かわら版 『風』 第28号

 2003年5月号 毎月1回発行

 発行者 やまめの里 企画編集 秋本 治 
五ケ瀬町鞍岡4615  電話0982-83-2326












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も く じ
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6月議会の日程 1
市町村合併勉強会 1
地域通貨を考える 2
留辺蕊町の地域通貨 2
地域通貨シンポジウム 3
生態系の危機 鹿の異変 8
深山幽谷の地を行く 11
第57回宮崎県民体育大会 16
編集後記 16


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6月議会の日程
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6月定例議会の日程が決りました。
6月04日(水)開会初日
6月12日(木)一般質問
6月17日(火)最終日
今回は役場職員の議会傍聴の申込が多数あります。4日初日は2名、12日の一般質問には30名、17日最終日に6名です。これは異例のことで議会の活性化にもなります。議会事務局もやりますね。皆さんも気軽に傍聴においでください。

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市町村合併勉強会
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 西臼杵任意合併協議会でまとめられた報告書が近々印刷が仕上るそうです。内容は、まだ見ていませんが相当なボリュームのようです。これをもとにしてこれから地域ごとに説明会が開かれます。
 議会でも、4月から5月にかけて合併問題の勉強会が開催されています。
 4月24日は、午後5時から町民センターで開催されました。参加者は本町議会議員と役場職員で40名ほどでした。
 また、5月19日には、西臼杵の合併説明会が高千穂町の自然休養村センターで開催され西臼杵の議会議員や合併協議会委員が出席しました。
 県からは、市町村合併支援室の古賀室長と和田主幹が出席、最新情報として次のような説明が行われました。(説明要旨、メモから)

4月24日
■現在、全国の3,187の市町村の内、4割が法定合併協議会に参加している。九州では、法定合併協議会設置数は、長崎16、鹿児島13、熊本11、福岡10、大分10、佐賀6、沖縄2、宮崎は0。
■先日21日、県の合併支援会議で知事がなぜ宮崎はゼロなのかと質問があった。本県が他県と違うのは、先ず合併を進める進めないに関わらず任意の合併協議会を立ち上げることから始めることにしたこと。
■平成の合併は、国も地方も財政が破綻していることに端を発している。権限移譲があってもたいしたことはないものと思う。
■合併は、以下の方式がある。
@本庁方式
 現在ある市町村の庁舎の組織、機構をすべて1箇所に集約する方式。残った庁舎は、直接住民に関わりのある窓口業務機能のみを持たせ、支所または出張所とする。
@-2本庁方式の分散型
 例、一部の部門で福祉事務所をA支所、教育委員会をB支所におくなど。
A分庁方式
 現在の市町村の庁舎を「分庁舎」として行政機能を各部門に振り分ける方式。
 例、本庁をA支所として総務課、企画財政課、住民課。B支所には農林水産課、建設課、商工観光課。C支所には福祉課、保健衛生課などをおく。
B総合支所方式
 現在の庁舎の本庁舎に管理部門と事務局部門を置き、その他はA総合支所、B総合支所として現在の行政機能をそのまま残す方式。
 この中でおすすめしているのは、@-2の本庁方式の分散型である。
行政サービスは分散型で、地域固有の伝統文化は地域自治組織で残すという考え方。
■合併は地域づくりのため。よければ合併、違う方式があれば非合併として住民の目線で考える必要がある。
■交付金の削減は、今後自主財源のないところは影響が大となる。国に頼らない自立の戦略が必要、どこと組むと自治できるか考える必要がある。
■国の言うとおりのことをやってきてこれまで成功しましたかということも考えなければならない。したがって国がいうからということで取り組んでは駄目。これからは地域を残す為にどうするか。
■五ケ瀬町を残す必要はない。合併前の集落をどうするかということ。町の立場から考えるとこの点は間違うかも知れない。

5月19日
■地方制度調査会の中間報告を踏まえての問題は、市町村の財政がどうなっていくかということと、国はどうしようとしているかの二点を見極めることだ。
■西臼杵任意合併協議会では7月頃とりまとめ、その後住民に説明、秋頃法定合併協議会の設立を判断してもらいたい。

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※「風」の考察
1.合併をする理由が見当たらないと公言していた町長が急に先頭に立って西臼杵の任意合併協議会を立ち上げる行動に出られたことが理解できなかったが、県の指導があったことで理解できた。
2.講演で「合併は財政の問題。国も地方も財政が破綻していることに端を発している。」との説明に平成13年9月議会を思い出した。筆者は小泉内閣の交付税見直し改革に危機感を持ち公債費が多いことから財政破綻の可能性を一般質問で行ったところ、当時の町長から「破綻という言葉をこういう公の場で公け人が質疑口論するのはいかがなものか」という強いお叱りの答弁があった。このように危機感を持たず破綻という言葉さえタブー視してきたその尻拭いが合併論だ。合併は財政破綻から来ているので財政に自信があれば堂々と合併を否定すべきだ。

3.本町の財政について本町作成の資料「財政状況・・・E」によると平成15年度予算要求額に対する財源不足額は8億6千6百万円。予算に占める自主財源は、14.62%、予算の85.38%が地方交付税、国庫支出金等に依存した体質。国の地方交付税等の見直しを含む三位一体改革は本町の財政を直撃する。

4.4月24日、町民センターでの勉強会で役場の女性職員から質疑があり、「合併は、これまで関わったこともない町のお祭りを本当に自分のお祭りとして受け入れられるだろうかということを考えなければならないのでは」という意見があった。
 鋭い切り口である。真理を突いていると思う。伝統文化やコミュニティは広げるほどアイデンティティを失う。

5.「西臼杵任意合併協議会だより」第3号を読んで気になることがある。首長挨拶のタイトルに「町づくりを考えるチャンスです。」とある。そんにな暢気なことを言っている場合ではないのではないか。苦渋の選択しかないのだ。
 また、「従来から一貫して合併については、決して反対する気持ちも、ましてや否定する気持ちもありません。」とあるが、リーダーはどうした方が町民のためになるか見えなければならない。所信表明での「合併する理由は見当たらない」とはニュアンスが違う。
 そして「より豊富な判断材料を町民の皆様方に提供することが私どもの最大の責務であると考えます。」とある。果して充分な判断材料が提供できるだろうか。
 財政の仕組みはとても複雑でその内容が掌握できるのは首長と担当のごく一部の人だけではないだろうか。事業ごとの資産や負債、キャッシュフローが今後どうなるのか。現行の単年度会計だけでは掌握できないはずだ。
 そのために先進市町村では事務事業の棚卸を行い、企業会計を導入して資産負債を明確にし、行政コスト計算書やキャッシュフロー計算書を作成してマニフェストにも取り組んでいるのだ。
 せめて自立のためのまちづくり計画くらいは取り組んで頂きたいと思う。

6.国の地方分権構想では、酒類、タバコ、ガソリン等の税源移譲を行い、代わりに交付金を削減する方向という。地方分権は、特例市以上の大きな自治体を構成しなければ受け皿になり得ない。
 西臼杵の合併では、人口3万にも満たないので「市にもなれず分権の受け皿たり得ない。これでは合併の意義がない。
 小泉改革は人口規模至上主義の発想だ。酒類、タバコ、ガソリン等の税源移譲も人口密集地の優遇策に他ならない。
 今、国策として大事なのは国土保全だ。国際的にも環境保全がキーワードになっている。森林面積の多いわが国において森林保全は喫緊の課題である。
 戦後の拡大造林に始まった人工林はまさに荒廃しつつある。自然に手を入れると最後まで人間が面倒見なければ自然はもっと荒廃する。
 将来アジア経済が台頭するのは必至だ。その時の木材需要を賄うのは日本の拡大造林による資源しかない。100年の大計が必要である。
 人口の過疎を理由にした過疎地切捨策は森林保全策をも切り捨てることになる。
 今、広大な面積を有する過疎山村では連携して人口規模至上主義の国に対して問題を突きつけなければならない時と思う。自然の摂理を知らない都会派は、失敗のあとにしか気付かない。

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留辺蕊(るべしべ)町の地域通貨
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 北海道留辺蕊(るべしべ)町で地域通貨の新たな取り組みが始まりました。留辺蕊町へお願いして通貨の見本や資料及び町の条例などを送付いただきました。その一部を下記転載します。
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北海道留辺蕊(るべしべ)町の地域通貨

事実上の地域通貨スタートへ
つかみ取った複数回流通−財務省、条件つきで認める

 本町は、昨年から2度にわたり、国に対し「地域通貨特区」を提案してきました。これに対し、今年に入り金融庁は「可」、財務省は「不可」としたため、本町は、2月5日両省庁に意見書を提出し、再考を求めたところ、2月28日、財務省も条件つきで「可」とする回答を出しました。ここまでに至った経過についてお知らせします。

 通常、「商品券」というと1回しか使用できないというイメージがありますが、商品券の根拠法である「前払式証票の規制等に関する法律」には、複数回流通を禁止する条項はありません。
 本町の第2次特区提案は、この点に着目し、金融庁に商品券の複数回流通が違法でないことの確認を求め、これを事実上の「地域通貨」に発展させようとするものです。
 この要求に対し、2月7日、金融庁は「(同法は)証票の発行者に対し、所要の規制(供託金等)を課しているものであり、証票の流通に関し、規制を課しているものではない」と当町要求を全面的に認め、商品券を何回流通させても違法ではないとしました。
 一方、第2次提案で財務省には、@旧大蔵省が定めた「プリぺイドカード等に関する研究会報告」の中で「換金性を確保されたカードは違法の危険が大きい」としていますが、これを削除してほしい。A自治体発行の地域通貨は紙幣類似証券取締法違反とはならない旨の確認を求めました。

 これに対し、財務省は1月28日「地域通貨も紙幣類似の作用があれば同法に抵触する」とし、「不可」と回答してきました。本町はこの回答を不満として意見書を提出しました。その内容は、@本町地域通貨が東京で流通することなどはあり得ない。Aよって、当町地域通貨が国の通貨政策に混乱を招くこともあり得ない。Bたとえ、本町の2000万円の地域通貨が失敗したとしても、本町には8億円の基金があり、リスクを負う能力はある。Cデフレ経済克服のため、小泉首相、竹中経済財政担当大臣が構造改革特区の重要性を認めているのに、財務省がこれを拒否するのはおかしい。D地域通貨の所官庁は金融庁であるべき、とするものです。

 本町と財務省の間で、行司役を務めた内閣官房構造改革特区推進室は、財務省に対し、「@複数回流通を認めるのか。A換金性を認めるのか」の回答を求めました。これに対し、財務省は、「@複数回流通は登録事業者間であること。A換金は登録事業者が指定金融機関で行うなら紙幣類似証券取締法上問題となることはない」と初めて条件つきながら複数回流通を認めました。

 今回本町は、町内のみを「特区」とし、地域通貨の流通を求めてきましたが、金融庁・財務省も最終的に特区としてではなく、現行法制度の下で容認しました。従って全国の自治体で地域通貨に取り組む突破口ができたことになります。
 本町は今後、新たに取り組む自治体と交流を深め、経済効果のある地域通貨に高めていく考えです。併せて町内167の商品券登録事業所に対し、複数回流通に協力を求める要請書を発送しました。昨年4月に地域商品券を発行して1年が経過し、多くの皆さんの積極的な利用と、特定事業者のご協力により、年間発行目標額2000万円に対し、2月末現在で1999万円発行しています。平成15年度も2000万円を目標に商工会議所(15年9月末までは、はあとふるプラザ展示室)・役場温根湯支所で発行しますので、多種の業種が特定事業者となっているこの商品券をぜひご利用ください。有効期限は、17年3月末までです。

−「地域通貨」とは−

 平成4年に北海道が行った、広域商圏動向調査によると、本町の購買力の39.3%が北見市に流出しています。これに加え、最近北見市には大型店が新設され、購買力流出に拍車をかけており、中央通り拡幅を機に商店街では閉店が増えています。

 高齢者が生活を営むには、半径500m以内に、日用品を購入できる商店が必要とされており、留辺蘂大通り商業振興会でも高齢者向けの商店街形成に努力しています。

 町もそのような努力を側面的に支援しようと地域通貨を模索し、今回の特区提案に至りました。

 町は、昨年4月から「留辺蘂町地域商品券」を発行し、町民の皆さんのご協力で2000万円枠を達成しようとしています。これを複数回流通により、仮に10回流通させることができたなら、経済効果を2億円に高めることができます。

 ただ、わが国には地域通貨に関する法律は無く、所管省庁も定まっていないため、今回の構造改革特区の中で金融庁・財務省に対し、本町の地域通貨の容認を求めたものです。

 現在、世界には3000とも5000ともいわれる地域通貨が流通しており、その数は日増しに増加しています。これは、デフレ経済の下で効果を発揮することが理由であり、特に歴史上で有名なものには、1932年のオーストリア・ヴエルグル町の地域通貨であり、この発行により人口4300人の町で、1500人の労働者に仕事を創出したと言われています。

 現在、わが国では、加藤寛千葉商科大学長などの経済学者だけでなく、竹中平蔵経済財政担当大臣も、地域通貨がデフレ経済克服に有効であると主張し、全国の自治体に取り組みを奨励しています。

以上転載終り

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「域通貨シンポジウム」
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 5月9日、福岡市役所で開催された「域通貨シンポジウム」に出席しました。内容は以下のとおりです。

シンポジウム「お金とは何か?」
〜現代金融システムの崩壊、そして地域通貨の役割〜

バブル経済の崩壊以降、日本経済は停滞を続けています。特に零細・中小企業は資金難にあえいでいます。また、自治体はまちづくりをするにあたっても財政難のために、思い切った政策を打ち出せないのが実状です。
そのような中で、上記の問題を解決する方法として地域通貨が注目を浴びています。今回は、世界の地域通貨事情にお詳しいベルナルド・リエター氏を招聘し、以下のようなシンポジウムを開催いたします。また、九州で地域通貨を実践されている方を交えてパネルディスカッションを行い、今後の九州での地域通貨の可能性についても探っていきたいと思っています。

日時:  平成15年5月9日(金)
開場:  13:00
開演:  13:30〜17:00
場所:  福岡市役所15階講堂(福岡市中央区天神1-8-1)
入場方法:  無料(定員300名:来場記念品として、日銀券裁断片入りボールペンを贈呈)

☆プログラム
13:30〜13:35:主催者あいさつ
実行委員長:出光 豊(株式会社新出光 代表取締役会長)
13:35〜14:50:T部・基調講演「地域における資金循環」
〜スイスのWIR銀行と米国・ピッツバーグの実例紹介〜
講演者:ベルナルド・リエター(カリフォルニア大学バークレー校研究員)
14:50〜15:10:休憩
15:10〜16:30:U部 パネルディスカッション
「コミュニティづくりと地域通貨」〜信頼創造からの今後の可能性〜
コーディネーター: 田村 馨(福岡大学商学部教授)
パネリスト:ベルナルド・リエター
高橋 信道(地域通貨「FUKU」)
辻村 玄教(地域通貨「よかよか」)
16:30〜17:00:V部 質疑応答

主催:地域通貨シンポジウム実行委員会
共催:福岡市、(社)九州・山口経済連合会、(財)九州経済調査協会、福岡商
工会議所
後援:(社)福岡県中小企業経営者協会
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で、その後メーリングリストで次のようなディスカッションがありました。多少議論っぽくなりますので関心のない方は飛ばし読みしてください。
※以下「PMFもやい九州」のMLから転載。
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■五ケ瀬町の秋本 治です。
昨日は、地域通貨シンポジウムに参加させて頂きありがとうございました。
ML主宰の藤川さんや皆さんにお礼のご挨拶をと思いましたが、ご無礼のまま帰宅してしまいました。
リエターさんのお話で、国際通貨取引の95%が投機に使われているということに改めて地域通貨の意義を感じました。古来よりえいえいとして築きあげてきた地域の生業が、通貨を投機として95%も使われることにより一気に叩きつぶされてしまうという現象がある現実に気付くことが必要だと思いました。
 地域の暮しに必要な通貨は地域独自であることの必要性を考えなければならないのではないかと、通貨の補完の意味が理解できました。
 そこで考えたのが、商品券です。過疎町村では各地で商店街活性化の為商品券を発行している自治体も多いようです。本町においても商店街活性化のため、町が商工会に委託して1万円の商品券を発行しております。町民はこの1万円の商品券を9千円で買うことができ、町に登録してある商店で1万円の買い物をすることができます。商品券を受け取った商店は、信用組合に持ち込んで1万円に換金することができます。その10%の差額を町が補助する仕組みです。
 これは、町民の購買が町外に流出するのを防止する目的と思いますが、どうもすっきりしません。それで、北海道の留辺蕊町の「地域通貨特区」を突破口にして、この商品券を地域通貨にして地域内で循環させることができないかと考えました。
 ロイヤリティマネーとして循環させると面白いと思いますが、これにはどのような問題が生じますでしょうか。どなたかご教示下さればと存じます。よろしくお願いします。
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■田村です。現地の実態を知らないので、やや一般的な話になるかと思います。

 地域通貨は手段でしかない、と私は強調します。あまり、強調しすぎて、しかも生まれついての淡泊な口調で語ってしまうものですから、地域通貨に対するシンパシーがない奴だ、学者的な第三者的な言い方をする奴だと揶揄されることが多いようです。以下の書き方もそれに近いかもしれません、割り引いて読んでください。

 域内の購買力の流出が問題であり、これを解決するために商品券の導入を実施、留辺蘂的な業者間の複数回流通をお考えなのでしょうか。

 まず、商店街や個々の商店が商品やサービスで勝負する気がなければ、商品券や地域通貨を導入しても効果はありません。域内購買力が流出するのは何らかの原因の結果でありますから、原因の是正に商品券や地域通貨が貢献することが重要です。

 地域通貨の導入が商店街の活性化に貢献する地域では地域通貨の導入とともに商いの方法が変わったり商品開発が進んだり、はたまた新業態開発に近いところまで店のあり方が変革されます。

 自治体主導の地域通貨が失敗するのは、肝心の商売人が地域通貨の効果をひきだす「商い」のやり方、あり方を必死で考えたり模索しないからです。

 消費者にとって100円得する商品券をばらまいたとしても、消費者がほしい商品がない、売り方、接客が相変わらずで変わらない、近くの大型店の方が値段が安い、品揃えがいい、ポイント制で1000円につき50円くらいは得する、といった状況なら事態は好転しないでしょう。

 では、500円得する商品券ならどうか。まず、商業者や自治体にとって資金的、財政的に無理な話ですが、可能になったと仮定します。消費者が果たして地元商店街で購入するようになるか。わかりません。嫌々ながら地元商店街で購入する消費者が増えたとします。それをみた私は、商品券を800円で消費者から購入します。消費者からすれば、500円で買った商品券が800円で売れるのです、喜んで売るでしょう。その800円で本当に買いたい商品がおいてあるところにいけばいいのですから、二重の意味で得した気分になるでしょう。

 でえ、私は800円で買った商品券を登録業者に900円で販売します。私は100円のもうけです。登録業者は信用金庫に持ち込んで1000円を回収します。商品券に割安感があれば、域内購買力が流出しない、とはならないのです。

 また、そういうプレミアムがつくと、消費者は商品券を購入してため込もうとするでしょう。地域通貨が想定するところとは逆の状況です。

 小さな町や村なら、そういう逸脱した行為は目立つのでしないはずだ、と考えられますが、こういうことは得てして、一斉に多くの人がはじめてしまうものです。ここにでてきた「私」が商店主になる場合だって起こりえましょう。

 法律的に抵触する裏市場が公になれば、関係者は大きなダメージを被るので、そういうことが予見されるなら、消費者に商品券を売らずに、商店主は信用金庫に商品券を持ち込み回収を図るかもしれません。

 ロイヤリティマネーは、消費者のロイヤリティを喚起したり醸成するサービスや商品、空間などの提供とセットになってはじめて意味を持ちます。ですから、地域通貨的なスキームでいうと、消費者は1000円払って、900円しか使えない商品券を喜んで購入し利用するようになるのです。

 リエター氏が紹介したオーストリアのツーリスト向けロイヤリティマネーは1000円払って1100円分のマネーを購入するものですが、そういうプレミアムをつけないと、通りすがりのツーリストは購入しないからでしょう。特にユーロをツーリストをもっているわけですから、ユーロをローカルマネーに両替させるのは非常に難しいでしょう。この場合も、ローカルマネーでしか買えない商品やサービスが用意されていないと、消費者のひんしゅくを買うだけ、リピーターを失うだけです。

 地域通貨が手段でしかないと敢えて強調するのは、以上のようなことが見逃され、地域通貨の導入と地域の活性化をダイレクトに結びつけるロジックなり議論が多すぎるからです。

 地域通貨だから社会的な問題やボランティアと結びつくのではなく、そういうことと結びついた地域通貨の方が、地域に対するロイヤリティや愛着を醸成しやすく、たとえば消費者が域内の商店街や地域の問題に目を向ける機会や場をうみだしやすいからです。

 事業者間の複数回流通もメリットを享受するには、前提条件や運用スキームをしっかり組んでおかないと、商店から信用金庫に直行する商品券がほとんどだったり、思わぬトラブルにみまわれましょう。このあたりの問題を考え抜く人が地域にいるかどうか、たぶんいらっしゃるでしょうから、発掘し、かつ支援できるかが重要だと思います。地域ごとのオーダーメイドの、摺り合わせ型スキームがつくれるかどうか、そういう人材が発掘できるかどうかが鍵を握っていましょう。

 地域通貨は人々の熱い気持ちを喚起しますが、既存の経済システムや制度という巨人に刃向かう、いや言葉がすぎました(笑)、それらを超えようとするわけですから、切れ味するどい武器にしておかないと、頭がクールなだけではなく心がコールドな連中にうっちゃられてしまうのが落ちです。

 ついつい長文を書いてしまいました、昨日のシンポへの関わり方が中途半端だったことへの罪の意識が筆を走らせるのかもしれません。今回も悪しからず。
田村 馨(福岡大学商学部)
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■田村さん、秋本と申します。
とても懇切丁寧なコメントありがとうございました。

>域内の購買力の流出が問題であり、これを解決するために商品券の導入を実施、留辺蘂的な業者間の複数回流通をお考えなのでしょうか。

 はい、商店街振興策として発行する商品券が複数回流通すれば効率がいいと思ったからです。もちろん地域通貨はおっしゃるように手段でしかないと思います。これからの商店街の役割を考えると高齢化の過疎山村にあって、お年寄りの利用に便利な商店街にする等のビジョンが必要だと思います。例えば福祉センターなり、商工会なりにボランティアセンターを設置し、町内商店の商品カタログ等を高齢者に定期的に配布する。センターでは、このカタログによる注文をとって商店街の組織で交替で配達する。行政はボランティアセンターの費用の一部を援助する等も考えなければならないと思います。地元商店街の存在意義と商店の努力が必要だと思うからです。

> 自治体主導の地域通貨が失敗するのは、肝心の商売人が地域通貨の効果をひきだす「商い」のやり方、あり方を必死で考えたり模索しないからです。

 確かに「どのようにして補助金を獲得するか」より「どのようにして商いのあり方を変えるか」でしょう。変革のきっかけをつくるのが地域通貨にあるよう気がしました。

> では、500円得する商品券ならどうか。まず、商業者や自治体にとって資金的、財政的に無理な話ですが、可能になったと仮定します。消費者が果たして地元商店街で購入するようになるか。わかりません。嫌々ながら地元商店街で購入する消費者が増えたとします。それをみた私は、商品券を800円で消費者から購入します。消費者からすれば、500円で買った商品券が800円で売れるのです、喜んで売るでしょう。その800円で本当に買いたい商品がおいてあるところにいけばいいのですから、二重の意味で得した気分になるでしょう。でえ、私は800円で買った商品券を登録業者に900円で販売します。私は100円のもうけです。登録業者は信用金庫に持ち込んで1000円を回収します。商品券に割安感があれば、域内購買力が流出しない、とはならないのです。

 そうですね。しかし、それは流通の過程を手形の裏書のように記録するシステムにすればそういう不正は小さな地域社会のことですから防止できるのではないでしょうか。またはカタログ販売だけに限るとかはどうでしょうか。

> ロイヤリティマネーは、消費者のロイヤリティを喚起したり醸成するサービスや商品、空間などの提供とセットになってはじめて意味を持ちます。ですから、地域通貨的なスキームでいうと、消費者は1000円払って、900円しか使えない商品券を喜んで購入し利用するようになるのです。

 なるほど。しかし、これは商店街の振興策としてはむずかしいですね。よくある話で、商店主の知人が商店主に「ちょっと金を忘れてきたから貸してほしい」といって来たそうです。商店主は「何に使うと?」と聞いたら「ちょっと隣町のスーパーに買い物に行きたいので」と答えたといいます。

> 地域通貨は人々の熱い気持ちを喚起しますが、既存の経済システムや制度という巨人に刃向かう、いや言葉がすぎました(笑)、それらを超えようとするわけですから、切れ味するどい武器にしておかないと、頭がクールなだけではなく心がコールドな連中にうっちゃられてしまうのが落ちです。

 ホントそうですね。前例がないことは、想定しても及ばないものが出てくる可能性がある。しかし、通貨の95%が投機目的に使われているという現実は、このままでいいのでしょうか。地域の生活に根ざしたもう一つの通貨があってもいいような気がしますが。
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■田村です。

私は流通も専門なので(はじめて聞いたという方がおられる?)、商店街がらみの振興策の相談を受けます。でえ、地域通貨も少しやっていますというと、だいたいあちら様はスタンプ、シールの改革とリンクして話を進めたがるのですが・・・・・・。そこでの問題は、割引感のある商品券等を投入すれば巧くいくという考えを変えていただけるかどうかです。

 WIRのメリットの1つは資金調達において不利な条件を持つ中小企業がお互い融通しあって低コストの資金を調達することにありますが、もう1つ重要な点があります。これをいい忘れていました。投入コストが安くすんで浮いた分を、商品開発やサービスにまわせるメリットです。つまり、WIRに加入することで商品力も増し、スイスフランの世界でも稼げる企業になれる可能性が広がることです。また、これがないと、WIR内の仲間内取引も低調になりますから、WIRシステムにとって、浮いた分を付加価値生産プロセスに回すメンバーがいること、増えることは必要な要件だといえます。仲間内だから良質の商品・サービスを供給する企業がちゃんと評価され、それがWIRシステムの全体的な底上げを図っているのです。「安いコスト」だけにひかれて集まったシステムなら、とうの昔になくなっていたでしょう。

 商品券の場合も、1000円だして900円の商品券を購入していただく場合、浮いた部分を付加価値にまわすことが要諦です。商売人にとって一番難しい要請だということは知っています。消費税をとらなくてもいい店舗であるにもかかわらず、消費者から消費税をとる商売人は少なくありませんでした。私も商売人の息子ですから、なぜそういう不正、ごまかしをやってしまうのかは痛いほどわかります。

 でも、浮いた分を付加価値(良質の材料を使う、チャレンジショップの家賃支援にまわすなど)にまわさず、商店のポケットに入れるようだと、消費者の支持は得られず、商店街全体もますます魅力を失うことになりましょう。

 地域通貨という以上、ここは外してはいけないコンセプトだと思います。少なくとも、1000円分の商品券を900円で売る策は短期的、部分的な効果しか期待できません。

 消費者には身銭をきっても当該商店街を守るかを問い、商店街にはそれに応えるだけの「商い」をやるかを問うのが地域通貨的なスキームの基本スタンスです。このスタンスは商店街だけではなく、広く、街づくり、行政改革に問われているものだと思います。

 スタンプ、シールの換金は既に多くの商店街が実施していますが、商店街の活性化に貢献したという例を聞いたことがありません、寡聞にして。商店主が自分で銀行に持ち込むので辞めたという例は聞きますが。やはり商店主の意識がかわらないと、仕組みがよくても回らないのではないでしょうか。

 あと、自治体が差額分を補助する仕組みの相談もよくうけます。そういうとき、お話をするのは、ちゃんと住民に説明できるのですかということです。商品券受け入れ店が域内の全店舗だとしてもです。住民に、税金を使って穴埋めする差額分が、地域の生活や産業発展に貢献することを説得的に説明できるかです。商店街が維持されるだけでは説得力に欠けるのではないでしょうか。

 だから、単なる商品券をこえた、地域コミュニティの活性化と結びつきやすい地域通貨的なスキームとリンクさせようと多くの自治体が考えるのでしょう。このあたりの仕込みは自治体の腕の見せ所だと思います。地域の実情を知らないと仕込めませんから。自治体が地域通貨導入において果たすべき役割はここですね。

田村 馨(福岡大学商学部)
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■田村です。秋本さん、追加の投稿ですみません。

>しかし、通貨の95%が投機目的に使われているという現実は、このままでいいのでしょうか。地域の生活に根ざしたもう一つの通貨があってもいいような気がしますが。

 投機目的ではない通貨をめざすからこそ、消費者に900円分の商品券を1000円で買ってもらうのです。いわば、調達コストがゼロの100円分は投機の世界から自由な資金です。これを銀行から借りたカネでは使えない何かに投入することが投機が支配するシステムの変革につながります。自治体の補助金は残念ながら、利子の世界から自由ではないおカネです。純粋に地域内でつくった財政資金ならまだしも、国庫依存の補助金は、元が投機の世界をリードする最右翼のカネですから。郵便貯金が回り回って商店街の活性化に来ているのなら最悪です。

 また、1000円分を900円で購入させる発想自体が投機の世界の発想です。それは消費者に対し価格で訴求しようとするものだからです。価格での訴求力はスピードとの勝負です。明日、もっと安く提供するところが現れるかもしれないからです。ゆっくりと、友や知人と語らいあいながらご飯を食べようというスローフードの発想とは正反対です。ゆっくり飯を食っている暇があったら働けです。借りた資金は短期的に売れることを目標とした商品開発にしか回せません。借りたカネは少しでも早く返そうとされます。銀行からすれば短期資金が多い方が信用創造ビジネスを展開できます。信用創造こそが投機マネーの源泉です。100万円しかない現金が10倍、20倍のペーパーマネーに変わるのですから。1年に1回転しかしない資金よりが10回転する資金にかわると、投機マネーは単純に計算して、10倍、20倍の10倍ですから100倍、200倍にふくらみます。投機マネーの存在は私たち、消費者の行動とも密接に関係しています。あるいは、消費者の行動を誘導しようとする企業の行動とも。

 ミヒャエル・エンデが「モモ」で描いたように、利子がある世界では時間は速く流れ、短期的な成果が求められます。そういう世界から自由なお金を如何に作るか。そこに地域通貨の狙いがあるわけです。価格訴求力は短期的、個々の主体にとっては合理的な手段ですが、投機マネーの世界を促進します。私が900円の商品券を1000円で購入するスキームにこだわる理由はそこにあります。

田村 馨(福岡大学商学部)
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■田村さん、秋本です。

> WIRのメリットの1つは資金調達において不利な条件を持つ中小企業がお互い融通しあって低コストの資金を調達することにありますが、もう1つ重要な点があります。これをいい忘れていました。投入コストが安くすんで浮いた分を、商品開発やサービスにまわせるメリットです。

 なるほど。理屈はそうですが、しかし、そういう意識はどのようにして醸成されているのでしょうか。少なくとも一般的には「儲かった」の意識だけでコストが安く済んだ分を商品開発やサービスにまわそうとする発想にはならないような気がしますが・・・。もちろん、充分儲かって安定経営できている商店では、税金を払うよりということでそのような発想になるかもしれませんが、今をどうやって乗り切ろうかというような条件下では、難しいですね。商品開発やサービス向上は、業績回復のため借金してでも取り組むべきものですから。浮いた部分を付加価値にまわすことを何かそういう条件付けがなされているのでしょうか。私の方があまりにも短絡過ぎる受け止め方をしているのかも知れません。

> でも、浮いた分を付加価値(良質の材料を使う、チャレンジショップの家賃支援にまわすなど)にまわさず、商店のポケットに入れるようだと、消費者の支持は得られず、商店街全体もますます魅力を失うことになりましょう。

 そこがホント重要なポイントでしょうね。消費者に必要な商店ではなくなっているから消費者が身銭をきってでも商店街を守ろうとする必要がないから、悪循環を招く。しいて消費者が商店街を守ろうとすることは「街が寂しくなるから」ということでしょうか。そこを地域通貨で連帯感を産み出す仕組みが作れるかどうか。

> あと、自治体が差額分を補助する仕組みの相談もよくうけます。そういうとき、お話をするのは、ちゃんと住民に説明できるのですかということです。商品券受け入れ店が域内の全店舗だとしてもです。住民に、税金を使って穴埋めする差額分が、地域の生活や産業発展に貢献することを説得的に説明できるかです。商店街が維持されるだけでは説得力に欠けるのではないでしょうか。

 意外と住民はあっさり受け入れるのです。消費者は、町内の商店で安く買えるからいいという、商店街は購買が流出しなくていいという。行政は、商店街の活性化に貢献したという意識です。どうも、税金のばら撒きだという意識がないのですね。で、補助金で一時的に支えても、それが終ると以前よりもっと悪くなる。

地域通貨の役割と可能性についての論点は、おぼろげながら田村さんのご説明で理解できたように思えます。理解しょうとすればするほど地域通貨に期待すべきではないということが見えたように思えます。すべては、遊び心の世界と割り切った方がいいのかも知れません。投機目的ではない通貨を考えるなら円の固定相場移行ですか。すみません、門外漢のど素人です。ありがとうございました。

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■私は、こういう形で地域通貨を説明することを、実は避けてきました。理屈っぽい話をしてなんだといわれそうですが、地域通貨の導入を図るなら、本や人の話で勉強しすぎず、まずやってみることからはじめましょうと、通常は私はお話しします。素人だから地域通貨が導入できないん、ではないんです。

 メールというメディアは真意が伝わりにくく誤解を招きやすいものです。したがって、私の書いたことを理解してほしいとは期待していませんが、残念ながら、真意が伝わっていないことを今回も感じています。

 実際にやってわかることと、わからないことの間には大きなギャップがあります。地域通貨の場合もそのことが非常にあてはまります。経済の知識や金融がどうのこうのといったことは、どうでもいいことなんです。

 実際に巧く導入されている方々の多くは、経済や金融の専門家ではありません。どういう分野であれ、自分で考えることができる人、自分の言葉をもっている人なら、地域通貨の仕組みなんて、やっているうちに、周りが驚くほど進化させていきます。そういうところにいくと、凄いなあと私は舌を巻き、そのスキームを理解するのに苦労します(前のメールに書いた、プロセスを共有していないために、たくさんの方程式をいっぺんに解かないといけないことになるからです)。

 このあたりのことはマーケティングに通じるところでもあります。

 養老孟司氏の「バカの壁」(新潮社新書)でおもしろ、おかしく、また巧く書いてあるのですが、「話せばわかる」、「聞けばわかる」、「説明すればわかってもらえる」と考えていてはわからない何かをつかまないと、いろいろなことって見えたり考えたりできないですよね。

 残念ながら、その何かは書物や講義ではつかめないことに大学に来てから気づき、日々悪戦苦闘しています。

 地域通貨にもそのことがあてはまります、私の言ったこと、書いたことからあまり学ばないでください(笑)。
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 以上がメーリングリストでのやりとりですが、田村先生から地域通貨のことを分り易く説明していただきました。国を動かした留辺蕊町の取り組みもすごいですね。地域づくりにこんなエネルギーがある地域が羨ましい。参考になります。

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随筆&ドキュメント
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 最近の筆者の随筆&ドキュメント2編を掲載します。長いのでお暇な時でも読んでください。
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その1

―生態系の危機―
鹿の異変

2003年5月
秋本 治

消えた葉ワサビ
 九州山地の内、熊本県の緑川源流域から南側の宮崎県五ヶ瀬川と耳川の源流域にあたる霧立山地は天然ワサビの宝庫でありました。それがここ数年で消えてしまっているのです。
 かつては、この山域のどの谷川を遡っても天然ワサビの群落があったものです。湧き出る清水が落ち葉の中をもぐっては消え、消えては噴き出しながらちょろちょろと流れる水源付近には、5月から6月にかけてみずみずしい広い葉のワサビが茂っており、茎の根元から伸びた蔓には白い花を一面に咲かせていました。若くて太い葉の茎の根元をつかんで引っ張るとポキッと音がして抜き取れ、茎の断面からは数条の繊維が抜けてだらりとくっついてくるのです。地元ではこれを葉ワサビと呼んで珍重していました。
 採取して持ち帰った葉ワサビは熱湯をかけ、まな板の上でゴリゴリと揉み、醤油を振りかけてタッパーなどの密閉できる容器に入れます。そうして翌日取り出して食べると、もう、ツーンと辛味が鼻を突き、ぱりぱりとした歯ざわりとにじみ出る旨味は言葉では尽せない春の味わいがしました。「ああ、今年もワサビの季節がきたなあ」と山地の住民誰もが感動する至福の時間でありました。こう書いていているだけでも口の中によだれが噴き出します。
 この葉ワサビはまさに春を感じさせる森の恵みの王さまです。栽培のワサビ葉は同じやり方で作っても、当初は苦味が強く時間の経過とともに旨味より辛味が強過ぎるようになって葉ワサビにはかなわないのです。
 昭和30年代の始め頃までは、国有林といえども山地の民にとっては生活の場でありました。村人は、誰もがカルイを背負って国有林の水源付近をめざして上り、葉ワサビを背負いきれないほど採集していたものです。昭和30年代の後半から森林開発が再び奥山に始まり、国有林内は払い下げを受けなければ無断での葉ワサビ採集は禁じられました。
 そうして森林開発に伴って林道が奥地に伸びると、いつのまにか林道近くの谷川では葉ワサビがしだいに消えていきました。自然環境の変化というより誰でも入れるようになって無断採集が増えたことが原因のようです。
 山地の住民は、葉ワサビ採集には決して根を取りませんでした。根は栽培ワサビのように太くはならないのです。根がおいしいという意識すらなかったようです。しかし、他所から入りこむ人々は根まで採集するのです。都市の人がオタカラコウを葉ワサビと形状が似ているため、間違って食べたという話もよく聞いたものです。村人は、奥山の葉ワサビのありかを秘密にするようになりました。
 ―――それが、ここ数年できれいに消えてしまったのです。もちろん人工林地では杉や桧の成長に伴い消えてしまいましたが、生息環境が適して葉ワサビが群落を形成していた天然林の中でもその葉ワサビは陰も形もなくなった。鹿が食べ尽くしたのです。近年の鹿は、葉わさびの芽が出たら食べ、出たら食べするのでいつ見ても茎の根元からきれいに食いちぎられた食痕と鹿の痕跡がありました。そして、とうとう葉ワサビは芽を出さなくなってしまいました。
 昔の鹿は葉ワサビは全く食べなかったのに・・・です。「昔は」といっても昭和30年代の筆者が中学時代のお話ですが。本来の鹿は、スズタケの若芽や笹の葉っぱを主食としていました。山に連れて行かれるとスズタケの葉が食いちぎられている食痕を良く見たものです。昔は、カモシカもかなりの頭数が生息していたようで、その食痕を見てきちんと食いちぎられているのはカモシカであり、数条残っている食痕は日本鹿ということを教わっていました。
 それがどういうわけか、野生鹿が食べた笹の葉の食痕を見ることがなくなりました。鹿は笹の葉を食べなくなってしまったのです。

山菜や貴重種が絶滅
 近年の鹿の食習慣の変化は葉ワサビだけではありません。タラの芽さえも絶滅に追いこんでいるのです。鹿があの鋭い刺のあるタラの木の幹をきれいに皮を剥がして食べている。かつては山野のどこにでもあったタラの芽がなくなりました。もう奥地では絶滅に近い。今年もあの大きな一握りもあるようなタラの芽はとうとう口に入りませんでした。昔のあの大きなタラの芽が懐かしい。
 タラの木は、丈が3メートルにも伸びるので若芽を手で摘むのは難しい。そこで、ほどよく伸びた若芽のある幹を棍棒でポカリと叩くのです。すると勢い良く育っている若芽のやわらかい茎は、その衝撃に耐えられずポキンと折れて足元に落下する。これが一番の食べごろなんです。既に大きく育って茎が固まったものは、叩いても落下しないのでそのまま残して繁殖に備え、まだ若くて小さいものは、叩けば落ちるまで残して育てます。棍棒を背中に隠して近づき、いきなりぽかっと幹を叩けば良く落ちるというオチもあったほどです。
 タラの芽以外にも鹿はいろんな木の皮を食べるようになりました。植林した杉桧類も鹿の食害で林業者を困らせている。ノリウツギやツリバナ、リョウブなども片っ端から皮を剥いで食べて枯らしています。リョウブだけは、皮を全部剥いでも再生するので問題ありませんが、その他の木は次から次へと枯らしています。
 草本類もオタカラコウ、フキ、カラマツソウ、ツクシクサボタン、キレンゲショウマなど何でも食べるようになりました。キレンゲショウマはかつては谷を埋め尽すほどの群落を形成していたものです。お盆が近づくと咲き始めるので、村では盆バナとして先祖の墓にも手向けていました。それほど大きな群落を形成していたキレンゲショウマが絶滅寸前にあります。もう、霧立山地では数えるほどの株しか確認できなくなりました。
 キレンゲショウマとは、ソハヤキ要素を持つ代表種です。ソハヤキとは中央構造線と仏像構造線に囲まれた古生層の秩父累帯の山岳地帯にのみ育つ植物で霧立山地、祖母傾山地、四国山地、紀伊半島の一部にまたがる部分で、九州山地を熊襲の「襲」と表現し、四国山中を速水の瀬戸の「早」、紀伊半島の山中を「紀」としてソハヤキと呼ぶのです。和名が学名と同じという珍しい植物です。
 キレンゲショウマについては、1996年の霧立越シンポジウムで当時熊本大学教授の今江正知先生をお招きして霧立山地の植物について講演頂きましたが、講演録にキレンゲショウマのお話しがあるのでその部分を掲載します。
------------------------------講演録から
―――→「BOTANY」というプリント、NO43と書いてありますが、この記録に載っているのが面白い。これは大正4年8月の記録です。大正4年と申しますと1915年ですから今から81年前で、その頃の踏査記録です。これは徳永眞次という当時熊本の済々黌という中学校の先生をしておられた方が書いておいた日記が、熊本県の図書館の資料になっているのを掘出して収録したものです。この踏査をしたメンバーは牧野富太郎先生を東京から呼んで先生の指導のもとに五家荘から洞ケ嶽まで行っています。この範囲全体を本格的な調査をしようということで計画されたものです。ただ、牧野先生は都合がつかなくなって来られませんでした。牧野富太郎先生の九州支店長みたいな形で九州を管轄しておられた田代善太郎という、後に京都大学の先生になられました先生を中心にして、九州の植物研究のトップクラスの先生たちが全部揃った形で調査をしたものです。これは画期的な調査です。調査は、熊本に集りまして五家荘から入り、那須越を通って尾手納から尾前に出て更に霧立越を通って鞍岡に下りています。そのところを少し読んでみます。
 「谷間より迸り出る清水を掬して、しばし立ち止まったとき、田代氏は流れ行く谷間を眺めしきりに拍手して興がっている。見渡せばキレンゲショウマが一面に花をつけて咲いている。」
 多分これはカラ谷のことではないかと思います。今は伐採してだめになっておりますが、元は一面にキレンゲショウマがありました。
 「これは、分布上もっとも珍種であって、牧野氏はこれが産地を発表しないと云う。」
 この時代は盗掘なんていうのはあんまりないわけですが、それでも牧野先生がこれは珍しいから人に教えないというほど大事にされたわけです。それがもう谷いっぱいにあったというのですね。
 「この山にして、これほどたくさんあろうとは夢にも思わなかったと田代氏は語る。このあたりは一面に群生して、きれいな黄色の花をつけている。麓の波帰に来た時は、もう暮れていた。道を尋ねて下ること半里、本屋敷というところについて茶店に休憩した。空腹で空腹で耐られないほどであったが、有り合わせの菓子と夕食を喫したので、ようやく我が体のようになった。鞍岡まで1里半ほどもあると云う。4人疲れし足を引きずりながら広い往還を北に向かって進んで行く。空には月が照っている。いつの間にか眠気を催し、道側の材木によりかかって4人とも夢を辿っていた。ふと目を覚ませば誰か呼ぶ者がある。暗がりに透かしてよく見れば、田口君が帰りの遅いのを気遣って迎えに来たのであった。宿に着いたときは10時頃であった。」
 この中にちょっと感動的なようすが見えるように、これはもう日本の中でも非常に特異な植物のまさに宝庫であるという感激がでています―――――。
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 このように貴重種であるキレンゲショウマの大群落が鹿の食害で絶滅とは、ただ、ただ、おろおろするばかりです。「祖母傾でも見ることはなくなった」、「四国山中にもなくなった」、という便りが届きます。
 霧立越の歴史と自然を考える会では、森林管理署のご支援のもと、カラタニ上部の沢沿いに鹿の侵入防止のネットを張り巡らして、葉ワサビとキレンゲショウマの再生をはかることとし、この3月に350mのネットを張り巡らして再生実験を始めました。

異常繁殖の原因を考える
 鹿の異常繁殖について、この会の副会長をしてくれている椎葉英生さんは、「最近、椎葉の1部地域ではメス鹿も狩猟の対象になっているが2頭の子が腹に入っているのを確認した」といいます。鹿は年1回1頭1産がこれまでの定説ですが、異常繁殖はこうした変化にも原因があるのでしょうか。
 また、猟師たちは「最近の鹿は昔の鹿とは違う」「あれは種類が違う」といいいます。体型が小型になってキリズノだという。キリズノとは角が大きく育たないことをいい、毛色も違うといいます。「最近、ズーダの実(ミズナラの実のことでドングリ)を食べるようになった」といいます。稲も食べれば、イモもトウキビもなんでも食べるようになりました。草食動物の鹿の食習慣に異常がでてきたのです。
 もともと、ブナ帯の自然界においては、ブナやミズナラなどドングリ類の実を付ける樹木が多く、これを食べる猪が圧倒的に多く生息し、草食動物の鹿は、森林の下層には草本類が少ないので生息頭数は少ないというパターンでありました。筆者が子供のころも猪が多く獲れ、鹿が獲れたときは話題になるほどでした。
 それが今、奥山では1頭で6〜7頭も出産し繁殖力が旺盛な猪が少なくなり、1頭1産の鹿の方が圧倒的に増えています。これは天然林がなくなり、且つ伐採後の林地に草本類が茂ったことが原因でしょう。また、樹木も荒廃地では幼木や若枝が食べ易い高さにあることも原因でしょう。自然界の動物の生息数は、餌の量に比例するからです。
 これから山地の人口はますます過疎化し多くの集落が消えていく運命にあります。猟師もいなくなる。そうしたことを考えると合歓の郷でみた光景が脳裏をかすめるのです。紀伊半島の南端にあるヤマハリゾート「合歓の郷」は素晴らしい景勝地のリゾートですが、早稲田大学の後藤春彦先生が三重大学にいらっしゃるとき先生にご案内していただきました。この時、山の斜面に突然緑が消え、葉のない立ち枯れの樹木が連なる異様な灰色の森が視界に入りました。良く見れば、そこには鹿がたくさん放し飼いされていました。動物が死の森にしたのです。
 欧州の森は、かつて森林が全滅した後再生された森が多いと聞きました。戦争や森林開発もありますが、動物が異常繁殖して森を枯らしたといいます。日本のブナ林は、高木、低木、下層植物、シダ苔類と4層になっていますが、欧州の森は、高木と下層植物で2層といいます。植生が単純なほど、それに適合した動物が異常繁殖し易い。なぜ日本の森は動物が破壊しなかったのかと疑問を持っている学者もいるといいます。それは植生が多様で豊かであったからでしょう。単純な森は何かの弾みで一挙に全滅するという可能性が高くなります。
 ブナ林の自然更新のサイクルは概ね300年以上と見ています。森林開発地帯がその後の手入れができずに放置されたり、もともと人工林に適していない標高の高い地帯では人工林が消滅して元のブナ林に返りつつあります。自然は300年以上の年月をかけて極相の森に近づいていくことを考えれば、それ以前に鹿が異常繁殖を繰り返し、人が住まなくなり猟師もいなくなる過疎の森林地帯では、かつての欧州の森のように動物によって植生が破壊され森がなくなる可能性もあります。合歓の郷で見た死の森のように。鹿対策はそれほど重大な問題をはらんでいると思うのです。

食習慣が変わった謎の考察
 これまでの鹿と違うという猟師の言葉に謎をみるのです。長年の経験を有する猟師の直感は鋭いもので、転石が落下するようなスピードで樹間を飛び去る獣をチラッと見ただけでその種類や大きさ、オスメスの別を正確に判断するのです。その猟師が従来の鹿と違うという意味は、明らかにその土地の獣ではないということです。
 それではどこから来たのか、それは違う植生をもつ森林地帯から来た鹿ということが考えられます。九州山地の森林地帯は、概ね標高300m以下は、樹木が冬でも落葉しないで活動しているいわゆる照葉樹林帯です。標高600以上の森林地帯では、秋に水を上げるのを止めて落葉し、冬の細胞凍結をさける性質を持つ落葉広葉樹林帯、いわゆるブナ帯です。
 照葉樹林帯の鹿が温暖化とともに、森林開発されて豊富な餌を蓄えているブナ帯に入りこんでくると、これまで食べたことのない数多くの植物に遭遇します。すると何でも片っ端から食べてみるようになります。動物はどれか1頭が新たなものを食べ始めると連鎖反応を起こして全部が食べるようになります。照葉樹林帯にはスズタケはありませんから、ブナ帯に入りこんだ鹿はスズタケを食べません。そこで原住鹿の食べなかったワサビ、キレンゲショウマ、そして、ドングリ、なんでも食べるようになった。それが鹿の食習慣が変わった原因ではないかと考えられます。
 餌が豊富にあって栄養状態が良くなると当然繁殖力も高まります。それが今日の食害に発展し、やがては森林を破壊し、餌がなくなって全滅、その後新たに森の再生がはじまり、再び動物が育つ。壮大な自然の法則かも知れません。
 人間が破壊した自然、人間が手を入れた自然界のバランスを保つには、最後まで人間が面倒を見る責任があるのです。それができなければ大きな自然のしっぺ返しを受けることになるでしょう。

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その2

アドベンチャー
深山幽谷の地を行く

2003年5月
秋本 治

ヤマシャクヤクが招く
 朝、目覚めた途端「どうしても今日でなければ今年はだめではないか」との思いが強くなった。03年5月8日の朝のこと。ヤマシャクヤクの大群落が夢に現われるのである。
 白岩山岩峰から崖直下の深い谷間を見下ろすと一年中草が生えない部分が見える。双眼鏡で覗くと鹿がゆうゆうと寝そべっていたり、潅木の枝の若芽を食んでいたりする様子が見られるところだ。そこは鹿のコロニーみたいなところで、あたりの草本類は鹿が食べ尽くしているから森が剥げて見えるのである。
 かつてキリタチヤマザクラの植生調査で人が入らないそこへ降りたことがある。すると、あっちこっちから鹿が飛び出したが、その剥げて草もないところにヤマシャクヤクの大きな株がまるで造られた公園みたいにあちこちに点在していた。たしかヤマシャクヤクはキンポウゲ科だ。キンポウゲ科の植物は毒があるので鹿も食べないのだろう。そのヤマシャクヤクの開花時期は今だ。どんな様子をしているだろうかと気になるのである。
 昨日、白岩山のシャクナゲルートをガイドした。すると岩峰付近のヤマシャクヤクが満開近くになっていたのだ。今日行けなかったら後は日程が詰まっているので今年はそこの開花状態を確認できないかも知れない。ついでに、昨年「ガゴが岩屋」を探したが見つけることが出来なかったので今年も続けて調査したい。草木の葉が茂ると見透しが利かなくなるので今でなければ調査出来ない。

ガゴが岩屋
 昭和40年代の中頃だったと思うが白岩山の西南側山中に「ガゴが岩屋」を訪ねたことがある。地元の猟師さんたちと日肥峠から耳川源流を降りて辿りついた。その岩屋は床や天井が平らな岩盤でできており出口の方が少し狭くなっている。岩屋に入ると大きな炭窯の中にいるような気がした。その時「これは人が住んでいたのではないか」と直感的に思ったのだ。
 子供のころ悪さをすれば、「ガゴがくるぞ」と脅されていた。そのガゴとは一体何者なのか誰も知らない。椎葉の方々にもガゴの話しを聞いたところ、高齢の皆さんは一様にガゴの話を知っている。「悪さをすればガゴが出てくるという」。その「ガゴ」が住んでいたとされる「ガゴが岩屋」付近には昔、鍋や茶碗類のかけらを見たと古老たちはいう。「ガゴ」とは修験者ではないかと最近思うようになったのである。深山幽谷の地、霧立越で修験者、いわゆる「山伏」が暗躍していたかも知れないのだ。
 鞍岡に伝承されているタイシャ流古武術は元々は人吉の丸目蔵人が開眼した武術であるが、鞍岡に伝承されるタイシャ流の秘伝書には一能院友貞とある。「院」は山伏にも通じる。極意とされる「白刃」の演武は山伏の武術に見える。また民俗芸能の臼太鼓踊りに登場する山伏問答もそんな暗示を与えてくれる。近年発見した幻の滝も、近くの住民から聞く伝説はどうも修験者の臭いがする。明治政府が出した修験道禁止令により山伏は消息を絶ったのかもしれないのだ。
 昨年3月、「ガゴが岩屋」を探しに出かけたが見つけることができなかった。「ガゴが岩屋」を訪ねてから三十年近い歳月が経ち、深山幽谷の地にも林道ができ原生林はところどころ伐採されているので付近の自然はその時とは大きく変わっている。記憶の場所が定かではないのだ。今、「ガゴが岩屋」の場所を知る人はもうほとんどいなくなった。その「ガゴが岩屋探険」が今年は今日しかチャンスがないかも知れない。そう考えたら、もう、居ても立ってもいられなくなったのである。
 事務所へ行くと早速「今日は、白岩山から日肥谷へ単独行して椎葉の尾前の奥にある林道へ下山する。夕方無線を持って椎矢峠下の林道で待機してくれ」と霧立越ガイドのベテラン吉村君に告げた。彼は、午後からプライベートな用があるとなにやらぼそぼそと言っていたが根っからの山男である。「降りてこない時は探しに来てくれ」。そういうと、目を輝かしながら「午後4時頃に行って林道で待機していればいいんですね」と応えた。白岩山から遥か彼方の谷底に下り、再び原生林を登って帰るのは1日の行程としては難儀だ。そのまま林道をめざして下れば夕方まで森を歩くことができ、1日の行動範囲を広げることができる。地図に待ち合わせ場所のポイントを描き込んでコピーして渡した。森で迷った場合は、この地図でお互いの居場所を無線で確認できる。

白岩山岩峰から
 空を見上げると昨夜来の雨は止んでいたが、霧立山地はガスに覆われていた。天候はなんとか回復しそうである。登山靴にスパッツをしっかり着け、地形図、雨具、ロープ、急救薬、ナイフ、カメラ、双眼鏡、釣竿に仕込んだ杖など7つ道具を入念に点検して標高1400m地点の登山口、ゴボウ畠に向って車を走らせた。釣竿に仕込んだ杖は、するすると伸ばすと頭上の木などにロープをかけることができ、崖地などを移動する時威力を発揮する。本来はキリタチヤマザクラ調査の時、頭上の高い枝の花を採集して確認するために拵えた道具だが、幻の滝を探険した経験からロープ掛けにも使えるよう工夫した万能の秘密道具だ。
 ゴボウ畠で車を降り、身支度を再点検し無線のテストを行って白岩山に向かう。道中は、ミツバツツジの赤紫の花があちこちにぽっぽっと咲いて森に明かりを灯したようにその存在を示している。歩くこと1時間で標高1620mの白岩山岩峰に辿りついた。ここで、地形図を広げ山頂から俯瞰する地形と照合しながらルートを検討する。
 先ずは、遥か岩峰直下に見えるヤマシャクヤク群落である。双眼鏡で覗いてみるがヤマシャクヤクかどうかも見えない。遠くて花が咲いているかどうか確認できないのだ。降りて行って確認する他はない。そこへは、岩峰から左に回りこみ岩峰の基部沿いに降りていくと辿りつける。ここまでは簡単な行程だ。そこから先が問題である。ガゴが岩屋は、日肥谷を下りて白岩谷を遡上する途中にあったと記憶している。その時、日肥谷と白岩谷の吐合い、合流点まで下りたかどうかは定かではないのだ。
 岩峰基底部に降りて白岩谷をそのまま吐合いまで下る。そこから日肥谷を遡上して林道に上がる。これは5キロ以上ありそうだ。夕方まで林道に上がれるだろうか。それより岩峰基底部から横に進んで尾根をひと回りして下り一旦林道に出て日肥谷に行った方がいいかも知れない。地形図を読んでも、岩峰から俯瞰しても、どちらもかなり険しそうである。すべては現場の地形しだいだ。臨機応変に判断する以外にない。何が起るか分らないのだ。意を決して、先ずはヤマシャクヤクの群落地へ下りることにした。

初めてのヤマシャクヤク大群落
 白岩山岩峰から岩峰基底部に向って急斜面を降り始める。ここは、かつてキリタチヤマザクラ調査で何度も降りた場所である。長い年月をかけて岩峰から崩落した石灰岩の砂礫が一面を多い、足を踏み出すたびに砂礫とともに足場が流されていく。砂礫地とスズタケが繁茂する堺の安定した場所を選びながら急斜面を降りていく。ルイヨウボタンやヤマシャクヤクがポツンポツンと花を咲かせている。シャクナゲも淡いピンクの大輪を開いている。
 斜面の中ほどまで降りたところで、ピュー、ピューと鹿の呼ぶ声が聞こえはじめた。それに応えてこちらも口笛をピーッ、ピーッと吹いてみる。パラッパラッという小石の落ちる音が聞こえるのでその方を見つめると鹿が白いお尻を見せながらミツバウツギの潅木の中を横切って消えた。ここからは、完全に人間の世界から隔れた獣だけの生活圏に変っていくのだ。携帯電話も無線も通信できない深い森である。足を傷めたりして動けなくなっても誰も助けに来てくれない場所だ。そう思うと途端に緊張感が全身を走る。
 やがて、苔むしたシオジの巨木の下から湧き水が噴き出している地点に到達する。耳川の水源地である。その沢伝いに降りていくと見事な大輪の白い花を数十個つけた大きな株立ちのヤマシャクヤクが見えてきた。白岩山岩峰付近で見るヤマシャクヤクは、一本一本であるが、ここで見るのは数十本が1株となって1株の直径は1m以上もある。その株立ちの葉の上に数十個の大輪の白い花をつけているのである。始めて見る光景だ。それが木立の中にあちこちに点在している。カメラを取り出して夢中になってシャッターを押しまくる。が、もどかしい。カメラのファインダーはそれらの佇まいや広がりを見た目のように映し出してくれないのだ。
 下るほどに斜面が緩やかになり、尚も降り続けると沢の合流点が見えた。その上部は小さなデルタ地帯となっている。そこは、樹木も草もなくヤマシャクヤクだけが手入れされた公園のようにあちこちに株立ちして大輪の花をつけている。これまでみたこともない光景だ。しばし見とれて忘我の境地となっている自分に気付く。なんだか自分1人だけで見るのがもったいない。自然界のダイナミックさ。大輪の花の楚々とした美しさ。こんなに大きな群落。しかも、一本一本ではなくて始めて見る大きなヤマシャクヤクの株立ち。誰も知らないこんなところに。このような光景があろうとは。不思議だ。まさにそこは聖なる場所のように思えた。
 盛んにシャッターを押して、もうこれ以上のシャッター角度は自分の技量にはないと思うようになった途端、空腹を感じた。沢の吐合いに降りて平らな石を選び、その上に腰をおろし弁当を取り出す。聞こえるのは野鳥の声と小さなせせらぎだけだ。すると後ろの方でパラッと音がする。ギクリとして思わず振り返るが何も見えない。また弁当に目を向けると、どうも後ろや目の届かないところからこちらの方を向いている視線があるように感じる。鹿が遠くから見ているのかもしれない。猪だろうか。気のせいだろう。熊は絶対いないはずだ。恐怖感をあおるような想像を打ち消しながら弁当を食べていると全身で五官を研ぎ澄まし、周囲の気配を感じ取ろうとしている自分がそこにはあった。
 食事が終ってしばらく休息をとろうと思うがどうも落ちつかない。小さな沢の水際を目線で追うと洪水の時えぐり出されたと思われる剥き出しの岩盤が斜めに地底に入っている。平行して紫がかった黒い粘土様の層がある。手にとって見るとまさに粘土、オンジャクだ。これは断層岩と呼ぶ。地層断層のシンポジウムで講師の先生から教わった。断層が起きた時、その断層の破砕帯を数千℃もの熱水が長い年月通過したことによって岩石が変性して粘土状になったもので粘土であっても断層岩と言うのだそうだ。白岩山の巨大な石灰岩塊が海底から衝上断層によって押し上げられた時、その過程で破砕帯を熱水が、この部分を流れていたのだ。
 沢の水中に視線を移すときらきらと光るような岩石が見えた。手にとって見ると方解石だ。東京の写真家で高山植物図鑑などを手がけている木原さんを白岩山にご案内した時、同じような石を見つけて持ちかえり、宮崎の総合博物館の斉藤さんに託した。その結果、方解石という返事をメールでいただいたことがある。方形に割れることから方解石と呼ばれるらしい。水晶のように透明感のある石である。石灰岩や大理石を構成している方解石は、海水に溶けている二酸化炭素とカルシウムから、生命活動や化学反応で形成されたという。方解石の形成は大気中から二酸化炭素を取り除くのに役立ったというのである。生命体としての地球環境を形成した物質のひとつだ。漢方薬としても使用されるという。
 弁当を仕舞い込んで立ちあがり、再び吐合いから次の沢を上る。その先には、白岩山岩峰の頂上から見える剥げ地がある筈だ。狭い沢を少し上がると急に視界が開けてきた。生々しい動物の爪跡があちこちにある。先ほどまでここに鹿がいたのだ。私の気配をうかがっていたのであろう。と、視線を上げると、あるわあるわ、今を盛りにヤマシャクヤクの花が満開である。大きな株に数十個の白い大輪の花をつけて風に揺れている。その株が連続して面となってお花畑を造っている。ところどころにルイヨウボタンも群落を形成して存在を誇示している。行けども行けどもヤマシャクヤクの株が次から次へと視界に入ってくるのだ。なんとまあ素晴らしいことか。双眼鏡では見えなかった世界だ。
 沢を横切るとそこにもヤマシャクヤクの群落が続いている。どれくらいの数があるのだろうか。おそらく数千本以上あるに違いない。この付近は、一度伐採された跡地のようだが他の植物は鹿に食べられ消滅したのであろう。ミツバウツギやシロモジなどの潅木が点々とあるのみだ。鹿がこの環境をつくったのだ。一般的に人間は美しい自然を見るとそこをそのまま保護しようという発想になる。鹿が造った美しい自然は、人間が保護しようとしてもそれはできないだろう。自然界は偉大だ。保護などという発想こそが人間の傲慢さの表われだ。そんなことを思いながらその美しい不思議な光景に見入っていた。

白岩谷の苦闘
 どれくらいの時間が経ったのだろうか。カメラの残りの枚数も少なくなったことに気付いた。そろそろ次の行動に移ろうとカメラをリュックに仕舞い込み、地形図をとりだした。このヤマシャクヤクの群落地を横切って尾根に出てもその先は急峻である。この沢は下流まで地形的には緩やかなようだ。昔人はこの沢を歩いたかもしれない。その下には林道が間違いなくある筈である。このまま沢を降りていくことにした。
 最初の100m位は、小さな谷川で実に快適な沢下りが続く。ジュウモンジシダが茂り、苔むした岩を飛び渡りながら歩く。あちこちに巨大な倒木が谷を跨いでいる。その苔むした倒木の上を右に左にと渡りながら下り易い地形を捜して歩く。巨大なクロズルカズラが頭上の木から垂れ下がっている。それをつかんでぶら下がり次の岩に渡る。「こんな環境のところを霧立越のお客さんにも案内したいなあ、きっと感激されるだろうなあ」と思いながら下る。その内、両岸がしだいに狭くなってきた。左岸から谷が合流するたびに水量が増えていく。地形図を取り出して見ると、これから下の沢筋は谷の等高線は緩やかだが両岸がかなり迫っている。やがて両岸が迫っている地形図の意味を体験することになる。
 更に谷を降りていくと、また左岸から谷水が合流している。弁当を食べた地点からこれで3回目の谷の合流である。相当水量も増えてきた。しだいに両岸は切立った崖となり足場を探すのが難しくなった。流れの中でチラッと動くものがあった。ヤマメだ。こんなところまでヤマメがいるのだろうか。動きが速い。これは純粋に天然ものだ。ここには釣人も入ったことがないだろう。人間に接したことのないヤマメがいる。また感動してしまった。
 このあたりから下るほどに両岸はいよいよ迫ってきて天は頭上だけにしか見えない。谷は小さな連続瀑を造っている。かろうじて絶壁に垂れている木の根をつかんでは渡っていたが、いよいよ足場が確保できずに沢下りができなくなった。両岸には黒い岩肌が不気味に迫っている。さあ、どうしょう。思案の末、左岸の岩場を登り、遠巻きに迂回して下りることにした。
 ツガの木の張り出した根やクロモジの幹に掴りながら1歩1歩岩場をよじ登る。ほどなく馬の背のような尾根に上がった。急峻な尾根伝いを登る。岩場の尾根は実に登り易い。ツガやゴヨウマツが落した枯れ葉が敷き込まれたようになっていて草が繁茂しないので帚で掃いたように林床が美しい。見とおしもよい。尾根を少し登ると次の尾根とに分岐していた。次の尾根を目で追うと、その先は谷が深く廻り込むその奥に向って下がっている。この尾根を下るとなんとか沢に戻れそうである。
 その馬の背のような次の尾根を辿って下っているとなんとなく古道を歩いているようだ。ふかふかした落ち葉の上はとても歩き易い。しめた、もしかして昔の人が歩いた道だろうか。そう思いながら足早に下っていくと突然絶壁の上に出た。岩場から突き出ている木にしがみついて下を覗いて見ると垂直に切立った崖である。その下で絶壁を縫うようにして白いアワをみせながら谷は蛇行している。
 古道を歩いていると錯覚したのは獣道であった。馬の背の正面からも左右どちら側からも下れそうにない。弱った。仕方ないので再び降りてきた方向へと登って引き返す。再び尾根の分岐のところへたどりついた。木の上に登って地形を確認する。するとその尾根の南側は内側に深く湾曲した崖地でその先にもう一つの尾根ができて下っている。その下には林道がありそうだ。その大きく湾曲した斜面には潅木が茂っている。潅木が茂っているということは、崖地であっても掴るところが続いているということだ。意を決してその湾曲している岩場の中に入ることにした。
 枯れ枝に掴って、もし折れでもしたら転落間違いなしだ。慎重に足場を選びながら下る。ここにも鹿道がある。その鹿道を辿り潅木に掴りながら右に左に足場を探り、かろうじて谷におりることが出来た。水際に近づくとヤマメがさっと身をひるがえして岩の中へ消えた。結構魚影は濃いようだ。そこに広がっている平べったい岩の上に跳び移った。とたんに、足元から2mほどもあるアオダイショウが突然動きはじめた。木の枝と思ったら蛇が岩の上で寝そべっていたのである。思わず「うわあっ」と声を張り上げ飛び下がってしまった。アオダイショウはゆっくりと体をくねらせながら水中に入り、頭を立てて水面を渡って向うの岩場の茂みに入りこんだ。その岩場には、ピンク色のウツギの花が咲いている。人里で見るウツギの花より美しい。当初は桜かと思ったほどだ。
 蛇の泳いだ谷の水を思いっきり口に含み飲みこんだ。そうとう体は疲れている。へたへたと蛇を追い出した岩の上に座り込んだ。落ちついてまわりを見回して見ると、この下は小さな滝となっていてその下には大きな淵がある。両岸はノッペラボーで足場はない。また、沢下りできないところへ降りてしまったようだ。日は相当傾いてきた。ジュウイチッ、ジュウイチッ、と、かすれ声でジュウイチが鳴いている。この鳥はカッコウ科の鳥で日暮れになると鳴きはじめ、夜中じゅう鳴く鳥だ。なんとなく気味の悪い鳴きかたをする。オー、オー、オワアオー、ワオワアー、という不気味な鳴き声も聞こえる。アオバトだ。これも夕方になると鳴き出すのだ。耳をすますとポォッ、ポォッとツツドリの声も聞こえる。無事に林道へ降りれるだろうかと不安がよぎる。
 今降りてきた崖を再び登ってもう一度見極めなければならない。まてよ、少し上って内側に大きく湾曲した崖の斜面を横に進むと次の尾根に辿り着けるかも知れない。双眼鏡で崖の斜面を拡大して見ると、横に進むには、あまりにも手がかりとなる樹木が少ない。転落したら深い淵に落ちるだろう。しかし、また元の位置まで上るのはあまりにも体力が消耗しきっている。そこで危険ではあるが、少し上って湾曲したがけの斜面を横に進み、淵尻に下りてみようと立ちあがった。
 深く湾曲した崖は、漆喰のように黒く、湧き水が滴り落ちて濡れている。木の根を探してはつかまりしながら足場を選びつつ移動して行く。崖の途中に大きな根を張って斜めに立っているカエデがあり、その根元まで辿りついた。その時、先ほどまで足場にして立っていた岩が突然動きだして大きな音をたてて落下した。淵にぽっかりとした大穴を瞬間的に空け水しぶきを吹き上げてドボーンという音が響いた。おおくわばらくわばら。そこから先は、1歩も先にすすめないところに来てしまった。どうしょう。不安が襲った。
 思い出して、リュックから細紐とロープを取り出した。釣竿に仕込んだ杖の先端に錘のついたナイフを取り付け、それに細紐を結わえて崖の斜め頭上にある木の根元めがけてそろそろと繰出す。先端を「えい」とばかりに木の根元に向って振り当てたら錘のついたナイフに細紐を結わえた先端部分が竿から離れて木の根を越えてするすると落ちてきた。今度は、その細紐にロープを繋ぎ逆に引き回すとそのロープは木の根を回って手元にしっかりと手繰り寄せられた。この二本のロープをしっかりつかむと足場のない崖でも移動できるのだ。用意してきてよかった。こうして、次の岩場のでっぱりの上に立つことができた。淵に落ちこまずになんとか移動できたのである。
 そのでっぱりの岩の上から曲がった沢の隙間に林道が見えた。もうすぐだ。けれども、淵尻から更に落下している曝の上は移動が困難である。一先ず淵尻の川原におりて休息。曝の上を谷渡りすることにした。対岸の方がそこを過ぎれば足場がよくなるのだ。対岸に飛び渡ればつま先のかかる岩があちこちに見える。えい、ままよとばかり対岸に飛び渡って崖の潅木をつかみながら足場を探りそろそろと移動していると平地が足の下にきた。やっと安心して飛び降りる。崖から抜け出し平地の上に立つ安心感はとても癒されるものだ。そうだ、幻の滝探険の時もこんな気分を味わったなあと思い出す。川原を下るとようやく林道の上に立つことが出来た。

摩訶不思議な現象
 林道に出てみると谷を跨ぐ林道の構造物は消えている。自然は人間の造った物は不用だとばかりに完全に破壊しているようだ。谷の先の尾根を回った林道の終点部分だけが残っていた。もう長い年月利用されていないのだろう。林道はずたずたになっている。壊れた林道の端には蜜箱が据わっている。よく見ると蜜蜂が巣箱の中に出入りしているが、その出入り口の穴は、動物の歯型があり大きく食いちぎられている。テンが蜂蜜を獲っているのだ。それでも蜜蜂はまだ営巣している。これも自然のままである。巣箱を据えた人間がもう長いこと管理に来ないのだろう。
 林道に出たことでとても安心感があった。更にこの谷を下ると日肥谷との合流点に達するが、おそらく当時はこの谷は通らなかったということがわかった。あまりにも険し過ぎるのである。無線を取り出して、近くまで車で迎えにきているはずの吉村君コールを繰返すが応答がない。プライベートな用事があるといっていたので出発が遅れたのか。昨年の調査時は、ここから3つ目の尾根までは車で来れたのである。沢下りはこれまでとして林道を辿ることにした。そこまで歩いて行くうちには来てくれるはずだ。
 先ずは休息をと林道路肩のブロック積みのコンクリートの上に座り込み、食べ残しのバナナを取り出して食べていると、降りてきた沢の左にある小さな沢の水が濁っているのに気付いた。
 「おかしいなあ」。不思議に思って立ちあがり、流れ落ちる水のところへ行って水を手で掬ってみる。白い濁りだ。かなりの濁り方である。人も入らないこの深山に何があるのだろうか。なんだか不気味である。そこで、はっとした。もしかしたら地震があったのだろうか。沢下りに夢中になって地震に気が付かなかったのかもしれない。淵の上で岩が落ちたのはそのせいか?。付近の山々を見渡すが何も変化はない。しかし、それにしてはどうもこの沢だけというのがおかしい。
 次にいくつかの場面が脳裏に浮かんだ。最初に浮かんだのは鹿たち数十頭が群れて谷の深みで水浴している場面である。しかし、そんなことは猟師からも聞いたことがない。ニタバは何度か見たが、あれは流れの中ではなくて尾根にある泥の水溜りである。背中に泥をこすり付けているのだ。
 次に浮かんだのは、猪が沢蟹をとっている情景である。沢の大きな石を鼻で掘り起こし、その下に隠れている沢蟹やサンショウウオなどを食べるのだ。それにしては、かなり前から濁っているようで川底に濁りの泥が沈殿している。
 次に突拍子もない発想が脳裏をよぎった。大蛇である。この上に洞窟があり、その中で大蛇が交尾してあばれているのではないか。あとから考えるとほんとにあほらしい発想であるが、沢下りの時、アオダイショウに脅かされたせいかもしれない。とにかく上流へ登って原因を突き止めようと、その小さな沢の左岸を上り始めた。沢は、一枚岩で階段状になっている。二段目まではどうにか上ったがその上は垂直な崖となっている。もう少し迂回してでも上ればその上には、始めて見る光景が現われるかもしれない。と、思うが体力をひどく消耗していてその気力が失せる。そして怖いもの見たさと恐ろしさが交錯する。とうとう断念してしまった。後から思うと悔しい。やはり1人では怖かったのか。それが今回の行程の唯一の心残りとなった。原因不明のままだ。摩訶不思議な現象であった。

日肥谷の竹林
 諦めて林道をとことこ歩く。法面はあちこちで崩壊している。路面には大きな転石がごろごろしている。やがて林道は尾根に出た。無線を何度もコールするがくだんの吉村君の応答はない。そのまま進んでいくと、あと二つ谷に入り尾根を越えれば車上の人になれるのだ。それまでともかく歩くしかない。やがて二つ目の尾根にでた。その尾根は石灰岩で昨年ガゴが岩屋を調査した地点だ。その時キリタチヤマザクラがこの付近一帯にもあることがわかったのである。そして、また一つ尾根を越え次の谷に入り込んだ。もう車がここまで来るはずである。無線でコールするが応答がないのでここで待とうと腰をおろす。
 地形図を見るとその谷は日肥谷である。日肥峠から降りてきた昔の歩道があった谷だ。あの時はここを通ったかも知れないのだ。この上にはハチクの竹林があり、平地があるはずである。その地点を確認しようと思い立った。
 林道にリュックを置けば、迎えの車は気が付くだろう。せっかくだから車が来る間、日肥谷の竹林のあった場所を探そう。スズタケに覆われた古道を探しながら遡上することにした。500m位上がっただろうか。息を切らしながら登ると平坦地が現われた。注意してみるとハチクの細い竹が少し残っている。かつてガゴが岩屋にきた時は大きな竹が林立していた。けれども地形的には面影がある。竹林に足を踏み入れてみた。すると茶碗のかけらや昔の徳利、鍋の破片などがあちこちに落ち葉の中に埋まっているのが見える。まさにつわものどもの夢の跡である。やはりここだ。カメラをとりだしてシャッターを切った。
 大正から昭和にかけて日肥林業の1工場といわれる場所である。2工場は、この下の白岩谷との合流地点でそこには孟宗竹があったといわれる。霧立山地の天然林にハチクや孟宗竹が自生するはずはない。竹は人の暮らしになくてはならないものだ。特に手作りの工作物にはタケベラやタケヒゴなど欠かせない。竹の子は食用となる。竹は人間が運んで植えたのだ。
 今は細い竹が少し残っているのみで消滅しつつある。これは鹿や猪のせいだろう。竹の子が生えると片っ端から食べつくしたのだ。食べつくした後、季節はずれに出る小さな竹の子だけがかろうじて獣たちのえじきにならずに細々と種を保存しているのだ。人間が居る時は獣から竹の子は守られるので竹林は繁殖する。人間が住まなくなると竹林は消えていく。
 ガゴが岩屋は発見できなかったが竹林を確認できたことでこれからの調査範囲はかなり絞られた。白岩谷の崖の上の岩峰基底部と、この竹林を結んだ線上のホーバのどこかだ。ホーバとはスズタケのない場所のことでカゴが岩屋付近にはスズタケがなかったのである。または、下流の白岩谷との合流地点付近かも知れない。竹林からそんなに遠くはなかったように記憶にはある。
 時計を見ると既に待ち合わせ予定の4時を大きく回り5時前になっている。大急ぎで林道に下山し無線でコールする。応答がない。もしかすると迎えに来る途中でなにかトラブルがあったのかも知れない。パンクだってありうる。ときおり無線に「ガガッ、ガガッ」とノイズが入る。雷かもしれない。この下流から国見岳に向う古道に雷坂という地名が載っている。その方角は霧に覆われてきた。落雷の多いことからそう呼ばれたのかもしれない。疲れた足を引きづりながら歩を早めて落石がごろごろしている林道をひたすら歩く。
 次の尾根に出た。すると無線に反応があった。吉村君が盛んにコールしているのだ。「ここだ、ここだ、日肥谷の次の尾根だ。」すると吉村君は「まあだそこですか。椎矢林道から少し入ったところに崖崩れがあり車は入りません。もう30分ほど歩いてきているところ」という。「目印は」というと「2つ目の尾根のところ、林道の上側植林地が崩れて地肌が剥き出しになっているところが見えます」という。その下に私はいるのだ。あと尾根を2つも越えて更に30分も歩かなければ車上の人にはなれない。どっと疲れが噴き出した。リュックがとても重い。足を引きづりながらてくてくと歩く。
 やがていつくか目の谷に曲がり込んだ。「今どこだ」と無線に向って叫んだ。「谷に入ってきたとこ」と無線から聞こえる。正面をみたらそこに吉村君が無線に向ってしゃべりながら歩いてくる姿があった。荷物を渡して足を引きづりながらどうにか車のところへたどりついた。あたりはもう既に夕暮れ色に包まれている。ここから椎葉に降りるまで車で1時間かかった。椎葉では夜のとばりが降りて電灯の明かりが青葉の中に映えていた。(完)


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第57回宮崎県民体育大会
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■ 今年の宮崎県民体育大会は平成15年5月24日(土)〜25日(日)に開催されました。
 宮崎県民体育大会実施要項には既にスキー競技が別表のように平成16年3月6日(土)開会式、7日(日)競技、開催地五ケ瀬町として入っていました。
 スキー競技の実施要項は6月19日(木)に開催される宮崎県体育協会総会で正式決定される予定です。
 他の競技種目は、地域持ち回り等で開催されますが、スキー競技だけは、これからずっと本町が開催地になります。大きな大会に発展させたいものです。皆さんのご支援をよろしくお願いします。

番号 競技名 競技日5月   日 会場
1 陸上競技 25 宮崎市
2 水泳 25 宮崎市
3 バレーボール 24・25 西都市
4 軟式野球 18・24・25 西都市
5 ソフトテニス 24・25 宮崎市
6 卓球  25 清武町
7 弓道 25 宮崎市
8 ラグビーフットボール 17・18・24・25 川南町
9 サッカー 18・24・25 宮崎市
10 バスケットボール 24・25 清武町・高岡町
11 柔道 24 宮崎市
12 剣道 25 宮崎市
13 相撲 25 宮崎市
14 体操 24 宮崎市
15 馬術 24・25 綾町
16 クレー射撃 24・25 宮崎市
17 山岳 24・25 木城町
18 ソフトボール 18・24・25 宮崎市・西都市
19 バトミントン 24・25 宮崎市
20 テニス 24・25 宮崎市
21 ウェイトリフティング 25 宮崎市
22 ハンドボール 24・25 宮崎市
23 自転車 25 宮崎市
24 レスリング 25 宮崎市
25 ライフル射撃 25 田野町
26 ボクシング 24・25 宮崎市
27 銃剣道 25 宮崎市
28 フェンシング 25 宮崎市
29 ボート 25 新富町
30 アーチェリー 25 清武町
31 セーリング 25 宮崎市
32 ホッケー 25 宮崎市
33 空手道 25 宮崎市
34 スキー H16.3.6〜7 五ケ瀬町
35 なぎなた 25 佐土原町
36 カヌー 18・25 都城市・高岡町
37 ボーリング 25 宮崎市
38 少林寺拳法 25 宮崎市


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編集後記
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■今月号も発行が遅れてしまいました。お詫びします。

■4月に、九州の山や自然情報を共有する仲間づくりを目的にメーリングリスト―九州の山と自然―「kiritachi-ml」を開設しました。
 参加者は「九州の山と自然」をキーワードにMLに集い、日々の想いや、各地の登山情報、自然情報を発信します。
 気取りのないお付き合いを前提としていますので気軽にご参加いただければと思います。
特にご参加頂きたい方
・山や自然が大好きな方・博物館等の学芸員の方・学校の生物、地質学などの先生方・自治体の観光や地域おこしに関係のある方・森林管理署等森林に関係のある方・グリーンツーリズムに関心のある方・郷土芸能、民俗芸能に関心のある方・報道関係の方・レンジャーや森林インストラクターの方などです。
 只今、各地の大学、博物館、新聞やテレビ局、写真家、自営、会社員、公務員、無職など35人ほどご参加頂いています。
 メーリングリストは、メールアドレスを登録するだけで会員になり、会員の発言が会員すべての方へ同時に配信されます。参加費は無料です。お申込はメールアドレス、お名前、職業、地域、年齢をお知らせくださると登録できます。
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■6月は補正予算の議会です。このため次号は議会特集を予定しています。毎月1日発行というふうに発行日を限定するより、情報がある時タイムリーに発行する方がいいかなと思っています。発行日が遅れるわがままをご了承ください。

■今年は不肖筆者も還暦です。鞍岡中学校昭和33年卒業生一同が6月1日は還暦宮参りと同窓会で久しぶりに再会します。同窓生60人中40人が出席します。
 還暦記念奉納品は、神楽殿新築に伴い、神楽殿の天岩戸の幕を奉納することにしました。

■このかわら版は、地域集落の皆さん向けに発行しておりますが、どなたにでもお送りできます。ご希望の方は事務局0982-83-2326
FAX0982-83-2324までご連絡ください。(治)