ところが全部機能していないですね。「それはなぜですか?」と聞いたら「いや、皆、お年寄りだけしかやってないからですよ」と議員さんが言う。だから、そういう意味でいうと、地方というのは老人だけしか住んでないと言えば極端な話なんだけども、都市周辺を除きますけれども、その中で、政策の選択というのは限りなく何事もせずに済む場で、現在を楽しみたい、という思考に繋がっていくんですね。
 そうすると、行政は何時までたっても表の場面に出られない。若者も表の場面に出られない。ましてや農地の世界で言えば、農地法とは関係ありませんけれども、女の人が土地を持つなど誰も年寄りは考えていない。こんな馬鹿なことがありますかね。奥さんが頑張ってきたら土地の所有権もお母さんのものと、そんなふうにはならない、ということはどういうことなんですか。今すぐ解決できる問題ではないけれども、農業農村というのは都会の人から見捨てられたのか、若者に見捨てられたのか両方かもしれない。
 今の担い手が年寄りだから存在している。その年寄りというのは農地改革の時に土地を手に入れた連中がずっとその裏にいて、今最後の場面を迎えておる。その間、村の運営の権力を若者達に女性達に渡さなかったというふうに考えてみる。そうすると問題がいっぱいでてくるんです。これはお年寄りに対して猛烈に失礼なことを言っているのかもしれないけれども農村の構造的な問題は制度的な問題もあるけれども、お年寄りがお互いに傷を舐めあっている。世界の中で現状を打破するという気力が無くなっているというふうに捉えたほうがいいのではないか、というふうに最近僕は思うようになりました。
 鳥取県知事は、だからいっしょにやりましょうという話しになって、いろんな議会の連中を中山間地域にお連れ申しあげて集落で座談会をやって頂いたり、というふうなことを今やっておるんですけれども、田舎に行けば行くほどお年寄りはものすごく頑張っているけれども、お年寄りが頑張っている分、若い人が家からサラリ−マンで車で毎日通っている連中も地域作りにぜんぜん関心を持たない。じいちゃんが死んでしまえば土地を売って出て行こうという感じになる。
 そうではないと思うんだけれど、地域作り運動みたいな、これはやっぱりいろんな女性も男も年寄りも若者も入らないから。しかしその中から共通事項を選んでいたら絶対だめだ。共通事項を選んでいたら新しいものは何も生まれない。ここの中でこれだと、君らと全く反対のことをやるぞとコンピュ−タを使ってですね情報発信することから始めようみたいなことを意図的にやるみたいな、そういう仕事のしぶりというのがこれから大事なんではないかなと。農業が消滅するなら工業はどうなるかということもあわせていうとですね、しばらくは日本の景気は上がらないです。

農業基本法では農家は救われない
 ただ、日経新聞なんかでつらつら読んでいるとやっぱり技術開発力というのはまだ日本が優越しているから、それほどひどくはならないと言っているけれども、しかしこの間の日経新聞で東大の経済学部の伊藤先生が言ってたけれども、経済学で色々説明してきたけれども、日本の経済を論ずるにあたって、日本列島には大都市化型企業と大都市型以外の中小企業および農林漁業と2つに分けて、大都市型の企業と大都市型以外の産業を分けた時に競争をしているのは大都市型企業ではなくて中小企業型農山漁村型農林漁業です。これが中国の産業と真正面に競争して負けとる。そういうふうな分析がなされておる。
 彼はそれで打ち勝てるだろうかと言った時に、中国はまず為替管理をして我々はフロート制で日々変動しています。1元15円というレートで固定して、この一元15円、ものすごくかたい牙のもとで競争しているわけですから、日本はもうちょっとゆるめて30円ぐらいにしてもらうと助かるがなといってたけれど断固として日本に対してそんなことするわけがない。
 もう一点は労働力が安いということ。そうなればですね経済学で自由競争だとか市場原理だとかいってるけれども地域政策としては別の角度からの取り組みが必要だという。伊藤博士がそういうことをいっておる。ようやく経済学の先生方もわかってきたかなと。1次産業というのは経済の原理だけではだめだなという事を特に彼はパタ-ン化して大都市型企業と地方型企業、地方型企業は中小企業であり農林漁業。競争は実は大企業でなくてこちらの小さな中小企業とか農業で中国に爆破されている。したがって爆破されないように引き続いて地域政策にそういう観点で新しい基本法を見てみると、ちょっと今の基本法では農家、農業者は救いようがないという感じがします。皆さんもそういうふうに思っている。
 だけれども、国の政策というのは全体的で全体外交的でありますし、これは考えれば貿易為替の自由化をやった昭和35年岸内閣から池田内閣の所得倍増政策が進む、その段階で貿易活性自由化大綱をやってその基本原則はずっと続いており、さすがの小泉さんもやはり21世紀型競争社会をどうやって作るかというご議論をされる中で農業には一言も目を注がなかった。

地域政策と住民自治
 今年の5月7日の所信表明で農業ののの字もでてこなかった。だから市場原理とかグローバリズムは、これは優先してやるというのが小泉さんの意見だし、日本の経済社会の中ではそうであると思います。それは変えるに変えられない新しい基本法で新しい部分がいろいろできた。外交的には多面的機能を諸外国に主張して一応閣僚会議でも非貿易的関心事項としてそれを議論の中味に含めるという合意ができる。これは大前進です。だからと言って地域政策が変わっていくかというとちょっと変らない。
 地域政策は農水省の施策とは別に農水省の施策を使いながら地域が独自で、独自に発明し、発見し、実行していく必要がある。美山町の町づくりも本省のご指導で出来たわけでは決してありません。これは、美山町が伝統的に培ってきた、役場の体力が作り上げたものとか、村民の体力が作り上げたもの、そのように思えば、村づくり、地域づくりというのは改めて新しい政策を作るのは皆さんだと言いたい。こう言うと、また、国の奴は逃げると。僕は国の奴じゃないけれども、ちゃんと知恵を出せというふうに言われるかもしれないけれど、全体のスタンス、国の政策の枠組みというのは、基本的に変らないという前提にたって、しかし若者を呼び込んでいくのにどうするんだ、具体的に何をするんだという議論、これは地域によってやはり課題の中味が違ってくる。住民自治が大事だ。これも過信してはいけない。年寄りだけが決めているような事に即応する必要はない。というふうなちょっと過激な議論をやらしてもらう。
 だから日本はもぬけの殻になる、農業も殻になる。工業も殻になる。草だらけの中で都市が孤立して存在する。これではだめだ。美しい村作りというのはなんか面的に田んぼが残っていたり、牧場が残っていたりというふうにならないといけない。そういう意味で地域政策というような各市町村で各独自にというよりはマイスター制度のみたいな県レベル、県よりもう少し小さいレベルでブロック別に考えてみるとかいう、そういうセクタ−もあっていいのではないかなというふうに思います。

農業の原点は地産地消
 新しい基本法に文句いうわけではないんですけれど、新しい基本法は食料自給率向上を政策目標に掲げたけれども、実はそれを実現できる政策手段としては新しい政策手段は入っていない。これは貿易為替自由化大綱と関連していますのでその法律に書くことは難しかったわけですから、書けなかったと思うんです。
 だから自給率向上目標というのは、絵に描く、皆も努力するけれども今の政策だけでは足らないという感じがします。次は、したがって田舎は何をするかということでいいかげんに書いていますけれども、農業の原点は地産地消にある。これはそのとおりだと僕は思うんです。鳥取県もやっております。いろんな県で地産地消をやっております。愛媛はさすがにみかんを売り出す所でちょっと難しい感じだけれども、実際福沢さんがやっているのは地産地消で、これは原点で大事な部分だと思います。
 だけれども学校給食会なんかの仕入れて来るのを見ておったら、完全に地産地消と関係のないものを購入している。県の組織がそういうことをやっておる。しゃかりきに農水省は、文部科学省かつての文部省と相談していろいろやろうということでやってらっしゃいますけれども、なかなか本気になって教育委員会の方はやってくれていないというのが実態であります。市町村教育委員会は全くなにもやらない。数は増えてきたけれどもまだ、地産地消的給食体制をやるところは少ない。そんな足元から始めたほうがいいのではないか。

住民の活力を引き出す
 住民の活力を引き出すということで、これもすごいことを言っているんで恐縮なんですが、高齢者も村役からの引退を促す。議員も辞めてしまえ、70越えれば。各委員も70から辞めろ、というふうに言って見て後がないじゃないかと言われると困るんですけれど。辞めれる人は辞めろと。辞めていろんなご意見を言ってもらえるのはいいんじゃないですか。権力を持つのは辞めてもらう。
 二つ目は、女性で、若者の活躍の場を作る。これは農業委員会の制度があれば、土地改良の制度があれば、あるいはいろんな協議会とかあります。ああいうところにどんどん女性を入れていく。女性は戸惑うかもしれないけれど、女性の新しい知恵もいれこんでみると、また政策は変ってきますんで。
 三つ目は、戦後民主主義の諸装置の改変をである。というのは、制度的にも変えてしまったらどうだろうか。それぐらい世の中は激変している。大三菱銀行、東京三菱銀行になっても不良債権がどんどん出てくるというのはいったい何が起こっているのかよくわからないぐらいの、すごいことが起こっておるんですよね。小泉さんが一生懸命その時代の流れ、世界の流れに追いつこうとしている、努力されておる。それぐらい変化しておる時に、55年前の農地改革の思い出を語っているようなお年寄りが、村の権力を握っているというのはありえないと私は思うんです。極端で申し訳ない。
 次は、健康に優しい農業に作り変えていくという努力。これは、皆さんも応援してもらわないといけない。これはものすごく難しいことです。認証制度ができたりISOの認証をとりつけたり、あるいは県によって特別に認証制度を作ったり、いろいろ工夫されておりますけれど、ようするに今まで足らなかった分を今やろうとしている。この部分で消費者を引きつけるというのはかなりできる、現実に出来ている部分もありますからやはりやるんだ。
 それから農地農村情報の公開と農地IT市場の創設。IT市場の創設までいうとたぶん本省はすごくおこるんではないかと、あとで大目玉をくらうんと思うんですけれど書いてみた。あとは消費者と連携していく、交流の問題、今日のグリンツ−リズムなんかもものすごくいいことですね。

消費者との連携
 鳥取の話しばかり恐縮なんですが、京都生協が40万の消費者を背景に抱えていて、鳥取県の農協さんに対して、こういう商品作ってくれと言う要求を突きつけて、生産サイドがじゃそういう商品でいきましょうかというて作るという体制。
 つまり消費者がニ−ズを出して具体的なですよ、ようするに赤肉、たとえば霜降り肉はいらない、脂肪の軽いやつで100g270円ぐらいの柔らかい肉が供給できないかと、そういう注文を出すんですね京都生協は。そうすると生産者の方はそれは若令飼育で17カ月ぐらいだと儲けがでますね。そういう計算するんですね。やったろかということで、試験的にそういう畜産を始めようかという動きがこの間もあったわけです。
 これはまさに消費者が農家に呼びかけて新しい商品を作っているわけですね。そういう取り組み、単なる1村1品で漬物とか、お味噌だとかもいいけれども、もっと大量に生産されれば、大量に消費者が消費するもの、商品の中に消費者が求めているものを積極的に出させて、それで大元で組み立てるという、そういう生産サイドの努力というものもこれから要るんではないか、ということでこういうことを書いておきました。
 自給飼料を使った畜産。これは今転作奨励金まだ非常にに多いですよね。オールクロックサイレージ(?)を活用しようという動きは地方からずっと広がってきていますね。今補助金が続いている間に乗りかえる、あるいは遊休地になっている田んぼというのはそういう形で利用すれば使用価値はまだあります。補助金が切れた時にどうするかはまた考えないといけないけれども。その時には肉の生産者は体質体力が強くなっていて補助金なしでもやるという気構えになっているかもしれませんね。
 今補助金が農水省でせっかくいろいろ準備していてくれている。だんだん担い手に特化せろということになっているけれどもかなり平均的な部分もある。それをうまいこと活用してやがて、極めて少数の人が大部分の食料を供給するという体制に作っていく、ということになっていくのではないかと思います。
 ただ農業はそういう専門的な農業だけではなくて趣味的な農業も存在する。充分存在してもいいと思いますし、農村に賑やかさを求めるためにもお年寄りもきちっといなければなりませんから、若い人もちゃんといる。女性もいやだいやだと思って一生過ごさなくて済むというふうな、そういう環境を自ら我々が積極的に、都会の連中と呼びかけてやっていくという村づくりに、うまくいけばですよ、いかないかもしれないけれども、うまくいけば景観保全というのは、まずやはり農業がきちっとしてないかぎりは、とても無理だと。
 遊休地、耕作放棄地でセイタカアワダチソウ草がたって見苦しい田んぼが最近ものすごく多いですけれども、まさにそれを解決するためにも、地域政策を充実しないといけないなという感じがしております。
 あまり焦点の確かな話しじゃありませんでしたけれども、だいたいネタはこのくらいでありますので、もし役に立つとすれば先程説明したグラフが語っている部分、あれを市町村ごとに整理してみると非常に実力差が明らかに出てまいりますので、何故だ、何故だ、ということを追求していくのに有効だと思います。
 またおっしゃっていただければプリントアウトといたします。それでは私の話しはこのくらいでやめさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。


質問のある方、いらっしゃいましたら今お受け頂きたいと思います。

Q福島から参りました須藤と申します。中川先生には問題点を的確に、しかもぬけぬけとご指摘いただきまして、我々ある意味で溜飲の下がる思いでございます。実はレジメを拝見してて5ぺ-ジがとんでしまった気がするんです。ひとこと補足頂ければありがたいと思います。

 そうですね、京都生協と鳥取県農協というか、鳥取県は全農鳥取支店みたいになってしまった。しかし、JAさんは3つか4つあるんですけれども、そこを見とりますとですね、京都生協との関係で販路を作っておるんですけれども、そういうかたちで販路を作っている部分というのは、全国的にみると非常に弱い。価格競争がずっと続いてきた、この価格競争というのは特にこの4〜5年すごいと思う。
 中国から入ってくるものと競争している。価格問題もひるがえってみれば、昔からそうではなかったかと言われますけれども、中国が1978年の改革をやったあと、1993年ごろから農地改革で手に入れさした農地を百姓にもう一回再契約して、30年間の契約更新をやっている。集団生産を個人の請負い制度に転換して、その基盤が強化されたわけです。したがって中国からは、中国の人は安心して日本にぼんぼんやすやすと持ってくる。
 そこで外食産業なり中食産業がそこに喰らいついて価格競争をしている。そのなかで生産者はもみくちゃにされてだめになってしまった。市場が価格形成にとって、きわめて大事な場面になった。卸売り市場に行っていただいたらわかりますけれど、基本的な取引は先取り制度であります。せりは形式的に行われますけれども、だいたいは、せりはさわりの価格決定でありまして、二束三文で国産のローカル野菜は入札されてしまうという実態がある。
 ようするに市場の価格形成機能は非常に低下してしまった。逆に力を盛り返しているのは、最近のふるさと市であるというのは明快な事実です。これは生産者が勝手に値段を決めてその値段に対して消費者が応えているというかたちです。それは、やはり都会の流通しているものとは少し安い。燃料代が要らない分、輸送代が要らない分は安くなっている。したがってですね、朝市、ふるさと市というのは新しい境地を、農業における新しい境地を、女性が切り開いたと思います。
 これは農協さんが開いたのでは決してない。行政が開いたんでは決してない。これは極めて自発的な菜園運動から始まった。余剰農産物をスタンドに置いた。そこから始まった。今はもう素晴らしい。こういう力が農業の中にまだ残っているんではないか。そういう魅力を相手に消費者は車を駈けて産地にきている。そういう事実に着目して消費者ともっと語るべきだ。だからこそ、少し値段は高くってもこれは絶対に健康に優しくて肉骨紛使ってないよとかですね、ホルモン使ってないよということを明快に説明できる。そういう状態にしないと伸びない。逆にそういう状態にすれば日本農業はまだ売れ筋は残っているんじゃないかというふうに思います。

はい、ありがとうごさいました。ほかには。

Q山口から来ました。山本と言います。担い手の問題とか、そういうことをおっしゃっていましたが、ようするに若者の取り込みとかそういうもので、だいたい生産規模とか、農家所得とかそういったものは想定されて考えられますか。

A.考える必要はないと思うんですよね。好き好んで入ってくる人がですよ、経営に失敗するのはしょうがないですね。見殺しにするか、もうちょっと助けたろうかと、首長が判断するべきで、そんな画は書くべきではないとぼくは思うんです。経済も役所が律すべきではないと思うんです。だからお米の自給関係も実は食糧庁がやるべきではないというふうに僕は思うんです。
 ようするに自由な経済取引を前提に経済を組み立てられてるという中でやるべきだと僕は思うんです。後継者か誰か入っくる、若者が入ってきた時に営農累計がどうのこうのと、もちろん助けてあげないといけないですよ、技術は。芋は種からできるんかとか、蔓からできるんかとか言う話しになりますから、それはやはり普及所の先生方もちょっと面倒みてあげなければいかんけれども。しかし、「このぐらいの所得目標にして」というのはこちらからは絶対に言うべきではないと僕は思います。だから今までやり方は間違っていたんじゃないかというふうに思います。

Qそれをいうと農村景観論をやるのは違うぞということになるんで、やはりかけはなれたような感じを受けるんです。

 それは、あなたのご意見ですから時間がないので後にしたほうがいいんじゃないですか。ぼくは景観保全と非常に結びついていると思いますよ。僕の言っている事は、僕の頭の中では。

Q僕はもうすでに選択をたてているんですが、1つは100ヘクタ-ルくらいの土地があります。農地法の問題があります。これはもう地域に住んでいるとこの土地がどうなるかというのはだいたい予測つくわけです。5年後はだいたいこのくらいの土地は利用権は獲得できる。規模はようするに今の段階は分散の状況でもう少しすると集積できる。だいたい100へクタ-ルが3人ぐらいの農業者で経営できるという見方ができている。その試算までやったわけです。だから今地域が戦略をもつということも重要ですが、農業者がそういう戦略をもつということは、すごく重要だと思っているわけです。それで農家所得とかそういう規模をお聞きしたわけです。

 ありがとうございました。それでですね、国の政策のあり方として生意気な言い方させてもらうと,今貿易自由化して、公共措置は無くなったわけです。基本的にいうと関税しか残っていないですけれど。しかし、末端では経済的な資産であると。農地なんかは管理統制している意味がない。ようするに上を自由化すれば、下も自由化しないことにはぶっ倒れるだけじゃないですか。走ろうと思っても足が縛られている。自由化で公共措置が無くなっておればですよ、世界一の奴と競争するわけです。地べたやろうと思ったら何とかの法律で用件の設定とか、ぐちゃぐちゃいわれてですよ、これはぜんぜん論理矛盾というものですよ。

Q全体的な表のところですけれども、54歳から6歳くらいのところで全体がちょっと、きゅっと表をひっぱったような下にくるあのかたちのところは何でしょうか。

 これはですね、昭和41年,1966年、丙午とありましたよね。あれの影響でだと思います。違いますか、たぶんそうだと思います。

Q日本の食料産業としてですね、これを産業経済省とひとつにしたいですね。農林省が面倒をみれば、結局遅れてくるわけです。今都市では非常ににリストラが多いですからリストラの人をどう就業させるか必死なんですね。農村には、いろいろ土地もあるし自然もあるし場所もあるわけですね。それをどう活用するか。もう一つあるんですよ。都市でですね、60歳になって定年になって、それから何かやってと言う人がたくさんおります。しかも、いろいろ勉強し、技術もありですね。それから向こうをよく知っているような人はたくさんいます。そんな人がですね、農村に入ってきて仕事をやらないと、やはり人材ですね、人ですから。そういう人がこれからの農業、精密農業であるとか、バイオ農業であるとか、そういう最先端の農業をやっていくとかいうようなことをやっていかないとですね、今の現状では難しいというふうに思います。

 それは、小泉総理に言ったほうがええんじゃないでしょうか。私も反対しません。皆さんマイスターとかやっておられますけれど、学生の援農隊とか高齢者援農隊とかですね、都会で援農隊どんどんつくっていただいてですね、経営せんでもいいけど、お手伝いにきてくれとか、わしとこの屋根なおしてくれとか、川をいっしょに水路を掃除しましょとかね、その援農ボランティア集団をどんどん作っていただきたいと僕は思います。需要はいっぱいあるんですから。ただ経営に介入してくると農家は怒りますよね、誇りもあるんで。そこは、ちょっと注意しながら、しかし全体的にはボランティアマインドがものすごく強くなっていますんで、ぜひ小泉さんにご提案するとともに現場でボランティア隊を作ってほしいなという感じです。

Q株式会社の参入の自由化で変化がおきていますけれど、それをやるべきです。「農地法は撤回する」。そういうことをやらんといかんですね。それをやらないと活性化しません。

 僕もそう思います。株式会社は強すぎだけれど、とにかく認めた以上は株式会社から金出さして生き延びる対策をやるというのも一つはあるんじゃないかと思います。ちょっと実績があまり出ていないんですが。

どうも先生ありがとうございました。


美山町の事例発表
講師 美山町助役  小馬勝美氏
講演録 文責 秋本 治


 全国からお迎えしまして皆さん方を町長が出まして歓迎の挨拶を申し上げるところでありますけれども、町村会の用事で東京の方へ出張しておりまして、お前から上手に本当に心をこめて、御礼を申し上げておけという言葉を頂きましたので、その旨だけをしっかり皆様方にお与えし、そうして今日明日ゆっくりと美山町をご観覧頂いたら非常に嬉しく思います。
 只今ご紹介頂きました助役の小馬勝美でございます。今日のメンバーを見てみますと、全国各地域からいろんな関係者が、役人さん、県の職員さん、いろんな方がお出でになりました。ちょっと頭が痛いのですが、私はあくまで、助役らしくない助役で、行政人でない、行政人でありまして、行政一途でありたいという基本はもっておりますが、そのことの旨を始めにお断り申し上げたいと思います。
 それで、私とこの町づくりは、ただ一辺倒に1年や2年で出来た結果ではありません。昭和51年から、25年かかって、こんにち皆さんから評価されるようになりました。ただ、我々嬉しい事は、こうして、全国から、私たちの所へ毎年80団体から100団体程のご視察を頂いております。従って、私どもの視察を受ける側も潤っているという状態であります。
 これは、ただ単に、我々がその事を教授するだけじゃなしに、視察される事によって我々が、我々住民が所得を得るという事が原点であります。ですから、視察に来られて、例えば、ある県で県会議員さんが10時に来て、11時半に帰ると言われた時に、私は、県会議員さんの責任じゃないけれども、これは「事務局が悪い」と、こうした中山間地の視察に来て、そして自分達はええとこだけ取って帰って何も落さんという事は、これは極めて失礼なことであります。この時には「資料代はしっかり頂きます」ということくらい私もはっきりしております。
 これは、裏に住民の皆さんがあるわけです。本当に、毎日爪に火を灯すような状況で、いわゆる、産品を作っておられます。そうしたことを会話をし、また見ていただく、そして、買って頂いた時の喜び、その気持ちをしっかり忘れては駄目だという具合に思います。
 そういう意味で我々住民と町づくりは、25年かかって成果を得たわけですけども、こうした表彰を頂き、また、こうして我々が威張って皆さん方にこうであったというようなことでは無い訳でございますが、結果として、風が吹いてきました。そういう風をうまく利用できたのも実態であります。私自身も、先輩の皆さんから、先輩の優秀な職員から、あるいは、住民の皆さん方から、あるいは、うちの若い職員から、沢山のリーダーがおり、その中で、たまたま私が仕掛けてきて担当としておるということであります。今、下が溜まっておりますので、早く退かなければと思っておりますけれども、後から、リーダーがどんどん育っていくのを期待しておるところでございます。
 前座は、この位にしまして第一期の町おこしから今日まで、また、これからどうやっていくかというところをお話させていただきたいと思います。
 第一期。第二期、第三期は、走り出し期です。それから、四期のいわゆるグリンツーリズムを終わって「これからの自治体はどうあるべきか」ここなんです。今、合併の風が吹いております。合併は果たして良いのかどうか。この事の論議は、各市町村で、本当に首長を始めとして、議会の皆さん方、住民の皆さん方もいろいろと日頃悩んでおられると思います。
 私は、ここまでつくった状況の町は、グランドは、住民の物であり、住民自身が決める事が一応基本であるということ、これが指導の中にはあります。現実は、そうはいかないものもあります。しかし、このことをどう対応すべきか、これは、我々自身が最終的に判断せなんとしても、住民はそのことにどういう形での選択を取るか、この事の前座として、行司というものは、真に、住民のものであるように、中川先生の言った言葉ではなしに、いわゆる、昔の封建制の行司じゃなしに、本当の、住民自身がこれから選択する。こういう状況にある。一つの姿は何かと言えば、自治体が上からものを言うのではなしに、同じ目線でやると、これが私ところの町長の姿勢であります。
 従って、今年一月一日の訓示は、21世紀は心の建設に挑戦するんだと、このことが発端になりまして、具体的にそのプロジェクトの中でそのことのテーマを得ながら、今回四月一日から機構改革としまして、五つの旧村を盾に振興局というのをつくりました。
 あそこに五人の方が並んでいますが、あの方は一般の方で振興会長です。その下に副会長も民間でおられます。地域の代表の方です。それから、事務局長は支所の地域振興課長をそこに派遣させてます。
 それから、仕事する者もそこに派遣させてます。そして、地域の皆さんと一緒にいなって地域の利便性、高齢化に対する利便性、2つめには地域の人づくり、そして、3つめには、これからの美山に向けて、どういう山に、美山という山に、日本一のふるさとづくりに、どういうビジョンに変えるかということに取り組む為につくったのが振興会でございます。
 私の、下手な説明よりもプロいう事で、高野参事がアドバイザーしてくれますので宜しくお願いします。


高野参事
 それでは、私の方から、助役の話をより分かっていただく為にご説明をさせていただきます。スクリーンをご覧下さい。
 ここに出ていますように第三次総合計画というのを平成9年度に作成致しました。豊かな自然と水の里構想、温もりのあるふるさとの町、というふに名づけた訳でありますけども、いつまでも美しく、自然美に溢れ、住み良くて安心安全安定した暮らしの出来る美山町にする為に、住民すべてが考える事、そして、その、具現策と致しまして町職員によりますプロジェクトチームを作りましてその議論と、町長の英断、さらには住民の理解のもとに美山町に於ける新しい住民スタイルの町づくりのあり方を模索致しております。
 まず、今日にまでの美山町におけます村おこしの取り組みを3つの時期に分けて紹介をさせて頂きたいと思います。美山町は、昭和30年に、五つの村が、合併して誕生いたしました。面積は、340,47平方キロメートルと、京都府内の町村では一番広く、近畿でも、奈良県十津川村に続いて2番目に広い町ですけども、その、96%が山林であります。
 昭和40年代からの、高度経済成長のあおりをもろに受けまして、過疎化が進み、人口は半減をいたします。また、外材輸入による木材価格の低迷、減反政策による田んぼの荒廃、山から里に下り若者がいないなど深刻な問題が起き、それを認識するようになったのが昭和50年頃のことであります。
 住民への意識調査や、集落懇談会を粘り強く開催をし、住みよいふるさとづくりの実施方針をまとめ、圃場整備事業はじめ、農業近代化施設、地域集落の環境整備を実施し、多くの集落で多彩な集落営農が実践されました。「田んぼは四角に心は丸く」を合言葉に進めました。この時期の取り組みを、行政指導型の村おこし、住民意識改革の時期というふに特徴づけております。
 第二期の村おこしは、昭和63年第三回農村アメニティコンクールで優秀賞を授賞し、美山町の持つ自然と、景観の豊かさと、そこに息づく生活が評価された時から始まります。平成元年1月、役場に村おこし課を設置し「美山村おこし元年」と位置付け、旧五つの村に村おこし推進委員会を組織し、地域住民自らの創意と工夫による村おこし事業の展開をしていきました。
 行政も、住民も村づくりの大切さを少しづつ理解するようになり、住民の村おこしの参加が進んだのがこの時期であります。ここの経済成長の終焉は、人々の経済的社会的条件の変化と共に心の変化ももたらしました。金、物よりも、心の豊かさ、健康、さらには、ふるさとを求める人達が美山町へやって来るようになったのであります。
 平成元年に開設しました美山町自然文化村は、平成5年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された北集落や、芦生原生林に訪れる人々で賑わいを見せ、まさしく、都市農村交流の拠点施設としての役割を担っております。
 また、多くの農産加工品の誕生や、観光農園、野菜の朝市、民宿の開業により年間入りこみ客は47万人、その消費総額は8億2千万円にまでなりました。ここまでが、第一期から三期までの村おこし活動の経過であります。
 しかし、平成12年8月の農協広域合併を控えて、平成11年10月には、旧五ケ村にあった農協の支所の内3支所が廃止をされました。また、美山町の特産品としての美山牛乳や、漬物の加工販売事業も経済的不安定を理由に新農協には引き継がれない事になりました。平成12年の出生児は、町内全てで33名、高齢化率は32パーセントと、わが国の20年以上を先取りする超高齢化の町となると共に、人口は5,231人と美山町誕生時の半分になりました。
 その事を背景に、自治組織や村おこし組織、さらには社会活動を行う多くの組織がその存在が問われる状況下にあります。リーダーの高齢化、役員、世話役の兼任化、構成人員の減少、さらには価値観の多様化による組織活動の停滞が随所で見られるようになっているのが実情であります。このような背景と実情を真摯に見つめ、今日までの村おこし活動の成果に確信を持ちながらも、新たな美山町づくりを目指して生まれ変わりましょうの方針を作り上げています。
 では、何から始めるべきなのか。まずは、組織づくり、そしてその活動を通じて町づくり、人づくりに勇気をもって取り組む事を提唱したのです。自立した町づくり、地域ごとに活性化する町づくり、地域おこし事業起しに熱心な町づくり、人づくりに熱心な町づくりを目指す方法と定め、その方法に合致した組織作りを進めています。
 その組織は、住民と行政との距離を縮めよう、自分達の地域は自分達の手で守ろう、その為には人づくりが極めて重要であるとの3つの柱を定めました。
 そして、具体的には町づくりの中心に座らなければならない行政職員の人づくり、地域から信頼される職員づくりを進める為に行政サービスはもちろんの事、それぞれの地域で抱える問題点や、地域の施策について、その地域で解決できる組織と機能を設け、その組織を動かす人を配置する事とし、それぞれの組織に役場職員を常駐する事といたしました。そして、独自性のある地域づくりを追求する為に、新たな地域づくり組織を目指したのであります。
 昨年一年間を検討期間として、自治会や集落での議論を踏まえて、美山町に於ける新しい自治と共同のセンターとして、自治会、地区公民館、村おこし推進委員会を発展的に解消し、振興会を本年4月に旧5村全てに組織をいたしました。会長をはじめとする役員と役場職員とで常任委員会を構成しております。
 農事組合や婦人会は組織の協力、共同団体と位置付けています。さらに、農協支所廃止に伴って住民ぐるみで組織されました有限会社とは、がっちりと手を組んで、今後の村づくりを考える事としています。
 行政の住民サービス機能も受け持ち、窓口業務や小さな相談事などにも対応し住民から喜ばれております。今後は、若者や女性、さらには老人、新しく入ってきた住民などの声も村づくりに反映させなければなりません。また、ここで働く町職員は、地域で活躍する場を作ることも必要であります。専門部は、企画総務部、地域振興部、生涯学習社会教育部に分かれて、集落や住民からの要望に応えるとともに、今後の地域づくりを住民ぐるみで考える事と致しております。
 美山町の置かれている、厳しい社会的、経済的条件をほんの少しでも緩和し、克服する事を通して地域住民の利便性の向上、地域の課題を明らかにして地域の発展を見定める、そして、各種の活動を通じて人材の育成を図る事を目標に、行政と住民が一体化した住民総参加の町づくりに邁進をしたいというふうに考えております。
 その事が、住民も参加した民主主義の確立であり、より強固な住民自治の確立に繋がるものと確信をしております。
 最後に、「この道より我を生かす道なしこの道を歩く」武者小路実篤の言葉でありますが、町長の新年仕事始めの訓示を紹介して、非常に簡単ですけれども20年余りの美山町の村づくりの取り組みの説明とさせていただきます。後は、助役の方から、苦労話も含めてご紹介をさせて頂きますので宜しくお願いします。


助役
 この中で、振興会を支所扱いに受け取る方がありますけれど支所では決してございません。あくまで役場の事務局長、職員は役場の職員でありますので月曜日の課長会に必ず参加します。そして、地域に入る。そして、地域の要望を持って、そこで、全体で調整しながら全体のものにして行く、こういうことですので、旧村の支所ではございませんので、この辺も理解を一つお願い致します。
 また、つい最近には、国土交通省の扇大臣から私ところが金賞を頂く事になりました。この時、観光づくりという言葉が入っていました。観光ですと、例えば京都市内、あるいは、京都では宇治とかそういう名所がすべて観光地である訳です。けれど、美山町が新しい1つの農村風景として観光の土地になったと、この事が評価された。評価されただけじゃなしに住民の加勢、住民の発想、その中からこの50万近い都市の皆さん方を迎え入れた。この事を評価されたという事です。
 従って、私は、美山町のような所、中山間地のような所は、観光で朗々として威張っているところではありません。観光というのは、これは、あくまでそのものを見せるという事で、美しく見るという事で喜んで頂きますが、我々は観光の光はあくまで人間が選択します。従って、感動の感、感激の感、感心する内容がその町にあるのか無いのか、この事で決定されます。光は、出会い、人間、豊かさ、温もり、この事がお互いリピーターの皆様方と一緒になって成就出来る。その事によって、もう一回来たいなという気持ちを誘うのか、誘わないのか、この事によります。観光の観は、また歓迎の歓でもあります。このルーツをしっかり、住民一人一人の皆さん方が迎えていただける。リピーターの皆さん方に感じて頂く事が大事ではないかと思うんです。
 これは、難しい事ではありません。1つの例申します。「おばあちゃん、文化村って何処やな」という事で、ある人が車で聞かれます。「うん、すぐそこや」こう、おっしゃいます。そうすると、そのお客さんが、すぐそこと言われたから、すぐそこやと思っていたらなんぼ行っても山やら谷ばっかりだと、おかしいな、これは間違ったのではないかなと、こういう具合になられます。そして、文化村に来られます。で、私を呼んで、「館長さん、もうちょっと案内板をちゃんとしてもらわないと困るじゃないか」と言われます。
 だけど、あのおばあちゃん、もうちょっとだと言われた言葉が我々はホッとした。こういう形で言われた訳です。と言うのは、そういう事のきっかけから話し合い、会話が出来ます。何故、案内板をしないかという事も説明できます。この事が、1つの中山間地のこれからおける新しい観光であろうと思います。
 そして、また、一回では駄目です。京都駅からJ,Rに乗って、そしてバスに乗って、そしてまた、町営バスに乗って、そこまで行くのに3回位乗って、大阪辺りからだったら3時間かかって来られます。何の為に来るのか、そして帰る人もいれば、しかし、それがもう一回来たいなと、ここを、どういう具合に対応するか、これは、やはり1つは人間です。住民です。この事が大切であろうと思います。
 それから、宮崎先生、グリンツーリズムの有名な先生がこうしていろいろと本に美山町を書いてくださる。この先生は、51年は講師であり、それが美山町の町づくりを始めたころ、平成5年には助教授に成られました。その時には、北集落が伝建地区になったころです。そして、美山町が輝いていろんな表彰を受けた時には教授に成られました。こういう形で宮崎先生は、一緒になって美山町の町づくりにご協力頂いたという事からこういう本をいろいろ出しておられましてグリンツーリズムの権威という具合に言われております。
 一方、こうした歴史的な関係からでも、伝統文化の関係でも紹介させて頂き、また、民間からは、「おおい日本の原風景という事で産経新聞大阪本社が美山町に来た。こんな素晴らしい所は無いと、これは21世紀に残る1つのものだとつくられた本、全部写真です。これを全国63ヶ所に置いてくれています。その、一番の表紙が美山町の北集落。こういうありがたいリピーターの声援が、各界各層、いろんな階層から寄せられているというところに、今美山町が有るんじゃないかなと感じております。
 中川先生は、小馬は小泉総理と一緒だとおっしゃいましたけれど、そんな、短兵急にいくものではありません。私自身は、第一期の村おこしの時から第2期の都市交流までに10年間掛って参りました。で、「田んぼは四角く心は丸く」は何処から出たかと言えば、これは、「お前みたいに四角にしようと思っていても私の心は三角だ」と、「農家の土地というのにお前ら簡単に圃場整備みたいな事を言うもんじゃない」と、「わしはあくまで反対だ」という頑固なおじいさんがいる為にその集落は全然前に進まない。
 もうこんな話を何回しても駄目だ、これは保守主義から全体の町づくりの方向に考えて頂ける組織に変えなくてはならない。その事をするのに5年間かかりました。それは、柱は何かと言えば、川です。それから山です。里なんです。「当たり前の原風景をどう守るか」というこだわりをしてきたことも事実であります。
 あるいは、51年、西日本の三大名水ということで由良川の上流というかたちでNHKがドキュメントをやりました。これが評判で2回も放映しました。それを、私が目について住民の皆さん方に言いますけれども、多分、川は綺麗だったじゃないか、何を言ってるんだこんなことという。2つめには、やはり、その時には皆さん方、新聞記者の卵、含めて、美山に対する景観に関心のある者がこの町に飲み友達でチョイチョイ来ました。「お前ら、偉そうに言うけどここで死んでみろ」と、「このまま、美山町をそっとしておいてくれ」、「茅葺を続けてくれ」「そんな事出来へん」とやって、杯を投げ合い喧嘩しておるなかで、しかし、彼らの言うことには何かあるな、という事でナショナルトラストで調査をしました。
 そしたら、(美山町の茅葺民家は)630で残存率が一番多い。全国の戸数では兵庫県を中心に1500戸あると、けれども、美山の場合は、残存率に対しては日本一だと、この、日本一ができたという一つの盾を置きながら、住民の中に入ってその事を話して、今の北の集落の伝建地区の集落の座談会に入りました。
 昨日も、その息子の結婚式であったんですが、その、おばあさんがスピーチのあとで「小馬、何いうんや、貧乏で残した物をあんたら町の人が、ええいうて、そこら畑やら、裏を回ってはる人を、なぜ、追えへんのや、」と、「行政というのはそんなもんか」、こういう形でののしられました。いろいろとあります。しかし、そこには有識者の方もあって、何とか北集落を守ろうということで18年かかって、平成5年に北集落が伝建地区になるという経緯がありました。
 この位、時間をかけても、残さなければならないものを失ってはならない。しかし、これは上手にいった方です。ナショナルトラストで挑戦したのは3ヶ所あります。3地区あります。けれども、後の2地区はやっぱり落第しました。その位、全戸数が、これを景観として守っていこうという事で、山から、里から、川までこのままの風景をずっと残そうと、この決意をする為には、そうとうな、決意と、話し合いと、リーダーと、合わせて、何が、特権があるんだと、この事がハッキリ見えない以上は、なかなかの口だけでは、信用していただけない。しかし、その集落全体が基本的に、今、美山町のグランドとしてキチット位置付けられて、美山町と言えば北集落、北集落と言えば美山町、この所までグランド化してきたのが、平成5年から年の経緯の中になってきたところです。
 その、川と田と里、この事なんですが、これが、第一期の先程言いました5年の経緯にある訳です。この辺の話し合いは、先程のプロジェクターにありましたように、山は荒らさない、川が荒れていくのを阻止する。この事を、集落計画としてやりました。
 それと同時に、50戸の集落で、150人住民がいると、そして、プラスその集落から出た人が、例えば100人いると、250人が居る、という想定で田んぼをキチット整備しようじゃないか、この事を呼びかけた。これ分かりますか?自給の確保なんです。
 日本の農政は自給の確保と言っていますけど、数字的には30数パーセントということですね。せめて、私は中山間地には、こうして頑張って財産を守り、そうして、土地の方達に、いろんな点での空気、生命を与えていると言っても過言ではないと思います。行政が有りながら、戦後苦労してきて復興し、そして、高度成長でまた若者を取られ、残っている者がこの財産を守っている。この苦しみ、農と林の地場産業の苦しみは、やはり、我々が全国津々浦々の1300の過疎市町村を中心に発信すべきだと私は思います。
 その中で、例えば20町有りました。その数値の中で、非農家もあります。40戸あった中で20戸しか農家が無い、20戸の人はどうするんだ、この人の米も全体で確保しよう、そういう事で、全部農地を白字にしました。3町持ってる人は、なんぼ自分がつくるんだ。1反しかない人はなんぼ欲しいんだ。非農家の方はこれは農地法で単位面積がありますから、しばらくのあいだは買ってやっていこう、いろいろあります。
 それらを含めて、トータル的に、20町あるのが、15町でその面積がええということになれば15町で切ります。そのかわり、猪が出る、あるいは鹿が出る、水の便利が悪い、日当ての便利が悪い、そこは交換分合していこう。したがって、これからまだ20数キロあります芦生、美山町の町起こしの原点を、芦生なめこ生産組合があるところですが、たった2町しかない農地、あるいはこのへんの広びの土地、こういうところも含めて、全部土地の価格は最高上限50万、最低は30万、これはなぜかといえば、お互いが交換分合ができやすいし、貧乏でも、あるいは金がなくても、買えるようなことをして、それも含めて、そういう話し合いをして、全体が合意できた時には、その補助をしていこうということです。
 ただ、私とこは、広びの農業地帯のような、いわゆる、農業を増産するということではありません。いわゆる、集落の形成をどう守るかということからはじまる。
 そして、この計画ができたところから、行政はいろんな点での事業をやっていこうというかたちでやったんです。やはり民主的にここの経費も自分達で出してやっている所の方が先に組織が出来ました。農業の事は農事組合、山の事は造林組合という組織体制を作りました。年寄りの方も出られるし、戸主の方夫婦で出られる、若い意見も出られる、こういう状況で意見等を図ってきた訳です。いわゆるマスタープランです。自分達の将来の集落をどうするか、若い意見も聞こう、そういう中に1つの接点を求めてきたところであります。
 そして、56集落、約半分強の集落がまとまった所の1番まとまりの多いところからその事業をプロットして参りました。やはり、その事業のプロットも大事です。いくらそれまでに精神的なところで言っても、酒飲んでいる間はいいけれども、後、帰って三日程すると、ああーと、こういうふうに成ってしまいます。
 けれども、現実に自分達の集落へ持ち帰ってこれで本当に良いのかと言う話し合いを持った時には、必ず2〜3割は反対します。その反対者は、国の職員なり、県の職員なんです。それから、学校の先生、そういう連中が知恵を出すんです。「あいつら、年寄りばっかり居るのに、今更こんな金かけて田んぼ堀り返して補助金だして何するねん」と、こういう形の中での悪い役をします。そこえ「オッサン何すんのや」と言う若者が出て来たらしめたものです。
 こういう例が有ります。14戸の内12戸が70歳以上、大体70回以上行って「もう、私もこれでやめなしょうがない」という事で、最終的には無理をしないでおこうと言う話で切り上げようとした時に「ちょっと待て」と、1番長老の80近い人が言った。「わしは、明日死ぬか分からんけど、これで、若い者がこうした広びの中で、うちだけが、こんな状態だったら誰が作りに来てくれるんだ」と、「そういう事考えるとこれはやはりやろやないか」と、そういう事でその話が急にまとまり、そして集落のセンターが建つ、あるいは、婦人の皆様方の要求が出てくる。こういう形になった時に、そのおじさんを私は仏様のように思ったくらいで、今、集落もその中で荒れないでいます。
 従って、私の所は5〜6百町以上有りましたのが、大体、50町程は44年からの転作で山になりました。その山の木を降ろさないという事がまず前提である。だから、150町は切り捨てました。で、400町を分母に置きながら美山町の住民が自給自足し若干、まだ拠出が出来る。この範囲の中でやった訳です。その場合、全て住を中心にやりました。圃場の長い一戸の家があれば、どんな人が居ろうとその人が優先権を持った範ちゅうまでやる。そして、そこには、道をきちっとつける。
 大体、川があって、田んぼがあって、道があって、集落ですので、これから、10年先、20年先の車社会に向けて必ず集落道は造るべきと、こういう1つの枠組みを基本に置きながら、川と、山と、里と、しっかり守って行こうと、この事のこだわりを持ってきたのが第一期であります。
 従って、1番無かったんが、56集落の内22集落が集落センターが無かった訳です。区長さんの家で、あるいは、老人組合会長の家で十二時やら一時まで子供はグーグー寝ているのに、それを論議しなくてはならない。
 それも、良い事の論議ならいいけれど、悪いことを言い合いしてるなー、いろんな議論を子供さんに聞かさんならん、こういう事も有りました。その時、やはり出てきてのが「こういう場所でするんじゃなしにゆっくりのんびり出来るセンターが欲しいな」という婦人のささやかな要求です。「それならそれを建てよう、集落の一番いい所に建てよう」、こう言う話を持ちかけますと、ワッと、皆の衆が燃えてくれます。「こんなええことならやろうじゃないか、お父ちゃん、やろうじゃないか」、こういう事になります。
 男だけの話ですと、帰って、話が決まって「やる事になったぞ」というと「お父ちゃん、何いうてんのそんなのあかん」と言って叱られたら、おやじは何にも説明をようしません。そして「やると言っていたけど、もうやめます」と言って、そういう事が何回か繰り返します。それなら、もう一回おかあちゃん達と話をしよう、という形の中からそういう組織の大事さを感じてきたという経緯があります。ですから、雨降って地固まる、叩かれて強くなる、と言う言葉があるように、その事の目標に向けてどう有るべきかという事をしっかり置くならば解決する。
 それともう1つは、私ところの職員が頑張ったという事です。そういう事をする為にどうしても、裏方が要ります。だから、私ところの産業振興課に私が行った時は6人でしたが、20数人になりました。その職員が全部ミーティングやりまして、これからどう有るべきだという、お前の集落はどうこれから構想を指導して行くんだ、と、こういうミーティングをやります。
 そして、この中に入り、1番皆が嫌がる仕事を全部責任持つ、こういう、お互いがその中に入って、それが課長であろうと、誰であろうと皆その集落に根っこを下ろすと、こういう方向を持ちながら、転作の嫌な事についても、それは積極的に出よう、という事で産業振興や、農業の事、あるいは全体の実地を知らないで偉そうにものを言えるかいというところで職員としての、その課題が、皆、頑張ってやっていく事、そして、仕事は十二時まで、一時まで、残業を文句言わないで、あるいは、京都府庁に行っては夜中までそこで残業する。そして、府の職員が、「うん」と言うまで粘ってみる。こういうようなところまでの強い姿勢が生まれてきた訳です。
 そして、1番困難だったのが山です。これは、原生林という立派な山があります。この山は、前町長は、やはり、金が無いですから、それも分かるんですが、原発の揚水発電、それを誘致をしていきたいということですね、そういうような状況の中から住民反対があり、やはり、そうした事が良いのかどうか、皆はいかんと思っているけれども、町長の言う事も分かる、この辺の中で右往左往がありました。
 けれども、この山は、京都大学の演習林に99年で貸しておりますから、京都大学を無視する事は出来ない、まあ、いろんな要素がありまして、今になっては、それが帳消しになりつつありますけども、そういうような状況にマジになったんですが、現実は水がめであるということが我々だけでは分からないです。これが、都市交流の皆さんの力なんです。その情報なんです。やはり、広葉樹がキチット自然分布する中で水という豊かさを創ってくれた。この自然の原理、これが田舎なんです。この事のルーツを我々知らないなりに教えて頂く、そして、住民の皆さんにそれを情報として出していく、こういうようないろんな仕組みを作りながら美山としてどうやっていくんだと、こういう時に「これは、もう絶対に植林をしたら駄目だ」と、彼らは胸を張って言います。「そんなこと言うな、林業で食べてる産業を、お前らなんてこと言うんだ」と、また酒の上で大喧嘩ですね。けれども修正する事は出来るんだという事で、国の林審計画は、10年毎にやりますけれど、必ずアップしないと受け付けない。こんな馬鹿な事は無いだろうという事で、いろんな議論をして、私、当時40%の人工林率を70%に計画していたのを50%まで下げるのに相当ヒアリングで落とすのに苦労したという経緯もあります。
 一方、森林組合はチップやってます。これ以上木を切らないとチップも出来ない、こういう事があります。しかし、そこは金なんです。いわゆるチップがどんどん出ていかんようになってきた、木材の値段が下がってきた。こういうことが現実になってきたからこそ、こうして私は偉そうに言って、ここで、こんな事が言えることにもなります。
 しかし、その事のルーツを我々として教えて頂いた、そのリピータの皆さん、都市交流の皆さん方、この人達の真っ当な意見は、真っ当で受けていく、このことが大事だと思います。しかし、直球できたやつを速球で受けたら決して農村では受けられません。直球できたやつを、カーブしたり、ヒネッタリ、外したり、絞って、どれをそれを皆に食べて頂けるか、というような形で対応するのが我々の役目であろうという風に思います。
 そういう意味で、1つのこだわりの町づくりが川、里、山、にあります。もう一点だけ、集落の山側一番端、上で、そこに、木を植えたら、これは、住居も見えません。だから、東西20m、南北15mは植えないと、これは、全てではありません、この話し合いまでして、田んぼであろうと、住居であろうと、村の掟を皆で作る。こういうところまで話しをやって今まで守れた集落がここにあります。
 そういう具合に、やはり、私はこうして2期3期こうした村づくりが出来た、この経過は、基本的にはこの第一期の、家で言うなら3階建ての家を建てよう、立派なのを建てよう、それは、2皆、3階なんぼ立派であろうと基礎がしっかりしていないなら長持ちしないように、やはりその基礎を皆でいかに、住民といっしょになって、作りあげていくか、そしてやる気のある皆さん方をどういう具合に対応していくかということが大事だと思います。
 そういう意味では、私は何をつけても、行政あるいは、またそうした中山間地には必ずそれぞれの皆さん方の地域においても、課題があろうと思うわけです。そやけど、やりたいという形もあると思うんです。これが右往左往してます。課題を解決するのか、やりたいことを先にするのか、これどっちかということになります。
 けれども私は、あくまで挑戦が大事です。話題を出すということが大事です。話題をだして、話題をいかにストーリー化していくか。この役割を誰が受け持つか。ここなんですよ。そこで、今日お集まりの市町村の皆さん、この役を皆さんが公務員だ、月給もろてるんですから。
 住民考えたらそんなことあかんといわず。やる気があるならそれは対応しようと、それをどれだけ皆に広がるようになるんならと。だから極端にいうて、農水省の役人ちょっとこっちにおいといて、1人だけもやりたい人があれば受けてたつわけです。誰が受けるか。これは行政が一人だけでは受けられませんので、立場上、農事組合、グル−プ、組織化、そして、一人のことに事業をほうりこみ、地域に覇気をもたせる。だから、その一人が、地域のリ−ダ−になっていく。こういう人作りをまずすべきなんです。
 今日、全国から皆さん来ていただき、私がこうしたかたちでいろんな話しをさしていただいたことを御礼申し上げます。皆さん方の意に添わなかったと思いますけれども、今日は若干本音でものを言わしてもろうたことをお許しいただいて、いろんな点で差しつかえもあったか思いますけれども、どうか皆さん方、各地区でそれぞれの思いでお互い挑戦しましょう。ありがとうございました。

ご質問がある方、ぜひ。はい。

 宮崎から参りました秋本と申します。美山町さん大変先駆的なお取り組みをされて、本音のお話しを聞いてたいへんよございましたが、ただおそらくこの町づくりのなかで、これまでも相当な地方交付税だとか起債とかしていろんなものを注ぎ込みになられたと思うんです。国と地方あわせて666兆の問題ですね、財政危機の中でこれから行政評価制度だとか、事務事業評価制度を導入しなければならないという取り組みがでているわけですけれども、こういう先駆的な取り組みの中には、その物差しも非常にむずかしいものがあろうかと思うんですが、行政評価制度について、この町としてはどのようにお考えでございますか。ひとつそのお話しを聞かせていただきたいと思いますが。よろしくお願いします。

A 美山町が何いばっとるやという、中味をしらせくれということで。確かに税収は5億あまりです。交付税が20数億です。だいたい27,8億ぐらいです。当初予算で35億か40億が私とこの全体です。一般会計、特別会計だいたい60億か70億こういうのが実態です。ただし公債比率はまだ13パーセンと台でおります。そのなかで借金は約60億、。しかし、基金としては20数億もっている。そして、いろいろな関係がありますけれども、私はやはり今現実に過疎債というのがありますので、過疎債をどう活用するかによってもっともっと住民の中にその関係はキチット出来ると、ただ、我々無責任な事申しませんが、これは、村が潰れるという事はないと思うんです。
 だから、今後どう成ろうと成るまいと住民としっかり仕事をしておったら大丈夫だと思うんです。それまでに、職員とどう取り組むか、そこにあると思うんです。だから、我々は、5年間かかって職員の勤務体制を検討してきました。こういうようなことをしながら今回の合併問題でも、恐らく職員は反対するだろう、反対するんだったら月給が7割になり、職員数が7割になってもいらんのか、この事をお互い問うて行く、この位の腹が無かったらそんな偉そうな事言えないぞと、こう言わせると、やはり、客観的な状況をしてみるといろいろあるかも知れない。ただ、合併問題は、私は、合併して良いのかどうか、これは住民が判断する事であるけれども、この事をもっと問うていかんと、時間をもう少しくれという具合に思います。非常に厳しい町体制ですけれども、先程言いましたハングリー精神なんです。その事を住民と一緒にやった、それであるならば何とか行けるだろうというふうに無責任な事を思っています。

Q非常に内容は,素晴らしいと思うんですけども、そういう評価制度を、システムを、導入する必要があるとお考えでしょうか、無いとお考えでしょうか、その事をお伺いしたいんですが、

A評価制度は、まあ、逆に言えば私は住民以下含めて皆さん方の判断であろうという具合に思いますし、その為に、4年に一回の町長選もありますので、私は、それで、数字でどうのこうのとか、学者がやるからどうのこうの、そんなものじゃなしに、要は生き生きしてるかどうか、いわゆる住民のその辺の信頼度ではないだろうかなという具合に判断しておりますけども、ちょっと大きな事言ってますけど、ちょっとその辺でご辛抱頂きたい、

ありがとうございました。

他にございますでしょうか、無いようでしたらこれで、どうも有り難うございました。



美山町視察録(文責 秋本 治)

とき 平成13年11月30日(金)

1.かやぶき美術館
 皆さんおはようございます。ようこそ、かやぶき美術館へおいで頂きまして、有り難うございます。この建物は、民家を移築しまして丁度10年ほどになります。それで、この屋根は凄く急な屋根なんですけども、昔は、雪も多かったものでこれで良かったんですけども、今は、だいぶん雪も少なくなりました、で、北山型入母屋づくりと言いましてこの地方独特の建物です。
 ここには、美術館と郷土資料館とございまして、美術館の方では2階に上がって頂くと屋根裏が手に取るように見ていただけます。それで、今美術館の方では、絵画とドライフラワーの風景画というような物を展示しております。で、資料館の方では、農機具とか生活道具、昔の学習の本などを展示しております。二手に分かれて入っていただけたらと思いますので、どうぞ、ご自由に見てください。


2.美山名水株式会社
 山名水株式会社の概略を説明をさせて頂きます。工場内の見学につきましては大変中が狭いですので、もし、ご希望がございましたら、2階の方が見学場所になっておりますので、正面の階段から2階の方に上がって頂ければ、まだ、本格的な稼動はしておりませんけれどもラインの一部を見て頂く事が出来ますので宜しくお願いを申し上げます。
 この会社、美山名水株式会社は、設立をいたしましたのが平成7年の11月でございます。そうしまして、竣工致しましたのが平成8年の5月という事で5年を経過致しております。美山町の第3セクターという形で発足致しまして運営を致しております。
 設立の目的につきましては、こういった自然環境の良い土地という事もございまして、美山町の資源を有効に活用するというふうな事と合わせまして都市との交流、また更には、本町の産業振興という事でふるさと産品の販売、さらには、雇用の創出というふうな事を目標に致しまして、この会社が設立をされた訳でございます。
 施設の概略を申し上げますと、敷地面につきましては5241u、この工場の敷地内に、今ご覧頂いております二階建ての工場兼事務所がございます。延べ床面積が1958u、1階の床面積につきましては1240u、2皆が718u、というふうなことでございます。構造につきましても、ご覧頂きましたとおり美山町の木材を使用致しまして木造の2階建という事で集成材を使った造りであります。
 外壁につきましては、焼きスギの板張りという事で設計をしております。それから、倉庫につきましては、皆さん方後ろにございます、倉庫2棟持っております。製品を格納する倉庫でございます。200uと270uの2棟を用意しております。この、1つの総事業費でございますけれども、全て合わせまして8億5千万というふうな資金を投入を致しましてこの工場が建てられております。
 この内、補助金が5億2千2百万、残りの3億2千万を自己資金として設立を致しております。設備的に申しますと、建物の方で2億5千万、機械の方で5億3千万というふうな設備資金になっております。
 製造能力につきましては、ここの工場、お茶ライン、お茶缶を作るラインとミネラルウォーター2リットルのペットボトルを作るラインを持っております。缶ラインにつきましては、190g、245g、340g、この三種類のスチール缶を製造致しますラインとなっております。
 一日の製造数量でございますけれども、一番多いのは340g缶で、一日に8万缶、ケースに致しまして3300ケース、一番小さい190g缶に致しまして一日12万缶、ケースに致しまして4000ケースの製造をする能力を持っておるところでございます。
 お茶の種類と申しますと、緑茶、ウーロン茶、麦茶この3種類が主な製造の種類でございますけれども、他にお隣の日吉町さんの黒大豆を利用しました黒豆茶、また、変った所ではシソの葉っぱを原料に致しましたシソ茶も合わせて製造致しております。
 このお茶缶に使用致します水につきましては、地下水を利用しております。地下約80mから汲み上げました地下水を右手にございます200tタンクに一旦水を溜めまして、これを原料にしてお茶缶を製造しておる所でございます。
 それから、水ラインにつきましては、1.5リットルと2リットルのペットボトルのラインを持っております。これの、能力につきましては1分間に25本という事で一日に9000本、ケースに致しまして1500ケース。この水は、道の向い側にジンレンの水と言う昔からの湧き水がございます。これを、利用いたしましてこの水をミネラルウォーターとして利用しておるところでございます。非常にミネラルのバランスが良いというふうな評判を頂きまして、美味しい水という事でそれぞれご利用を頂いておる所でございます。
 それからこの工場で、今、雇用の創出と申しましたけれども、今現在働いておりますのは、全部で21名おりまして、その内正社員が13名、パート社員が8名、という事で21名の者がこの工場で働いておる所でございます。
 それから、販売実績ですけれども、非常に設立当初、販路拡大というふうな事で非常に努力、苦労した訳でございますけれども、おかげを持ちまして、この販売実績につきましては、平成12年度6億、平成11年度6億5千万、というふうな事で、非常に販売ルートも確立をされまして徐々に安定した販路を確率する事が出来ておるというところでございます。
 以上概略の説明を致しましたので、もし工場内の見学を希望される方がございましたら、この正面から階段を上がって頂いて、2階が見学の通路になっておりますのでご覧頂いただきたいと思います。


車中で
 小学校は、5校ございます。中学校は1つです。小学校は、もう全て建替えを致しましたので、ほとんどの小学校が木造建築という事で、一ヶ所だけ少しだけ早い時期建てたのがありまして、それが鉄筋になっています。それ以後建てたのはすべて木造で、だいたい校舎で3億位かかっております。
 昨日明かりがついていた建築中の建物が、森林組合の庁舎でございます。間伐の推進センタ−という名前で補助金を受けていますので、そういった名前がついておりますけれど森林組合の庁舎でございます。総工費1億3000万ぐらいかかっています。昨日竣工検査をしたところです。美山町は大変広い町でございまして、340キロ平方、近畿のなかでは奈良の戸津川についで面積的には2番目ということでございます。今日は芦生のほうにいっていただくんですけど、芦生は1番東の方になりまして、かなり温度差があります。
 美山町はたくさん雪も降るんですけれども、今有りました役場と、これから向かう芦生の方は積雪量がかなり違います。多いところでは1m以上降りますし、南の方に行きますと降雪量は少ない、40〜50cmという感じです。
 今年、少し紅葉が早かったと言っていますけれども、この10月、11月というのは、原生林、芦生原生林のハイキングツアーなんか非常に人気の有るコースで、気候としましては、今日みたいな雨の日がどうしても11月というと多い訳なんですけれども、12月になりますと初雪が降って、1月、2月は雪に閉ざされる事が多いという事でございます。
 除雪の方は有りますので、そんなに不便はないと思います。95%位が山林ですので、400へクター、400町歩位の農地がある位です。基幹産業は勿論農林業なんですけれども、ご存知のとおり、農業もそうですけれども林業も非常に木材の価格が低迷しております。最近は、木材で美山の木を切ってどうのこうのと言う事は、いわゆる搬出する経費にかかってしまいまして、採算が合わないというのが現状です。ただ、間伐に対する補助金とか、ちょっと専門的になりますけど補助金で林家所得も上がるというふうな政策をやっています。
 左手前、これ「湯葉」の工場です。京都市内の方がこちらの方に来られて、ここで湯葉料理とか湯葉の製造をされています。もう1つ、こちらに来られて「麩」ですね、「麩」の製造をされている方もいらっしゃいます。
 これから行きます美山ふるさと株式会社という事なんですけれども、旧農協の本所が有った所でございます。昨年、農協は広域合併をしまして、本所は、よその町に行きました。美山町は、大野ダムというダムを建設されたんです。その時、酪農を導入しまして牛乳の製造をやっておりました。牛乳なり漬物の製造を農協の方でやっていたんですけども、合併農協がこれについては引き継がないという事になりまして、それで、町の方で買い取った形で運営をしております。
 で、ちょっと話が前後するんですけども、土地の値段が上がりました。平成になってからなんですけども、不動産の登記という事で、ダム開発という事もありまして、町の方で第三セクターで不動産屋を設立しました。平成4年なんですけれども、美山の方で土地を手放したい、土地、家屋を手放したい、土地、家屋を手放すという事は、非常に、抵抗ありますのと、販売についてもどんな方が入ってくるか分からない、というような事で、その相談窓口という事で不動産屋を始めた訳です。
 で、現在まで、平成4年以降70戸で200人位の方がこちらの方に移り住まれております。全て、定住を基本という事で、田舎は行事、消防とか地域の活動が大変です。それを理解された方だけに担うという事で、ちょっと分譲みたいな形で、2〜3分譲みたいな事もしましたけども、ほとんどは、それぞれ、ばらばらで家を建てられ、来て頂いております。
 ここは、旧村でいうと平屋と言う地区なんですけれども、バスが行きますところが、農業振興センター、牛乳の販売、製造販売、ふるさと株式会社という会社もあります。
 右手は医療の関係、保健センターと診療所ですね、右側美山診療所で、向こう側が保健センターという事になります。着きましたので、ここを9時50分に出発の予定です。


かやぶきの里
 おはようございます。遠い所お尋ね頂きまして有り難うございます。これから、この集落のご案内をこの場所でさせて頂きます。ちょっと時間の関係で村を歩いてのガイドが出来ませんもので、失礼を致します。そしたら、山手側の集落をご覧頂きます。大体、家の数が50棟ほど有りました。その内、かやぶきの棟が現在26戸ございます。
 かやの上に鉄板を巻いているのが6つ、それから、瓦とか鉄板に葺いております家も40年〜50年前ですとほとんどが杉皮葺きでございました。実はこの村、平成5年に白川村に次ぎまして2番目に農山村の保存地区に決まりました訳です。今日現在では、農山村の保存地区は8ヶ所に増えてきております。そういう関係にございまして、瓦葺きの家も家の間取り、それから、部屋の中で囲炉裏を焚く、そんな生活もほとんど一緒でございましたもので、大体、この集落の90%以上が保存対象の建造物になっております。
 それと、この集落は山の斜面に大体こういう形で村割りの配置がほぼ決まりますのは大体500年前にさかのぼる事ができます。村の道、それから谷をどういう形でこの川に水をはかすのか、屋敷割、絶妙の村割計画がされております。これは、歴史地理の先生達も本当に感心しておいでですけども、当時これだけの計画があったという事は凄いなあというふうに思います。
 で、こういう村というのは別に40年、50年前は珍しい風景でも何でもございませんで、全国押し並べてこういう集落がたくさんございましたけれども、時代の流れの中で、本当にこの村のようなものは減りました関係で、ここが保全をする、保存をする価値があるという事をお認め頂いた訳です。
 十数年前までは、ここに住まい致しておる者も、本当にこの村を残していかなんのか、歴史的な一つの遺産として価値を持つんだという理解が中々難しゅうございまして、毎日生活しておりますもので当たり前の感覚でおります。ですから、これを何とか保存出来ないかというお話がありました時にも、随分何回か勉強会を持たせてもらってお互いの理解をしようという作業というのが続きました。
 幸い皆さん、そういう事だったら保存していこうじゃないか、という事で割合すんなりまとまりまして、保存地区の受け入れは100%の賛成で決まりましたです。それから、この村並を1つの歴史的な風景として残すという事だけではなしに、何とかここで生活出来る、また、若いメンバーを村へ帰してくる、それから、他から移り住みたいと言う人、それも迎え入れる、また、ここが、段々知られていくようになりますと、町全体の1つのまあこれからの歩みの中に貢献できる事が何かあるはずだと、ここから町の方へ情報を発信する事も必ず可能になるだろうと、まあ言うような事で皆さん積極的にその事を受け止めてやってまいりました。
 なにせあの、保存地区の前へ流れていますがこれ由良川でございます。それから、その周りにあの茶園や自家菜園の畑を持っております。こういう物を建造物と一緒に保全をしていく、これが無論村並の保全でございますもんで、宿場町とか城下町、門前町の保存と又違いまして、まあそれだけに随分人手も掛かります。環境も随分大事になって参ります。まあ、そうやっておりますうちにこの村出身の若者がかやぶき職人に、名乗りを上げてくれました。まあこれは、32年ぶりの新しい職人の見習い7名の若者が屋根を葺いております。で、この新しい屋根の分がちょっと見えますけれども、これは皆この2〜3年に、葺き替えたもので、一番新しいのはこの1月です。
 それは、この若者グル−プ、若者の集団の職人たちで全部仕上げております。え−随分みごとに葺き上げておりまして、その葺き方は、昔よりも、昔は一般の農家住宅ですもんでもっとずっとこの葺き方が丁寧になって来てります。で、かやの問題は、今材料が足りませんもんで遠くまで刈りにいったり、買い付けに走っておりますけども、職人の後継ぎは出来ました。
 次は、材料の確保と、こういう事を言われまして、今この集落のバックに有ります植林されている部分というのは40年前までは、皆草刈山と薪を取る山でございました訳でございます。で、里山の風景も随分ここの集落は、雑木林が残っておりますけども、昔はもっともっと山の裾まで里山の風景というのがキチット残っておりました。
 で、ここ、実は後継者の来るのを作っていきませんとこれは続きません。屋根の寿命も煙を上げませんので随分短くなって来ております。平均20年位しか持ちません。また、この周りの環境を維持して行こうと思いますと、若い働き手というのがこれ以降大事になりますので、また、お嫁さんたちも、迎え入れなんということもございます。
 いろいろ補助事業を受けまして、川沿いの2棟の館を作っている。後は村の責任で独立採算、維持管理をするということでございます。実は、このレストラン、それからおみやげ、餅の加工、そこで、若者4名正職員で働く場が出来ました、後、パートはこの集落だけではなしにいろんな所から参加をして貰っております。
 現在、年間の来場者は、大体12万人位になると思います。ここに、お土産で置かせて貰っている物も広くこの町内全域、それから、隣の町からもふるさと産品なんかを置いて貰っておりまして、結構人気が有りまして、ほとんどの方が大なり小なりこの地域一帯のお土産品を買って帰って貰っているという現況でございます。

Q売上お幾ら位ですか?大体でいいです。

 ちょっと分かりません、別に税務署に内緒にする訳ではないです、まだ、年内集計出来ていないと思います。で、人口は、大体住民登録していますのが去年の4月現在で44世帯127名でございます、実際は、もう少し少ないです。江戸時代の戸数も大体その程度で50軒ない位でございましたけども、人口は、250名から280名ぐらいでございました。それは、明治の頃もずっとほとんど変りがございません。それから、私所の集落の屋根の形は、屋根4面にむねを乗っけております入母屋の造りでございまして、五個山なり白川の合掌の造りとよく対照されます。向うは屋根2面でございますけども、ふき方が大変難しゅうございます。4つのスミがありますのと、棟のふき方が難しいもので、村中総出で何百人という人間が一斉に掛かりましても、これは、余分な労力、能率が上がりませんもので職人2名、それから、お手伝いさん4人で、大体、屋根全部ふきあげますと30日から35日位かけてやります。
 ですから、痛みのきつい所から順番にそこの部分だけのふきかえをやって、ずっと一巡をしていくという形でございます。屋根のふく技術、家を建てる技術、木挽きをする技術、製材をする技術、昔は、山稼ぎですので筏で流して行く訳ですけども、筏を流す技術、こんな技術は、若狭、越前、越中、梅野、飛騨、大海、大和、紀州、播州、安岐、この方面から皆技術を入れております。
 ですから、昔の方がこの技術を取り入れる、また、吸収して定着させるという意味では、今よりも遥かに深みがありましたし継続しておったという事で、今はどちらかと言いますと交流というのは上滑りな面の方が多いのではないかというふうに思われます。そんな所で大体の案内を終らせて頂きます。

Q日本一のかやぶきというのは、どの部分が日本一になるんですか?

 私ところの町全体で残しておるかやぶき屋根の数です。町村の場合。市を入れたら神戸市が一番多いです。

Q人が来すぎてうるさくないですか?

 そういう日も有ると思います、来て頂かないとあかんのですけど難しいところです。

Q程々には来て欲しいと思うんですけど、来過ぎれば大変なんでしょう。

 その一時期だけです。

Q一時期とは、一番混むのはどの辺5月の連休とかですか?

 いや、11月も今年は多かったです。

どうもありがとうございました。