マイスターフォーラム
参加リポート

宮崎県農業会議2000.2   やまめの里 秋本 治

主催:財団法人ふるさと情報センター
テーマ:「地域活性化に貢献するグリーンツーリズムの実践」
時:平成12年2月15日(火)
会場:熊本市桜町、熊本交通センターホテル
基調講演:「自然環境を活かしたグリーンツーリズムの実践」
講師:熊本大学教育学部教授  佐藤 誠氏

グリーン・ツーリズムの全国連携を
 ご参加の皆さんの名前を見ますと、学生時代から尊敬しておられる方のお名前も多く見受けられまして、ある意味で仲間としてこの十年間苦しい戦いを切り抜けた同志として、本を読んでいる学者としてではなくて、阿蘇で戦っているお仲間としてお話をしたいと思います。

 中山間地域の自然環境や伝承文化、また、かけがえのない暮らしの歴史、こういうものを売りにして、日本のマーケット、場合によってはアジアマーケットを開いていく、そういう具合でグリーン・ツーリズムを一つの地域総合産業として複合産業として展開していこうではないかということです。そのためには住民の顔の見えるものを、ちょっと乗り越えて自然指向で普遍的な、どこにでも売れる商品、独自の地域資源を商品として売れる体制作りを一緒に考えましょうという、そういった面の全国連携を作ろうという話に結論はなると思います。

 昨日まで小国のツーリズム大学初の合宿研修を湯布院で二泊三日、学生とやっておりました。九州ではいろんなネットワークがございまして、わたしが非常に感動しているのは、九州農政局構造改善課の皆様のボランテイアで九州グリーンツーリズム応援団が1週間に1回無料で500人の方にお配りして伝えてくださることです。福岡の新聞社のバックアップもあります。この厳しい時代、都会の人達が汗を流して一緒に官民一体となって、盛り上げようという渦がでてきた中で、今日お話できる事はとても私はありがたいと思っております。せっかく今日集まられた200人を越えられる官民の方と本気になって、連携事業をしたいという提案にもっていきたいと思います。

中国と日本と韓国のトライアングル
 よく外国の文献を見ますと21世紀はツーリズムの時代だと言われます。ツーリズムとは、1810年に、イギリスで「人生を楽しむ達人」と言う意味で作られた標語でありますけれども、50年後イギリスのシーサイドリゾートでいわれ、また50年後アメリカの複合リゾートで、そして1960年代のバカンスを基点としマス・ツーリズムというかたちで広がりまして、50周年の周期をもってツーリズムが爆発的に伸びております。

 いろんな方と議論して2010年代はどうも日本と中国と韓国をトライアングルに、アジアで爆発するという事が、いろんなマーケットや学者の方が共通して最近言われております。理屈を言わせていただきますけども三つの構造をもって大変重要なものであるという事を主張したいわけです。一番上に文化、ホリデーの文化があります。次に休暇の社会制度があります。そして、その下にツーリズムという雇用と所得を生み出す三層構造になっています。

 我々がめざすツーリズムは、21世紀の希望を宮沢賢治が「文化は地方から出てくる土から生まれる」というこうゆう法則の展開を構築し、ふるさと再生の基幹産業として、産業であり制度であり文化であるものをつくりたいという思いで考えております。そのためには5つの連携が必要だと思います。一つは農林事業をベースにした地域の複合産業を構築していくということ。農民だけでもなく、商業者だけでもなく、観光業者だけでもない、それぞれがばらばらになっていた地域の力をたばねていくという作業が大事です。

 湯布院を我々ツーリズム大学の研修地としていつも言っているのは「村の命を都市の暮らしへ、都市のエネルギーを村の命へ」と還流する仕組みで、観光業者へ呼びかけて湯布院型グリーンツーリズムといわれるものを成立させようと言うことです。私は、かねてから都会の人のリスクとコストと知恵と力をまきこみながら農業をベースにした地域のしたたかな湯布院モデルというのを考えています。これからの地域は、どんなであろうと一つに束ねない事には、生き抜いていけないという事を習っております。

 二つめの連携は、今までの様に補助金をもらって、ばらまいてお客様に撒き餌で、何人来たという事ではだめなんで、しっかりコストとリスク、市場のマネージメントをうる力を地域が持っていないといけないということです。そういうためにはそれなりの事業選択というものを、我々が地域を越えて全国連携の中で産官学民一体となって行なわなければならない。これはものすごく急がなければならない。

 第三番目に、どう見てもこれからの時代の成長軸はアジアでございまして、中国と日本と韓国のトライアングルを作ろうと言うことです。中国では6億人が旅をしはじめましたけれどGDPの2.3%、これを2010年には8%の基幹産業に育てあげていくというような国際連携をしたいと言うことです。韓国でも金太中以下私どもが4年前にアジアグリーンツーリズムの会というのを結成しましたけれども、韓国はものすごく熱心に大学や官主導で行政がですねツーリズム開発にすごい力をいれて予算に反映していきますけれども、日本はとっくに遅れていると思います。

研究や人材育成や社会連携の軸として大学を使おう。
 3年前、タイの国立の農業大学から先生がお二人お見えになってエコツーリズムデイパーテイメント、エコツーリズムの学科を新設したいと研究室を訪れられて、私はタイにも負けたのかと思って非常に悔しい思いをしましたけれども、日本は研究においても非常に遅れをとってしまっております。学ぶべきものはたくさんあります。

 情報の連携は東京にふるさと情報センターがあるわけですけれども、特に私は小さい地元の情報をしょっちゅう新しくしながら発信する必要があると思います。秋本さんという方が五ヶ瀬からお見えですけれども、本当に関心するのは、まめにインターネットから「やまめの里」の情報を出されているという事です。東北の調査に行きましたら遠野という所で、東京から来られた超一流のIターンの人達が最新システムで日々刻々と変わる更新情報をインターネットで出されているのを道の駅のブースで即コピーして感動しました。最新情報を出しているのに、非常に感動したんです。我々は情報戦略というのを適切に、これはあっという間に普及すると思いますけれども、これは非常に重要であると思います。

 第5番目に、研究や人材育成や社会連携の軸として大学を使いたいと、私は10年以上学校から落ちこぼれて阿蘇の開発に落ちこぼれ教師と自称しながら関わってきたんですけれども、危機をむかえて走りだしまして、一気にこう弾みが今つきつつあります。

 熊本大学は地方大学として、このままではつぶれてしまうという事で社会連携のコアとして民と学、官と学の実験室として生き残ろうという事で、昨年末、文学部と法学部の教授会で我々の提案が起用されまして、地域連携フォーラムというのが結成されました。で、学長とか事務局と折衝して国際シンポジウムを7月に開くという決定が得られまして学長予算がつきました。大学は、これから先端だけじゃなくって、ローカルなところにおいても雇用と所得が一番たくさんでるところで地域の大学は、先頭をきる覚悟はできつつありまして、ぜひ地元の自己責任で行動できる強い個人と、NPOそして企業、行政そういう多様な個人や団体の社会組織との共同で新しい公というものをつくろうと言うことです。

 これは小渕総理の諮問機関が当地ではなくて郷地だというコンセプトをお借りしているのですが、いままで考えたこともないようなフレームを造って地域の連携を束ねる知的なコアにできないか、大学を使って欲しいということです。私も最近は個人で動いているのではなくて大学人として地域の活性化に動いておりますが、大学の機能として必要だと思います。

 今、全国的にあれこれツーリズムについての連携の動きがすごく活発になってきております。87年リゾート法ができました時、各地で地域自立のツーリズムを連携できないかという動きが自然発生しました。十勝を中心とする北海道のブロック、それから今年で第5回目の東北地区グリーンツーリズムフィールドスタッフ21を開いた東北のブロック、それから96年結成の西日本新聞社がサポートしているグリーンツーリズムネットワークがございます。私が関係しているのは3つの連携構築が数年続いてきております。

 今年は地動説じゃなく天動説みたいな言い方で恐縮なんですが、根元にあるものとして私が関わりがあるものは国土庁がバブル崩壊後自然や文化にふれあうリゾートにコンセプトを出してその国際シンポジウムを開いた時にイギリスのアーナード・レインという大学の先生を基調講演に、そして私が日本の基調講演をさせていただいたんですけれども、そのあと2人で全国行脚しまして熊本、青森、東京という所で大きなシンポジウムを開いて全国連携なくして各地の生き残りなしという事を訴えて廻った訳であります。

小国のツーリズム大学が引き金。
 その時の大学の先生や政府関係者の方、いろんな方とのネットワークをベースに実は九州ツーリズム大学の先生方その時の人脈で東北や東京、イギリスあちこち電話一本でロハで教授陣が駆けつけてくれる、そういう在庫ができました。これは、小国町が500万、本当は私、湯布院町に作る心づもりだったんですが、シンポジウムの時に宮崎町長が「いや、うちの町がやります。」と言われたので、もう小国に決まったんですけれども私は本当は不満だったんですけれども、今、良かったと、本当に良かったと思います。

 この話をすると時間がなくなりますから、お手元に九州ツーリズム大学の顛末についてその何ページかを紹介しておりますのでそれをごらん頂きたいと思います。とってもおもしろい大学です。全く観光地ではない観光協会もない小国町でツーリズム大学を開設してしまったものですから。人材がいたわけではないんですけれども、湯布院の中谷健太郎さんが教授を引き受けてくれたり、宮崎の秋本さんも講師をお勤めいただいたり、全国からまたイギリスから客員をお招きしてゼロからの学びを今年で3年目ですけれどもお受けしました。

 誰が来たかと言いますと、新聞を見ていろんな方がお見えでした。九州五県から片道4時間かけて二泊三日です。だいたい七ヵ月で30万かかるプログラムなんですけれども、30万もかけて得体の知れぬものを長く来る人がいるかと心配したんですけれども、試験をしまして60人が一期生に入りました。

 東京大学や早稲田大学の大学院の学生も4人程来ました。町長出身の方とか行政の方、役場の地域振興の方、業者の方もおられましたけれども、農家の方が半分おられまして、それが新しい業態を市場へのアンテナを張りたいと言う方で何かわからないけれども来たという農家の方がかなりおられました。それから、都会からも自分探しをしている女性がかなりおられました。大学の先生、それから最後に卒業式でわかったんですが、目つきの鋭い一度も自己紹介をしないおっさんが殺人課の県警一捜査課のデカだったという最後に知ったんですけれども、考えられないほど多様な20代から70代ぐらいの方が集まりました。

 二泊三日、朝の2時、3時まで徹底的にいろんな話をする、心のひだが読みとれるまでに、楽しいかきついかわかりませんが、ハードな実習やゼミを講義と並べてやりました。メニューは75ページの所に書いてあります。

 小国町は他人の土地に植えるなどという大変な住民と行政とが一体となって地域資源を見直して日常計画を作る町人プログラムシステムというのを都会から来た人、大学の先生、行政の人、農家、よその農家の方、ビジネスでやってる方いろんなツーリズム産業に従事したいと思っている方、いろんな方の目を通してそのマスプロプランニングの手法で地域の資源を生かした開発モデルを班単位で作るという作業です。

 それでまあ見て回り、地元の人と喋って、地元の素材を使った開発計画を作る。そういうことから始まりまして、民宿の体験であるとか環境教育、自然指向の食の体験、またはその農家民宿に改造していくかという必然的な建築の話だとか、まあウサギ追いをしてどうやって捕まえてとか、最後は湯布院で毎月二泊三日なんですけれども湯布院で超一流の亀の井別荘とか、超一流の旅館の裏方を務めて如何におもてなしと言うことが難しいかということを裏方で学ばせていただくとか、その観光でトップの方達に実践的にしこんでもらうわけです。来月が最後でこのシンポジウムのフォーラムで終わるんですけれども、毎回コンサートなどアトラクションが楽しんでおられますし、毎回ワインで世界のお酒を楽しんだりでした。

 そういう人脈ができて、結構北海道や東北や沖縄の方もお見えになって、今度北海道ツーリズム大学とか、東北ツーリズム大学とか、近畿ツーリズム大学、沖縄ツーリズム大学という4つのツーリズム大学ができそうな気配です。和歌山では4月から緊急雇用対策のお金をつぎ込んで2年間で雇用促進のための関西ツーリズム大学というのが4月からオープンします。

 これは、コーディネーターとインストラクターと民宿や農家レストランと毎月会合する具体的にプロのビジネスマンを養成する実戦大学で、岡山県庁が主催ですが、これに我々のツーリズム大学のノウハウをすべて、パックして販売をすると、そしてここに書いてきた企業の方も随分いるわけですけれどもリクルート社がこれを請け負ってリクルート社として雇用創出と情報展開を我々とタイアップして企業としてグリーンツーリズムの情報戦略に乗るという構えの様です。沖縄でも多分、あと総長が決断したらできるという動きがあります。東北でもIという県庁が予算取りで今、苦労しておりますがとれれば北東北3県で開かれると思います。

 というような話をすると北海道庁、北海道開発局も、もう待てないというんで北海道も、もう急いで用意するという事を言っておりますけれども、情報というのは一体的に動くものだと思います。それぞれ本当は条件も違うんですけど今、一気に同時代に4つや5つのツーリズム大学が情報ネットや人脈ネットは同じなんですが、一気に走りだそうとして、それを束ねて全国ツーリズムネットワークというものを、この夏に結成しようという動きになってきている。

企業人卒業生とタイアップを
 レジュメに戻ります。私はあんまり授業しなかった咎で、なかなか脱線ばっかりでいけないと皆さん言われますので、レジュメの2でございますが、ヨーロッパで学ぶ段階は終わったのではないかと私は思います。むしろアジアで習い、地域自立の基幹産業をとにかく鉄則ですけれども、飯の食える、それは公務員給ではとても望めませんが、月数万円でもいいから追加的な所得を作ることです。

 リストラでくびになる50代の一流企業のサラリーマンが、僕達だって今、各地にIターン行っておりますからそういう人達をキャッチして、そういう人達は年収の7割は、何年間か企業が保証しておりますので、私がおもしろいなあと思っている各地域の動きのコアにはですねリストラで、早めに会社を見限った50代の中年の方が、すごくパワフルに動いております。

 地域の資源というのは地域の中だけでは分かりませんし、それをどう売るかというノウハウはですね、やっぱり、プロフェッショナルな企業人卒業生とタイアップするのは早いと思います。で、そういう意味で、いろんな人がスピンアウトして都市から田舎に流れておりまして、そういう人達とすぐにでも小さな雇用と取得をつくるというプログラムを作る時期に、今きていると思います。

多様な楽しい生き方を学ぶターニングバケーション
 ツーリズムというのは、お手元のレジュメの8ページをお開きいただきたいんですけれども、表の6で「るるぶの連携」という、観光とツーリズムがどう違うかという事をまとめてみた表です。観光というのは、JTBの「るるぶ」という雑誌が「見る・食べる・遊ぶ」という語尾をる・る・ぶと、それがまあコンセプトだとよく分かるわけでありますけれども、グリーンツーリズムというのは、ツーリズム大学で博報堂の方が教えていただいたんですが、語る・作る・学ぶという「るるぶ」なんだと、よく納得できます。

 付き合いがない、普段とても関係が持てそうにない方々と語り合う。そして、地元の土地や食材や儀式や文化や歴史まで導入して、いろんな物で自分らの都合に合わせて生きていく為の産物を作りだす。その中でいろんな領域で努力をし上手くいかない、その中で必死に次の手を考えている人達で学びあう。こういう事はとっても楽しいことです。

 私は、国土庁のリゾート研究会に請われてずっと参加してこられたのですけども、立て直しの時に、参加させていただいた時に、フランスのジャーナリストの方がフランスのツーリズムというのは、日本の帰省に似ている。英語で言うとラーニングバケーションだと。学びの休暇だと言っておられました。まさにそのとおりだと思います。「学ぶ事が楽しい旅」です。

 フランスでは、定年前に農家とコンタクトをつけて納屋を買い、それを自分の本当の第2の人生の場に改築し、地元の人に種を分けてもらい耕し方やワインの作り方を教えてもらって農業をコピーとして生きがいとして展開する。これがフランス人の主要な関心事でありまして、本当はバカンスを1ヶ月遊びにあちこち行きたい、海にも行きたい、山にも行きたい、楽に生きたいんだけど4週間も6週間も同じ田舎に、毎年毎年通うのはですね、これはそうしないと人間関係が切れて、仕事の方とのつながりがない定年後の孤立した人生考えられないから、毎年しょうがないから同じ所に通って行くそうなんですね。

 それで退屈でしょうがないと。それで何をやっているかというと、いろいろフランスでは90年代、アメリカでは80年代から、知的、高所得、高学歴な方達は大都市を捨てて田舎に移住するという顕著な人口移動が見られてそれを新田園主義というんでがフランスも当然そうです。いろいろな人は、高速情報、高速交通ネットワークを受けられる人達は、みんな都会を離れてカントリーサイドに移住しているわけですね。で、その人達が例えば芸術家だったり、料理家であったり、いろんな民宿、民宿も農家だけじゃなくて、いろんなビジネスマンが参入しておりますけれども、いろんな農村の先端的ないきいきとした暮らしで、一流の人がもう地域に入ってるわけです。

 その人達が田舎に来て退屈だなあとか言ってるリゾートの人達に共通するタイプです。、それはどの人達も言っておりましたけれども、子供の時に夢があった、私は画家になりたいとか、コックさんになりたいとか、なんかお百姓さんしたいとか、夢があったけれども、サラリーマンにならんと食っていけんと親が言うからやむなく他の仕事についているので爆発的に毎年同じ学校に通って、例えばいろんな小さな村に超一流のシェフがいて、5年間通ったら証明書をくれると、それを持ってくとパリの一流レストランがシェフとして雇ってくれる。

 農業だけではありません。多様な楽しい生き方を学ぶ、ラーニングバケーションという事が、主流だという事を教えていただいたんですが、ツーリズムというのは、農家民宿だけじゃありませんし、農家の産物を売るだけでは全然ありませんで、本当ダイナミックでもっと多種多様なものが混在して醸成いくものだと思います。


 この後、どういうふうにして流れていくかと私は湯布院の中谷さんと昨日も夜遅くまで話してですね、いろりで二人でお茶を飲みながらゆっくりした時を過ごしてツーリズムと観光とホリデーの関わりについて議論しましたが、とてもいい事を習いました。私が、今までずっと考えてきた事がかなり整理がついたわけですけれども、ホリデーという事でツーリズムが一皮剥ける一つの話をしてみたいと思います。

 ヨーロッパでは、グリーンホリデーという事をよく最近目や耳にします。ツーリズムというと、どうも旅行業とか、ビジネスでやっぱりなんかこうエージェントがかんだりして、どうしても観光の商業主義が抜けないみたいなネガティブな要素を言葉として感じるという人も多くて、グリーンホリデーと言おうという人が欧米で増えております。

 ホリデーというのは、ワークデーという労働に関して、土日というイメージだったんですが、どうも違ってきているそうです。ホーリーという言葉は、どうもその、ハール(HAL)という古代の英語からきてる様で、これはヘルス、健康というヘルスとか、全体というホールとか癒すというヒールとか、同じ意味で、ドイツ語ではハイン=ヒトラーのハインという事だと言うことです。そのバラバラになっものを、その全体をとりもどす事、体と心がバラバラ、一つの物がバラバラ、農業と観光がバラバラで、それでまあ人間は病気になる。

 バラバラになった心と体がグリーンホリデーのラーニングバケーションの中で、バラバラが一つになってそれが癒しになり、それが全体性の回復という意味で、聖なる時間であり健康にいたると。で、そういう意味でその、コンセプトからすると土に還る、田舎に帰る、そこで癒される。そこで新しい結び直し、再結合、結ぶという行為が起こると、そのホーリーという事は、結ぶという事だということです。

 私は牧師になりたいと思いましたが、牧師になったら信者がみんな地獄に落ちて、お前の口と信者の耳だけ、天国に行くような事に成り兼ねないからやめろって言われて、仕方がなく私は親をだます為に何処でもいいからと神学校行ったら、学資入学だから学費を取ってこいと言われたんですね。で、まあー親をだますのに丁度いいし、先輩に聞いたら、経済学部は、なーんも勉強せんで学校行かなくても卒業できると聞いたものですから私は、経済学部に入ったんですけれども、本当にその通りで私はほとんど学校には行かなくて卒業できましたし、まあ単位がなかったからしょうがないから勤務出来なくて大学院にしょうがないから残って、どうしようもなくて学者になってしまったという人間なんです。

 けれども、やっぱり宗教の事がずっとどこかにあり牧師さん達とかの付き合いは深いんですけれども、最近、ゲリージョンという語源はラテン語のRELIGIOという言葉で再び結ぶという意味だとききました。バラバラになっているものを結ぶというそういう行為というふうに聞きました。私どもが向かっているツーリズムの先は、ビジネスとしての観光ではありませんで、人間がもう一度故郷にもどってくると、それは土に還っていく事です。そのことによってストレス過剰、情報過多でぐたぐたになった心身が癒える、都市部でばらばらになった頭と心と体を結ぶ。そういうことではないかと思います。

 中国の学者を今二人私は大学院でかかえているんですが、中国にこういうことわざが最近できたそうです。「農業がなければ、穏やかな暮らしが出来ない。工業がなければ、富が得られない。しかし、ツーリズムがなければ、いきいきとした暮らしが成り立たない」と。農業と工業とツーリズムとがバランスよくという事が、今世界的に問題にされている。そういうことでは、今、日本が一番遅れているような気がします。

 多分、日本が明治以降ずっと工業だけで食っていくっていう範を決めすぎたんではないかと、農業なんかも生贄にされて工業立国という事で、したがって観光とかも無視された。そういう意味では、農業や工業やツーリズムのバランスが非常に悪い、ヨーロッパの本を読みますと、ヨーロッパではツーリズム産業が国の基幹産業とナンバーワンであると言われます。GDPの一割がそこから産みだされている基幹産業だといわれています。

 アメリカでは健康保健サービス産業が第一位、基幹産業。二番目がツーリズムだと言われますけれども、日本はちょっと、どう考えていいか分からないような状況なんですが、まあしかし、ある意味では欧米に追いつけというとこから、今度アジアから追い越されそうになって、日本は変わると早いですから、我々の身上は変わり身の早さですから、ある意味ではこう、欧米と中国に挟まれた時、我々の核分裂の力はすざましいのではないかと期待してるところであります。

 中国の話ちょっと続けますけれども、中国の観光というのは、易者の易からきてるわけですが、そこに観光という言葉が出てくるのは当たりも八卦68手でいいますと風地観という風の卦と地の卦、風地の二つの合わせた64手の一つの卦なんです。これはどういうことかといいますと、とても厳しい、どうしていいか分からないような逆風が吹き荒れて、風と土埃でもう目の前が見えないという卦なんですね。そこで、人間たるものどうしたらいいかというと諸国を巡ってすばらしい人にお会いして、それをまあ、国の光を見るという事なんですが、その地域に学びなさいと、そういう国の光を見るという事をやった人は、王様に非常に重宝され、大事にされる「風地観」という教えからきてる言葉なんです。風地観の観光っていうのは、都会の密林の中でしがみついている人と農家の方とが新しい結び直しをやると思うわけであります。

 観光とツーリズムとホリデーというのは、一体のものだと私は思う。中谷さんの話す時はバラバラだと僕思ったんですけども、そうではなくて観光もリゾートもグリーンツーリズムもグリーンホリデーも地域の中で 統合すべきだと、今そう思います。

 三番目の農村都市交流の発展進化と政策の撤回という事なんですけれども、そうはいえ観光やリゾートやツーリズムの国策というのが幾つかでてきました。で、それはこれまであまりうまくいきませんでした。昭和40年代過去過密の問題 を解決するために田中角栄氏が列島改造の時に大規模観光レクレーション構想というものを核して打ち出しまして、 何が起こったかというと津々浦々の土地投機が興って消えました。リゾートが出来たとき世界の富を集めてやっぱり土地投機で終わってこの10年間ひどいめにお互いあっております。

 で、三度目の正直をこれからどうやっていったらいいかという時にレジュメの5ページですけれども今都会の人達の関心はどこにあるかというと、40年代の団体観光であるとかレジャーではありませんで家族の保養ということを話して90年代学びということでは静かな新風がすでに各地で興っています。

 私は各地のツーリズム関係の施設で一番元気がいいなあと思うのは、 朝市とかから出た地産地商の直売所のエネルギーを一番感心します。農政局の調査では九州で平均直売所の売上は5000万を越えてる一番大きいメロン業務は確か7億を越えてると思いますけれども、1億2億を越えてる所だったらざらで、億を越えてる売上ある意味で都会からですね、2時間位かけて地元の方と会いに来てるんですね。安くて美味しい物を買うというより何かあれは一つの村を学びに来ている、その直売所がひとつのツーリズムのデシメーションになっている現象が起こっているように私は思います。

 この先に何が起こるかというと、私は、田園移住だろうと思います。定年希望は、90年代初頭から定年後のUターン、Iターン現象というのは、これから起こる若い人を含めた田園への居住の前触れではないかと私は思うのですが、それを中国の言葉で言うと「おうじゅう」と。それは都会ではありません。そういう事について考えたのはちょっとレジュメの9ページのデータを見ていただきたのです。その前に8ページの標語を見ていただきたいんですけれども、それは九州農政局でまあ私どもが設問を作って九州の1000人の方にアンケートをいたしました。それでその500人はそこに泊まった方、500人は阿蘇を襲撃する福岡、久留米、大分、熊本の都市の居住者のご家庭に伺いましてそれでまあ1000票の標語はそのうちビジターの500のこれと居住している人でのはっきり言ってあまり変わらないんですが、ちょっとこれおもしろいデータだなと思います。

 あのう、実は古くて申し訳ありません。おととしの秋にまとめた物でございます。で、21世紀は理想の暮らしをお伺いいたしますと言う事で都市に住んで週末も都市で過ごすと言う完結型の方と言うのはたぶん育児とか足が不自由とかいう年代以外はおりません。それに対して都市に住むんだけれども週末は田舎に行きたいと言うのが37%、それから都市と農村に新旧居住、まあ別荘とかセカンドハウスとかいろんな形態があるんですけれども、新居住したいという方が25%、定年後 故郷に帰りたいという方が 10%、気に入った所に移住したいという人が8%、それから理想として田舎に住んで田舎で働きたいという人が12%もいたのには驚きましたけれども、まあ職場がないだろうから都市に通勤というのが 2.3%、こういうマルチハビテーションから田園居住思考というものを見ますと59.3%と、この中で50代が飛び抜けて68.9%という、ここが私はおもしろいなあと思っております。

 あと、いろんな経験からいっても50代の方がターゲットだなあと思うんですが、そのレジャー白書99年版に社会西洋化という概念がでてきましたけれども、生き甲斐とか健康とか企業、人生、理想の中で懐疑的になった団塊の世代がですね、今、熱い目を農村に自分の人生を変えたいという思いで見つめている方が非常に多くなりました。で、この方達の人生で蓄えた知恵や所得やまだ残っている力をですね、利用しない手はないと思うんです。

 これまでどちらかというとグリーンツーリズムは、何か農家民宿、農村の農家だけがやるみたいな捉え方があったんではないかと思うんですが、私は決してそうではないだろうと、それであのう心強いデータが9ページの 農家の指導的な方達に270人同紙がアンケート調査をいたしました。これは、都市住民が移住して来る事に対してどう思いますかと言うことで、聞いたのは区長さん、農協長、保険組合長、認定農家、等々 の方達で普通の方ではないという事をお断りしておきますけれども、「大いに歓迎」が3割、「ある程度歓迎」が6割、「歓迎しない」が1割、これにはちょっと驚いたんです。

 阿蘇ではいいよという寛大な確か10年前から阿蘇のある集落と深い関わりを持っていつも拒絶されて失恋12年目の人生であの男はなかなか言うことを聞かんなと、私も7回失恋しましたけれど辛い辛い昔の事を思い出しますが都会からのなかなかその熱い思いというのは農村ははねつける、拒絶するというすごい閉鎖性があると私はずっと恨みに思ってきた人間です。本当に大変だと思うんですけれども、私はやっぱりこの数年来、農村が大きく変化を遂げているんだろう思います。

 九州ツーリズム大学の話はいたしましたけれども、まあ来年、というか平成12年度第4年目から、もう町の予算が続かないものですから自立を我々覚悟してやると。そろそろ行政のご支援なしでも自立して不認可大学を経営しようという腹をくくりましてそれでまあこれから全国で各地でツーリズム大学ができるだろうからいち早く大学院を作ってここで少し色々とお金を絞ろうではないかとか、けしからんことを考えております。やっぱり、何としてもお金を自前で作って維持しないといけない位にきておりまして、その中でやっぱり企業の営業努力とか見てみますと企業の方の話を聞いているともう絞りきったタオルをもう一遍絞ってそのまた残ったのをまた蒸気乾燥してまた絞るみたいなあんなすれっからしのやり方というのはとてもとても我々なまっちょろいことでは理解できない。学ぶものがものすごくあるように私は思います。

 そういう意味で我々大学も今そうですね、平成11年度予算からすごく厳しい予算の締めつけが始まりまして、「のほほ〜ん」ときた先生方はもう今真っ青になっておりますが、私の様にまあ修羅場を生きてきた人間は、これからチャンスだと思ってもう目いきいきと、私は教育学部に行ってクビになりかけたんですけれども、今度は望まれまして4月から法学部に移籍して新しい地域振興、公共政策の要としてスカウトされましたけれども、時代は変わるというか落ちこぼれでも「出ていけ」と言われている人間が、学長以下皆さんから「熊大の鏡です」と、こんな事は誰も言いませんけれども 教授会決定でも「世の中かわったな」と根本的に変わらない国立大学がこんなに変わるって事はいい事だと私は思います。

 私は、もう宣伝ですけれども本当に私は自分で稼いでいる。私は何千万かお金があったんですけれども、ここ10年間グリーンツーリズムを阿蘇で実現する為に全財産なくなってしまってですね。どこかの企業の担保に入れたつもりが新しく買えとかいうはめになったりとかですね、いろんな修羅場をくぐり抜けて、もうお金の事については奥さんが生きていたら離婚されていた位に大変な苦労しました。

 それで、事業したさに先ずはお金の計算をして、もう事業をやる以上は絶対にもう成功させねばならない。噛みついた以上は相手が死ぬまで口を外したらもう最後になる、という根性で生きております。並の学校の先生と思ったらひどいヤケドをしますね。そういう自慢話をしているんじゃなくて、レジュメで言いますと5の2ですけれども信用創造する時代の話をしていきたい訳です。今まで活性化というのは、国に「おんぶにだっこだった」と思います。それは、我々学校の先生が文部省に「おんぶにだっこ」、おしめまでしてもらうような先生が99%ですけれども、私なんかもうホント弱気の時は首をくくって死のうかと思った事が何度もあります。

 それで事業家の方がそういう話の時、思わずもらい泣きしてボロボロと、私もホントにもうどうなることか学校はクビになりそうだし、どうなることやらと。私、阿蘇グリーンストックという財団作って、全財産なくなった訳ですけれども、なくなったというか、マイナスがまだある訳ですけれども、これはまあ、後、ちょっとで繰り返さなければいけないんで、まあ、とんとん迄いきたいと。

 私は岩波新書でリゾート列島という本を書き、これはたくさん上げまして、1,000万位原稿料が入った。馬を北海道から買いまして、道産子で、まあ、阿蘇の草原管理で、一時は46頭迄増えて給料の半分位はそれでなくなったんですけれども、運良く将さんが離婚寸前に亡くなって頂いて再婚いたしまして、まあ、希望に燃えてる訳なんですけれども、ともかく、1億5千万位のファンドを生協のケチなおばちゃん連中に100円基金で「阿蘇の水瓶の水をあなたの子供が飲むんだから、あそこの荒廃はあなた方の子供達がガンとかになるぞ。」と家の妻と弟とそれで信頼を得て、脅迫をしまして、毎月100円、三年間積み立てるって言う、それで1万2千の方々の応募をして下さって、4千3百万のお金が出来ました。

 今度は阿蘇町役場行って、「主婦がこんなに健気にお金を出してんのに、行政は何もしなくて良いんですか。」てやって、揺すって5千万取って来て、で、翻って、今度地元の企業に行って、「お宅達は、色々、阿蘇の水とか阿蘇の景色で飯食ってんのに、恥ずかしいと思わないんですか?とかいって5000万ふんだっくって、まあ1億5000万頂いたんですけれども、それでまあ何人かに飯を食わせるでも大変な事です。

 だけど、その中でですね、やっぱり食うに食わずで悪知恵を絞ってですね、阿蘇の草原を守ろうと言うキャンペーンをやって、そしたらですね、皆お金がないのに寄付してくれまして100円、1000円と積もってですね、3000万円以上のお金が集まりました。それで、阿蘇を守るボランティアの組織だとか、そのためにも実際、今どうなっているのか175の 組合のひとつひとつの実体調査をそのお金の半分位使ってやりました。まあ阿蘇の草原募金助成事業ということでひとつひとつの組合ごとに傾斜角度が何度、一番美しい作業なんかよりネックは何かと言うことを一人一人の患者のカルテみたいなものをひとつひとつ地元の組合の方と作りました。

 馬に乗って大草原を行くとかそういうツーリズムを信じて、は阿蘇草原の為に生き、その為に死ぬ人間ですけれどもかけがえのない地域の資源をある意味では様々な切り口、様々なお金、様々な組み合わせによってものすごく魅力的な国際的な資源として、使えると思います。その為に私どもは文部省だとか環境庁だとか労働省だとか農政省だとかなんか建設省だとか昔の何かお殿様の縄張りがあって病人みたいに目の上に伺おうというような暮らしはやめて使える金はどこでもとってくれと、こっちももうほんとしたたかに土地を持っていますので、例えば僕が今からやろうと思っている農事法人を地元で作って、そしてそこが所有権を戻さないまま都市のお金と人とをリスクとコストを担う人を集めてひとつの田園居住の開発をやる、それで農地はずっと地元から所有権を移さないけれども利用権を高く売る。

 一反の田んぼを100万円位しかしないんであれば、一反200万円で貸すとこういう話。よく聞くんですけれども、地元の農家の方と都会の家を買いたい方、農地買いたい方と話が合わない、どうしても1万円でおりあわない、こっちは100万円と言っているのに、101万円欲しいとか言ってですね。そして「分かった」と「100万円で手をうとう」と、で、判を押してみたら、東京の人は一坪100万と思ってて、田舎の人は一反100万と思ってて、お互いびっくらこいて、1万円を隅にやって、なんだったんだという話でよく聞くんですけれども、本当の土地の値打ちというのは、全然尺度が違うんで、そのエネルギーをですね、所有権とか利用権を地元がばっちり信用できるものを創りあげて、それでその都会にアクセスして高く売ると、農地を高く利用すると、そういう大胆な選択がいるんじゃないかと思うわけです。

 私は、バブルが盛んな頃はですね、お前は共産党委員かと、よく言われました。実際、赤旗から電話があってですね、こちらは編集部ですが、先生がおっしゃっている事は、兼ねて敬意を表して、かいほうしますから果敢にお書き下さいと、私はそれで目が覚めまして、今、私はそういう風に世の中から思われているんだとショックを受けました。まったく違いますので「光栄ではございますが、何かの勘違いじゃございませんか」とガチャンときったんですねー。その後しばらくしたら、また電話がありまして、国土庁の研究会に先生ご参加くださいって、僕はもう、カチンときて「悪い冗談はよしましょう」って切りました。私はよく嫌がらせを受けていましたので、またなんか嫌がらせだと思って。

 もういっぺん電話がありまして、すぐお礼にきて「只今は失礼しました」総務課の係長ですという。失礼したのは私くしの方で、「本当に国土庁だったんですね」って、研究会にその時でるようになりました。だから世の中って分からんものです。私は、87年に農村リゾート研究会と、最初5人の委員になっとったんですけど、あんまり激しく批判するものだから、2度目から来なくていいって事になって、農水省から忘れられられてたんですけれども、それが農水省からまた研究会に来てって、そしたら建設省からもですね、手作りリゾート研究会を創ったから来いとか言われて、環境庁からも。なんとか研究会というのは、バブルがはじけたら、えらいモテモテでですね。それまではなんかこう反対運動とか共産党からしか声がかからなかったんです。

 一番面白かったのは、実は、建設省の研究会です。手作りリゾート研究会というのは、新しいリゾートを創ろうということで勉強せーと、面白かったですね。非常に面白かったのは、どこが面白かったかというとですね、農林地を高く利用して、都会のニーズが農業をしたいとか、田舎に住みたいとか、もう地価がずーっと下がっていく事が目に見えてる。これ以上日本は地価が上がるという事は、今後ずっとありません。ある意味では、我々はずっと高度成長以降信じてたんですけれども、銀行が土地を担保にお金を貸すというからくりで観光とかリゾートとかやろうとしたんですが、下がるんです。ずーっと下がるという事を考えて地価下落地帯の価格というのは、どういう手法でしたら良いかという事で、3つのモデルがあったんです。

 結論から言いますと、農林地は安い、幸いな事に都会の人達が住みたがる景色のいい所というのは、農業には不適地なんですね。農業の条件が悪い所は、都会の人が欲しがる。それを『売る』じゃなくて『貸す』という方式で、リスクとコストを都市のシステムを提案して、まあそれが一番建設省の新しい考え方です。銀行がもう、信用をだせない時代、誰が信用をだすかという事を、私はずーっと、この間、研究会が終わる度考えてきました。それで、損ですけれども、誰も一度も考えなかった事ですけれども、自力開発のプランに一枚加わろうと、みんなバカにすると思いますけれども、誰かが信用を補助しなければいかんわけですね、まずは信用を作らないと。もう少し金がかからないようにですね、じゃあかかり過ぎるのを誰がカバーしますか、企業の誰もそのツーリズムの宿泊、農協だって融資できませんよ、地価が下がるんですから。

 で、その時に都会には皆、金持って余っている、銀行に預けても利子が無い。で、そういうのをどういう風に地域活性化の為にその金を引っ張り込むかと。ここで一番大事なのはやっぱり開発技術をどう発生させるかと公共投資をどういう論理と、どういう見返りを公がどう吸収するかと、そういう今まで我々がやって来なかった公的な投資と農地の開発の新しいルール作りを国民の誰しもが世界のどの学者が見てもそうだといわれる様な、新しい開発のシステムを新しい信用創造のあり方を開発しない事には、そのグリーンツーリズムを目に見えるダイナミックな地域の活性化に結びつけるのは難しいのではないかと、こう私は思いましてそれはとても困難ですけれどもある意味では、簡単に出来ることかもしれません。で、それを出来るのは地域に根ざしている100人の皆様でしょうし、県の農地をまあ今までどっちかというと規制しているお上の方々が、我々ちょっと怪しげな学者と背筋を伸ばし合いながら、しかし懐の深い話し合いをする事によって新たなフロンティアを開けるんではないかと。その為には、あと10分で終わりますけれども、で、私が提案したのは、もう一枚最後に配りました全国連携の提案で、これまたピーアールで申し訳ありません。

 今年の7月14日から16日まで阿蘇の「国立青年の家」で熊本大学主催でちょっと変わった地域連携、社会連携のフォーラムをやります。今、本決まりになっているのは、大学が学長以下正式参加、主催参加しますし、環境庁の本庁は課長2人がOK出してお金も出してもらえるんですが、農水省、今日からお願いにあちこち上がろうという事ですけれども、本省の畜産課長はしかるべき方の所で話は聞いてくれますので農水省もあると、深く深く100万位出してほしいなあと期待をしているわけです。それと財団が100万出す、場合によっては全部出すという事ですけれども、そういう民と学、官と学の共催で成り立ち、今、県の方にもお願いしていますし、いろんな人、JR九州とか、JTBとかいろんな所に寄付を呼びかけております。

 中国や韓国やタイからも学者が来ますし、変わった連携フォーラム、そこに是非第三分科会、第三シンポジウムが今日、ご提案するグリーンツーリズム全国ネット形成、地域のコミュニティービジネス、これを創始する市場戦略を考えながらと言うこれは、今日昼飯を食いながら半分しか食ってませんけれども、まだ名前が私だけの仮称ですけれどもこれをやります。

 もう、責任者は失敗したら部長が腹切る事になっておりまして、事務局は有吉教授で、まあ私は春まで教育学部におりますが、春からは大津に移りますので、実質は、私の所にお問い合わせ頂きますと、東北ブロックで1月末、高柳で東北の250人、これは北海道から九州鹿児島までの250人が全国から集まって対外的に見て全国ネットを作ると言う事を決めました。

 あのう私は皆様方に提案したいのですが、これまで「官民一体」でそういうフォーラムをやって夏からビジネスを立ち上げようと、夏では本当は遅いんですけれども。これで、私の変なプロポーザーを終わらせていただきます。ご出席ありがとうございました。




司会
 佐藤先生、ありがとうございました。冒頭、教育学部教授、あるいは今度は法学部に移られるという事でご紹介いたしましたが、先程、名刺を頂戴いたしましたら、経済学博士と言う事でさすがに100円の重み、1円の重みをご存じでいらっしゃます。資材をなげうってご活躍の所に本日も本当に薄謝でお願いをした次第でございます。本当にお忙しい中ありがとうございました。今、お話の中にグリーンツーリズムが中心でございますけれども、先生がよくお使いになるグリーンホリデーというのを私も実は本職が観光でありますんでなかなかそのグリーンツーリズムというのは、どうしてもそのヨーロッパから来た言葉なんで日本でうまく根づかないと言うところが気になってるせいか、そのグリーンホリデーというのはすごく私自身は素直に溶け込んでくるわけでございます。どうも、御静聴ありがとうございました。















事例発表
「清和村における文楽の里づくり」

講師:熊本県清和村長 兼瀬哲治氏

 こんにちは、清和村の兼瀬でございます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。今日は全国のマイスターの皆さんにこうやって私の「事例」をおつなぎをいたしますが、実はあのう、今日は私は皆さんに試験を受けるようなつもりで、ご披露させていただきますので宜しくお願いいたします。

 私は、昨年の1月31日まで文楽館におりました役場職員でございまして、それで辞めて大変な修羅場を何とかくぐり抜けてようやくホームベースにヘッドスライディングで指先がついたという感じでございまして、まあ、そんな事で村長という仕事をさせてもらっています。いつから村長になろうなどという事を思ったかって言われましてね。実はそういう話が来ましたときに、私のおふくろが77歳でありましてだいぶん体が弱ってるんですが、「もしも、落ちたらどうする?」って言う話をしました。「もしも落ちたら四国八十八箇所を廻って、三ヵ月間で廻ってその後考える。」と言いましたら、「それだけの覚悟があるならまあ、やってみるたい。」と言う話になりましてね、まあ、始めた訳であります。

 しかし、私は思いと致しましては、村長になろうというのは、その時の母の言葉からでありましたが、役場に入ったときから村長だったらどうするかなあっていう思いは持って来たつもりなんですね。そいう思いでこの仕事をしてまいりました。今日は、私共が今まで辿ってまいりました「文楽の里」づくり21年目であります。それを皆様におつなぎを申し上げますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 頂きました時間が4時15分までですので、もうあと少ししかございませんので、少し80枚持って来たので、早口で喋っていくかもしれませんが、スライドをすぐ始めましてそして皆様に見ていただきながらご説明してまいります。私はちょっと背中を向けながら説明させていただきますので申し訳ないんですが、ちょっと今の状態で見れるかどうか皆さんが後ろの方、見れますでしょうか?ちょっとライトをじゃあ消して下さい。もうちょっと暗くならないですか?ハイ、こんな感じでいいです。あのう、後ろの方、見えますでしょうか?じゃあ、これでまいります。

 え〜と、「清和文楽」なんですが、今、ご紹介ありましたように150年程前から伝わってるものなんです。これは、「しんれいやべつのわたしとんべいすみかのだん」のお船のこれ場面なんですね。お船が「新田義貞」の次男でありますが、「新田よしみね」と言う方に一目惚れしましてね。その「新田よしみね」を逃がす為に父親が差し向けた追手を引き返させると言う太鼓を叩くんですね。それで、やってるんですけれども、右の手が触れています。これ右の手が太鼓を叩いているんですけれども、この太鼓を叩いている右の手と頭を一人が持っています。そして、太鼓を支えて左手だけを左使いが持っているんです。で、実は足を一人が持っているはずなんですが、ここは櫓の上で、60センチ四方の櫓の上ですので、ちょっと登れませんから下で櫓を支えています。ですから、一体の人形を3人で使うんですね。ですから、3人1体の芸なんですが、この人形が、じゃあ何に合わせてお芝居をやるかと言いますと、左側の「太夫の語り」、台詞とこれはナレーションをやるんですが、台詞とナレーションを太夫が担当致しまして、そしてその曲を三味線を三味線の人が弾いてこうやるんですね。で、三味線と太夫とこの二人の語りと曲に合わせまして人形がお芝居をしていくと言う事になる訳であります。

 で、その人形浄瑠璃芝居が、じゃあ何故残ったかと言いますと、実は明日おいでになります方はお分かりになりますが、文楽館のすぐ前になるんですけれども、「大川神社」と言うのがあるんです。その「大川神社」の鎮守の森ってありますが、その中にこういう神社がございまして、その神社にお芝居を奉納する。何故お芝居を奉納するかといいますと、これは春の祈願、豊作祈願、家内安全なんですが、それを祈願する為にお芝居を奉納する事になる訳です。で、そのお芝居を奉納する場所といたしまして農村舞台があるんですね。これは、古い28年に建てた物なんです。まあ、こういう粗末な物なんですけれども、こういう農村舞台と言われる物を実はこのずーっと造っている。

 これはどういう風にして造るかといいますと、あのう皆が労力を出して、そして材木を出して、そしてお金を出し合ってこういう舞台を造って農村舞台と言う物を造って、そしてそこで奉納をするということになります。実はその農村舞台がどんな風に分布しているかと言いまして、これ平成二年に調べたものなんですけれども、実は清和村が囲っていますが、清和村の周辺、高森、蘇陽、清和、矢部、砥用、甲佐、それから城南と言うふうにこの地域に固まっているんですね。で、阿蘇の方がその上であります。私どものこの赤く塗った所よりも上が阿蘇であります。

 阿蘇は神楽なんです。阿蘇は神楽が多いんですね。ですから、神社がありますと、神楽殿があって、その神楽を農家の皆さん方で覚えて奉納をされている訳であります。清和村の方は、神社がありますと、農村舞台があってそのお芝居を農家の皆さんが清和村の場合は自ら農家の人達が習い覚えて奉納をするという形をとってまいりました。で、これは農家の人達がその習い覚えた訳なんですけれども、実はこの習い覚えましたのは、農家の人達が習い覚えましたのが150年前、しかし、先程の奉納芝居と言うことを始めましたのが360年前、1639年、それからずっーとそれを奉納し続けたんですね。

 こんな状況ではなかったろうかということで、その事を再現する為に「たきぎ文楽」と言うことでやっておりますけれども、こういうふうな「たきぎ文楽」、こうした形で一年に一回だけあの農村舞台にお芝居を返していけるんですが、原型に戻しているんですけれども、その情景と言う物は360年前始まった時にはこういう状況ではなかったろうかという事で、「たきぎ文楽」と言うことでやっているんです。

 けれども、その当時は、真似しかだめだったんです。農家の人達が自ら習い覚えて、自ら奉納するという事はまかりならん。そういう華美な事を農家の人達がやったらだめだと言うことでそれは禁止をされております。で、それを20年間、いや200年間ずーっと続けてまいりますと、浄瑠璃の好きな人達が増え、人形の好きな人達が増えてそして、幕末の藩の力が衰えた時に初めて農家の人達は習い覚えてしまうんです。そして、それからずーっと自ら奉納をするということになってまいります。その状況がこういう感じではなかったろうかと言うことでやっている「たきぎ文楽」でございいますが、実はこれはお芝居を観て御馳走を食べると言うですね、ディナーショーであったり、ランチショーであったりする訳であります。ですから、私どもはこういうりっぱなホテルでよくディナーショーがございますが、今、私どもは高すぎてそのディナーショーにも来れないんですけれども、実はそのディナーショーの原点は我が清和村にある訳でございます。で、そのお芝居を観て御馳走を食べてお酒を酌み交わす、そういうランチショーになるショーを繰り返してまいりました。

 で、これが「十人重箱」を食べていただいているんですが、この「十人重箱」と言いますのは、実はこういうふうな物で、向こうに大きな箱がありますが、あの中に五段入ってるんですね。右側に五段、で、あいてる左側に五段入ってまして、下にまた余分な物が入っているんですけれども、それを、「十人重箱」というそうであります。その、お芝居弁当を持ち寄りまして、そして、先程のようにこうやって開けまして食べますとね、思わず隣が美味しそうに見えるんです。ああ〜美味しそうだなあと思ってですね。今度は、お互いに分け合います。分け合いましてそして味見会が始まるんです。コンテストが始まるんです。コンテストが始まりましてそして、農家の奥さん達は、今度は「あーしよう、こうしよう」と言うことで、新しいメニューを考えてその当時の最も美味しい物を粗末ではあっても作ってくるんです。その事が、春と秋、年に二回繰り返されたと思って下さい。こうして清和村の郷土料理は作られてきたと言うふうに私どもは思っております。

 ですから、明日お試し頂きますお弁当は、お芝居弁当であります。しかし、これがあまり前宣伝が過ぎますとまずいときが困りますんで、それは食べられた時の判断にお任せをいたします。で、突然この水田が出てまいりましたが、なんで文楽を取り上げて村づくりの中心に据えて来たかと言いますと、実は減反であります。減反でもう9年目なんです。昭和54年でございました。「どうしよう〜これは稲作を、米を作られない。そうしたら、これから先はどうなるんだ。」不安がります。で、農業を補うような産業を何か作らなければいけない。そう考えました時に観光があると思ったんです。

 何故、観光があると思ったかと言いますと、これは、隣の矢部町の通潤橋であります。これは、水の渡る橋であります。矢部町というのは、とっても有名な所でありまして、この通潤橋でも有名ですが、最近は「山下泰裕」さんでまた有名なんです。その出身地なんです。その隣が清和村であります。この矢部町の通潤橋のその先が清和村であります。熊本市に来まして清和村と言ってもどこかわからない、分からない時は「矢部町の通潤橋のその先です。」と言わなければ分からなかったんです。しかし、最近はあのう嬉しいことにはですね、矢部町の方が、「清和の手前といわれるようになった。」というような感じに言って頂けるようになりました。

 この通潤橋みたいなものは何か、一生懸命探しました。探しましたが、無かったんです。無かったけれども観光になるとは思わなかったけれども、その年の昭和54年の10月、県の重要無形民俗文化財に指定された訳です。「あっ、待て、この文楽があるじゃないか」と言うことを私どもは感じたんですね。ただ、それがですね、観光資源になるとは思わなかった。ただただ目立とうと思った。「矢部町の通潤橋よりもいいのがあるぞ。」と言うことを言いたかった。それは、そういう競争意識のそういう感じでですね。

 文楽を取り上げまして、その時の産業でございます特産であります栗と椎茸と文楽の里と言うことを看板を出した。一番先に看板です。これは金が要らないんです。金が無くても出来ます。ですから、とにかく看板を建てよう。そして、今はこんな風に色々な看板を建てまして清和村に来ると看板ばっかり目立つと言うことではいけないんですが、最近考えなければいけないんですけれども、そうなりました。で、昭和54年に「文楽の里」と名前をつけまして、そしてそのとき何を始めたかと言いますと、加工であります。その加工をその当時は「1.5次産業」と言ってたんですね。それで加工を始めました。

 加工を始める時にどう思ったかと言いますと、ヨーロッパの地下室を思ったんです。ヨーロッパの地下室はいいなあと思ったんです。ワインがあり、それからあのチーズやバターがあってそして、薫製がいっぱい眠ってて、ああいうとこないかなあと日本には無いなあと思ってたらこの蔵の中にあったんです。蔵の中は半地下であります。そして、そこに醤油や味噌や沢山の漬物が眠ってて、そして乾物が眠ってるんです。これを何とかしよう、これを世の中に出そうと思いまして始めましたのが、加工であります。若妻さんが来ましてね、若嫁さんが来まして、田舎の農家で出来た豆腐を食べたんです。その、豆腐を食べましてね、「豆腐はなんで豆腐屋さんで出来ないんだ。」っていったんです。ここで、農家でできるのが不思議だと言ったんです。

 都会から来た嫁さんは、なんで農家で豆腐が出来るかそれが不思議でたまらなかった。その事がまた悔しくて加工を始めた。で、この人達が加工の担い手でありますが、このおばさん達は、ちょうど孫の手が離れる位であります。農家では、孫の世話はおばちゃん達がやりまして、保育園に上がる頃、手がポッとはずれる。今から何しようかなと思った時に加工を始めようと言う話をしまして、加工を始めた。ですから、清和村は、おじさん、おばさん達からの地域おこしであります。その後に、若者が帰って来ると言うふうに考えているわけであります。

 一番初めに「文楽の里」と言う名前がつきました。一番左側のあのピンクのあれなんですが、そのピンクを使うというのが、また凄いんで目立とうと思ってましてピンクで、ただあのう建物にピンクはあまり難しいと言う話でありまして、今日マイスターの皆さん、そう思われているんじゃないかなと思うんですが、加工品に全部、文楽と言う名前を付けて売っていく事になります。ですから、行政で、「文楽の里」という名前が揚がれば揚がるほど広告塔が高くなればなるほど、この特産物である加工の製品が目立って来るということになった訳であります。

 これもその一例でありますが、清和村の加工のやり方は、「1.5次産業」で、これが「1村100品運動」であります。多品目少量生産と言っておりましたが、多品目少量生産をずーっとやっておりましたら、「一年中とれる物を何か加工しよう」とずーっとやっておりましたら100品位なってしまったんです。ですから、大分県には、負けていますけれども数だけは勝っていると言っているんです。ただただ農家で作っていた物をそのまま包装してこれは「めしさめ」であります、「まぜごはん」の事ですね。「炊き込みごはん」の事です。で、それを「めしさめ」ということで売っておりますが、実はこれ母にプレゼントしたほうがいいんじゃないかなと言っているんですけれども、なかなかなりません。

 で、「文楽の里」と言う名前を入れてスイートコーン、野菜にもこれとりあげたんですね。農業をされる方がいろんな事を全部、ですから清和村から出ていきます農産物も商標は「文楽の里」、文楽を全部付けました。生協さんに売りますお米も文楽の絵を刷り込んで売ったりですね。で、全部清和村から出ていく全ての産物に文楽を付けました。で、ただ一つだけ商標を付けなかった産物が一つだけあったんです。さて、何でしょう?。こういうふうにしてお米も「湧水米」と言いまして売ってるんですが、あのう、そういう「湧水の生まれる所で、水の生まれる所で育つ米ですよ」と言う事でお粥まで作って今、販売をしているところであります。

 これ、品評会の図面です。昭和57年に品評会をやっていたんです。ところが、品評会ばっかりになってたんです。ずーっとやっておりましたらマンネリ化したんです。面白くなかったんです。一等をとる人は毎年一等なんです。もう座敷の額縁ずーっと一等ばっかり。毎年くるんです。それじゃあ面白くないんです。どうしようか。お酒を振る舞った事もありますが、お酒の酔いが覚めますとしらけてしまうという、そういう状況でありました。

 そこで何かしよう。何かしようと思った時に、熊本県が大型観光キャンペーン、一つの村に一つの祭りを作ろうと言ったんです。一つの村に一つの祭りを作ろうと言いましたんで、そこで何をしたかといいますと、文楽祭に変えました。そうしたら大変な事になりました。今まで、村の中の人達もお祭りだったんです。他の人は来ないんです。外からは少なかったんです。ところが今度は外の人が、主役になったんです。10台のバスがドーンと来まして、2000人位の人達が文楽見て帰るんです。で、見て帰りますついでにですね、農産物買っちゃうんです。そうやって農産物買って頂くわけです。で、帰られました。これが3時にもなりますと、もう無くなるんです。1番売れるのが品評会で一等をとった物で、一番先に売れる。そして、こうやって買って帰られますと、もう3時頃には無くなりまして品切れ状態。これは凄い事になった。

 昭和58年の第一回の文楽の里祭りというのが大変なショックでありました。で、それをずーっと重ねていくんです。58・59・60・61と重ねてまいります。すると59年に日本一作りが始まります。で、日本一作りが始まりまして、ここで何かやらなきゃいけない。ところが何かやろうと思いましたら、文楽がある。この文楽をなんとかしよう。じゃあ展示場を作ろうか。文楽だけの展示場を作ろうかっていう話になりまして、しかし待て、それよりも劇場はどうだ、劇場を入れようかという話になります。それが今まで、里祭りやってましたんでね、それをお客さんは喜んでくれる、面白いかもしれないという予感をもってるんですね。ですから、58・59・60・61となっておりましたら、62になりまして、初めてそういう話が出てまいりまして、じゃ劇場まで作っちゃおう。で、50席の規模から500席の規模まで考えまして、そしてとうとう200席に落ちつくんですが、それで建設が始まったんです。

 これ全部で4億5000万かかりました。で、それがとても面白い構造になっているんです。明日行かれる方ぜひ見て下さい。こういう風に3分の1の模型を作って組上げて、そして初めて手順を確認しなきゃ出来ない様な建物であります。で、これが劇場の下、客席の上でありますが、天井を作るのに、その手順を決めて、ロープをつるして、上で人間が揺すってみて、「落ちない、これだったら大丈夫だ」という事で、この請け負いをした人が、建てていく事になったわけであります。

 熊本県のアートポリス事業に致しました。アートポリス事業に何故参加したかといいますと、実はですね、54年当時に逆のぼって思い出すんです。お金を4億5000万もかけるならば、物が建物があるだけで人を呼べる物を作らなきゃだめだ、これで通潤橋を作ろうと、その当時通潤橋が無かったんです。だから、54年当時にその無念がありましてね、その無念を今度は文楽館作るなら、この文楽館にそういう思いを込めてみようと、で、アートポリス事業に参加をして、石井かずひろさんという東京に住んでいる人に頼んで、設計が始まって、こうやって工事が始まる事になりました。

 で、これが割り箸工法という方法なんだそうですが、新しい方法なものですから、名前が無い。ですから石井さんが勝手に割り箸工法と、もうちょっと敬意のある呼び方をしてくれなかったかなあと思うんですけれども、どうも割り箸とか言ってますんで残念なんですが、これが客席の上でありますが、客席の下から眺めたとこなんですね、今の張り組を眺めた所であります。これ、騎馬戦組手工法といってですね、騎馬戦をする時に人を乗せますが、その時の手組に似てるから騎馬戦組手工法と言っているんです。で、これはバット工法です。そしてこれは、こんな風な事になってます。で、バットを3本立てて、くくりますとボールが乗りますけれども、その工法に似ているんだという事です。ですから石井さんは、割り箸とか騎馬戦とかバット工法とか、どうもそんな幼い時の記憶にたよって、名前を付けたという風に言ってます。これが出来上がった200席の劇場であります。この劇場は舞台の方も客席の方も同じ位の広さであります。

 風景がでて参りました。これが文楽館の風景全景であります。これで4億5000万かかりまして、しかしですね、これが逆に大変心配しました。4億5000万入れて、そして本当にお客さんは来てくれるか?、それがとっても心配でありましたが、まあ出来ましたのは綺麗な物が出来ました。で、今こうやって多くの方々が、文楽館の方にお出でいただいて、こうして記念撮影をして帰っていただいてるんですね。今、文楽館を2万人程、展示を見られる方が1万人程、そして文楽の里協会でカウントしておりますレジがあるんですが、そのレジカウンター数で見ますと10万人であります。

 そしてこれは展示場ですが、こういう風にして体験コーナーもありまして、これ本物の人形を使ってるんです。この一体で25万程かかるんです。25万程かかる物を子供さんに遊ばせるわけです。大変になりまして、修理も大変だし、しかしただ飾っとくだけじゃ面白くないから実際の本物を見せようとね、本物を触って頂こうという事でしてるんですが、農家の会員の人達がしてくれる事になります。これは、中川の人形なんですけれども、貸して頂きまして、この人形の前に立ちますと、こんな風に綺麗な顔のかたがこんなに変わりますんでね。

 雑誌なんですけれども、この雑誌にですね、表紙に載っちゃったんです。どういう表紙か分かりませんが、それで、私達がうれしかったのは、この当時まで、熊本日日新聞の上益城郡の欄のその10行載れば本当に嬉しくて、その10行載った記事を、私どもはスクラップにして、ずーっとっていたんです。ところが全国の雑誌の、その雑誌の表紙などという事は考えられなかった。すごいすごいと思いましてね、その事がアートポリスに参加した人達の、大きな効果になりました。それで全国津々浦々まで、これが知れ渡ったという事になるわけであります。その当時、見られた方は、建築関係は、ほとんどこれを見ておられるという事になるわけであります。

 今1年間に250回公演しております。まもなく2000回公演を、この5月には、やらなきゃいけないだろうという事であります。で、おじさん達が大変がんばってくれておりますので、このおじさん、おばさん達が助けてくれてるわけであります。ですから、おじさん、おばさん達が支えてるんです。先程も言いましたが、清和村の村作りは、おじさん、おばさん達からの村作りであります。「文楽の後は田んぼの稲刈りに行く」「文楽の後は田んぼの稲刈りに行く」 というわけであります。

 公演が終わりました後はこうやって、ふれあいをやりまして、お互いに人形を解説したり、写真をとったり触ってみたり、いろいろやるんです。今ちょっと寒いですのでね、ほとんど劇場の中で終わった後、やってるんですけれども、これはイベントの時ですから、出てやってるんですけれども、直射日光は、あんまり人形はあてたらいけないんです。で、これは特別な時でありますのでどうぞ普段来られた方は、今度は、また外へ出て見たいと思われたら、ぜひイベントの時に来て下さい。

 どんな効果があったかというと、1億5000万入ってくるようになりました。実は1億円は、売店の収入であります。5000万は入場料で、ですから収益なんですね、収益と収入が一緒になってますんで、だいたいまあ売上ベースに考えれば、2億5000万くらい上がっている事になるわけであります。でも、村民の方にそれ言いますとね、本当にお金は無いわけですので、ちょっとなんか騙してるんじゃないかなって言われそうなんですが、めったに言わないんですけれども、今日は皆さん、ご理解頂けると思いますので、売上ベースで言いますと、2億5000万位売上てるという事になります。

 それでこうやってお客様をいれましてね、物産を売る時に、村内市場が出来たと思ってるんです。今まで、清和村は全部外に持って行きまして、外に持っていって、物産を売ってました。しかし10万人清和村においでまして、そしてそこで10万人の村内市場が初めて出来たんです。これが8年前に、初めて、そういう事ができたんですね。この物産はこういう風にお土産物として売る事もあり、そしてこうやって食事で、お芝居弁当で清和村の農産物を消費して頂いているわけであります。ですから、そう言いましてもね、なかなか住民の方、農家の方分かってくれないです。

 かぼちゃはかぼちゃ売らないとだめなんです。かぼちゃを揚げまして、そしてスライスして揚げて、食べて頂くのは、それはもう望みじゃないと思ってるんです。お米もですね、炊いた物はお米じゃないと思ってるんです。農産物売ってると思わないんです。ですから、調理だと言ってるんです。調理だと言ってそこで、物産館の食堂の売上をみんなにアピールをして、そして役場が、ただただレストランを創ったと思っている。そういうレストランじゃないんです。これは農産物直売所であります。

 私どもがその文楽館を建てます時に、単に順調に歩いて来たわけではないわけであります。先程、申し上げましたように、文楽の里祭りで予感を得ました。もしかしたら、お客様がこの文楽を見て頂けるかも知れないという予感を得たけれども、しかし、全村民がそう思ってたわけじゃないんです。ですから、文楽を村の中心に据えて、しかも4億5000万の劇場を創って、その隣に物産館を創って、全部で土地代から全部を入れますと、8億入れてるわけです。この8億ものお金を入れる時に、じゃあ本当に採算性があるのかと、精算とれるのかという事をやっぱり議論のもとになるわけであります。

 で、文楽は300年前が最盛でありました。それが、どんどんどんどんどん廃れて来て、もう廃れてずーっと行ってるわけであります。この後、行き先は0と、おそらく廃れてしまうだろうと、みんな予感をしている、そっちの予感が強いんです。で、その廃れていく文楽にすがって、清和村の過疎化をしているこの村を引き起こそうなどという事は、それはおかしいじゃないか。そちらの方が正論であります。今、現実からものを言えば、その方が正論であります。

 その、正論にどうするのか、廃れていく文楽にすがって過疎のこの村を引き上げるなどという事ができるかどうか、そこのところが疑問になりました時、じゃあどうしよう。これがまた本当に悩みの種でありました。随分悩んだおかげで、その後ですね、あっこれはという言葉の中にヒントがありました。廃れていく文楽。廃れていく文楽という言葉の中に、ヒントがありました。どういう風にヒントがあったかといいますと、実は全国に100の人形芝居の座があったんです。私どもの頃ですね。で、今もまだあるんですが、その廃れていく文楽で全国に100あったら99は廃れたらいいと思ったんです。申し訳ない話であります。しかし、清和村だけ残ったら、これは珍しさが上がっていくだろうと、そう思ったんです。ですから、皆さんにそう申し上げました。全部が廃れていく、全部じゃない99が廃れていく、清和村だけが残って、そして珍しさを上げていこうと。珍しさが上がったら絶対お客さんが来てくれる。そうなったら、そこで生きていこうじゃないかと。その珍しさにすがって清和村を引き起こしていこうではないかという話をするわけです。一つのハードルは越えました。

 それなら分かったと。しかし、もう一つ跳ね返ってくるんですね。次に話が出てくるんです。何かと言いますと、「珍しさにすがって村を起こすというのは分かる。だが、珍しいだけならば、1回は来なはるだろうけれども、2度とは来なはらんよ。」「1回は来なはるとばってん、2度とは来なはらん。」「三味線の音は聞こえんでも、ペンペン、ペンペン草は生えるばい。」分かりますかね。ペンペン草は生えても、三味線の音は聞こえんだろうと、そういう話が出てくるんです。なかなか上手いペンペン草と三味線かけた。で、それで感心してた。

 感心している場合じゃないんです。その事にどう反論するか。どう反論するか、また悩みが増えましてね、眠れない夜が続きまして、ふと考えました。1回は来なはるとばってん2度とは来なはらんとおっしゃって、あっそうか、またこの言葉の中のヒントがありました。1回は来なはるという事がヒントでありました。それで、九州に1500万人います。沖縄まで入れて1500万人いらっしゃるんです。で、私どもは、その当時に1万人を入れるとなんとかなるだろうと思っていたんです。文楽に1万人来て頂いたらですね、で、何度計算してもですね、一生に一回、一回は来なはっとばってん、二度とは来なはらんわけですから、一生に一人が一回、1500万人の方がずーっと来られるとして、1万人来られるとしたら、何年かかるか。1500年かかります。で、1500年のうちには二回位来なはっとじゃなかでっしょうかという話をしましたら議員さんが「あっそうか」と言って帰りました。で、それで、なんとかまた二つ目のハードルを越えたわけであります。

 清和村は、お年寄りが多いんです。先程から言いますように、おじさん、おばさんからの村作りなんです。60歳以上なんです。文楽の人形芝居の後継者が60歳からの後継者つくりであります。60歳から後継者つくりをいたしまして、そして80歳が定年なんです。なんで60歳から後継者かと言いますと、今はほとんど勤めてるんです。ですから保存会員でありますと平日は来れないんです。平日はこれない。ですから、土曜日曜日、40歳の人は、あと20年間ずーっと出れる日曜日来るんです。そして60歳になって、定年が終わって仕事がおわって定年になったら、毎日来ようという話であります。ですから、40歳から60歳までの20年間はなじみで、それから60歳からは20年間80まで人形使いやろう。

 しかし、みんなは思ったんです。このお年寄りばっかりの集団で、そんな事が出来るかって、とっても公演は出来ない。月に4回しようと思ったんです。日曜日だけ、日曜日だけしようと思ったら、これは月に2回位しか出来ないだろうという事で2回にけずられた。で、定期公演は2回しかやらないんです。それで、そういう事になったんですが、幕を開けてみましたら反対だった、お年寄りが元気です。若者ばっかりの座員でしたらですね、さっき言いましたように、ほとんど出来ないはずです。お年寄りだったから良かった。物事は考えようでもう「瓢箪から駒」でありました。初めは若い人がいないと、村づくりが出来ないというのが定説でありました。若い者ががんばらないとだめだというのが定説でありました。しかし、私どもはお年寄りが多かったから出来た。その事は本当にやってみて初めて分かった。

 で、お芝居弁当であります。これは3500円でやってるんですが、周りがお芝居弁当を出そうと言ったんです。煮しめを食べさせる。煮しめでいいから、山菜料理でいいから、この事であります。都会の方だからフランス料理じゃないと駄目だろうという話だったんです。フランス料理がいいという話だったんです。しかし、フランス料理でなくて良かった。フランス料理は私どもが、田舎のものが憧れている料理であります。で、しかし私どもが考えました時に、清和村に来て、清和村にある物を食べていただくのが一番いいと考えたんです。ですから、初め私どもは心を都会に憧れる心で見ました。そして、フランス料理がいいと言いました。しかし、考えてみましたら、清和村にあるこの素材を活かした清和村に残るお芝居弁当が一番いいんじゃないかなと、その事の気付いたわけであります。あの、秋本 治さんには申し訳ない、フランス料理出されてましたけれども私どもは、そう考えてお芝居弁当を出しました。

 で、課題がありました。太夫がいない。太夫をどうするかって話だったんです。それでこの彼をですね、勤めてた者を引き抜いて、そして2ヶ年間、淡路に送りました。淡路に送り彼は二年間で三味線をさげて帰って来て、そして一人で三味線弾いてくれ、その三味線持って語るんですが、弾き語りなんですね、彼をそういう事で育てました。大きな課題でありました大変な課題でありました。その、太夫がいないというのは大変な事です。で、それを育てましたらですね、これが大きな話題になったんです。ですから、課題が課題と思ってたら辛かったんです。しかし、これが話題と思うと楽しくなる。話題が出来ると思えば楽しくなる。こういうので行こう。ですから、今からはその課題を解決する為にがんばって、そして大きな話題を作って、そしてまたそれを弾み車として、私達はそれから生きていこうかと話をしているんですが彼の存在が本当にいいその例であります。

 清和村でありますが、九州のど真ん中です。熊本県の九州山地のど真ん中、本当に人のあんまり住まない様な所に住んでいます。私達は今まで言っていたんです。熊本県と宮崎県との境ですよ、僻地ですよ、と言ってたんです。しかし、観光しまして初めて九州のど真ん中というのが、とっても良い事に気付いたんです。やはり、熊本市から来ます時にね、もう30分で着く所だったら、なんか観光って感じがしないわけであります。やはり出てから、家を出てから少したってあっ元栓しめたかな、ガスの元栓しめたかなって、そんな思いが思い残ってて、それをずーっと行ってから1時間半も経つと忘れちまう、それを忘れたところで清和に入ってくるわけであります。そうしましたら、そこで面白い人形芝居があったという事であります。その方がいい、観光はこれだ、やはり1時間半か3時間位ないとだめだという事に考えを変えました。清和村が僻地で良かった。真ん中で良かったという風に考え方を変えました。ですから、今まで随分述べましたのは180°の価値感の転換であります。