かわら版 『風』 第20号

 2002年9月1日号 毎月1回1日発行

 発行者 やまめの里 企画編集 秋本 治 
五ケ瀬町鞍岡4615  電話0982-83-2326
















9月の議会日程
 9月議会は決算議会です。初日は提案理由の説明、2日目は総括質疑、3日目一般質問、最終日が採決の予定です。是非傍聴に来てください。傍聴者があると間違いなく議会は活性化します。
9月 6日 定例議会初日 14時から
9月 9日 本会議2日目 10時から
9月18日 本会議3日目 10時から
9月25日 本会議最終日 14時から



8月9日(金)
 県北フォレストピア実行委員会定期総会が、高千穂町自然休養村管理センターで開催されました。
 この実行委員会については、本紙の昨年8月15日号にも詳しく掲載しましたが、再度取り上げてみたいと思います。
 本事業は、宮崎県が昭和61年度策定した第3次宮崎県総合長期計画に政策目標として盛り込み、昭和62年に県北の日之影、高千穂、五ケ瀬、椎葉、諸塚の五町村をモデル圏域として指定。同63年に「県北フォレストピア整備基本計画」を策定して「フォレストピア宮崎構想」の具現化に向けて全庁的な取り組みが行なわれてきたものです。
 高千穂町役場企画情報課の土持課長司会のもとで開会されました。

会長挨拶(高千穂町稲葉町長)要旨
・昭和63年から宮崎県知事の政策により森林化社会を目指したフォレストピア構想の具現化に努力している。
・過疎、高齢化、林業不振の過疎地域に勇気を与えたこのプロジェクトも13年の歳月を迎えた感謝したい。
・事業の中核となる人おこしでは、フォレストプロデューサーやフォレストインストラクターが育った。高齢化が進む中で新しい発想や行動力が求められている。
・5月の総会でフォレストプロデューサー協会とフォレストインストラクター協会が合併して「フォレストピーアイエーPIA」という組織で再発足した。
・植樹祭誘致運動ではご尽力いただいたことに感謝したい。結果としては残念であったが、平成17年5月の愛鳥週間では野鳥の集い会場として内示を受けた。
・今後とも第2次基本計画の推進に向けて努力して頂きたい。

緒嶋県議会議長挨拶要旨
・山村の現状は、過疎、高齢化、木材価格の低迷などで厳しい。
・予算も厳しい状況にあるが、英知を結集して生きるための努力をしてほしい。
・小泉内閣は地方に厳しい。将来の展望をどう切り開くか、地域のことは地域で考え英知を結集して取組んで頂きたい。

県山村対策室高松室長挨拶要旨
・本事業は、山村の独自な生活文化、新しい山村社会の構築にある。
・新森林林業基本法が昨年制定され、本県の国土保全奨励制度が認められた。
・本事業も昨年から第2次計画となるが経済事情は大変厳しい。新たな視点で取組んで頂きたい。
・「フォレストピーアイエーPIA」の組織が設置された。活動に期待したい。

続いて事務局からの説明がありました。

13年度の主な事業費は、
・フォレストピア地域リーダー集団組織強化事業 443千円
・フォレストピア圏域学習体制確立事業 1.529千円
・森とむら文化情報促進事業 492千円
・山村都市交流活動促進事業 3.796千円
・フォレストピア特産品開発支援事業 421千円
・フォレストピア特産品販売促進事業 3.258千円
等、事務局経費含めて12.579千円の事業です。

 県北山村の活性化にとって切り札的な政策構想と期待されていましたが、その事業の推移を見ると、もはやこれまでかと思うようになりました。

 下表は、その事業費の推移です。
          (単位千円)
5町村負担 県負担金 合 計
12年度実績 22,872 16,289 39,161
13年度実績 11,218 3,080 14,298
14年度予算 10,146 1,171 11,317

この表を見ると県負担金が極端に減少していることがわかります。
 この件については、本紙の昨年8月15日号にも掲載しましたが、昨年の実行委員会で、県負担金について質問したところ「これからは補助金ありきからのスタートではなくて、個別の事業を吟味して成果を上げられそうなものについては補助を検討したい。概ね前年比の80%程度を目標にしている。」という答弁があったのです。
 このことから判断すると16.289千円の80%、13.031千円が県費でなければならないのですが、実績は前年比18.9%の3,080千円というものでした。

そこで、筆者は質問しました。
発言要旨
 1.県費についてお尋ねします。昨年度の定時総会で、県費について予算案ではゼロとなっているので質問しましたところ前年の80%程度は考えているというご説明でありましたが今回決算書を見ると3.080千円となっています。
これは、10数パーセントにしかなりません。事業計画は5町村のワーキング部会で起案されるんだろうと思いますが、県としては、予算をつけてもよいと思われるような計画が上がってこなかったということでしょうか。それとも県の方からこの枠でしなさいというふうに考え方が変ったのでしょうか。
2.効果の上がりそうな企画がなかったということであれば、民間の知恵を募集することが必要ではないでしょうか。活性化のための事業は、行政主導の机上論では事業がマンネリ化していて良いアイディアがでてこないでしょう。住民からアイディアや企画を募集して良い企画には予算をつけて「民間でやりなさい、行政も支援します」。として広く知恵を集めた方がいいのではないでしょうか。

 県からの答弁もなく、事務局からの説明は抽象的でした。折角これだけの多くのメンバーが貴重な時間を割いて参集しているわけですから、もっと議論しなければ。質問者も筆者一人のみで寂しいフォレストピア実行委員会でした。
 新年度の予算も県費は更に落とされて前年の38%です。発足当時の期待感や意気込みはどこへやら。「こりゃいかんなあ」。

8月20日
 高齢者保健福祉・介護保険事業計画策定委員会が役場第1会議室で開会されました。はじめての会です。
 冒頭、町長より委嘱状が渡されました。委嘱期間は、平成14年8月1日から同16年3月31日までです。
委員のメンバーは、下表のとおり11名です。

被保険者代表 岡村俊市
藤居義秋
議会代表 甲斐啓裕
秋本 治
民生委員代表 宮崎一夫
椎葉弘子
ボランティア代表 菊地佐津子
ごかせ荘 甲斐津矢子
町立病院 川村亮機
社会福祉協議会 篠村吉春
福祉課 植木勇一

 介護保険事業は、3年ごとに5年を1期として定めるという介護保険法の定めるところにより本年度中に平成15年度から19年度までの5ヵ年計画を策定する必要があるということです。
 提出された計画案をそれぞれの立場からチェックしていくということのようです。
 本町における平成14年7月末現在の介護保険制度の実施状況は、

1.被保険者
・第1号被保険者 1,549人
・第2号被保険者1,647人(40〜64歳)

2.要支援・要介護認定者数 195人

3.サービスの利用状況(14年5月末)
〇在宅介護サービス  105人
〇施設サービス
・特別養護老人ホーム 38人
・介護老人保健施設   4人
・療養型病床      8人

4.在宅介護サービス事業者
(被保険者が利用している事業所)
サービスの種類 事業所名
訪問介護 町社会福祉協議会
訪問入浴介護 サンルーム九州
訪問リハビリ 五ケ瀬町立病院
訪問看護 五ケ瀬町立病院
蘇陽訪問看護ST
ディサービス 町社会福祉協議会
ショートスティ ごかせ荘
蘇望苑
痴呆対応型共同 ひまわり(判病院)
生活介護 すみれ(瀬戸病院)
介護支援計画作成 町社会福祉協議会
蘇陽やすらぎ館


5.介護保険料 (平成13年度)
人数 賦課総額
特別徴収 1,344 27,610,191
普通徴収 208 4,340,376
合 計 1,552 31,950,567

「わが町の将来像を考える視点で、地域における、あるべき給付と負担の水準を検討する」とあります。仕組みが複雑で病院問題とも係ってきます。勉強しなければなりません。

8月26日(月)
 西臼杵3町議会議員研修会が高千穂町役場大会議室でありました。講師は、岡本光雄氏で全国町村議会議長会議事調査部副部長という長い肩書きの先生です。議員になると「議員必携」という議会活動のマニュアル的な本を渡されるのですが、その本を執筆される方ということです。また、「地方議会人」という月刊・議員研修誌にも執筆されており日本行政学会・日本自治学会会員です。
 研修テーマは、「分権時代のまちづくりに期待される議会・議員の活躍」で、午後2時30分から5時まで講義を受けました。
 内容は、筆者がいつも思っていたことをお話されたので嬉しくなりました。講義のレジュメはつぎのとおりです。
1.第1次分権改革の成果
@地方分権推進委員会の勧告
・地方議会の活性化
A地方分権一括法の施行
・機関委任事務の廃止
B地方分権改革推進会議の発足

2.第2次分権改革の課題
(1)事務・事業の在り方に関する中間報告
・税財源の移譲
(2)第27次地方制度調査会の動き
・今後の論点
ア・基礎的自治体のあり方について
イ・大都市のあり方について
ウ・都道府県のあり方について
エ・地方税財政のあり方について
オ・その他

3.最近の地方自治法等の改正
(1)政務調査費の法制化
(2)議員派遣の法制化
(3)請求者に対し、議会審議の場での意見陳述機会の保障
(4)合併協議会設置に住民投票制度導入
(5)住民監査請求・住民訴訟制度の改正

4.市町村合併と議会の対応
(1)誰のため・何のための合併か
(2)合併後の自治体のあり方はどうか
(3)「地方自治の本旨」と合併
(4)最終的に決めるのは議会

5.町村議会の現状は
(1)議会・議員は住民にどう認識されているか
@本会議、委員会の傍聴は
A会議録の閲覧は
B議会だより、TV中継、ホームページは
C議員定数、議員報酬は多いか
D費用弁償、議員年金は
E政務調査費、議員派遣は
F議員バッジは
G行政視察、ソフトボール、野球大会は

(2)議会と長の関係は適切か
@国と地方の違いは
A機能バランスは
B与野党関係にはないはず

6.地方(町村)議会を活性化するには
(1)地方議会の自主性を強化する
@議員定数の自主選択
・議員定数は全て条例化すべきでは
A定例会の回数制限を撤廃する。
・全国一律に「年四回以内」でなくてもよいのでは
B臨時議会の召集要件を緩和する
・議長にも召集権を認めるべきでは
C常任委員の所属制限を撤廃する
・それぞれの議会で決めればよいのでは
(2)議決範囲を拡大する
@「基本計画」を議決の対象すべき
・「基本構想」だけでは町村の将来設計図がわからないのでは
A個別計画のマスタープランを議決の対象にする
・例えば、ゴールドプラン21、新エンゼルプランに基づく各種個別計画・一般廃棄物処理計画・介護保険事業計画などは、正規の議会で審議すべきでは
B私法上の契約も議決の対象にする
・事務の民間委託等、重要なものは議決すべきでは
C地方公社・三セクへも積極的に関与する
・出資、補助金等の使途はもとより、組織運営全体への議会のチェックが必要では
(3)議決権を拡大する
@契約議決の制限を緩和する
・自治体の判断によって決めてよいのでは
A予算審議権を拡大する
・議決の対象が「款・項」のみでは政策論議ができないのでは
B決算を重視する
・執行済み「あきらめ」審議ではなく、次の予算審議につなげるべきでは
C専決処分を制限する
・専決の理由に「議会を召集する暇がない」が、安易に使われすぎでは
(4)政策立案・審議能力を向上させる
@議案等提出要件の緩和
・議員でありながら一人では議案が出せないのはどうか
A質問・質疑のあり方を改善する
ア・議会は議論の場のはずでは
イ・議場の型が不自然では
ウ・発言に関する自主規制がないのでは
エ・質問の通告制をやめてみたら
オ・1問1答方式がいいのでは
B議会事務局を充実する
・執行部に比べあまりにも少ないのでは
・「採用」人事制度に問題があるのでは
C研修を充実する
・回数、時間、内容があまりにも…
D議会図書室を整備する
・議会図書室は「必置」義務がある
E政務調査費を適切に活用する
(5)対住民関係を改善する
@公開への取り組みは議会のリーダーシップで
・委員会も公開すべきでは
・本会議を実質的に公開する
―休日・夜間―
A議会報を充実する
・お知らせ広報から考える広報へ深化させる
Bインターネットの活用、ホームページを開設する
C参考人制度を活用する
・議会への住民参加を促す
D住民懇話会等を実施する
・議会から住民の中へ出かける
E会議予定等を事前広報する
F傍聴席に議案を備える

おわりに
「地方議会が変れば日本が変る」

(論評)講演の中で「議員は議決に責任を持つこと、賛成・棄権・反対の議員名を議事録に残すことが必要」とのお話があり7月議会(本紙19号)のことを思いました。
 また、「議会も積極的に条例の議案を提出すること。個別計画のマスタープランを議決の対象にする。」などは、まさに我意を得たりです。
 地方自治法第96条の2項「普通地方公共団体は、条例で普通地方公共団体に関する事件(法定受託事務に係るものを除く)につき議会の議決すべきものを定めることができる」の活用を促されました。
 これまで、町の事業計画はどのようになっているか分らないまま予算書が提案されていました。「その予算を議決しなければこれもあれもだめになりますよ。」ということで議会は追い込まれていたのです。
 このような時に6.(2)の「議決範囲を拡大する」は大変勉強になりました。
 また、「議会は議論の場でなければならない。1問1答方式がよい」などはまさにそのとおりです。
 研修の成果をおおいに議会活動に活かしていきたいと思います。




 このところ、タカと間違うような大型の鳥が養魚場に出没しています。この大型の鳥は、博物館に問合せた結果、「ミサゴ」という鳥で九州山地で生息しているのは大変珍しいということです。やまめの里のホームページに掲載している記事を転載します。

 2002年8月22日(木)
今朝も冷え込みました。5時に車で事務所に向いましたが車の温度計は昨日に続き12℃でした。昨年は気温が12℃に下がったのは9月19日ですので一月くらい早い寒さです。昨夜から今朝にかけてドラマがありました。
 昨夕6時に養魚場へ行きましたら、ヤマメの池の縁に大きな鳥がとまっていました。5m位の至近距離で車窓からしばらく見つめていましたが、いつもだとさっと飛び立って逃げるのですが、今回は首をかしげながらこっちを見ていてなかなか逃げません。ドアを開けたら逃げるだろうと車のドアを少し開けましたが、それでも逃げません。そこで車から降りてそっと近づいたところ大きな羽を開いて池の反対側に飛び移りました。移動した方へ回り2m位に近づきましたが逃げません。そこで、そっとその場を離れて倉庫へ行き、ヤマメをすくう網を持って再びそっと近づきました。鳥は頭を左右に振りながらじっと私の行動を見つめて睨んだようにしています。そこで、さっと網をかぶせましたが、暴れることなく網の中でじっとしていて動きません。そこで、ヤマメを蓄用するカゴの中に入れました。凄い爪をしています。これはクマタカだろうか、サシバだろうか。私も野鳥は詳しくありません。サイズは計測しませんでしたが羽を広げると2m近くありそうです。
 30cmほどのヤマメ親魚をタライに一匹入れて泳がせ網の中に入れてやりました。コンクリートの上では、長い爪のため立ちにくそうに見えたので、止まり木となるような丸太を入れました。明日この写真を野鳥の詳しい人に送って鑑定してもらおうとその場を離れました。事務所から帰り際にそっとのぞいてみましたら、先ほど差し入れたヤマメがいません。さっそくご馳走になったようです。全ては明日だと思って帰りました。
 その夜偶然にテレビのカメラをまわしている延岡の田崎さんから電話がありました。くだんの一件を説明したところ彼は野鳥の調査員もしているということで「爪に気をつけながらポカリスエットを飲ませるように」と指示を受けました。
 そして、今朝早くその鳥かごのところに行って覗き込みました。いません。カゴの中は空っぽです。ざっくりとカゴの網はまるで刃物で切り取ったように破られています。「しまった。野犬かテンの仕業だろうか」。カゴのまわりをよく観察してみますが、羽も落ちていません。野犬やテンでは当然このような網をざっくり切り裂くことはできない筈です。「残念、してやられた」もう後のまつりです。野性の凄さを見せつけられた感じです。あの鋭い爪でナイロンの網をざっくりと切り裂いたようです。昨夜もっとくわしく観察しておけばよかった。それにしても昨夜はなぜあのようにおとなしかったのか。不思議です。
 8時になり養魚場のスタッフが出社してきました。「社長、あれは昨日夕方5時頃いつも飛来する鳥が池の中でおぼれているので助けて池の縁にとまらせていたのです。」という。どうやらヤマメを獲りに水中へもぐっておぼれたらしい。水鳥ではないことを忘れたのか。そして夜半ようやく正気になって逃げ出したのか。しかし、まあ、あの差し入れしたヤマメ親魚もちゃっかり食べているのです。それで元気がでたのでしようか。「蓄用カゴを破られて今朝は仕事にならない」と怒られるし、いやはや、大変なドラマでした。どなたかこの鳥の名前を教えてください。
 追記:お昼になりました。事務所の上からピーヨピーヨと鳥の鳴き声が聞こえたので外へ出てみましたら、昨夜の鳥が事務所横の電柱にとまっているではありませんか。挨拶に来たのかな。それとも昨夜の事件の現場検証なのか、はたまた、昨夜の鳥の相棒なのか、さだかではありませんが魚とりにあまり来ても困るし、来なければ寂しいしといったところです。(治)

 ――8月22日付の鳥情報ですが、博物館の齋藤政美さんから鑑定結果の便りが届きました。
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 さて、お問い合わせの鳥ですがミサゴという鳥です
どちらかというと沿岸部に多い鳥で、深山での情報は私は初めてです。念のため、野鳥の会の知人にも照会しましたが答えは同じでした。幼鳥とありますが、羽はもう成長羽となっているようです。捕獲の状況、その種の鳥の目撃情報などその鳥(種)についての情報をもう少し詳しくお知らせください。何故かといいますと、その鳥の繁殖情報が県内ではほとんどないのだそうですよろしくお願いします。
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ということで、ミサゴという鳥だそうです。ヤマメを獲られてしゃくですが、大切に見守りましょう。




 かわら版18号(7月1日)で掲載した「全国源流のむら会議」の続きは前月号が議会特集で掲載できなかったので本号に掲載します。ちょっとボリュームがありますが、まちづくりのヒントが一杯ありますのでお暇の時にゆつくりご覧下さい。

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山村が行きぬくための交流会議
「全国源流のむら会議」
メインテーマ
「源流域の循環経済を考える」
2002年2月15日(金)〜
    2月16日(土)
場所 岡山県英田郡西粟倉村
   国民宿舎あわくら荘
主催 全国源流のむら交流会議実行委員会

「飛躍するセッション」

鈴木; おはようございます。ゲストの方は、朝から厳寒の若杉原始林"かんじきツアー"に参加して気持ちがのっています。また、昨日、いらっしゃらなかった方もおられると思うのですが、この卓上に、"愛の水"がたっぷり注がれているということは感激です。昨日は外国のミネラルウオーターが置かれていましたが、この地の水"愛の水"が美味しいというのになぜ、"外国の水"なのだ、なんて話があったわけです。人間と言うものは、それだけで嬉しいわけなのです。地元の水が置いてあるよと、昨日まではヨーロッパの水が置いてあったけれどというような事ですね。
今日の朝、耳を傾けていますと、昨日の夜の話とか、いろんな声が聞こえてきます。ここへ来たらこういう美味しいものが食べられるのかと、国民宿舎に泊ったらこういう美味しい料理が食べられるなら来てみたいとか、"かんじきツアー"にも子供を連れて、家族や地域の仲間をつれて来てみたいというような事を言っておられました。地元の方も厳寒の若杉原始林を歩いたのは初めてだと言っておられました。
大原町古町を歩いた時にですね、そこに住んでおられる方が、こうやって余所から来られた方と歩くのも50年ぶりだというような事を言われたりしていました。地域に暮らす人が、実は足元に目を向けなかったという話が昨日ありました。きっとよく見つめたりすると、こういう事ができるのじゃないかなんてことを改めて感じたのではないでしょうか。
それで、今日は、ここのパネルにありますように、「山村が生き抜くための交流会議」ということです。これから山村が本当に生き抜いていくと言う事は大変な事だということです。この地域にあるものをいろんな視点から見たり論じたり、余所から知恵との交流の中から考えようということです。生き抜く為の交流会議、そのために源流域の循環経済を考えたいと思います。
地域に人がきて、お金を落としても直ぐにそれが大都会に流れていってしまう。地域の中に循環経済がない、助け合う事もなくなってしまった。そして世界の中で中国などの海外のコストが安いということで、どんどん日本は空洞化していってしまう。
そういう中で山村が生き抜いていくということで、議論を進めて行きたいと思います。昨日のセッションのコーディネーターを3人の方、コーディネーターの方に自分のやっておられる事とか、自分の考え方とか言っておられませんので、今日はそのあたりも話して頂きたい。
それから、先ほど道上村長さんも、テレビ局のインタビューを受けて、「何処からこられました?」と言われた位ですから、どうも影が薄かったのではないのじゃないかと思います。それから、西粟倉村出身の岡山市長さんにも加わっていただき、今までとは違った目で、生き抜くためという事で、岡山市という大都市から上流に、故郷に帰ったと言う事で、ここの村長さんですかといわれるくらいの気持ちで今日は話をして頂きたいと思います。
それでは、一番最初のセッションの秋本さんの方から。秋本さんは、宮崎県の五ヶ瀬町で、ヤマメの養殖を日本で最初にした方です。秋本さんは林業をやっておられて、それではもう食べていけないと言うことを昭和30年代に気付いたわけです。林業では食って行けない、人がどんどんいなくなってしまう。そういう中で、ヤマメを養殖できたらと、それが実現しても、ヤマメが売れない。一生懸命ヤマメを消費していってもらおう、需要を高めようということもした。
すると、ヤマメを売っても、地域から人がどんどんいなくなってしまう。今度は、ヤマメを食べてもらうような店を作ろう。泊ってもらおう、そしてスキー場まで作っていくと言う事をしてきました。その事によって、ブナ林を切り開いて、しっぺ返しを受けてしまった。その中から「霧立越」という森林ツアーを見出したのです。人が歩かなかった山の中を歩いてくる、というたったそれだけの事で5000人の人が来ています。その中で新しい植物も発見していく。
生き抜いて行くと言う事は、実は足元の中から苦労されて見つけてきた。小さな村の中で一つの事を始めると言う事は色んな事が連鎖反応的に循環していきます。中高教育の一貫公共教育を日本で始めたのは、五ヶ瀬町なのです。日本の中の中高教育を変えたのです。ただそれが今は受験というような方向にいっていますが、本当は地域の中で生きていく子供達を育てていく学校がほしい、都会の子供達も来たがるような学校を作り上げてきたのです。秋本さんの方から山村の生き抜く知恵というものをお話してください。

秋本; はい、秋本でございます。鈴木さんから今、いろいろ紹介していただきましたが、私は、山村の暮らしは本物の世界であって、じっと自然を見つめていると色んなものが見えてくる世界でもあると思うのです。源流の山に住む、要するに仙人、山に人がいて仙人というわけで、下界の者はなにするものぞというような気持ちで、いろんな間違いが見えてくるという事もあります。
 皆様のお手元に新聞のコピーが届いていると思いますが、「明日の為に」という、これは某新聞のローカル版ですが、月1本という事で今書きつづけています。これは、今月の8日掲載の分なんです。禁漁期の疑問を書いています。
 こちらにも渓流魚のアマゴが生息しています。ヤマメと同じような魚ですが、昨日もご馳走になったわけです。これをじっと見つめていますと、禁漁期というものがございます。10月になると産卵します、だから10月から禁漁期にしましょう。そして翌年3月1日になったら解禁にしましょう。ということです。
 でも、おかしいよと。産卵期になって成熟した魚は餌を食べない。餌を食べない魚はどうやって釣るのという疑問です。それから3月になって冬の冷たい水がようやく温んできたので餌を食べ始めたばかりのヤマメがですね、その時に解禁されるので一気に釣られてしまう。しかも釣れた魚は、産卵期のサビが回復していないので食べてもまずい。
 それをもう1ヶ月おいてまるまる肥えてきてヤマメの旬になってから解禁する方がいいのじゃないか。産卵期は餌を食べないのに禁漁期にしても仕方がないのです。それよりも解禁の時期を現場で考える。
 こういうお話は現場論と机上論の違いで、まさに実情に合わない机上論がまかりとおっているのが今の世相ではないかと思います。山村はまさに現場論の世界だと言う意味で、新聞コピーを配りました。
私は「霧立越」をテーマにして九州ブナ帯文化圏構想を推進しています。お話してもわかりにくいと思いますので、OHPの方を用意しておりますので、ごらん頂きながらご説明して行きたいと思います。
------------------ OHP開始-------------------
 私どものフィールド、やまめの里、養殖場、宿泊施設です。上の「ハキ」と言うところは、民宿村になります。この地域一帯が、そういう民宿旅館村になっています。
 この山は標高1600mの尾根が続いています。この辺りは、今日上って行きましたような原生林地帯でございます。殆ど人が入らなかったような所で、国有林なのです。そこで、ヤマメの養殖を始め、都市と山村の交流を考えて、地域の村おこしグループ達といろいろな取組みをするようになりました。
 スキー場は、標高1600メートル、今の時期積雪も1メートルを超えています。今年は例年より積雪が多くて、かなり計画よりもお客さんの数も増えています。
昔、車時代以前というのは尾根伝いを人々は歩いていたのです。「駄賃付け道」といって、集落から尾根を降りて熊本県までつながっています。
この尾根の道が「霧立越」です。スズ竹が茂って通れなかったのですが、昔は馬が歩いていた道ですから、スズタケを刈り払うだけで立派な道になったのです。金かけずに出来たわけです。このカシバル峠まで車で登れるわけです。山小屋、扇山の山頂を上がって降りて行く「霧立越」のルートは基本的には、40キロメートルくらいの道のりです。尾根の良い所だけ歩こうというのがこのトレッキングルートで12キロで7時間くらいです。
尾根伝いですから、楽に歩く事ができるので、80歳台くらいの方でも結構歩けます。私がご案内した中で最高齢は88歳でした。年間5000人くらい歩いています。このメインルートからいろいろなものを作っています。
この幻の滝が発見されて、石楠花ルートだとかいろいろなルートを作っています。「霧立越」は、原生林の素晴らしいところで、私どもインストラクターは、自然の話、植物の説明、動物の話をしながらガイドしていきます。大体500種類くらい草本木本類があるんですが、ほぼ全部説明出来るようになってきました。
会員が20名くらいいますが、その中で2、3名位は自分で植物図鑑、きのこ図鑑等を買ってきて、お客さんから尋ねられた時に説明できないのはしゃくだと勉強しています。山の青年達がお客様に対して先生になれるということです。それで非常に自信を持ってきて、行動も活発になってきました。
季節ごとに新緑と紅葉と色々変わって行くわけでございます。去年の出来事をいくつかご紹介したいと思いますが、「霧立越」を歩いているときに、普段見なれない桜があることに気がついたのです。それで、植物に詳しい先生方と歩いているときに、「あの桜違うんじゃないでしょうかね」というと、「江戸彼岸だろう」と。
要するに、桜の基本種というのは、大体9種類くらいしかないのですね。何百種類とあるのは、交配で作り出した桜なのです。原生林にあるのは、その基本種、原種なわけで、シンポジウムで色々解き明かして行く事になるのです。特徴は花更が非常に長い、約4センチほどあります。あるいはこのめしべが非常に突出していると言うこと。或いはこのガク筒(とう)の形が全く他の桜と違うと言うこと。鱗片に粘性があり手でさわるとねばねばしている。色も非常にきれいなピンクの桜なのです。
これを調べて行くうちにやはり違う桜、この地域特有の固有の桜と言うことが分かりました。スキー場の有る標高1684メートルの向坂山から白岩山付近に自生していることが分かりました。69本、現在確認登録していますが、後から次々見つかり数百本になるかも知れません。
桜は、非常に大きな木となっています。よく桜は長持ちしないよといいますが、それは人工のサクラのソメイヨシノなどであって、桜の基本種、原種というのは、150年200年以上も生きている。直径が50,60センチというのはざらにあります。名前がつきまして、和名では「キリタチヤマザクラ」といいます。
実は、私の名前も入ってしまったのですが、学名は「セラサス・サーゼンティ・バァ・アキモト・イ」と。セラサスというのは、桜属の事であって、サーゼンティというのは、大山桜系で、アキモト・イとは秋本が発見した桜だということだそうです。これは桜の花も非常にきれいですね、村中に植えようと思い、接木や実生をしたりしているのです。実生でも発芽率が良くて増やしているところなんです。
それともうひとつ面白いのがございましてですね、実は地図にもない幻の滝を見つけたということです。滝の高さは150メートル、三段になっているのですが、これが一番上の滝で、落差が75メートルあります。だれも入った事がない、見たことがないというわけなのです。
なぜかというと、崖の中に囲まれていたということもあるのでしょう。滝の伝説があっても、だれも入ったことがなかったと。それを発見しようということになったきっかけは「霧立越」です。扇山の山頂にトレッキングで登った時です。
そこには季節によると水の音が聞こえるという噂があるのです。山の頂上で水の音が聞こえるはずがない。しかし、そうした噂があるのは、おかしいということになりまして、双眼鏡で調べてみたんですね、そうすると、等高線がぐちゃぐちゃになっている所があるのですが、そこが怪しいと言うことになりました。ちらっと白いものが見え、あれは滝に違いないということで、探検をしようと言う事になりました。
 探険隊を組織して谷から登っていって、この命がけの所を這い上がりました、もう二度と通らんと探険した皆んながそう言うてます。そこを登って滝を突き止めたわけなんですね。その時は夢中で崖をよじ登ったがもうそこには二度と行きたくないというほど怖かった。上ったはいいが、帰る事も出来ないのです。
 山の中をぐるぐる回りながら命からがらやっと帰ってきたのです。後から地図で見ますと、逆の方から行くと簡単に行ける事が判ったのです。ただ、人が入った事がない険しいところで、地元の猟師さんも入らないところなので、行けないのです。それで、思考錯誤しながらルートを開きました。
 結局崖の険しい道は獣道をたどれば良いと言うことがわかったのです。今では30分くらいで歩いて行けるようになったんですね。みんな感動しまして、滝開きをしようと言う事になったのです。
 これは第1回の滝開きです。神主さんに祝詞を挙げてもらって、テープカットをして滝開きをしました。この時に「滝に捧げる詞(ことば)」というのを作って皆で朗読したのです。この感動を忘れずにいようと。読んで見ます。
 「滝に捧げる詞(ことば) 太古の昔より、椎葉山中奥深く、漆黒(しっこく)の岩肌に怒涛渦巻く瀑布を造り、岩清水を集めて遊ばせる幻の滝よ。あなたは、断崖絶壁を盾にかたくなに人間の侵入を拒み続けて、白布を引いたように美しいその姿を隠してきました。人知れず、獣たちと戯れながら自然の営みを営々と続け、悠久の歴史を刻んだ森よ。あなたは、清らかな水を絶え間なく流し続けて美しい滝を育み、開発という名の元に荒廃させた自然を護ってくれました。
 私達はこれまで、滝の伝説を語り継いできましたが、このたび、あなたに近付きたいという願いを受け入れてくれ、遂に邂逅(かいこう)することができました。神秘的な姿で出迎えてくれたニ00一年五月十七日を私達は終生忘れることはないでしょう。私達は、地球誕生のエネルギーを秘めて燦然(さんぜん)と輝くあなたの美しさに惹かれ、あなたと交歓することの歓びを多くの人たちに分かち合いたいと願い、本日滝開きをおこないます。多くの人々が、この聖地を訪れ、悠久の自然が奏でるエネルギーに、心の疲れを癒し、生きる力を蘇らせることでしょう。私達は、この自然を傷つけず、汚さず、自然と共に生きることを誓います。願わくば、ここを訪れる人々に安全と大自然のパワーを与え給い、生きることの素晴らしさをご教示賜らんことを。ニ00一年七月二十二日 霧立越の歴史と自然を考える会」と、感傷的に書いてしまったわけです。
 写真が朝日新聞の全国版の一面に大きくでましたので、大変な反響をよんで、それからいろいろな取材を受けたりして、滝ブームになりました。自然を見つめているとこうして面白い事が次々と起きてくるということです。
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 自然をじっと見つめていると見えないものが次第に見えてくる。今日も、雪の中を歩きながら、この谷間にどういう樹種があるかなという思いで歩いていたわけです。
 だいたいブナ林、落葉広葉樹林の森というのは、谷間にある木はクルミやシオジが多い、これは水がないと育たないもの。源流の水の中を根が縦横にがっしり張っており、これで川をがっちりと守ってくれていたわけなのです。
 そこを人工林が覆ってしまったから川が荒廃した。渓流沿いの森を元の本来の姿に戻していこうとすること、それが実は大事なのです。山全部を修復する事は不可能でございますから、せめて谷川沿いだけでもそこにある自然の元の姿に戻していこうとする事が大事なのではないか、と言うことが、じーっと見つめていると見えてくるわけです。

鈴木; みなさん聞いていて非常にマニアックな話だと思われたことと思います。桜の木一本、滝一つにこんなにこだわるのかと。しかしですね、そう言う風にこだわったことがありますか。飛躍するためには、スキー場の話でも、10年間、積雪量調査をする為に毎朝5時間とか歩いて調査をしたそうです。一つの本物を作るためには、非常にじっくり観察をすると言うことを秋本さんはしている。
 飛躍する前には、新しい発見があるわけですが、そのまえにすごい観察力とすごい努力があるわけです。小さな所にこだわっている。秋本さんに答えて頂きたいと思うのですが、昨日、木工の話なんかで玩具の話を西山さんからしていただきましたが、秋本さんがするとですね、非常に上手に回りの人を巻き込むのです。
 参考に話をしてください。いろいろなことをする時に必ず地域の人を巻き込んで連れて行く。会を作って行く、皆をやる気にさせるという所がすごい。そうしないと、今の秋本さんの非常にマニアックな話で、桜がどうしたと言う風になるのですが、その桜一本をみんながそれを大切にして行く、滝も皆で探そうとやらないと、道も作れない。
 それで、いろいろなことをする時に、周りの人と一緒に分け合っていくということをどうされているのか秘訣を教えてください。どうやって住民の人達をその気にさせてしまうのでしょう?例えばお神楽の話もそうなんです。お神楽は何時間かかるのでしたっけ?  

秋本;夕方8時から初めて夜明けまでです。

鈴木;お神楽、延々と続けてそれを復活させる。みんなで地元の人が踊るのですが、なぜそのように地元の人がその気になって、一緒にやって行けるのかというような事についてお話になって下さい。

秋本;きっかけは、ひとつ、スキー場ですね。スキー場を作らないとこの村はもうなくなるよという危機感からなんです。九州で一番雪が多いのは、実は地元の自分達の住んでいるところで、その外にはないんだという事を調査しました。行政はなかなか動いてくれませんでした。
 いろいろな取組みをした時にわかったのですが、山の青年たちというのは、山奥の行き止まりというのはもう夢も希望も無いところだと皆思いこんじゃっているんですね。そこで、なにかおもしろいことがあるんじゃないかなということで、みんな一緒についてきてやってくれたわけです。
 スキー場が実現した事によって、村の皆さんの元気が出てきて、自分の地元を胸を張って紹介出来るようになったわけなんですね。そこから、村おこしグループがいくつも出てきたんです。今、「霧立越の歴史と自然を考える会」だとか「雪の五ヶ瀬村興しグループ」だとか色んなグループができてきまして、そこでなにかやろうとすると、みんな一斉にテキパキと動いてくれるという仕組みが出来ました。これが大きなきっかけでした。
 しかし、スキー場開発でやまめ養殖場が全滅したなど、失敗もありました。それできちんとした哲学が必要だということになり、「九州帯ブナ文化圏五ヶ瀬構想」なるものを考えました。これにとりかかりはじめてから思ったのですが、もしかしたら、昔の馬で歩けたという道を歩けるんじゃないかなと考えていたところ、西南戦争の時に西郷隆盛が逃げていった道を尋ねてきた方がいたので、現地を案内したんですよ。
 すず竹をかきわけながら、非常に苦労して、もう帰ってきたときは暗くなっていたのですが、その時に歩いた尾根伝いの道がとてもすごかったもので、改めてこのルートを歩いたら絶対おもしろいだろうなと思ったわけなんです。
 帰ってきて晩酌しながら、その道を皆がピクニック姿で歩いているという場面が瞼に浮かんできてしまって、地元のグループの青年たちに「あの道はいいよ」と話したところ、早速1週間か10日後くらいにはメンバー20人くらいが歩きに行ってしまったのです。
 それで、実際に見てきたメンバーも「あれはすごいよ」「絶対やろうじゃないか」という話になって、行政に相談に行ったのですが、全然協力してくれませんでした。それならもう自分達でやろうと言う事になり、スズタケを刈りとって歩けるようにした。
 まずシンポジウムを開催しようといろいろな人に声をかけましたら、地元の新聞社の社長さんや、県の方、多くの山の好きな方などさまざまな方々が興味を持ってくれました。そこで、下山するタイミングを見計らって第1回のシンポジウムを企画しました。
 それから毎年1回か2回づつシンポジウムを重ねていって、同時にそこで地元も青年達と一緒に学んでゆくというスタンスをとり、それを繰り返してきました。販売できるようなものではないですが、きちんと記録をしてワープロで整理して、皆の情報として共有を図ってゆく。
 その時にも鈴木先生に何度かお世話になりまして、充実したシンポジウムが開催できたわけですが、その時々で「あの時のシンポジウムはおもしろかったね」「あそこが良かったね」とか感想を言い合い、またそういうのが楽しみでスタッフがみんな動いてくれるんですね。
 そういった基本的に面白いテーマを見つけて、「みんなどうだ?」と提案すると、皆んなでわーっとやっちゃう。そういった部分では、組織が出来てきたというところが良いんだろうと思いますね。

鈴木; 秋本さんのところでは、本当にですね、鉄砲撃ちの猟師さんだとか地元の普通の方が難しいシンポジウムに現れてみたり、先程話に出た学術的な桜の調査など、そういった地道な事をこつこつとやっておられます。
 しかもこういったことを地域の人達と一緒にやってゆく。例えば、昨日見せていただいた木工のおもちゃづくりを秋本さんは面白い面白いとおっしゃっていて、これをどうやって皆に広めていくかという事を絶えず考えておられます。そういうところが一つヒントになるかなと思います。
ここで、梅原さんに話をおききしたいと思います。梅原さんも独自の視点で秋本さんのように桜とか滝とか面白いものを発見するわけです。
昨日の赤岡町の間城さんの話にもあったんですが、例えば大原の町で何かを発見したらそれをどうやって皆に判りやすく伝えたり、仲間をつくったりして行くのか。そのような、梅原さんが一つの材料を発見する方法と、コミュニケーションの速度なんて言葉になるんですが、それらをどうやって皆に伝えてゆき、どういう風に面白がるかということをおききしたいです。
おそらくその基本はですね、梅原さんが日本の町や地域が生きぬいていくには、日本そのものがおもしろくなることが必要で、そのためには自分の町を楽しまないかん、つまり、自分の人生を楽しまないかん、ということなんですね。自分の町を楽しんでいく、梅原さん的に言うならば妄想が沸くように楽しんでゆく。
そういう中に飛躍してゆけるような次のステップがあると思うんですが。例えば赤岡町とか、四万十ドラマとかですね、地域の課題・問題があるけどそれをどんどん自分なりに楽しんで発見していく方法を梅原さんに話していただきたいと思います。

梅原; こう言う流れになるとは思っておりませんでしたので、資料を持ってきませんでしたが、今ちらしが少しあるのを思い出しましたので、ちょっと皆さん全員には行き渡りませんが、一列に一枚づつ配ってください。
 自分のやってる事について自分で分析したんですけれども、自分は土佐に住んでいまして、土佐の風景ですね、自分の住んでいるところの風景は、多分仙台と違うし、青森と違うし、北海道とも違うわけですね。そんな違いがあったほうが経済も活性化するでしょうし、人間の魂、これが違いますね。
 でも青森行ってもどうも同じやんかと、町を見ても思います。別に津軽三味線もながれてへんなと。ただちょっと雪が降っているなとそれくらいしか違わないようになってしまったんですよね。
 そう考えてみると、私の住んでいる土佐では、漁師さんが一本釣りでかつおを釣ってますけど、これはどんどん廃業していってるわけですね。いわゆる廃船、つまり一本釣りする風景が土佐の風景なのにそれがどんどんなくなっていってしまう。
 それで、私としては「なんで知恵使わへん」という事になってきます。どういう事かというと、この一本釣りの風景がどんどん無くなっている、船が何隻も何隻も無くなってきている、とそれを新聞が記事にしている。どんどんどんどん駄目なったんですよ、駄目なったんですよって毎日書くんですね、新聞に。なんで駄目とばっかり書くんだよ、考えた事あるのかよ、というふうにずっと思ってましたら、漁師がやってきたんです。僕のところに。
 船から下りてもう一本釣りはあかん、手で一本一本釣るからと言いまして。昨日の話題に出た「手仕事」と一緒ですわ。網でがーっとかつおを捕るやつもあるんですけど、一本一本手仕事でやる。手仕事は駄目になってるというから、前行かずにもっと後の物で処理しようやということを考えたのです。
 それは藁を使うということです。藁というものは田舎に一杯あります。だから藁で焼いたタタキ、「一本釣り藁焼きタタキ」というものをデザインして商品にしました。
 その漁師ははじめは家族3人でやってました。それが全国に発送し始めたりして話題を呼んで8年間ほどで20億円の企業になってしまったんです。つまり、かつおを釣って藁で焼いてタタキにまで加工し最終的に製品にして届けようということをだれもやらなかったんですね、今までは。
 デザインだとかパッケージの高知らしさとかそう言う事については僕が協力したんです。その時に僕はコミュニケーションというのは短くした方が良いと考えました。それでその商品にはこう言葉をつけました。「漁師が釣って漁師が焼いた」そうしますと、最短距離で商品のコミュニケーションが出来ます。「漁師が釣って漁師が焼いた」と。
 あんたが釣って、あんたが焼いたんやねと、わかりやすくて商談はかなり短く済んでしまうんです。つまり、パッケージを見るだけで「あなたがひょっとして漁師さんですか?」「そうです」「あなたが焼いたんですか?」「そうです」「何で焼いたんですか?」「藁です」ということが全部わかってしまうんです。そういうものが商品のコミュニケーションということだと思うんです。
 ちなみに「漁師が釣って漁師が焼いた」という言葉はもう高知では定着しています。これだけで、3人で焼き始めたただのタタキの商品が8年間で20億円になっていきました。だからその人の船は残ったんです。兄弟5人でかつお船を2隻持っているんです。結果的に、カッコよく言えば、僕はその風景を一個残したかなということになります。土佐の一本釣りの風景を残したんです。良かったなと思います。
 さて、次に話しますのは、今ここで配ってもらった資料を見ていただきたいと思うんですが、先程のかつお漁師の一本釣りの基地、土佐佐賀港の隣に大潟町という町があります。ここに4キロメートルの砂浜と松原がありまして、当地で「砂浜美術館」というのをプロデュースしました。
 この資料に14回目とかいてありますから、14年前の事です。14年前から始めたんです。当時はリゾート法やら、ハコモノ行政やらでとてもバブリーな時代でした。僕はそんなものに嫌気がさしてました。小さな小さな町にもでっかい、変な建物が建設されていました。もう住民として怒るしかありませんでした。
 それで、こんなんだったら何にもせん方がいいと思いましたけど、一方で何にもせんのんは、本当に何にもしないんですよ。それで思い立ってここの砂浜に2本の杭を立ててですね、それにロープで洗濯物を干すようにしてここに作品を吊るしていくわけですね。
 これはやがて、元へ戻せます。杭とロープを回収したら元に戻せるんです。言ってみればこれは仮設です。いつでも出来ます。でも同時にこれは大きな構造物でもあるんです。これ順番にずっと並べているんですけれども、500メートル先までありますからね。相当でかい構造物なんです。
 つまり、私は"何か"をしたんです。こういうことで構造物をつくったんですね。しかし、これは回収も早いです。一日で杭とロープを抜いてしまえば元に戻ります。
 このときどういうシステムを作ったかといいますと、「全国から絵を書いてください。写真を作って送って下さい。絵を書いてくれたり、写真を作って送ってくれたりしたら、それらをプリントしてTシャツを作成して展示します。そして展示が終わったらそのTシャツを洗濯して貴方の元へお送りします。それは自分だけのオリジナルTシャツです」というものなのです。
 これは黒字でした。しかも地球環境を壊すわけでもなく全部回収したら元通りに戻ります。大きな構造物を建てただけで何もないというのではなく、中身があってしかも金銭的にも回収が出来て、元通りに戻せるシステムを僕は作ったんですね。僕がこのプランを立てたときには知りませんでしたが、当時この町にはリゾート法の名の元に開発業者が彼らのプランを持ってきていたそうです。
 これの計画には、ゴルフ場、リゾートホテル建設され、空から見たら鯨型のプールがあり、サイクリングロードがつくられるということだったそうです。この砂浜までもですね、そういうプランによってこの風景を違ったものにしようとしていたんですけども、この4キロの砂浜の風景は人が作ってもできひんぞ、じゃったらこのままでおく方がいいな、と僕は思ったのです。
 しかしこのままでおこうというだけだと、ただ反対しているだけの人間みたいですから、そうじゃなくて前向きに考えて、その結果、「砂浜にひらひらさせる」というプランを立て、進めていったのです。
 やがて時代が変わりバブルがはじけました。もしここにリゾートプランが進められていたらどうなっていただろうか。14年前というその当時は全くわからないですよ。いわゆるバブルの時というのは、みんな金儲けている時にこういう事してる場合じゃないという時代でした。
 しかし、この14、5年で風向きは恐らくこちらに変わってきました。次第に全国からこういう価値観をもっている自治体、自由にやっている自治体などに人が集まり始め、近頃はエコミュージアムとか、これはこの14年の間に作られた言葉ですけれども、砂浜美術館というコンセプトに近いことを進めている、そんな時代になってきています。
これまで、2つの土佐の風景をテーマにしてお話しましたが、他にもチンチン電車編とか、四万十川編とか、ヒノキの森編とか、いろいろ話はあるんです。
赤岡町もその中の1つです。その町では、風呂屋で皆で会議してたんですけど、冬になると寒いから公民館に行くことにしたんです。暖かい、新建材で出来た公民館です。でも僕は、公民館で町のことしゃべるのは嫌だったんです。隙間風がピューピュー入って寒いから公民館行こうやなしに、この風呂屋でやってんねんから冬でもずーっとここで話そうと言う事で、火鉢を持ちこんでやり始めました。
やっぱり、自分の物の考え方をデザインするというのはこういうことだと言っているわけです。何も無い方がいいかもしれないなんて誰もいいませんけどね、僕はそう思います。
このパンフレットにある砂浜美術館ですが、これにも文章があります。「私達の町には美術館がありません。美しい砂浜が美術館です」という2行です。先程のかつおのタタキの件は「漁師が釣って漁師が焼いた」の2行です。他の話にも全部短く言葉があって、軸が動かんようになっています。
このように、自分の町がどうなりたいか、自分の回りのものを楽しみたいと思って、僕はかつおという素材を地元の漁師と一緒に楽しんだんです。そしてこの砂浜という風景を楽しんだ。あるいはチンチン電車を楽しんだ。つまり、自分の目の中に入るものはそう言う風に楽しんでいこうと思いながらやってるだけでして、本当はあんまり村おこしとか町おこしとか思ってないんですね。

鈴木;今の梅原さんの、「砂浜美術館」もですね、Tシャツを展示するんですが、それだけではなくて砂浜そのものを美術館にする、という風に発想がどんどんどんどん出てくるんです。海に鯨が見えた、となるとその鯨も美術館じゃないか、という風に。
 すると鯨ウォッチングということで、ツアーを企画するとなればまた一つの新しい産業が出てくるというわけですね。それも砂浜美術館の作品を見に行くというわけです。それから砂浜ですからラッキョウがありますので、このラッキョウを横にすると鯨に見えなくもない、ということでそれを「くじらっきょ」って売ってるんですね。そこに花が咲いたら花見を楽しむとか、もうそういう事をどんどん活かして、かつ、自分達が楽しんでいくというようなことが重要なんです。

梅原; 一つのものを真中の軸を動かさずにやっていたらいろいろと面白い事が出てくるんですね。例えば、ここの海岸にはゴミが一杯流れてくるんです。以前は皆でそのゴミを集めて焼いてたんです。汚いから。でもよく見るととてもおもしろいのが混じっているんですよね。見つけるたびになんやこれ、なんやこれっていうてたんですね。それで、面白いものを集めて漂流物展というのをやり始めました。燃やしたらゴミ、並べれば博物館になります。
 これももう十年以上続いています。その町の職員がですね、いつも朝、自分で海岸に行ってゴミ(漂流物)を拾うてるうちに、いつの間にか漂流物博士になっちゃったんです。もう十なん年も拾い続けてますからね。それで、去年ですね、ついに日本漂流物学会というのを立ち上げてしまいました。インターネットなんかも活用しています。
 例えば仙台あたりからですね、この漂流物なんやろういうことになると、なんとかの骨やでとか、学術的にはどうとか、いろいろとあるんです。面白いのは、福島あたりにね、瀬戸内海の漂流物があったりするんですよ。漂着物に興味がある人は、日本漂流物学会のホームページ開いてみてください。なんかいろいろな事やってますわ。
 また、さっき鈴木さんが言われましたけど、海岸の砂地でラッキョウ畑がありまして、ラッキョウの花が秋の11月頃に咲きまして、これがむちゃくちゃきれいなんですよ。普通の花見は上見ますけども、ラッキョウの場合は下見るんですけどね。これを「ラッキョウの花見」とただ言うだけで、本当にラッキョウの花見になってしまうんですね。
 昨日、熊本の美味しいラッキョウを食いましたけど、あのラッキョウを今までのものと思わずに、「あ、綺麗な花や、ラベンダーの花かもしれん」と思うか思わんかの話であって、思うたらもう「ラッキョウの花見」なんですよ。だからこの小さなコースターみたいので、「ラッキョウの花見」という小物を作るだけでそれなりの企画アイディアになってしまいますよね。こういうのは、他にも一杯ありますね。
 だからこいうのはですね、言い方の問題でして、僕は最初Tシャツを吊るさせてと言ったんやけど、その町の役場の方が言うには「町長のとこに行って説明してもらわないかん、僕らがTシャツ吊るさせてって言われへん」ということなので、僕も町長室に行ったわけです。それで、町長室で町長さんを前にして「すみませんあのちょっとTシャツをひらひらさせてもらえませんか」というてもあかんから、そこで僕は脂汗をかいて、とっさに「鯨が作品じゃないですか。そして、砂浜美術館は頭の中にできる巨大な美術館ですよ」「この町全体もみたいな大きな博物館なんですよ」と言ったんです。
 それは、頭の中に作るだけです。そしたら作品は何でしょう。松原が作品。沖に見えてる鯨も作品。あれもこれも作品や。ラッキョも作品や。漂流物も作品ですよということになるんです。
 こういう風に、自分の考え方を持てば、思いもよらんかったものが、例えばゴミとばっかし思ってたもんが、漂流物学会にまでなってしまうんです。
 自分のものの中心を決めれば、これだけできてしまうわけですね。中心が無いのにいつもどっかに行こうとしているのが地方の村みたいに僕は思ってしまうんですが、自分としてはそんなやり方でやってきました。

鈴木; インターネットでなくて本当に現場に行ってみると何でもないところに非常に発想ができるわけです。大原の古町も一つの美術館だと言う風にも考えられるし、いろいろな方向に面白がっていくということが大切です。それから、今朝歩いた原生林にしても一つの美術館に例えてもいいですし、さまざまなことで楽しんでゆく。こういったことは、ぜひ現地に行ってもらうとより面白い話を聞くことができるかと思います。
今度は市村さんの方に移りたいと思います。市村さんの小布施町というのは、昨年も120万人くらいの人が訪れて来てるんですが、かつて十数年前はですね、一人も来ないようなところだったんですね。
でも、市村さんがおもしろいなあ、他の人もみんなとにかく面白い。つまり交流上手だっていうことで現在のようになっているんですね。このパンフレットにも交流会議と書いてありますが、なぜ交流するんだという事が非常に重要なわけですね。
例えば、我々が古町の方に歩きに行くとですね、入れるところは田中さんのところとトイレくらいしかない、後はどこも入れないという状況なんですね。それでは折角そこに訪ねにいったりした時にですね、我々とすればもう少し新しい交流があるかと思って来ているのですが、そういう状況になりにくい。
市村さんのところではですね、交流というものを、交流文化・サロン文化と呼んでいます。そのような交流というもの、そして味わい空間という、ただ食べ物があるというだけでなく、人との交流がどういう文化を作り出していくか、そして交流上手になるにはどうしていったらよいんだろう、その結果何が生まれるのか、というような事について少し話していただきたいと思います。
また、もう一つ、市村さんとこの小布施というブランドがつけば物が売れるわけなのですが、この小布施ブランドというようなローカルブランドと、全国に通じるナショナルブランドについてもお話しいただきたいと思います。

市村; 私も戦後生まれですから、決して社会の為にとかそういう事から先にやってるわけではありませんで、要するに自分にとって一番快適な環境はなんだという事から全て発想しております。
 それで、町並みと言う事でありますけれども、約20年ほど前に取組み始めたんですが、それとてですね、子供の頃まだ車があまり走ってなかった時分の町並みの方が良かったと思っています。妙な、中途半端な近代化で味気なくなってしまったなと思うんです。
 それじゃどうしようかと思い、色々なところを見て回りました。でも、小布施という町は、例えば昨日の古町のようにかなり古いものが残っているという所では無かったわけですね。ですから、頭の薄い方の残った髪の毛を愛おしむようにですね、そういったものを大事にしていこうという事になりました。
 それと、町並みといっても日本の場合には、古い町並みも新しいビル街もですね、考えてみるとみんな通りに張りついたような建て方にしてあり、広場とかが著しく少ないんです。それでも昔は道路が広くなったり細くなったりした部分があって、道路の幅が広いところが西洋の町でいう広場的な役割をしてたんじゃないかと思うんです。
 こういった道路が昭和30年以降、町の中を走っているものもそうでないものもみんな同じ幅になってしまったりしている。それで皆がたまる場所が外になくなってしまったのです。
 それじゃあ、ということで先程お話した町並みなどを大事にするだけでなくて、今申し上げた考えも全部合わせてやっていこうと思ったのです。
 例えば、全部建物を通りに張りつけるのではなくて、我々は「内懐」(うちふところ)と言っていますけれども、ちょっと外側の通りから内側に入りこむような場所を、誰の所有とか誰のお金でやるとか考える前にですね、そういう空間というものが欲しいと思ったんです。
 そういう意味では、その都市の計画或いは、都市の建築のあり方からいえば、むしろ日本的ではないんですね。西洋的な都市計画を思いきって取り入れたということになります。
 しかし、建物はですね、古いものを大切にするし、新しく作るものも古いものと調和したものにしてゆくということをやろうとしたのです。此れを名づけると「小布施の町並み修景事業」というようなことになりますね。そして現在もそれを続けてやっているという事だと思います。
 その動機は何かといったら、やっぱりそういう場所、建物、景観が綺麗ならば我々自身、元気が出るんじゃないかということでしょうね。建物の持つ大きな役割の一つはですね、そこに住んでる人も、そこを通る人も、皆元気にする事であるはずだと思います。
 そういう考えの元に、ハード面の整備をやりました。では、建物だけ美しければ良いのかと言うと、やっぱり食べ物も美味くなきゃまずいやなあという事で、美味いものを出来るだけ食べるようにするし、又、美味いものを提供していくにはどうしたらいいかというような、結果的にはレストランとかそう言ったものになるんですけれども、そいうものを一生懸命頑張って創り出していったんです。
 食べる事が満たされつつあると、今度はそれだけじゃおもしろくないようなあと思い出しました。刺激が入ってこないと全然おもしろくないということです。それで、刺激って何だろうといったら、結局、人が運んでくるものだろうなというところに行き着きました。テレビや活字はそれはそれで貴重なものですが、しかしもう一つ距離感がある。
 同じ事でも活字や電波で伝わるよりも、直接会って話しをするという凄さというようなものを、出来るだけ多く自分たちのところに入ってくるうにするにはどうしたらいいかと考えたんです。そう考えてゆくとですね、観光客が何万人来たとか、いくら売上があったとか、そういう数を追って行くとどうしても貧しくなって、質の低いものになっていってしまう。
 ところが、行政とか企業経営と言うのは大体数字を追うんですね。自分が企業経営をしていて変なんですが、従業員がそう言った事を言うもんですから、いやいやそれだけでは我々の刺激にならないんだよという話をしたりしました。それで遂に私は、社内では数字の嫌いな社長という事になってしまったんです。実は嫌いじゃなくてですね、数字というのは非常に後の部分(過去)の事であり、実際に現在起きている事に比べると数年遅れの話ですから、数字に頼ったら危険だよという意味なんですけれども。
 お話できる時間が短いので、抽象的に言いましたけれども、そういうような事をやってきたわけですね。これらは商売を通じながらでもあるし、町づくり会社を通じながらでもあります。

鈴木; 本当は時間があれば町づくり会社と言う事についても少し話をして頂きたいんです。ちょっと紹介しますと、「アラ小布施」という小布施風、小布施流の町づくり会社をつくってですね、そこでおもてなしをしながら町の案内をしたり、全国で初めてオープンガーデニングという形でどの家庭も景観を美しくしていこうという、観光地づくりではなく自分たちの生活文化や暮らしをつくって行こうという活動もされています。
 全国で初めて私の所はオープンにしていますよという形でガーデニングの庭を見てもらおうという事を観光地でもない普通のところで行っています。それは50いくつかあります。
 私も歩いてみましたけど、歩いているだけで色んな人に会ったりして楽しいし、そこに寝たきりの方とかいらっしゃって「何処からきたの?」なんて会話もできたりして、福祉にも役立っている、そんな事も景観の中に入っていたりするわけですね。またその辺りも話してもらいたいと思います。
 もう一つだけ市村さんに、「産地から王国」という話を聞きたいですね。この岡山県もクルタニとかいろいろなおいしい産物が採れるわけなんですが、単なる産地というものと王国との違いという事を少し話していただけたらと思います。

市村; 新聞・テレビの用語で言えば何でもいいんですが、生産物が多いと、例えば葡萄が多いと葡萄王国とか言いますね。しかしあれは王国と言うべきではないと思うんです。ただ単に産地に過ぎなくて、その産物の生産が数量的に多いというだけじゃないかというようなことですね。
 では、本当に豊かに何かを作ってそれを暮らしに豊かに活かすってどういう事だろうということを色々考えました。それで過去の事などを考えておりましたら、ぱっと気付いた事があるんです。
 それは、大正か昭和前期くらいまでは全国どこもそうだったと思うんですが、例えば大根を例にしますと、おろしに使うおろしだいこん、それから煮物に使う大根、あるいはタクアンに使われる大根、それぞれがその地域の中でタクアン用にはあれ、おろしにはこっちというように種類がいろいろありそれぞれいろいろ作っていたわけなんですね。
 それに比べて戦後、特にスーパーの売り場を考えますと、我々は売場面積に騙されちゃうんですが、そこで綺麗に洗ってある大根を買うのは豊かだと思い込んでいたのですが、そこには1種類の大根しか売られておらず、それだけで全ての料理を賄うような事をやっているわけなんです。
 これは大根だけに限らず、あらゆる産物がそうなんです。よく考えたらこんなものは全然豊かじゃない。
 産地として豊かなのは何なのかというと、我々信州でしたらりんごがありますが、我々が子供だった頃はちょっと考えても5種類や10種類はあったということだと思うんです。今は殆ど津軽とか富士だとか数種類に限られてしまいましたが。それもりんごは生で食べる事を想定して作られ、そっちへ走って行っちゃってます。
 ところが、りんごと言うのは菓子にも使えば、料理にも使えます。ジュースにしたって1種類のりんごだけを使うよりも2種類3種類のりんごを混ぜて作ったりすると非常にうまいものが出来るわけなんですね。ところが大根と同じで、一定面積に沢山できて、一般的に好まれる物に集中していってしまう。
 考えてみたら、全ての食物がそうなっちゃったなあということに気が付きました。これはなんとかしなければあかんと思ったのです。生産者に色々聞いてみると、「いやいや我々生産者も色々勉強しています」と言っていました。確かに生産技術の事については勉強していました。それでは「消費に関しての情報はもっていますか?」というと大抵は持っているというんですが、よく聞いてみると、それはただどうすれば市場で受けがいいかというようなことだけなんですね。
 そんなものは、消費情報でもなんも無くて流通情報なんですね。では、本当の消費情報はどうして掴んでないかと聞いたら、「我々は作るだけだから」というんですね。そういうことを考えますと、単に物を沢山作って全国のシェアがトップなんていうことは、ひょっとして19世紀の植民地政策と同じ事をしてるんじゃないかと思えてきたのです。
 20世紀、21世紀の、少なくとも自分たちは先進国だと思ってるんだったら、頭使えよと思いましたね。
 それからもう一つ大事なのは、いろいろな種類の品種の特性というものをやはり生産者自身が掴まないかんなということです。「これやったら結果的に売れました」ということではなくて、「これをやればこういう楽しみがあります、こういう効用があります」というのを生産者自身が持っていなくてはいけない。その為には生産する周辺の人達に消費をしてもらうということが大事だなと思うんです。
 ということはですね、中央市場でどうだこうだということからもう脱却した方がいいということです。地元マーケット、或いは自分で食べてみて自分の暮らし・地域の中から消費情報を掴む。そしてその消費情報にあった生産をやっていくということが大切だと思います。そして更に加工品がやはり欲しいねということになればまた考える。
 例えば岡山に私が来ると、マスカットだなとすぐにイメージが湧きます。生食用でも食べたいし、もしかしたらマスカットのジャムってどうなってるのかなとか、ジュースってどうなってるのかと思います。そして、そのジュースやジャムのレベルが低いとマスカット自体もあんまり大した事ないんじゃないかと思ってしまいますね。
 ところが今までの発想というのは、「いやいや、ジュースを造っているのは他業者だし、俺じゃないよ」というように、生産者がみんな俺じゃない俺じゃないって言っているんですが、消費者というのはそれらをセットにしてイメージを描くんですよね。ですから、誰の責任というわけじゃないんですよ。
 要するに全部レベルが高くなくては王国とは言えない。生産物が多品種あって、それぞれの良さを生産者自身が掴んでいる、それで加工品の質も非常に高い。そしてまた地元がそれ全体を生活に採り入れている。こういうのを本当の王国であると思うんです。
 やっぱり21世紀は王国を目指してゆかなくてはいけない。生産者も消費者も"日本人は20年、30年を使ってどういう風に生活に豊かにするか"という事を真剣にやってきたのかが問われると思います。
 車もそうですね。確かに性能が良くてそこそこ安い車も作るけれども、その車を使う事によって本当に豊かな生活というのはどういうものなのかということ、この「使う」という部分をやってこなかった。そういう意味では、日本全体が王国を目指してこなかったなという気がしてるんですね。

鈴木; もっとその辺りも話を発展させてゆきたいんですが、岡山の市長さんにですね、先ほど話に出たように、中央を狙うよりは、広域の地元であるというところについてお話しいただきたいのです。
 この地域にとって一番重要なのは実は岡山市かもしれません。その岡山市の市長さんがいらしてるわけですから、今度はここの村長さんになったつもりでこの山村が生き残って行くためには岡山市をどう"使って"いったらいいのかおききしたいと思います。
 広域の地元を使いながら、また、市村さんのおっしゃったローカルブランドという視点からも、この地域が岡山を上手く利用しながら行きぬく方法があるのならそれもいいと思います。
 そのために岡山の市長さんになっていただいた?いうことで。いかがでしょうか?

萩原; 当たり前の事ばかりおっしゃるんでおもしろくないなと思っていたんですが。

鈴木; そうですか。それでは、面白く展開していただければ。

萩原; さきほどの市村さんの話なんかは聞いてて面白いなあなんて気がしましたね。バラバラ話しますけども、行政が企業と同じく数字を追うというのは実は嘘でして、行政は殆ど数字を追った事はないですね。
 まあ、予算の数字は追った事ありますが、成績の数字を追った事はないですから。ようやく行政も成績の数字を追うようになって、企業のレベルに近づいてきたかなと言う感じがしますけれども。行政は出来たらもう少し成績の数字を追うようになったら方が良いかな、とまずその事を思いましたね。
 それからさっきの物の話しというのはとても勉強になりましたね。物を持っている肉声の話しというのですが、僕らもそうは思ってるんですが、行政もその事を頭の隅じゃなくて真中に置いて事業をやってほしいです。それがさっきの岡山の話しとも恐らく最終的には絡んでくるんだと思います。
 やっぱり特色と言うか、ほんまもんでないと何事も起きないんですよ。要するに、西粟倉は西粟倉であるべきだし、東粟倉は東粟倉というのは大きな見方だけれども、岡山の人が旅行に行くという時にですね、どこでも良いというわけではなくてやっぱり西粟倉にいくには西粟倉に行く理由が必要なんですね。その何がほんまかという所がしっかりしていないと、単なる一つの山村の源流だったと言うだけになってしまう。
 今日ここにおられる方々は、みんなその源流の地域の人間なんでしょうが、それぞれの町ないし、村でそれぞれの町、村らしいことをしっかりされたんでこういう交流会議という結果になっているのだと思います。全国の山村全部がこんなわけにはいきませんね。
 全国に源流は恐らく2万か3万あるんですけれども、その中でほんの少しの人がしっかりした事をされているというのが現実なんですね。そこをこうやって集まってみると、どこでもかしこでもしっかりした源流があって、しっかりした人が頑張ってるみたいな間違ったイメージを抱かれるというのが一番よくないんですね。
 非常に頑張っておられる方々が、色々とやったおかげでその源流というのが生きて、そこにほんものの匂いがついてくるから人は行ってみようという事になるわけです。だから、岡山市から見て源流というのは実はいっぱいあるわけなんですね。
 岡山の人間が吉井川の源流の西粟倉になぜ来るかと言うと、市長が西粟倉出身だから来ている。いろいろな人がついてきて、皆「ええとこやなー」と言ってくれますけれども、こういうのは私が市長をクビになったら終わりますから。そうすると、やはり西粟倉的に良いものを造って行く必要があるのでないかなと思います。
 ところで、先ほどの市村さんの話の続きみたいな事を、バラバラっと言いますけれども、この間藤原きょうすけさんといって、人間国宝の藤原けいさんの息子さんの陶芸家の方と話しをしたところ、ヒントがずいぶんありました。
 ヒダスキというのがございますでしょ。あれは藁を使います。それで、良い藁がほしいんだよなあといったら、村長さんが藁をどさーっと持ってきてくれたそうです。それで藤原さんは何て言ったと思いますか?実は「大迷惑だ」とおっしゃったんです。藁は藁でもヒダスキ用の藁があるのを知らないで持ってきたというんですね。
 ヒダスキ用の藁というのは昔の品種で、茎の長い、倒れやすい稲を育ててそれを青田刈りするんだそうです。そのために藤原さんのところではわざわざ田んぼを買って家族で妙な時期に田植えをして、8月のある時期に皆に罵倒されながら最初の青田刈りをしていたというんですね。その青い藁を刈って使用するというのが一番ヒダスキの色に良いそうです。
 そういうことをして、つまり、彼らはものすごいコストをかけてやっているんですね。自分の時間をかけて作っているんです。本当のものというのはそういうすごい手が込んで初めて成立するそうです。逆にいうと、そういうことがわかって生産すると、そういうニーズにマッチしちゃうというところがあるんですね。
 ところで、今僕は岡山市に住んでいます。それで「鮒飯を食う会」というのを当選以来、3回程やっているわけなんですが、皆さん、鮒飯というのはご存知でしょうか?文字通り、単にご飯の上に鮒がのっているものなんですが。岡山市内の水田地帯の水の悪いとこで育った鮒を3日ほどかけて泥抜きをして使うのですが、この鮒飯を作るために1ヶ月ほど前から準備するんです。
 鮒飯だけ食わしてもしょうがないから、鮒の煮物も作るんですが、この煮物に使う鮒と鮒飯に使う鮒は違うところで採るのです。それらの鮒を何処で採るかという事、そして誰が料理するんだという事もプランニングして、全部自家製で作るんです。店でやるのではなく、一般の家でやるので全部タダなんです。もう3回目なので、3軒目になりますが、東京から来たお客さんなどもその家に招待して食べてもらうんです。
 この前は、農水省の土木担当者を招待して食べて頂いて、「このような美味しい鮒飯を食いつづけられるような水質を維持してもらうためにあなた方がいるんだ」と言ったら、ものすごくクリアに物事を判って頂くことができました。
 この鮒にしてもですね、特性をものすごく考えて、大きさや何処の川からとるのかを選んでやらないと、本当においしくならないのです。
 それから、昔あった食物の数がものすごく減ってますね。これをまた元に戻すというのもとても良いことなのではないかなと思います。
 先ほどにも似たような話がありましたが、果物が非常に減りましたね。僕が小さい頃の事を思い出すと、ウズラ、ホンメ、グイミ(グンミ)、ナツメなど、こういうものは何処にでもあったわけです。これは実に自然食だったんですね。これらにはだれも売るために肥料あげたり、農薬かけたりなんてしないわけですから、こういうものは成り立ちからして自然食なんですね。今となってはこう言うものは非常に大切なんです。
 フキだってそうですよね。フキだって蕨だって、だれも肥料あげたり農薬まいたりしませんよね。これが究極のオーガニック、完全な無農薬と言えると思います。でも注意しなくてはいけないのは、これを養殖しろなんていいません。ただ言いたいのは、そういう場所が潰されているのを元に戻すと言う事をしたらどうですかと言う事です。
 フキが出来るような状況を保ってやれば、放っておいてもフキは勝手に出来るわけですから。あれは非常にしつこい連中ですからね。今まで我々はフキなどが生育出来ないような状況を作ってしまっていたから難しい事がおきてしまったんです。放っておいても育つような状況に戻してあげれば、フキは生えたい時に生えるわけです。
 それから同じようなものとして、山芋も随分減りましたね。皆さんが山芋として食べているのは98%以上は山芋という長芋なのです。みんな忘れてしまっている。ああいうものがしっかり存在するようになるかならないのかは山の問題なんです。山がしっかりしていれば山芋も勝手に生えてきます。そいうものが感動の原点なんだと思います。
 でも、そういうものを売り物にしようとするのではなく、食べたい人が採りに来たら食べさせてやると言うスタンスでいいんですよ。岡山市でも例えばサワラでは、柿の収穫前には「柿見会」というのをやるんですが、柿がそろそろ収穫という時期になったら柿の木の下に座って酒だけ飲むんですね、良い柿がなってますねって言いながら酒を飲むんです。そこへ皆が来て、柿の木を見て楽しんで上手いものを食って、飲んで帰っていく。それだけで楽しんですよ。これを銭にしようとすると、農薬をかけたりいろいろしてしまいますから。却って銭にしまいとすると逆に銭に近づく様な気がしますね。こう言う事を楽しんで、是非やってしまったらどうかと思います。暇な人は一杯いますから。
 今、面白い事にホームセンターが非常に流行っていると言うんですね。なぜかというと、最近失業者が増えていますが、そういう人たちが失業したら何をするかというと大体土いじりなんだそうです。それでホームセンターが繁盛しているっていうんですよね。
 そういう暇な時間というのを、なんか自然につながるとか後世につながるとか、そういうちょっとした楽しみに変えて行くと良いのではないかなと思いますし、そういう事を行政でも多少貢献出来たらなと思いますし、それが岡山から見た姿として、西粟倉と東粟倉から期待されている事じゃないかなと思います。

鈴木; 小さな地域が行きぬいていくって時に、大きな都市が出来ない事を一つづついろいろな意見を聞いて参考にしていったらいいと思います。今回の会議を広域で取組むという事で、村長さんにいろいろおききしたところ、三つの町村でこういう取組みをあまりした事がないとおっしゃっていたのです。
 市町村合併などの問題に、広域で取組む事の大切さや、おもしろさとか、今回の話を聞いてこんな発見をして、それを住民の人と一緒に考えてみて色んな経験の中からこんな論議をしたらおもしろいだろうなというようなテーマがあれば、道上さん、是非、お話し下さい。

道上; 私、今回の会議に非常に感動していますのは、今日で2日目ということなんです。昨日、参加者の方々は1時くらいから6時くらいまで延々と話を聞いたというのに、今日またあまり減らずに皆さんの真剣なまなざしがあるという事が非常に素晴らしいと思いました。
 このきっかけは、山本さんから持ち掛けていただいたんですね。どうも私は、こういう村長という立場は2年半だけなものですから、非常に好奇心が強くてですね、ぜひ山梨に行ってみようと言う事になり、そこで鈴木さんにお会いしたんです。
 それで、鈴木さんの紹介で、五ヶ瀬がいい、小布施がいい、標茶がいいとかいう話をどんどんされるものですから、大抵のところにばたばたっと歩いてみたんです。そんな中で、今も話を聞いてみたら、非常に素晴らしいと思いました。今日いよいよ本音での語りがあります。皆さんも非常に素晴らしい部分を感じて頂いたんじゃないかなと思います。今日、非常に良かったなというのが第一印象ですね。又色んな皆さんとの出会いがあって、今日参加していただいた方が何かを是非持ち帰っていただきたいと思います。
 地域社会の問題というのは話せば非常に長くなりますが、本当に大変な状況ですね。ですから、なんとかせにゃいけんなという思いを皆も持たれているからこういった参加があるということですよね。思いが無ければなにも変わりませんから、少なくても関心を持って変えようとする方がおられて、少しづつ地域が変わっていく。今の世の中の動きが非常に早いですから、勘違いする部分が多々ある。
 元々田舎なんていうのは、米作りがあって、四季があって、延々とそう言う形態をとってきたんですね。元々の米作りを通じての年間のスタイルがあるのに、世の中の動きが速くなったものですから右往左往して勘違いしてしまっているのではないかと思います。
 広域でと言う事で、西粟倉は非常に小さな村ですから、三ケ町村で取組んだ。三ケ町村寄せてみれば、それぞれ少しづつあるいいものが少しは大きくなりますね。ですから、これからは広域的な中で物を考えると言う事がとても必要になると思います。
 車社会になって非常に動きが早くなりましたので、一ケ町村だけでお客さんに繰り返し、繰り返し来ていただくというわけにはいかなくなりました。今、市長さんから話しにありましたように、吉井川、芳野川の源流と下流の立場という事です。
 従来、補助金を貰うために構造物を作ってきたという話が昨日もありましたが、元々は田舎らしさを光らせるために補助金をかけて施設を作ったのに、どうもずれていたのかなと思います。
 西粟倉のパンフレットにもありますが、「湯の里、木の村、雪の国」というテーマで何十年も来ていますが、昨日梅原さんの話しにもありましたが、水はどうなの?とか、この施設のどこに木の拘りがあるのか?ということが伝わってきませんね。
 西粟倉は、86パーセントも植林をしているので、木によって非常に恵まれていた時期がありながら、どうも東京や岡山市のモノマネをしてきてしまった。しかし、まだまだ間に合うと思います。
 岡山市より西粟倉は上下水道100パーセント完備ですから生活水準はもう充分上がってますから、この生活水準を保ちながらこの地域の生き様をしっかり掘り起こしていくと言う事が、時間はかかると思いますが近道なのかなと思います。
 いろいろな思いを持ちつづけるという事がこの会議の目的ということですし、今の世の中では、広域的に考えていくという事はどうしても大切になるかなと思います。

鈴木; まだ感動の中にいて、言葉がまとまってないところもあるんです。夕べも、住民の方30人か40人くらいに囲まれていろいろな話しをしてきたわけですが、ここでテーマにも飛躍するというコトバもありますので、その可能性とか、ここのこれはいいとか、これをしてゆけば面白いのでは?とか、またはここの住民の中に感じたものや住民の方と話してみた中でそういった何かの小さな可能性など、とにかくこれは面白くなりそうだというようなきっかけやキーワードなどは、梅原さん、何かございませんか?

梅原; 今ちょっと思い出したんですけれども、上流がここで、岡山市がありますよね。都市の人が水道をひねると水が出てくる。そして、10年くらい前から環境が大切だとか皆が言い始めまして、水道から先のことについて少し考えるようになってきました。
 家庭で使う洗剤はこれがええとか。要するに、自分が排水した水が何処に行くのかな?と言う視点が多少ある時代になってきたわけですね。でも、水が水道まで来る、その元を考えた事がないですね。この水はどこからやってくるのかな?という視点です。
 昨日誰か言っていましたけれど、海の水が蒸発したりして空に雲ができ、雨が降り、山の方に水が伏流したり、森林がぐんぐん水を含んでその中から水が一滴出てくるとそれが源流となり、それがたまってきたものがどんどん流れて、岡山市の人がそれを使こうてるというわけですね。
 しかし、水を使こうてる岡山の人は源流の事はあんまわかんないですよ、まだ。しかし先程言いましたように、自分から先の事は考える時代になってきた。これからは、どうしても源流の事を考えなあかんのちゃうかな、流れとしては。
 それと、岡山市の人に山の方に来てもらうということも必要ですね。森を見てないのに、そういうこと、何も言えないですよね。
 だから、昨日のかんじきツアーじゃないですけれど、このかんじきツアーに来るということは、森を見てもらえる。実際に森の中に入るんです。それで、水がどこから沸き出てるのか、というような事も考えてもらえるようなきっかけをセットできるんちゃうかなと。市村さんも何か言いたそうな顔してますけれども、どうですか。

市村; 昨日の夜のセッションで、大原町に黒谷川という素晴らしい川があるとききました。その黒谷川を守る会というのがあるそうでして、実は昨日のパネラーの田中さんが会長なんですけれども、メンバーが一杯いらしてました。これは源流ですよという碑を去年切った丸太で最下流の吉井川の西大寺に贈られたそうなんですが、その西大寺に届けられた丸太の順に市町村をリレーして源流に運んでもらって、その碑を建てたんだそうです。

萩原; それは若干違ってましてね、最初はアサヒ川で始めたんです。アサヒ川が源流碑を作ったので、僕は生まれが吉井川の方なので建設省に頼んで、吉井川もやろうよということになり、一昨年東粟倉から始めて次は西粟倉、そして大原にという段取りで進めたんです。源流意識というのは岡山はとても強いんですね。
 ただアサヒ川は山本さんが「アサヒ川」という歌をかかれましたが、「吉井川」というのはありませんね。だから、岡山の人のアサヒ川への源流意識の方が強いんですね。でも源流といってもたくさんあるので、訪れる場合、どこに行きたくなるかと競い合いになるんですね。
 以前、岡山市と水道局は、信条村に資源林職員として派遣されたんですね。クワとかケヤキを植えるために。そうしましたら、地元ではみんな涙を流して喜んでくれたんですよ。テレビを見た小学生達は、市長さん達が僕達の将来のために木を植えてくれたんですねと言ってくれたりして、意識としては随分あったんです。だから、源流の村といってもそれぞれの村の個性というものをどんどん出していかなくてはおもしろさが無いよと言う事を言いたいと思います。

市村; 私は、岡山は進んでいるんであって、全国的には下流と源流が繋がっているんだという意識は到底ないと思うんですね。特に我々の長野県を考えてみますと、全部が源流で上流なんですよ。下流は他の県になってしまうんです。川が県をまたいじゃっているんですね。ですから余計に源流から下流が一つであるという意識がないんです。逆にいうと岡山は全部水源から下流まで県内にありますから、それぞれが関係しているんですね。これ自体は大変な商品になる可能性もあれば、大変な罪をつくる可能性も両方あると思うんですね。

萩原; 川の世界では岡山は有名なんですよ。全国の川好きによる第1回川を守る会というのは岡山市でやったんですから。岡山のように県内で川が完結しているところは少ないので、行政の意識が高いという事は間違いないです。これは建設省の人も言っていました。

市村; ついでにおききしていいですか?実は私、酒屋でして、酒三種類の内の1つは、アカイワでなくて、西大寺の備前こまちを使ってるんです。

萩原; ありがとうございます。

市村; 今はそんな事おっしゃるけど、14、5年前に買いに来たときは、逆に私らの方が是非お願いしますと頭を下げてお願いしました。あの頃は少量生産でしたから。

鈴木; いかがですか?今の可能性という事で、これはいいと良いという事が何かありませんか?秋本さんは昨夜住民の方とお話しして、ここのところはもう少しこうした方が良いんではないかと言う事はありせんか?

秋本; 私は、酒が好きなので、いろいろな飲み方や食べ方をしているんです。昨日こぶしの里に泊めていただいて、アマゴ料理をご馳走になったんですが、ここはこぶしが沢山咲くんだというので、「こぶしの花の料理はありますか?」と聞くと「そういうものはない」というんですね。実は、私もこぶしの花の料理を作ってみたことがあるんですけど、おいしいんですよ。さっとお湯をくぐらせて大体2日くらい水にさらしておきますと、歯ざわりも香りも良くて、おひたしとか三杯酢で食べますと非常においしいのです。
 私共はこぶしの花が咲く頃はわざわざその花を採りに行くんですけども、折角このこぶしの里にこぶしがあるんなら、こぶしの花料理を名物料理にされたらいいんじゃないかなと思ったところです。
 イワナ酒も面白いです。焼酎の超熱燗の入った土鍋の中に活きたイワナを腹だけ出して放りこむのです。焼酎の中であばれますがやがて身がはじけて白っぽいエキスがでてきます。これを竹のひしゃくなんかですくって飲むと美味しいのです。そして悪酔いしません。
 それと、ブナ林だと天然のミツバチがいますよね。このミツバチですごく美味しい飲み方を見つけたんです。天然のミツバチというのは巣を縦にカーテンのようにかけて、その両側に巣穴が開いていてそこに蜜をためてるんですが、普通、蜂蜜というのは遠心分離機にかけてその中の蜜だけを取り出すんです。しかし、実はその巣自体を食べるのが非常においしいんです。
 もちろんそのままでは食べられませんよ。まず焼酎に巣ごと入れて、温度を90度近くまで上げちゃうんです。そうすると、はちの巣が全部溶けちゃって、元の木の皮とかカスだけが浮いてくるので、それらを取り除いて飲むんです。これがとてもおいしいんですよ。しかも、それを飲んだ明くる日は顔がツルツルになっているんです。ロイヤルゼリーなんて比べ物にならないですね。天然のミツバチを巣ごと手に入れたら、蜂蜜だけ飲むなんて非常にもったいない。その巣がおいしいし、健康にいい。そういったいろいろなことを考えてやってみたら面白いと思います。

鈴木; こぶしの花のエキスをステーキに入れたり、シャーベットにしてみたりと、秋本さんの所ではこぶし料理がいろいろ出るんです。この辺は、是非秋本さんの所に行って食べてみるといいですね。他にもヤマメのスープが出たりと、料理が違うんですね。最初のこぶしの花の先端を採るのは非常に大変なんだそうですよ。木がしなったりして。でも、こぶしの花をこういう風に料理出来るという事は、こぶしの里の方々には幾つかヒントがあるんじゃないかと思いますね。

萩原; こぶしの料理はいくらくらいするんですか?ハウマッチ?

秋本; 原料はただでございますから適当な値段で結構。最初はこぶしの花を普通の状態で食べてみたんですけれども、これはおいしくないなということになり、水晒しのままほったらかしておいたのです。それで翌日食べてみたらこれがおいしかったんですよ。これはいけると。蜂の巣を入れて飲むのもですね、蜂蜜を焼酎に入れて飲むということはよくやる事ですが、巣を貰ったときにそれをそのまま焼酎に入れてみても溶けなかったんです。それで電子レンジに入れてチンしてみたら溶けちゃってるんですよ。これはいいかもしれんと思いました。それで、土鍋に入れてちょっと演出しながらやるとこれがとてもいいんですね。

鈴木; 梅原さんは何かありませんか?

梅原; この町がどうしたらいいかいうことですか?それとも何かアイディアないか、ということですか?

鈴木; そうです、そうです。

梅原; うーん。

萩原; 今、大きなうねりになっているのが、農業用水の自然回復問題です。塹壕をコンクリートにしてしまったので、浄化されなくて水質がすごく悪くなってしまってるんです。
 岡山市で問題になっているのは、水源付近に日本では岡山県南部、朝鮮半島の一部にしか住んでいないという絶滅危惧種があって、岡山県でそれがだめになると世界的に大変なんです。目立たない魚ですが、すごく貴重な種がいるんです。それを守るためには、水路の作り方を考えなきゃいかんですよね。ずいぶん研究したのですが、要は昔に戻せば良いというだけの事なのです。
 それで、コンクリートではなく丸太を使うという手があるんです。今度やるのですが、これは山の世界と非常に密接に関係していまして、農業土木をやっている人からすると非常に困った問題もあるそうです。この丸太の耐用年数が10年しかないとおっしゃるんです。価格は現状のものの30分の1なものですから、恐らく全く問題無いと思うんですが。
 そういうことで、もう少し自然保護的な水路補修と言う事を考えると、山の世界と町の世界、そして田んぼの世界が非常にきれいに結びついていくようになると思います。こういう運動をやってきました。しかし、岡山市の丸太採りの登録業者がたった1社しかないんです。西粟倉村森林組合の登録しかなかったものですから、当面そこから全部そこから買いますが、だんだん広げていけば、いい商売になると思います。

市村; 昨夜のセッションでも景観の方からもそういう話が出たんですよ。やっぱり自然素材というのはなじみがいいんですね。これまではちょっとした部分でもコンクリートを使い過ぎましたね。これからは丸太などの自然素材でいくべきです。
 その丸太も輸送コストをかけないように岡山県内くらいで供給が行き渡るというのが理想ですよね。この辺で必要なのはこの辺の山で採るということにして、隣の旭川水系は旭川水系の山の丸太を使うというようにしてゆけば素晴らしいと思います。

鈴木; どうですか、他に何かありますか?

道上; 今、河川の水質や丸太の話があったのですが、もう戦後50年少々経過したという事になります。この20〜30年くらいで河川が非常に傷んでしまったと思うんですね。我々は今、源流の流れをなんとなく見ています。地域の住民でありながら源流の誇りも自慢も特に感じないでなんとなく見ていますね。
 都会の方は西粟倉のあたりはみな清流だと言ってくれるんですが、川と共に育った私からしてみると、今の川はもう相当崩壊してしまっているんですね。もうほとんど放流する魚しかいなくなってしまったのが現状です。私は非常に危機感を持っています。
 それを元に戻すというのは、山林、間伐、植林、農薬の問題など、色々我々の生活自体を考え、地域に拘りを持てるようなことが必要です。時間はかかると思いますが、そういう事にしっかりと目標設定をして行くというのが我々の地域の役割分担という事になるでしょう。決して岡山市のマネはしまいという事につきるんじゃないかなと思います。

鈴木; 自然素材によって川を修復して美しさを取り戻したという事例でもなみ川という河川があるんです。そこは、本当の天然素材を使って復活させたんです。そういう風景を作っているときに、昨日の水の問題にしても先ほどの色々な話しにしても、地域のものを活かしていくという事をあまりしていなかったという事に気付いたんですね。それも景観に使っていなかった。
 商品開発もあまり地域にあるものを活用していなかった。梅原さんが手掛けられている四万十川で、その地域にある木板一枚にヒノキの香りをつけて「四万十のヒノキ風呂」といって1億円位収益を得られたという事例があるんです。
 そのように、地域にある自然素材、天然素材を活用して商品開発をする際の考え方には、一体何が大切なのでしょうか。先ほど梅原さんがおっしゃった、コミュニケーションの速度を早くするという事にも関係するかと思いますが、一体、皆さんが自分のところにあるものを活かしていくというとき、特に商品開発という点では何が大切なのでしょうか?

梅原; 四万十川の仕事をしてくれということで、第3セクターが設立されたときにそこに行ったんです。その3セクというのは、四万十川流域の3か町村で作った会社です。株式会社四万十ドラマという会社でした。そこは、ほとんどそのあたりの産物を売るためにつくった会社です。
 それで、まず基本は農産物だと思ったんですが、四万十川流域には平地がないのでそれらはみんな農薬漬けなんですよね。それらは全て四万十川に流れていってしまいます。生産者は自分の作物はより多く収穫して収入にしたいから、ほとんどオーガニックなんて関係ないですね。皆さんが四万十川最後の清流と言っているだけで、そこの周辺の農業は農薬漬けなんですね。
 そうすると、売るときに「四万十川から来ました農薬漬けの野菜です」と言ったって、まず売れませんよね。それでちょっと考えまして、山の方を見たらヒノキがあったんです。これは農薬漬けではありません。でも地元では皆これも売れへん売れへん言うてるんですね。四万十ヒノキという名前がついているんですが、それは白っぽくなくて、ちょっとピンク色をしていて建材に使えます。これもあかんと言うてました。
 川をみれば、放流ものの魚も多いですが、天然のもいます。実は僕、ここの流域に住んでいて、自分で網投げてアユを取っていた人間なんです。そういう目で周りを見ると、アユは流通していますがそのアユも農業で言えば農薬漬けの作物のように僕からは見えてしまいます。
 それから、下水の事も家の排水も浄化槽が無くそのまま川に流しています。それでもなぜ川の自然が残ったかというと、ただ人があまり住んでいなかったというだけなんです。それと、川との関わりをもって生活が出来ていたということもあると思います
 。僕がそこに住んでいたときに、まだアユを採るだけで生活している川漁師のおじさんがいましたから。川漁師が三人はいましたね。そういう川です。その時、僕は売るものは何もないじゃないかと思ったんです。だから、売るものは自分で作らなきゃいけないと思ったんです。しかもこれは自然のものに近いもの、ネイチャーのもの、オーガニックなものでないといけない。何があるんやと考えました。
 農産物は農薬を使うとすぐ商品にならなくなるから、その時、山に生えてるヒノキを見て"ヒノキ風呂"と思ったんです。ヒノキ風呂っていってもほんまもののヒノキ桶とちゃいますよ。その時に思ったのが、都会でマンションに住んでる人、それからビジネスホテルに行った時なんかは、ユニットバスに入るじゃないですか。こんなものだと、もう、僕なんか肩までつからないんですわ。でも、こういう風呂にでもポンと一枚のヒノキの板を浮かべたらヒノキのお風呂になってしまう。匂いがですよ。そういう考えで、10センチ四方の板に「四万十のヒノキ風呂」という焼印をバーンと押したんです。
 ヒノキもまた天然ヒノキのエキスを使って、その中に板を1分位浸けたものを袋に詰めて温熱密封するんです。これは、おじいさんでもおばあさんでもつくることが出来ますね。めちゃめちゃローテクですよね。何も特別な機械なんかはいらないです。焼き板と袋と感熱シールがあれば出来てしまう。
 これが市場に出回っている間に中の板がヒノキの香りをどんどんどんどん吸収するんです。それで、売る頃には匂いが程よく満遍なくなってるんです。たった10センチ四方の板を切ってちょっと工夫しただけでプーンとヒノキの香る板になってしまうんですね。それを"ヒノキ風呂"と言うたんですね。これは騙しと思いますけどね、ちゃんと問題なく世間に通ったんですね。保健所では裏の原材料とかチェックされたんですが何の問題も無かったですね。びっくりしましたけど、これがすぐに1400万円の商いになったんです。
 地元の銀行がご制約の方に粗品を進呈する時に以前はほとんど東南アジアで製作していたプラスティック製品をあげてたんですね。それが少しは考えるようになったのか、東南アジアでぽんぽん買うてきたものを高そうに見せながらお客さんにあげるよりも、三枚で600円の「四万十川のヒノキ風呂」を進呈することにしたんです。それで1400万円分持ってきてということになったんですね。
 ずばり彼達も「ご成約有難うございました」と大量生産のものを渡すのではなく、地元の物を使わなおかしいなと思い始めたんですね。実はこんなもん売れるんかいなと思ってたんですが、なにも売るものがないから自然系の香りをプーンとさせて、貴方のユニットバスもヒノキ風呂みたいなことを考えたんです。それがうまくいくんですね。
 僕の戦略は、その商品は世の中に出すな、店に置くな、隠しとけ、というやり方で、例えば営業に日本生命へ行ったら、こんなもん貴方のところにしかないですよって言いながら、真中のヒノキ風呂のところに日本生命と焼印を押したったらいいじゃないかと言ってたんです。焼き板作ってオリジナルですってね。
 また、電気温水器を契約された方にはぽんとついてくる、なんてそういう風に展開していったら、3年後に聞いたらびっくりしました。一億売れましたって言うんですよね。えー、あれが一億円?デザイン10万円だったのになあって思いましたね。ロイヤリティーくれって言うたけどもう遅かったですわ。役員に諮らなあかんからあきまへん言うて。
 まあ、こういう風に僕が知恵使ってやるというのはそう言う事なわけです。木を見て、板に判を押して、匂い入れてポーンと売って。そういったものって、四万十川に思いがあるから出てくるわけです。本当に何とかしたいと思うからアイディアが出てくるわけです。
 さっきからこの村なんとかしてくれといわれてんやけど、何も出てきへんということはこの村なんとかしたいと思うてない、少なくともまだ思うてへんと言う事になりますね。
 どういうことかというと、この村にもいくつか志というものが見えるのだけれど、例えば最初来たときに立ち寄った道の駅の建物を見たんですが、あれはなんか違うなと思うんですよ。もうどこかで見た事のあるものですよ。千葉県でも静岡県でもあんなもん見てますもん。ああいうのを見ると、ここの人はそういう事考えていない、ああもうどうでもいいんだろうなって思うてしまうんですよね。
 熊本の小国町に行ったら、小国は杉の林の村ですから小国ドームという体育館には木が一生懸命使われてるんですよ。それもセンスが悪いんじゃないんですよ。自分たちのイメージを伝えてくれる設計家は誰やということを考えて、また、全部木で作るわけにはいきませんのでそういうこともいろいろと設定してやっているんです。
 かといって、町の建物全部に対してではなく、それぞれの建築について誰の設計が一番ええかということまで設定して、全て一緒というわけではないんです。公共物はたくさんありますから。この時にはこの建築家というように自分たちで作りたいもののプロセスも自分たちでセットしてお願いする。
 でも「先生お願いします」と言うてしまったらもう物言えませんよ。先生いうのが間違いですよ、建築家に。「自分たちのこれ、こういう風に作ってくれ」と言うのがプロセスですよ。そういう意味でいえば、何がどういうバランスでセットしていくのかというのもセンスだと思うんです。モノをつくる。そういうプロセスを大事にしているのかなという事も含めて、この村ではそんなものあんまり感じないから、今からぼちぼち考えたらどうなんやということですね。
 僕は正直に言うてしまってまた嫌われるかな、と思いますけども、これが本当の所です。

鈴木; どうですか、会場の方でですね、実は自分はこの土地にこういうものがあるからこういうことをちょっと聞いてみたいということはありませんか?どうでしょうか?

住民; 実は先ほどの話のように、如何に源流の河川を守るかと言う事が我々の使命だと思うんです。東粟倉では昭和38年のギリニ災害をきっかけに碁盤ブロックを使って整備してしまい、川にも入れない状態であるうえ、生活廃水が流れ出ていて、我々が子供の時に遊んだ川からすると非常に荒廃した状況であると思います。葦が繁茂し、魚も取れない現状であります。
 そういう中で、吉井川を守る会に私も参加し、葦を刈り、ゴミを拾ったりしています。それでいかに良い水を下流に流すかと言う事が我々の使命と考えております。そのような事から、とりわけ岡山県の方からふれあいの水辺作りという事業を受けました。天然材を使い、何処からでも入れる水辺作りに向けて何かアドバイスが頂けたらと思います。

鈴木; 他にもいらっしゃれば是非発言して頂きたいと思います。後でゲストの方にお話していただきますので。

住民; 私は歴史が好きで武蔵の里に来るのに楽しみにしていたんですが、いわゆるハコモノ行政的なものが多くあって非常にがっかり致しました。例えば小布施と言う町は、歴史背景が上手く溶け合っているんですね。
 ここは源流の村ということで自然の事の話が結構多くてですね、「愚者は経験に学び、智者は歴史に学ぶ」という格言もありますし、村としての特徴を出すためにももっと歴史背景を大切にしてほしいなと思いました。

住民; ガードレールを材木で作るとか、更に電線を地に潜らせるというのも夢としてあります。

住民; 自分のところの川はきれいになったが大事なものが無くなると言う事がありますので、もう少し木目細かな事があればいいなと思います。大きな猫柳があって切らないで欲しいとお願いしたのに、結局綺麗に切られてしまっていて、あの花を咲くのを楽しみにしていたおばあさんがいたのになと残念に思ったことがあります。

住民; 実は、人が見えないんですね、この村は。33パーセント以上が高齢者であって、こういう中で人はどう生きるかという部分をお聞きしたいと思います。

鈴木; それでは時間があまりありませんので、これまでの質問に答えられるものがあったらゲストの方に答えていただいて、その他にこれだけは伝えておきたいという事がありましたら秋本さんの方から順番にお願いしたいと思います。

秋本; 昨日の横市さんのこれからの農業の有り方という話の中で、消費者の農業や都市住民の避難の話があったんです。私はもうひとつ、農山村の役割、都市住民に対する役割というものがあると思うんです。
 これも最初に話しましたヤマメから学んだ続きなのですが、陸封されてから大体7500年くらい前から過酷な条件の中で生きてくる為にはものすごい警戒心だとか、天気を読む力であるとか、たくましい野性的な生命力があるわけですね。
 しかし、人間が養殖をすることによってそういったものがだんだん無くなっていって、自分で産卵する事も出来なくてなってしまったのです。人間が卵を取り出してしまうからですね。「えっ、こんな魚になったの?」というような思いがするわけです。野性の魚と比べると。
 実は、夕べもこの地域にはオオサンショウウオがとても増えてきたという話がありました。なぜ増えてきたんですかと聞くと、一番は餌にあるんではないかと。アマゴを放流している、というんですね。昔はアマゴをオオサンショウウオが獲ろうとすると大変な事だったですね。さっと逃げられてしまう。ところが、養殖アマゴは警戒心がなくのんびりとしているものですから、簡単にぱくっと獲れてしまう。だから餌が豊富でもりもり肥ってたくさん子孫を作り始めたので、天然記念物のオオサンショウウオが増え始めて困っているということなんです。
 人間世界もですね、まさに自然界からだんだん離れていく事によって本来の人間性を失ってくるというところがある。大都市で、例えばマンションの十何階に住む人達がですね、子供連れて公園に行ってバラの花が咲いているので子供にバラの花の匂いを教えようと「バラの花だよ、匂い嗅いでごらん。良い匂いでしょう」と言う。すると子供は「はあ、トイレの匂いだね」。これでは何が本物なのかわからない。トイレの芳香剤が最初にあって、バラの匂いがそれを真似てるんだというように思う。
 まさに自然界から離れる事によって歪になってきている例です。今は地域と都市の高齢者との交流の方が多いのですが、本当は自然の事を全く知らない子供達にいろいろな事を体験させるというところに、実は農山村の大きな役割があるんじゃないかなと思います。
 究極の都市文明を作り自然界から隔離されたような所で暮らした東京生まれ東京育ちの人間が今や三割くらいになるというんですね。この先に未来はないと思うんですよ。正しい人間の遺伝子は後世に伝えられなくなってくるという事ですね。
 やはり山村で生きる人達が後世に正しい人間の遺伝子を伝えていくと思うんですね。そういう役割が山村にひとつあるという視点で都市と山村の交流を考えていくべきではないかなという気が致します。

梅原; 先ほど四万十川の農業は農薬漬けといいましたが、だんだん修正せなあかんなと思ってきました。本当に前はそうだったんですが、この2,3年ほど前から無農薬野菜というのを四万十ドラマでも作り始めてですね、スーパーの中にコーナーを設けて完全無農薬野菜を売り始めました。
 しかしこれは実は地元の人がやっているんじゃないんですね。Iターン者です。他所から来て四万十川に来て農業をやり始めた人たちです。実はまだオーガニックというのは地元の人の頭の中にないです。でもそのIターンの方がですね、関西の方から五人くらいばらばら四万十川流域に住んで「四万十川兄弟社」というのを作ってですね、そのうちの五つの農家の製品がやっと無農薬野菜といえるようになったんです。
 これはどうなんでしょう?つまり、そこに元々いる人は気付かないというか、コンプレックスがありますね、都市に対して。だから国の言う事とかそんなのばかり聞いてるんです。だから、わからないんです。林業や農業は今でもそうです。言いっぱなしのことを聞いてきたんです。
 それが「違うんじゃない?」と、最近ちょっと変わりかけてきています。つまり、僕が言いたいのは、やっぱり四万十川に住んでみたらイメージ違いましたもん。川はありのままで豊かでした。でもそこに住んでいる人たちが豊かかどうかというと、これは考えてしまうところがありました。そこに実際五年間住んで思ったんです。
 当初、僕はそこには山師には山師の生き方をしているじいさんがいると思ってました。山に行く前にうなぎの仕掛けして、帰ってみてうなぎがかかってるわ言うて、それを蒲焼にして食うて、それをつまみに酒を飲んで、というあまり社会の変わり様とは関係なしに生きてるような、そんな人がいると勝手に思い込んでました。しかし実際にはあんまりそういう人はいないです。
 だから自分のプライドを持つ。山の仕事をしてるなら山の仕事のプライドを持ってやる、海の仕事なら海の仕事のプライドを持ってやる。これが基本の生き方だと思いますけども、人がどう生きるかは僕らがサジェスチョンできません。その方だけが決められるのだと思いますよ。だからここの山の中で貴方はどういう生き方をしているんですかと逆に問いたい。貴方はプライドを持って生きてきましたかと聞きたい。以上。

市村; 先ほどの武蔵の質問がありましたが、私も同感だと思います。いくら古町の町並みが古いからと言っても、武蔵のいた時分に建物は無かったんです。しかし、あれは竹山城下ですし、竹山城下が元々サンノウサンジョウ(山王山城?)だったのでは?というような事もきっちり調べて欲しいなと思います。
 その中から武蔵の事も自ずと繋がりが出てくるんじゃないかと思いますし、武蔵のファンとしてもその辺の背景を知りたい。単に武蔵はここの神社の隣で生まれて16歳の時に峠を超えて行っちゃったというだけじゃ、淋しいものがあるんじゃないかなと思いますね。
 それで、せっかくのあれだけの体育館があるんですから、是非剣道の全国大会もやって頂きたいなと思うわけです。でも決して来年NHKが放送しているうちにというようには考えないで頂きたいと思います。

萩原; 地元の弁護というわけじゃありませんが、ここは街道の町であって人の行き来が激しかったと言う事、戦国時代に領主が激しく変わった事によって歴史の誇示性というものが低いんですね。それもまた歴史なんです。
 こんな狭い通りで、ほとんど交通しかないような地形構造をとらざるを得なくなってしまっていると言う事から、どこにでもあるような雰囲気というものは実は西粟倉にとっては歴史的所産なんですね、ある意味では。それは仕方がないんです。街道町には街道町の雰囲気を持ってしまうものです。
 しかし、それだけではおもしろくないので、西粟倉さんが街道町としての当たり前さを持つことだけでなくて、もっと広域的な視点を持つことも必要なんじゃないかなと思いました。

道上; 市長、ちょっと付け加えますと、ここは非常に利便性が高かったと言う事なんですね。だから、以外と特産物がこの地域に育っていないという事もあります。ただ、こういう会議のしかけをどうしてもしたいなと思いついたのは、地方分権とかいろいろな時代背景の中で地方が関わりを持てるかなと言う所なんです。
 昨日からのいろいろな話をお伺いしたり、原生林を歩いたりして。私も厳寒期の原生林を歩いたのは初めてでしてね、やっぱり見なおしたり感動したり、自分が自分の森に50年もいて初めて感動したというのはどうも、妙な事なんですが、それも新しい見方かなと思っています。
 地域の資源をどうやって活かして光らせて行くかという事は、現在のようなコストだけが追い求められている時代に相反するかなと思いますが、それが地域のやり方かなとしっかり確認して行きたいと思います。
 ナンバーワンからオンリーワンを目指すというのは、オンリーワンはなにも規模を拡大しなくても出来る事ですから、そういう方向性ですね。
 それから、このあたりは約2人に1人が65歳以上の方というわけですから、元気なシルバーとどのように関わりを持つかという事が重要で、昔の歴史や伝統を再度新しい地域づくりの中に組み入れて調整していかなければという思いも強く持っております。
 村としての思いが全く伝わって来ないなという事はおっしゃる通りなんですが、そういう悪いところを、少なくとも思いを持ちつづけて継続していけば、本物に繋がる。本物になれば皆さんのように、継続して行くと言う事ですから、少なくとも仕掛けをしていかなくてはいかんなという思いは強く持ちました。

鈴木; ありがとうござました。今日のセッション、昨日のセッションから我々が学んで行くというのは、やはり、その人の生き方が出ているというところからなのだと思います。それが実は、我々の心が洗われたり、目の鱗がとれたりするということなんですね。
 ですから、自分と異なる文化というものに拒否をしないで耳を傾けてみるという事が実は今回のテーマだったんじゃないかなと思います。
 自分と違う文化との交流を楽しんでいく、そしてそこで楽しんでいる人達がいる。そういう事を求めることが実は感動を求めるということなのです。だから感動を与える町に私は行きたいと思いますし、感動を与える人に会ってみたい、そして自分も出来たら感動を与えたいと思っているわけです。
 それは風景であったり、人であったり、食べ物であったりすると思います。とにかくそういういろいろなものに関してさっきの梅原さんとか秋本さんや市村さん、そして昨日からいらしているゲストの方達を失望させない、期待を裏切らないということを交流の中から生み出して行く。そのためにこういう会議があるんだと思います。
 全国遠くから来られた方、地域の方も、昨日その前の晩からお付き合いいただいた方もその中で感動があったり、目の鱗が取れたりそこで新しい発見があったりしたら幸いだと思います。
 また目の鱗が取れた途端にまた次の目の鱗が出てきて目の鱗だらけになってしまうのが我々の生活じゃないかなと思います。拙いコーディネーターでしたが、みなさん熱心に最後まで聞いていただいてどうもありがとうございました。これで終わりにしたいと思います。
[了]

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編集後記

 源流のむら会議の飛躍するセッションはどうだったでしょうか。筆者の話はしようもないですが、小布施の市村さん、四国の梅原さんなどは時々お会いしますが、凄い方です。このような人材が私たちの町にいたらなあと羨ましく思います。町づくりの大いなるヒントがあるし、わが町の課題も大きいことがおわかりだと思います。
 次回から、紙面の空いた号には今年の霧立越シンポジウムの記録を掲載予定です。

 今号には、読者の皆様へのアンケート用紙を添付しております。創刊1年目を迎え、更により良い紙面づくりに皆様のご意見をお寄せ下さい。よろしくご協力をお願いします。

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