都市と山村の交流による活性化について
宮崎県高等学校社会科研究会(98.12.4)
鰍竄ワめの里 秋本治
1.はじめに
おはようございます。「交流による活性化」というテーマでお話をさせていただきます。都市と山村の交流を考える上で、一番大事な部分、私たちがすすめていく上でバックボーンとなるものは、私はやまめから学んでいるといった方がいいかと思います。
やまめの養殖を始めて、野性の強いやまめが人工養殖によってどう変わってきたか。自然から隔離されたような究極の都市文明をもたらした人間の歴史と生き様を重ね合わせてみると、ちょっと恐ろしいような気がする面もあるわけなんですが、そういったことが考え方のもとになっています。今日はそのようなお話を中心に当地域の自然とのかかわりなどについてお話をさせていただきたいと思います。
2.ブナ帯文化とやまめ
私どもが進めています「九州ブナ文化圏五ヶ瀬構想」というのは、町の観光振興計画の中の大きな柱にもなっていますが、九州山地の標高の高い森林地帯の暮らしをブナ帯文化として捉えようというものです。まちづくりにおいて、他の地域といかに差別化するか、違いを作っていくか、そこに本当の顔が見える地域となりアイデンティティが育つのではないかと思うわけです。 やまめの里から宮崎市に行くのは、まるで黄泉の国に行くようでございます。雪の中から車のヒーターをがんがんかけて出て行くと宮崎はぽかぽかとした陽気で、車中はいつの間にか冷房に変わり、フェニックスやワシントンヤシが繁っています。反面、宮崎の方がこちらに見えると空気が違う、北国の世界のように感じられるでしょう。
「森」という意味も違います。宮崎に行くと冬でも葉っぱの落ちないクスノキなどが繁る森ですが、こちらでは秋になると山が燃えるように赤や黄色の紅葉に染まり、やがて葉っぱが全部落ちて森は裸になって冬を迎える。そして白い雪が森を包む。私たちからみればこうした森が当たり前であって冬、葉っぱの落ちない「森」というのは暮らしの中では考えられないわけです。 昭和50年代の中頃、スキー場を造ろうと運動をしている時いろんな方に見にきていただき、社会的に地位の高い方々をスキー場予定地にご案内していました。あのころは照葉樹林文化都市を綾町でやっていました。そのせいでと思いますが、偉い方々がスキー場のブナの森に来て「うーん、これは素晴らしい照葉樹林だね」とおっしゃる。自然林を見るとみんな照葉樹林と呼ぶようになったわけですね。
どうもニュースが一人歩きすると、間違った受け止め方をされる方が非常に多い。現場論と机上論ですね。私どもは現場論で押していく。感じるということが大事だ。現場へたたずみ五感で感じる、第六感で感じるものを大切にしたいということです。「わかる」ということと「感じる」ということは違うんだという人がいました。「わかる」は軽くて「感じる」は重くて深いというのです。「わかる」は机上論で「感じる」は現場論に通じるということです。
その中で考えていくと、私たちの地域はどうもブナ帯になる。ブナ帯とは平均気温が6度から13度まで、雨が年間1,300ミリ以上の地域だそうですが、13度の地域はどこにあるかというと、私たちの五ヶ瀬町にあるということです。
私はインターネットのホームページに毎日気象データを書いています。このデータは、鞍岡に気象庁のロボットがございまして、1時間置きにデータが出てくる。標高560mの地点です。それをインターネットでとって、ホームページに載せて行くわけです。やまめの里はどんなところだろうと思う時、そのデータを読めば地域のことはわかる。前年と対比することで気候の変化を知ることもできます。
この鞍岡のポイントは年平均気温が約13度前後になります。ブナ帯の平均気温13度は五ヶ瀬町の気温と考えていい。宮城県の仙台と同じくらいの平均気温です。そうすると九州山地のブナ帯の南限は標高500m台ということになる。現実的には標高1,000m以上の地点にブナは現存しています。イヌブナは700m付近からありますが、ブナは一度伐採したら萌芽しない。
ブナの実を運ぶのはホシガラスという野鳥です。日本にブナが来たのは13,000年前といわれますが、北海道にブナが渡ったのは6,500年前。誰が種を運んだかといいますとホシガラスです。ブナの実は3〜4年に一度位しか実を付けない。これをホシガラスが運ぶわけですからチャンスが少ない。
一度伐採した跡にはなかなかブナは育つことが出来ないのです。 こうしたブナに関心を持ちはじめたのはやまめからなんですね。やまめが住む源流には必ずブナ林があるということです。昔やまめがいたが今はいないという所は、源流にブナ林がなくなった所です。例えば屋久島には素晴らしい原生林がありますがやまめはいません。屋久島にはブナがないそうです。台湾にはやまめがいます。標高1,500b付近に台湾ブナがあるということです。
屋久島にやまめがいるよといわれては困りますので少し説明します。実は、最初にやまめを運んだのは昭和43年です。大阪のノータリンクラブという釣りの会があって屋久島になぜやまめがいないかというテーマで議論がありました。それでは放流して実験をやろうということになったのです。
鹿児島空港から酸素ボンベを積んで、ビニール袋にやまめを詰めて、屋久島の上空まで行ったら、視界が悪くて着陸できないという。一週間に10日雨が降ると言われますから欠航がしょっちゅうあるわけです。とうとう鹿児島に持ち帰って、鹿児島大学に預かってもらって天候が回復してから放流された。その後、大口の水産試験場でも、やまめを始められてかなりの量を屋久島に放流された。現在定着している。棲息しているのが確認されているのは、落葉広葉樹林のところだと屋久島の役場の方が教えてくれました。
そういうことからブナに関心を持って調べる内、ブナ帯の奥にはすごい文化があると思えるようになったのです。
3.地域おこしは誇りおこし
やまめの孵化ができるようになったのは昭和39年です。減っていくやまめを増やそうとはじめました。昭和48年には年間500万尾の稚魚を生産するようになりました。そして生産したものを外に売ることばかり考えていました。ところが過疎化という言葉がだんだん出てきて、このままでは山奥に人が住まなくなるのではと考えるようになったのです。
村に人がいなくなって養魚場だけがよくても面白くない。やまめを武器にしてむらおこしができないかと考えました。そこで、やまめを放流して釣り客を呼ぼうと県にお願いして波帰川に区画漁業権を設定してもらい「五ケ瀬えのは国民釣場」をはじめました。波帰の村で「えのは振興会」を結成して取り組んだのです。「えのは」とはやまめのことです。入場料を1,000円頂いて20匹まで釣ってもらおうというわけです。にじますのようには釣れませんので大規模にはできませんが今日までほそぼそと続いています。
また、公民館を建てようという機運が盛り上がった時、公民館と合わせて山菜の加工場を作りましょうということで、制度事業に乗せて加工場を作ってもらった。これも今日までほそぼそと続いています。また、民宿をやりましょうということで5軒ほど民宿をやってもらった。ちょうど宮崎国体が昭和54年に開かれ、当地は山岳競技が行われたのでこれを目標に民宿を始めたのです。
ところが、小さな村の小さな取り組みは、なかなか注目されない。お客さんも来てくれない。そこで何か思い切ったことをということからスキー場ということになった。そのような取り組みの中で、村の青年たちが立ち上がってきたのです。これが一番大事なことだったと思う。
スキー場が実現するめどがたった時、村の青年たちが非常に自信を持ってきました。それまでは、青年たちが宮崎のいろんな大会に出席した時、出身地を聞かれるのが一番嫌だったといいます。自己紹介する時、五ヶ瀬の鞍岡だというと、あの山奥の行き止まりのところで、冬は雪が降って寒い、夢も希望もないところと自分から思い込んでいる。だから聞かれるのが嫌なのです。 ところが、スキー場のニュースが出始めたとたん、スキー場がまだ実現しないうちから、「鞍岡だ」というと、「あのスキー場ができるところ」と胸を張って言えるようになったというのです。それが地域の誇りであり自信となったのですね。スキー場実現に向けて、青年たちも一生懸命応援して頑張ってくれました。
今は、更に自信がでてきました。それが霧立越ですね。全員がという訳にはいきませんが、青年たちがインストラクターと称してガイドする。インストラクターと言われると、なんだか気分がいいですね。その内の何名かはすごいのがでてきた。学名とか和名を知らなくても、地方での呼び方はだいたい知っている。名前の説明だけではなくて生活との関わりはどういうものであったかなども説明ができるようになった。
例えばミカエリソウについて言えば「これは茎から霜柱がたつのでシモバシラとかコオリグサともいいます。地球の気候が変わるときに植物はそれに合わせて進化してきたのです。冬を迎えるときは、水を揚げるのを止めることを植物たちは覚えた。そうして無事凍結する冬を越すんですよ。ところがこの植物は、それができなかった。だからいつまでも水を揚げ続ける。それで霜柱がいっぱいつく」と、そんな話もできるわけです。
霧立越にある500種もの草本木本類の内、かなりな部分が説明ができるようになると、お客さんから「先生これは何でしょうか」と葉っぱを持ってきて尋ねられるようになる。先生と呼ばれるのは大変なことです。山の中に住んでいる者も街の人に教えるものがある。先生と呼ばれる。これは山村の青年たちに大変な自信と誇りをもたらすことになるのです。
知らない植物があるとさっそく調べる。教える楽しみがでてくるのです。自分で図鑑を何冊も買い込んで調べている。例えば秋になるとブナの倒木に生えるムキタケは毒のツキヨタケと良く似ている。その見分け方なんか達人になってくる。そうすると先生なんですね。今まで全く自信を持ってなかった人たちが先生になっている。おそらく皆さんが霧立越に参加されるとガイドの何人かは、皆さんがびっくりするようなことをどんどん説明していくと思います。自信を持ってくると非常に行動的になってきた。これが都市と山村の交流の一番大事な部分じゃないのかな、という気がします。
4.森の文化、猟師の作法
ブナ帯で始まった縄文時代以降の森の暮らしの文化を考える時、山師さんや猟師さんの生活作法に哲学的なものをみることができます。山師さんというと、もうひとつの意味がありますが、もともと山で暮らす専門の人たち、プロフェッショナルの集団と考えます。例えばノリ山といえばノリウツギの皮を剥いで樽に詰めて送りだす人たちです。この皮で和紙を作りました。
ゲタ山というのは、胡桃とかを割って下駄一足分の大きさに削って山から運び出した。ハツリ山というのは、鉄道の枕木を削って作る。伐採をするサキ山、モッカンをつくるモッカン山、キノコを作る人はナバ山ですね。そういう山の専門の人たちを総称して山師さんと呼ぶと私は考えます。
森の作法の基本は、自然界はすべて山の神が支配しているという思想です。山の神に対して礼儀を守らなければならない。人間の力では、自然をどうすることもできない。それはまさに神である。そういうことから、作法が生まれ、バチが当たるとわかりやすく解いていると思うのです。バチのその奥には哲学的な深さを持っていることがある。
今ハツリ山といいました。ハツリ山が使うハツリヨキはご存じですね。木を削る大きな斧です。普通「ヨキ」と呼ぶのは、もっと小さな斧で立木を伐採するときに、木を倒そうとする側にV字形の受け口を切る道具です。そしてもう一方から鋸で挽いて木を倒す。この道具をヨキと呼びます。このヨキの語源はわかりますか。
ヨキには、柄の取り付けの部分に三本の線ともう一方に4本の線が刻んであります。この4本の線の意味は実は、太陽と土と水と空気を表したものといいます。4つの「気」が入っているので「ヨキ」となるわけです。もう一方の3本の線は、山の神に捧げるミキ(神酒)に通じているといいます。または、陰陽五行の節の三合の理ともいわれます。山にヨキを置いて帰る時、ヨキは4本の線の方を地面に向けて置くといわれます。木の命を奪う道具に木を育てる4要素を入れてヨキと呼ばせるなんて生活の作法が見えてくるようです。
5.オコゼまつりの作法
猟師さんのお話も面白いですね。隣の椎葉村に古来からのしきたりを伝える猟師さんがいます。狩猟儀礼作法伝承者の尾前善則さんです。これは民俗学者の柳田国夫さんも聞きもらした部分だと思うんですが、オコゼまつりのお話があります。椎葉の民俗芸能博物館に海のオコゼを展示してあります。東北のマタギもオコゼを大切にするそうです。オコゼを山の神に捧げる。一般的には、山の神は女性の神さまでオコゼは見苦しい顔をしているから山の神にオコゼを捧げると喜ばれるという認識ぐらいしかない。ところがオコゼまつりのお話はお話はもっと奥が深いのです。
猟師は「のさらん福は願い申さん」の心でなければいけない。のさらんとは授からないものという意味で、正しい行いをすれば、狩りの作法を守っていれば山の神が獲物をくださる。獲物は山の神からの授かり物であり、授かったものだけで充分です。それ以上は望みませんということです。山に入ればどこにでも山の神がいて、川に入れば川のどこにでも水の神がいる。人間の力ではどうすることもできない自然界はすべて神が司っているという生活作法です。
猟師には、大猟師(ウーリュウシ)と小猟師(コリュウシ)という二通りの性格の猟師がいる。大猟師は強欲な猟師で、逆(サカ)めぐりでもやってしまう。逆めぐりとは、家の大黒柱に磁石を立てて干支の方位(右回り)に順番に猟に入っていくことを作法として、これを逆にすることです。今まで入っていった山からみると逆めぐりになる所に、例えば傷ついた鹿なり猪がいて、犬を仕掛ければすぐに捕れると思われる時でも、小猟師は犬をくくって出てくるという。正直で作法を守る猟師が小猟師です。山で弁当を食べるときも必ず山の神に捧げてからでないと食べない。山ではいつも食べ物、飲物を携えている。
ある時、大猟師も小猟師も山に猟に入りました。山では山の神がお産をしかかっていました。最初に大猟師が山の神のところを通りかかったら「大猟師よ、実は今こうこういうわけでお産をしかかっている。のどが渇いた。何か食べ物を持たないか」と山の神が声をかけた。大猟師は「そういうものは持たん」と言って何も供げなくて通って行った。次に小猟師が通りかかったところ山の神は大猟師と同じように「小猟師よ、実は今こうこういうわけでお産をしかかっている。のどが渇いた。何か食べ物を持たないか」と声をかけた。小猟師は「こういうこともあろうか持っていました。」と稗(ヒエ)とか粟(アワ)で作った甘酒みたいなものとか、ご供物を山の神に捧げた。山の神はたいそう喜んで「お前のような猟師でないといけない。これから小猟師が山に入った時は、獲物を必ずさし上げましょう」と言ったという。
以来、大猟師が山に入ると獲物は逃げてしまい、小猟師が入ると、まるで獲物が飛び掛かってくるようにして獲れるようになった。そこで小猟師は毎日のように山に入って行く。そうしますと、我が家でも食べ尽くさないように捕れる。それでも面白いので、毎日のように猟に入って行く。隣近所におすそ分けしてもまだ余る。 そこで小猟師の奥さんが考えました。「そうだ。町に肉を売りに行けばいい。」竹で編んだショウケに肉を乗せて町へ売りに行きはじめた。ところが肉は重たい。そこでショウケを頭の上に乗せたら運びやすいことに気がついた。頭の上に乗せて町に売りに行く。なりふり構わず面白いから働いた。小猟師は毎日のように獲物を獲って来る。奥さんは毎日のようにショウケに肉を乗せて、町に売りに行くという生活が続いた。
あるとき、小猟師の奥さんは谷川の橋を渡って降りて行く時、橋の上で立ち止まって川をのぞいた。すると川の水鏡に自分の姿が映っている。よく見ると髪が抜けて禿げてしまい見苦しくなっている自分に気がついた。女でありながら、こんなに醜い姿になってしまったと非常に嘆いて悲しんで、とうとう身投げをしてしまった。その亡骸がドンブラコ、ドンブラコと流れてとうとう海に流れついた。海のオコゼは小猟師の奥さんの化身だという考え方なのです。ですから、オコゼを持って、山の神にお礼参りをする。そうすると、また山の神が獲物を授けてくれる。そういう訳で、オコゼまつりをしていたという。
これなんかも非常に哲学的だと思います。大猟師のように強欲であってはならないという戒め。これはよくわかります。それから、小猟師のように山の神を大切にして作法をきちんと守り、真面目で花咲か爺さんのような暮らしをすると山の神は獲物を授けてくれる。だけど、自分たちの暮らしに必要のないものまで獲ってしまうと奥さんのようになる、という戒めではないかという気がすします。
逆めぐりの法則でもそうですね。禁猟区とか保護区とかを、自分たちが生活の中に取り込んでいる。秋になると葉っぱが落ちて鳥も去って行き、春になるとまた木の芽もでて鳥も戻ってくる。自然は絶えず循環していてその中に組み込まれた生き方をすることを説いている。こうした森の作法は、自然は有限であるという考え方が根底にあることが多いですね。
6.自然の循環
海の漁師さんにはどうもそのような作法は見当たらない。魚がいなくなっても「今は漁が少ないが60年経ったら帰ってくるよ」という。それほどに海は広く無限と考えたのかもしれません。ここで60年という数字が面白い。
今年はブナの実がかなり豊作でしたがこういう年は、猪もまるまる肥えて美味しい。鳥たちも増えている。ブナは3〜4年に一回実をつけますが、60年に1回大豊作があるという。ブナの実はアクがなくて生で食べても大変美味しいです。美味しい実を毎年たくさんつけると獣や野鳥が増えすぎるから、種をふやすことができない。パタッと止まって、餓死させて、ドカッと実をつける豊作の時はいくら動物が食べても食べてしまいきれない。実は、ここに種を増やす戦略があるのではないかと考える学者もいらっしゃる。そのブナが60年に一回大豊作が訪れるという。竹が枯れるのも60年といわれます。スズタケもそうです。この地方のクロタケ(マダケ)が何年か前に全部枯れてしまったことがある。人間も60年で還暦という。
宮崎出身の神奈川県歯科大学の鹿島先生は耳石(じせき)の研究で有名です。アメリカのスペースシャトルにいろんな生物を積んで宇宙へ打ち上げて研究されている。その先生のお話では、生命が誕生するときに、まず一番最初にできるものは耳石だということです。耳石が発生しないと生命は誕生しない。地磁気を感じるものが最初に一個できて、次に顎が出来る。後から耳石は3個になって1個は消えて最終的には2個になるそうです。
耳石は遺伝子のような情報をもっているということで、やまめの卵からやまめが発生する時の耳石を研究されるので養魚場の卵と天然の川の砂から掘り出した卵を送っていますが、天然と養殖には耳石にあきらかな違いがあるということです。耳石がなかったら、サケだって生まれた川に帰れないし、渡り鳥は渡って行けないし、ミツバチだって南北の方向に巣をかけられない。地球上にある生命は、まず耳石から生まれるというお話しは面白かった。
その先生から伺ったお話ですが、人間の細胞を培養していくと60回でダメになってしまうそうです。人間は60歳までに故障がある場合は故障がでてきて、それを過ぎたらまた長生きできるという。60とは不思議なめぐり合わせがある。自然界にはそういう60年の法則みたいなものがあるのではないでしょうか。
7.神楽は地域の遺伝子
一昨年の秋50年ぶりに鞍岡の神楽33番全部を舞い通すことができました。一時は神楽の後継者もなく、途絶えるかと思いましたが、えのはの家が出来て昭和50年代から、紅葉の季節に集中して週2回づつ神楽をやるようになり、若者たちも入ってきて、今では20名ほどになりました。神楽全33番が復活できるようになって、宮崎放送から中継車を持ってきて33番全部を同録していただきました。実に1時間30分のテープが5本です。
33番全部を復活させるに当たって命(みこと)づけから、採物(とりもの)、足の踏み方舞い方、笛太鼓の調子、証義、神楽唄等調べて師匠さん方に思い出してもらってまとめるうち、これは凄いことだと思いました。神楽ができた年代ははっきりしませんが、いずれにしても食うや食わずの時代、命がけで生きている時代です。夜中に山の岩の上で火を燃やして水をぶっかけ石を割ったりしながら田んぼを開いた。あるいは木の根を掘り起こして畑を開墾したりするような食料確保最優先の頃、このような神楽を創造して今日まで伝えているわけです。
神楽道具は手作りです。笛だってそうです。笛をつくる物差しはない。指で測る。篠竹を切ってきて節から二つぶせの所に穴を開けます。ついで握り拳をつくり親指を出して、小指を出して、親指が息を吹き込む穴、小指が音の出る穴とし、一つぶせごとに穴を開けていって息を吹き込みながら調子をみて神楽のリズムが吹ける笛に仕上げていく。大変なエネルギーと技術が必要です。
かつて村を構成した原点はどうやらおまつりにあった。おまつりに歩いて集まる。一日で歩いて集っておまつりをする。この範囲が実は、集落の原点ではないかと思うのです。それが、車社会になって移動の範囲が広範囲となり、合併が繰り返されて今日の集落になった。だから、ひとつの町にいくつもの違う神楽があるわけです。おまつりは神事。その神事のメイン・イベントが神楽なんです。その神楽には、神話として民族発祥の物語や生活作法などを伝えている。すごい仕組みになっている。まさに神楽は地域の遺伝子の役割をもっていたのではないでしょうか。
今は、それを伝えることさえままならない。復活さえできない。まして新たに創造することは尚できない。今は2週間も働けば、食うことにはこと欠かない。先ず、死ぬようなことはありえない。このようなときに、今、私たちは何をやっているんだろう。神楽をつくり、伝承してきた先人の情熱とエネモルギーはとても今はない。そんなすごいことが森には凝縮している訳です。こういうことが、都市と山村との交流の一番大事なところではなかろうかと思います。
8.駄貸付け道「霧立越」
霧立越のインストラクターのお話を最初の方でいたしました。もう少しお話させていただこうと思います。霧立越は約12km、23,000歩ですね。約6時間、休憩時間をいれて7〜8時間尾根伝いを歩くわけです。これが非常に人気で、年間4,000人くらいの方が歩いています
。 霧立越は、椎葉村の尾前から熊本県の馬見原までがメインルートですね。馬見原は馬を見る原からきています。椎葉、諸塚、高千穂、などの山ひだ深くから盆地の馬見原まで馬の背で物資を運び出し、馬見原からは馬車で肥後の方へ物資を運んだ。馬見原は古くから番所があって、物流の拠点として栄えた町です。
駄賃付けさんは、1人で馬を1頭引いて行くのではなく、2頭から3頭引いていた。そして1人では移動しない。馬見原から尾前までの距離は40q以上あり険しい所を歩いて行きますから、馬が暴れて転落することもある。荷が壊れて1人で対処できないこともある。だから、数人づつ組をつくって移動していた。3頭ずつ挽いて、3人で歩くと9頭、5人で行くと15頭になるわけです。そんな単位で移動していたという。
昭和の初め頃、馬力のいい馬が一頭70円〜80円。安いのが40円〜50円。安い馬はあまり多く積めないのでやはり高い馬がよかったと椎葉村史にあります。馬1頭に積む荷物の単位を1駄といいますが、だいたい、1駄70s〜100sのようです。高い馬は1駄100s積めたようです。
馬見原には、造り酒屋が8軒ほどあって、焼酎屋までいれると12軒くらいあった。今はありませんけど、花園座という回り舞台付きの劇場まであった。夕方になると、三味線や太鼓が鳴った。そんな宿場町だったんです。車社会になって駄賃付けがなくなったのです。
昔を思わせる地名があちこちにありますが、私どもの鞍岡も馬の鞍を置いた村が訛って、鞍岡となったということですね。源平合戦で平家が九州山地に逃れてきた。鞍岡に馬の鞍を置いて、険しい霧立越を越えて椎葉に入って行った、という説です。立派な馬の鞍が保存されてあります。この鞍は那須大八郎宗久の鞍だといわれています。昔から言われてますから、私は那須大八郎の鞍だと思うんです。
源平の後20数年たって、元久2年、鎌倉幕府は平家追討の手を緩めずに、那須与一に椎葉山中に逃げ込んだ平家一門の追討を命じた。那須与一は体の具合が悪くて弟の大八郎宗久が代わって来た。鞍岡に馬の鞍を置いて、霧立越を越えて椎葉に入った。椎葉では、平家落人の戦意のないことを悟り、呉越同舟の踊りを踊ったとされています。それが今日伝えられている椎葉と鞍岡に残る臼太鼓踊りの起源といわれているのです。
人吉の丸目蔵人のタイシャ流が霧立越を伝ってきました。このお話も面白いですが、時間内に納まらないと思いますので、興味のある方は、資料がございますから後ほどおっしゃってください。
9.西郷隆盛の霧立越
明治10年4月25日、西南戦役で薩軍の大軍がここを通りました。佐々友房や宇野東風の獄中日記「硝煙弾雨」の戦記下「矢部に至り隊伍を改編す」の項に霧立越が書いてあります。西郷さんは1日早く、2,000の兵に守られて、本屋敷から財木の方を越え、桐野利秋が本隊を率いて、霧立越を行軍した。陽動作戦もあって、なかなか詳細な情報が無かったのですが、鞍岡のお寺(金光寺)の行灯に墨黒々と落書きして中村半次郎と署名してあった。中村半次郎は桐野利秋の別名ということがわかった。
波帰村の秋山文太という人は、夫方に呼び出され、着物を取り換えて明け荷を担いで人吉まで行って、西郷札をもらって帰ってきたといわれます。それで波帰には西郷札のある家もあります。矢部で軍議を開いて江代へ出て人吉へ結集し、日向、薩摩、大隅の兵を募って再度機を見て攻撃という、霧立越を行軍した時はまだ勝てば官軍という勢いも多少はあったのではないでしょうか。
4月の下旬というのは、木の芽立ちの雨が降る季節です。標高1,600mの霧立越は、やっと木の芽が出るころです。雨が多い。薩軍が行軍する時も雨が降って、大変な苦労をしたという話があります。草鞋で歩いているのです。濡れると草鞋は破れる。破れた草鞋を捨てて、新しいのに履きかえる。だけど、最後の一足は死ぬ行軍ではないですから使わない。最後の一足は履かずに裸足で歩いた。ところが、当時の霧立越には数尺の雪があったと書かれています。それでみんな凍傷にあった。今、考えられないですね。
今年は4月29日に霧立越のシャクナゲが満開でした。 平部矯南(1815年〜1890年)の『日向地誌』(1874年)でもそうです。波帰まで歩いて登っているのですが、「満山樹木鬱蒼たり、嶺頂は例年10月に雪をいただいて、翌年3月になってはじめて溶ける。」と書いてある。今はそんなことはない。やはり地球の温暖化を感じます。
10.霧立越のタヌキ伝説
駄貸付け馬が何を運んだのか、もう少し話をしましょう。酒ですね。日本酒は樽で焼酎は瓶(かめ)で運んでいます。酒を馬で運んでいると質の悪いタヌキが出没するので有名だった。ときどきタヌキに化かされて、魚が取り上げられたり、馬が谷底に突き落とされたり、酒が薄くなったり、減ったりするという。
酒がタヌキに化かされて減るのはどうしてですか。薄くなるのはどうしてですか。ということを造り酒屋の方にお話ししてもらおう、ということを企んで、馬見原の代々造り酒屋の明治生まれの方、工藤平次郎さんにパネリストをお願いしてシンポジウムを椎葉の開発センターで行いました。始めはなかなかお話ししてくださらないんですね。当たり障りがありますからとか言い始められてですね。 霧立越というのは昭和12年で終わっていますから、何があっても時効ですよ。当時の関係者はもういないから、と会場からみんなで言った。それじゃあ、お話しします。ということで、お話しになった。
皆さん方は、酒樽というと、口の広い鏡割りの樽を想われるでしょう。駄賃付けの酒樽は細長い樽だった。2斗入っていた。それを馬の背の右と左に乗せた。2斗入りということは1つが大体36s。樽の重量を合わせると40kgを超える。2本合わせて100s近い重量です。それが1駄の重量です。
そのお酒を椎葉に届けた時、椎葉では栓を抜いて取り出して飲むわけです。空っぽになったら、空の樽を積んで送る。すると酒屋さんでは、樽の蓋をこじ開けて中をタワシで洗って熱湯で消毒して又お酒を詰める。そうすると、桶の輪のところの内側に穴の痕がある。木の枝が削って打込んである。あれは馬方さんがやったんですよ。桶の輪を叩けば輪はずれていく。ずらしたところで穴を開けて取り出し、その後木の枝を削って打込み、桶の輪を元に戻しておけば外からは見えない。飲み過ぎたときは、途中で水を入れたんでしょう。というお話でした。質の悪いタヌキが出て今度も酒が薄くなった。と、まことしやかに言われる。薄々はわかっていたと思いますけどね。遠い距離を苦労して運ぶので、タヌキのせいでよしとしたところがあるのではないでしょうか。
「かめ割り」という所が途中にあります。そのあたりに来るとタヌキに化かされて馬が突然暴れはじめる。グループで歩いていますから、今度はOOさんのかめが割れてもいいんじゃないか、とか。こぼさないような割れ方があったんじゃなかろうかと思います。魚を積んでいると、タヌキの被害にあったりする。そんな話があるんですね。
11.やまめから学ぶ
最後に、やまめから学んだというお話をしたいと思います。やまめは実に野性的な魚ですね。釣りに行かれた方はご存じと思いますが、高気圧が張り出した良い天気の日中に行っても、なかなか釣れない。低気圧が近づいて明日は大雨になるんじゃないか。こういったときに行くとよく釣れる。昔の釣り人は皆んな経験しているんです。低気圧が近づいたとき、どうかしたら入れ食いすることがある。そういう時は釣り上げたときにキュッキュッキュッと鳴くんです。鳴くという言葉が適切かどうか知りませんが、キュッキュッキュッと鳴く。あまりに釣れて気味が悪くなって逃げ帰ったことがあります。
つまり、やまめは天気の変化を予知できるんですね。台風の前に石を食って流されないようにするという説があるが、あれは違うと思う。そんな小石位で濁流に対処できるはずがない。水かさが増してくる前にそれを予知して事前に安全な所に移動する、実はこの予知できるかどうかが問題です。台風のときでも、渦を巻いて流れない所を網ですくうとやまめが入ってくることがあります。事前に予知して安全地帯に移動できる能力のあるものが生き残り、そういう能力のないものは滅びている。
やまめは谷川の奥深くに陸封されてから長い年月過酷な条件の中で生きてきた。100年に一度、あるいわ1,000年に一度というような大干ばつや谷が埋まってしまうような大洪水がある。そんな時、狭い谷川で事前に予知出来て安全水域に避難した。そんな能力のある種は生存できるが能力をもたない種は滅びてこの世に存在しないのです。だから天気の予知能力がある。渇水期に鳥や獣が襲って来る。そこで何かのかすかな影や動きを感じたら、サッと岩場の奥深くに矢のように身をひるがえして逃げ込むことができる。そいうことができない種は滅んでいる。
そんな野性の逞しい能力を持ったやまめが、養殖を重ねていくと野性がなくなった。天候の変化で餌を食べるのでは無くて、積算温度で餌を食べるようになった。魚は水温が体温ですから積算温度で新陳代謝が行われる。だから10度の水温で1日生きた事と1度の水温で10日生きたことは、魚にとってはイコールなんですね。養殖するにはコントロールし易くなって結構ですが、野性がなくなり、本来大好物のミミズを池に放り込んでも逃げてしまう。
おととし、全国湖沼河川養殖研究会で、三つの問題提起講演をしました。まず一つは、全国の水産試験場の皆さんが地域固有種を大事に保護され、人工孵化して増殖の研究をされていることは非常に大事なことかも知れませんが、それは自然界で生きられない魚をつくっていることになるのではないでしょうか、ということです。
にじますは明治9年に北米から日本に入ってきた魚です。以来百数十年人間が人工孵化を続けてきた。完全に人工化した魚になった。ですから、にじますの棲息環境にぴったりの河川に放流しても自然で増殖できない。放流した固体で終わってしまう。人間が卵を取り出しているから、自然界で生きていけない魚になった。やまめもにじますのようになりつつある。非常に飼いやすくなってきた反面、自然界で生きられない魚を作ってきたなと思っています。
今後放流用は自分で産卵させることが必要になってきた。産卵できない魚になってくるとだめですね。これからの放流は、川に魚を増やすのは、そういうことをやらないとだめじゃないのか、と問題提起した。
もう一つは、やまめの禁漁期についてです。例年産卵期の10月1日から翌年2月末までが禁漁期ですがこれが間違いではないかということです。3月4月の2ヶ月だけ禁漁期にすれば良いではないかというわけです。なぜなれば9月下旬になると、完熟したやまめは餌をとらなくなる。だから釣りの名人でも餌をとらない魚は釣れるはずがない。3月になって、水温が7度ぐらいに上がってくると、餌をバクバク食べるようになる。秋の産卵期にサビたまま冬を越して痩せ細っていて食べてもまずい。春に目覚めてめちゃくちゃ餌を食べる時、サビも回復していないのを入れ食い状態で根こそぎ釣り上げてしまう。それより3月と4月の2カ月だけ禁漁にして5月、川岸に山吹の花が咲きほこるころ、やまめが丸々肥えて光り輝くようになったやまめの旬に解禁するのが一番いいんじゃないかということです。
三番目には、川に魚が住める環境がなくなっている。川床がさらさらに埋まってしまい、青々とした淵もなく、ちょっと雨が降ってもどろどろになって濁る。日照りが続けば、空谷となってしまう。全国的に魚が住めない川になった。コンクリートの池で、いくら懸命に人口孵化をやっても川に魚が蘇らないのでは意味がない。皆さん方水産関係者からこそ森を直そうという運動が起こらんといけないんじゃないか。そんなことをお話したのです。質疑の時間になった。だれからも質問がない。おかしいなあ。反感をもたれたかな、と思っていたら、後のパーティになって、東北の試験場の場長さんとかいろんな人がやって来て「俺も森に原因があると思っている。あの時、もし私が手を挙げてそうだと言ったら、おまえやってくれ、ということになる。行政は2番手でないと先頭切って行動を起こすことは難しい」というお話をされました。
今年はハチの数が少ない。アカバチは高い所に巣をかけている。台風の多い年は地面近くに巣をかける。そして巣も数が多く巣の単位が小さい。あっちこっちに危険分散しているのでしょう。今年は巣の数が少なくて巣の単位が大きい。台風が少ないので危険分散しなくてよいと考えたのでしょう。どうして昆虫たちは天候の予知能力があるのでしょうか。
アメリカのインデアン、ジェラルド・ワン・ベアさんを私たちのシンポジウムにお招きしたのですが、その時、インディアンは天気をよむのにアリの巣など昆虫を観察して判断するというお話がありました。アリがせっせと巣から土を運び出す時は雨が降らないとか、みんな知っているという。それでは、人間はそんな予知能力はないのかという疑問が浮かぶわけですが、たぶん縄文時代、ブナ林の中の森の暮らしの1万年というのは、先を読むある種の能力があったと考えていいのではないかと思います。天候の変化の予知能力がなくて無防備の時、突然の嵐などに襲われたら生きていないかもしれません。予知できて避難した人種が生き残ってきたともいえるのではないかと思うのです。
1992年にヨットで世界一周された今給黎教子さんの話の中で、航海を始めて3ヶ月経ったころから、低気圧が来るのが体でわかるようになったというお話がありました。もともと人間にはそのような能力があった。それがだんだん都市化されて退化した。まさにやまめのようになってきたと考えていいのではないでしょうか。だから野性というのは大事なテーマだと思うのです。将来、千年単位で考えた場合、人間の正しい遺伝子を後世に伝えられるのは、先程お話しました椎葉の狩猟儀礼伝承者の尾前善則さんのような人とか、アフリカのブッシュマンのような狩猟採集生活者ではないかと思うことがあります。弥生時代以降、自然界から離れることによって、快適な暮らしができる方向へきて究極の都市文明を築いた。どうやら自然から隔離されたような都市文明には未来はないような気がします。
12.都市と山村との交流
せっかくですから時間をオーバーしてもう少しお話しますと、東南アジア旅行に行った日本人が赤痢にかかったという。その国に赤痢情報はないのに。また、Oー157は米国なんかにもともとあった菌ですが、日本だけが集団発生しているという。これはなんだろうと思うわけです。
やまめの病気が全国的に蔓延したのは昭和50年代です。ギンザケなどを外国から輸入を始めた時です。それまで日本になかったウィルス・細菌がたくさん広がった。IPNとかIHNとかBKDとかいうウィルスの病気が全国に蔓延した。その時、内水面に予算を一番持っている県は、海に面していない県ですね。長野、群馬、茨城、埼玉とかです。そういう県は相当大きなお金を投じて、地下水を深いところからボーリングしてポンプ・アップし、きちんと囲んだ所にニジマスの親を入れて、担当の人が完全に消毒して白衣を着て親を育てた。そこで卵を取り出して、無菌状態の卵を民間に分譲して内水面の産業振興を図ろうという政策であった。
ところが、海に面してる県は、どうしても海の漁業に力が入ってしまうので、宮崎県もそですが、内水面の予算はいくらもない。だから、ほどほどに防疫対策をやってヨード剤で消毒をきちんとやってください。パコマで進入車の消毒をやってください程度で済ませた。
全国にものすごい打撃を与えたんだけど、今、私どもの養魚場で若い職員たちはIHNとかBKDとかいってもみんな知らない。昭和50年代では稚魚がバッタバッタ倒れたんだよといっても今はそういう病気があることすら知らない。ところが、今、全国養鱒部会などで発表されるのを聞いて見ると、一番問題になるテーマは、いまもってまだIHN対策等です。それは、無菌状態で生産されている先進県においてのお話です。毎年これだけの被害が出ます。こういうワクチンを開発中でございます。とかやっている。予算の無かった後進県ではそんな病気は無くなっている。早々と宮崎なんかも終息宣言を出しているのです。
人間というのは、自然界の中にいて、色んなバランスを絶えずとっていく。そういう免疫ができて、ものすごい菌やウィルスの中にいる訳ですから、そこで絶えずバランスをとりながら生きていくのが、人間本来の姿です。抗菌グッズとか、菌に触れない、自然界に接しない生き方をしていると、まさに養殖やまめのようになるのではないか。この延長線上には滅菌室でなければ生きていけない生物になるのではないか、なんて思うことがあります。人間は、自然に接しなければいびつになるのではないかということです。
霧立越を歩いていると、いろんな発見があります。70代のグループと20代の女性のグループを一緒にご案内していたんです。白岩からロープを伝って降りる斜面とか何ヶ所かあるんです。最初お年寄りの人をマークして見てたんです。ところが、お年寄りは大丈夫なんです。それは、足場をきちんと目で追いながら、ちゃんと足場を決めてきちっと降りる。若い人たちは、ちょっと段があると座ります。足を投げ出して立ちます。またそこにしゃがんで座ります。斜面を歩いたことがないのですね。まっ平らの固い舗装の上やコンクリートの階段くらいしか歩いたことがない。だから軟らかい土の斜面の歩き方が分からない。これが、まさに今の社会だと思うのです。
都市と山村の交流はこうしたことを体験する。現場論として肌で感じることが重要だと思うのです。ほんとうに人間らしく生きるために。
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