木地屋伝説

やまめの里で木地屋の墓発見

kijiya1  ホテルフォレストピアの右岸、山に少し入ったところの木立の中で、毎年春になると真っ赤なキリシマツツジの花が1株咲き続けているところがあります。近年は植林した杉が大きくなってしだいに樹勢が弱くなりましたが、まるで誰かが「ここにいるよ」と知らせるように咲いているのです。そこには何かがありそうな気がして、この春、枯草をかきわけながらツツジの株を探して分け入りました。



kijiya2  すると、びっくり、藪の中に写真のような墓が二つ並んでいました。イシゴケを削りとって読んでみましたら、木地屋、小椋禮次郎?ともう一つはその妻らしい墓石です。まさかとびっくりしました。




kijiya3 実は、ホテルフォレストピア付近をキジヤと呼び、少し上流の左岸にある小谷をキジヤン谷(木地屋の谷)、波帰の集落対岸にキジゴヤ(木地小屋)と呼ぶ地名があります。このようにこの付近の地名はキジヤにちなむところが多いのです。

 筆者が木地屋に関心を持ちはじめたのは、昭和37年(1962)でした。波帰国有林の天然林の伐採が始まった時です。熊本の業者(前坂製材所)が立木の払い下げを受けて伐採山師たちが入り込みました。
 当時、私の父は、波帰国有林の林野巡視員をしていましたので営林署や業者の人たちが毎日のように我家に訪れていて作業の進捗状態や業務内容などの情報が集っていました。
 そんなある日、熊本の製材所から不思議な木があったという知らせがありました。波帰国有林から運び込んだ樹齢300年以上もある栂の大木で、外見は何も変わったことはないのですが、製材していたら中心から100年くらいの年輪のところに、くっきりと斧で切込んだ跡が黒く残っているのです。その傷の上を木はしだいに皮をつけて再び何事もなかったように年輪を刻み成長を続けていたわけです。そこで一体この斧の跡は誰の仕業だろうということになり、いろいろと山地の歴史を調べていたら木地屋が浮かんだのです。
 その斧の跡が残る製材した断面を30p角で1m位の長さに切断して譲り受け、役場に持ち込みました。当時の山崎町長は、「山地の歴史の証明だから保存したい」と言われて町長室の隅に立てられていました。それから幾歳月かが過ぎ、庁舎の改築がなされ、一旦役場はプレハブの仮設庁舎に移転し、改築が終って戻った時、その「山地の歴史の証明」は消えてなくなっていました。役場の職員の誰に聞いてもどこに行ったのか分らないと言います。残念なことです。


※木地屋について

 木地屋とは、轤轤でお盆やお椀などをつくりながら全国を渡り歩いた木地屋職人の人たちである。木地屋には山の八合目以上の木は全国どこでも切ってよいとされる朝廷からの天下御免の免許状が与えられていた。

 文徳天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王(八四四ー八九七年)は二十九歳の時、都をのがれて近江の国小椋郷に移り、貞観十四年(八七二年)に出家して素覚法親王と名乗った。親王は読経中に法華教の経典の丸い軸から轤轤を思いつき、その技術を付近の住民に教えたという。

 こうした由緒に基づいて木地師は小椋郷をふるさととし、惟喬親王を轤轤の神様と仰いだ。祖神の氏子に対し朝廷は木地師の特権を認めた綸旨(りんじ)、免許状、鑑札、印鑑、往来手形などのいわゆる木地屋文書を与え身分を保証した。木地師はこの文書を携えて全国各地に散り、独自に生産活動を行うようになった。

 氏子には二派あり、一方を筒井公文所、もう一方を高松御所として、氏子狩と呼ぶ制度によって全国的な組織に統一されていく。

 氏子狩は小椋郷から奉加帳を持って諸国に散在する木地師を訪ね、祖神への奉加金を徴収し、人別改めを行った。

 木地師研究家の杉本壽氏の資料によると、正保四年(一六四七年)から明治二十六年(一八九三年)まで、奉加帳に登録された木地師の延べ人員は筒井公文所約五万人、高松御所約一万人といわれる。

 当地では、明治三年(一七六六年)鞍岡山、木地屋九軒とあり十三名分の奉加金が登録されている。しかし江戸末期からはその消息を絶った。代わって明治初年、三ケ所地区に小椋家が移住してきた。小椋家には木地屋文書があり、家宝とされている。 木地屋文書は、江戸時代まで先例通り許可したが、明治時代になり土地の所有権制度が確立されてからはその慣例は無効となった。木地師は特権が認められなくなると、山から山へ渡り歩くことをやめて、農耕を兼ねるようになり、定住してきた。

 五ケ瀬町史(昭和五十六年発行)によると、小椋家の木地屋古文書には次のようなものがある。承平五年(九三八年)左大丞(太政官の左弁官局長官)の名で出された免許状で『器質の統領として、日本国中の諸国の山に立ち入ることを免許する』という書状。

 承久二年(一二二〇年)惟喬(これたか)親王を祭る筒井神社にあてた大蔵政卿雅仲、民部卿頼貞、藤原定勝、連署の惟喬親王由緒書。

 元亀三年(一五七二年)『諸国の轤轤師(ろくろし)杓子、塗物師、引き物師の一族は末代其の職を許し諸役を免除させる』という書状。天正十一年(一五八三年)には豊臣秀吉から『日本国中の轤轤師の商売は、先祖からのしきたり通り異議なく差し許す』という許可丈が筒井公文所あて出されている。

 九州において、一国の頭領が所持する木地師の由諸書や免許状を保存しているのは小椋家だけではないかといわれる。

 古文書とともに、小椋家には手轤轤(てろくろ)が受け継がれている。手轤轤は、横に固定された円筒に網を数回巻きつけて網の両端をそれぞれ両手に持ち、交互に引いて軸を回転させる装置である。

 軸の先端には鉄のつめがあり、これに荒木取りした木地を打ちつけて固定し、もう一人が軸の回転に合わせて木地にカンナを当てて削るようになっている。

 手轤轤による制作工程は昭和五十五年、宮崎県教育委員会によVTRに記録されている。若い時、制作に当たった経験のあるただ一人生存者であった小椋シモさん(故人、当時八十八歳)の協力で再現した。


以下は、1993年に西日本新聞連載に連載した筆者の原稿です。

12.天下御免の伐採免許状・ボンクリ爺さん

 記憶の糸をたぐっていくと、一人の老人の顔が浮かぶ。老人は背を丸めてひょこひょこと歩いてた。村人は彼のことをボンクリ爺(じい)さんと呼んだ。

 彼は、谷川から水を引いて水車を回し、轤轤(ろくろ)で木工品を作っていた。作品はブナやケヤキなどを材料に、臼受鉢(挽き臼をのせる鉢)や、丸盆、お碗などで、今でもそれを重宝している家庭がある。

 ボンクリ爺さんの仕事場へ遊びに行くと木のおもちゃを作ってくれた。動力を伝える歯車も、数式を書いて木で作り上げたので、頭のよい人だ、と村人から尊敬された。


 昭和二十四年ー五年ごろと思うが、いゆの間にかに引っ越してしまった。彼は多分、木地屋と呼ばれる人の末裔(まつえい)ではなかったかと思う。


 やまめの里のホテルフォレストピア付近をキジヤと呼び、少し上流の波帰の集落近くにキジヤという地名がある。また、本屋敷の奥にはキジフジ屋敷と呼ばれたところもあった。


 木地屋とは轤轤でお盆やお椀などをつくりながら全国を渡り歩いた木地屋職人の人たちである。木地屋には山の八合目以上の木は全国どこでも切ってよいとされる朝廷からの天下御免の免許状が与えられていた。


 文徳天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王(八四四ー八九七年)は二十九歳の時、都をのがれて近江の国小椋郷に移り、貞観十四年(八七二年)に出家して素覚法親王と名乗った。親王は読経中に法華教の経典の丸い軸から轤轤を思いつき、その技術を付近の住民に教えたという。

 こうした由緒に基づいて木地師は小椋郷をふるさととし、惟喬親王を轤轤の神様と仰いだ。祖神の氏子に対し朝廷は木地師の特権を認めた綸旨(りんじ)、免許状、鑑札、印鑑、往来手形などのいわゆる木地屋文書を与え身分を保障した。

 木地師はこの文書を携えて全国各地に散り、独自に生産活動を行うようになった。人里離れた奥山での厳しい生活は、親王伝説が心のよりどころになったものと思われる。

 氏子には二派あり、一方を筒井公文所、もう一方を高松御所として、氏子狩と呼ぶ制度によって全国的な組織に統一されていく。


 氏子狩は小椋郷から奉加帳を持って諸国に散在擦る木地師を訪ね、祖神への奉加金を徴収し、人別改めを行った。


 木地師研究家の杉本壽氏の資料によると、正保四年(一六四七年)から明治二十六年(一八九三年)まで、奉加帳に登録された木地師の延べ人員は筒井公文所約五万人、高松御所約一万人といわれる。戻る
13.滅びつつある木の文化・小椋家の家宝

 木地屋文書は、江戸時代まで先例通り許可したが、明治時代になり土地の所有権制度が確立されてからはその慣例は無効となった。木地師は特権が認められなくなると、山から山へ渡り歩くことをやめて、農耕を兼ねるようになり、定住してきた。

 杉本壽氏の氏子奉加帳によると、明治三年(一七六六年)鞍岡山、木地屋九軒とあり十三名分の奉加金が登録されている。しかし江戸末期からはその消息を絶った。代わって明治初年、三ケ所地区に小椋家が移住してきた。小椋家には木地屋文書があり、家宝とされている。

 五ケ瀬町史(昭和五十六年発行)によると、小椋家の木地屋古文書には次のようなものがある。承平五年(九三八年)左大丞(太政官の左弁官局長官)の名で出された免許状で『器質の統領として、日本国中の諸国の山に立ち入ることを免許する』という書状。

 承久二年(一二二〇年)惟喬(これたか)親王を祭る筒井神社にあてた大蔵政卿雅仲、民部卿頼貞、藤原定勝、連署の惟喬親王由緒書。

 元亀三年(一五七二年)『諸国の轤轤師(ろくろし)杓子、塗物師、引き物師の一族は末代其の職を許し諸役を免除させる』という書状。天正十一年(一五八三年)には豊臣秀吉から『日本国中の轤轤師の商売は、先祖からのしきたり通り異議なく差し許す』という許可丈が筒井公文所あて出されている。

 九州において、一国の頭領が所持する木地師の由諸書や免許状を保存しているのは小椋家だけではないかといわれる。

 古文書とともに、小椋家には手轤轤(てろくろ)が受け継がれている。手轤轤は、横に固定された円筒に網を数回巻きつけて網の両端をそれぞれ両手に持ち、交互に引いて軸を回転させる装置である。

 軸の先端には鉄のつめがあり、これに荒木取りした木地を打ちつけて固定し、もう一人が軸の回転に合わせて木地にカンナを当てて削るようになっている。

 手轤轤による制作工程は昭和五十五年、宮崎県教育委員会によVTRに記録されている。若い時、制作に当たった経験のあるただ一人生存者であった小椋シモさん(故人、当時八十八歳)の協力で再現したものだ。

 小椋家では近年、木地師の伝統により轤轤製品を復活させようと轤轤工場を始めた。ところが困ったことに深い森に材料がない。ブナ林は金にならないと全部杉に植え替えてしまった。ブナやシオジの良材は今日ではまぼろしの木となった。使い捨て文化の終焉(しゅうえん)から本物を見直そうとする今、木の文化が滅びつつある。

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