人間性回復の森

闇夜のブナ林ミッドナイトウォーク

 1997年11月3日。霧立越登山口で待機するバスから、窓を開けると、落ち葉を踏む乾いた音に混じって笑い声がこだまし、朝もやの樹間からヤッケに身を包んだ登山者の姿がチラチラと視界に入ってきた。生まれたてのような明るいオレンジ色の陽光が幾条にもなってブナ林を水平に突き抜け、その光に当たった顔は皆んなニコニコとして弾み、全身が笑っている。

 「お帰りなさい」私はそういいながらバスへご案内する。「とてもよかった」「感動しました。」「素敵でしたよ」。皆んな口々に嬉しそうな笑顔で応えてくれた。まるで宝物でも捜し当てたように、ひそひそと大事なものを自分だけでしまいこむように、嬉々としてバスに乗り込む乗客の姿に、私はハッとして、人とはこんなにも美しいものだろうかと目を見張った。演奏会のホールから出てくる人々もこんな感動的な笑みを全身に湛えた姿を見せない。街で行き交う人々にこのような美しい姿を見かけることはない。この時ほど、人が美しく感じられたことはない。まるで後光がさしたように神々しくさえ見えた。

 思えば、昨日は、午後1時から6時過ぎまで神社の境内で寒さにふるえながらのシンポジウムであった。夜は、ブナ林食の「森の恵みの晩餐会」。山唄に山伏問答、お神楽に炉端談議と深夜を通り越して続く。今朝は、ほとんど寝る間もなく午前3時にバスで出発、標高一.六○○bの五ヶ瀬ハイランドスキー場に着いた。バスから降りると凍てつく凜とした空気が肌を刺す。闇夜を見上げれば、きらきらと満天の星が手に取れるほどで輝き、遠くにぼんやりと山並みの稜線が、またたく星空との境界を引いている。

 ここで、3人づつに分かれて、懐中電灯を頼りに息をひそめて尾根伝いに向坂山へと向かった。闇夜は、森の精を驚かせないように静かに歩かねばならない。大声を立てたり、大勢で喋ると山の神もびっくりするという。静かに向坂山から日肥峠、白岩山へと歩をすすめた。獣の匂いが漂ってくる。すでに落葉したブナ原生林は、落ち葉のふれあう微風でも大きな音に聞こえたりする。深い闇の森はときとして森の妖精の存在を感じることすらある。

 白岩山頂で休息していると、山々の稜線がしだいに姿を見せはじめる。やがて一点が茜色に輝きはじめ、朝霧が渦巻き、鹿や野鳥の鳴き声が山々に響く。耳をそば立てると水の音が通りすぎていく。はるか彼方の谷川のせせらぎが上昇気流に乗って届いたのであろう。ブナ原生林の山頂で迎える夜明け。それは魂が洗われるような神秘的空間である。いかに人間の存在が小さいか。宇宙を感じ、自分がそこに立っていることすら忘れさせる。下界は何をするものぞ。人が山にいて仙人と書き、人が谷にいて俗人と書く。まさに、ブナ林の夜明けに佇むは仙人の境地である。

 こうした感動覚めやらぬまま下山した参加者は、強引なスケジュールに疲れも見せず、ひそひそと嬉しそうにバスに乗り込んでくださる。その姿は、まさに後光のさしたように神々しく見えた。自然は人間性を回復させてくれる。森は人間の母だと思った。

1998.1.13
やまめの里 秋本 治