かわら版 『風』
2001年10月15日号
第1巻 第7号 (通巻7号) 発行者 やまめの里 企画編集 秋本
治 五ケ瀬町鞍岡4615 電話0982-83-2326
9月27日
国道503号線の整備促進期成同盟会総会が諸塚村でありました。飯干峠のトンネル計画の推進かと思いましたが、計画には上がっておらず、現道の改良促進です。大会後、五ケ瀬と諸塚の議員でソフトボール大会が開催され、五ケ瀬チームが圧勝しました。その後の懇親会では、諸塚の情報をたくさん仕入れることができ有意義な1日となりました。
10月4日
九州横断自動車道延岡線建設促進地方大会が蘇陽町体育館で開催されました。横断道95kmの沿線市町村の役職全員が参加して、国土交通省九州地方整備局副局長の渡邊茂樹氏による講演の後、熊本県の潮谷義子知事のアピールに続いて国会議員江藤隆美氏等来賓の挨拶があり、御船〜矢部間の事業推進と矢部〜延岡間の早期整備計画策定を決議して閉会しました。
御船〜矢部間は、23kmで平成10年12月に施行命令が出されています。矢部〜延岡間については、平成8年12月に基本計画に編入されたのみで、これから整備計画線に格上げしてその後施行命令区間とならなければ着工できません。道路特定財源の全額確保など今の政局に大きく影響を受けています。
10月5日
西臼杵郡町村議会議員大会が日之影町で開催されました。日程は、午前中「山村定住木造住宅整備事業」を研修して崎の原ハートフル団地を見学しました。この事業は、平成6年から6ケ年かけて総工費10億円強で21棟建設されています。一戸平均27.811千円という立派な住宅です。家賃は27.500円から36.000円で全戸利用されているということです。
入居希望者が多く、町では「住宅選考委員会」を条例で定め、定住意欲のある人を選考して決定しました。10年後には払い下げるようにしているということです。わが町も大変参考になる事例でした。
午後からは、ソフトボール大会となり、高千穂議会チームが優勝しました。優勝した高千穂チームは10月11日に宮崎で開催される県町村議会議員大会のソフトボール大会に出場します。
議会便り
10月10日
第42回宮崎県町村議会議員大会が、新富町の文化会館大ホールで開催されました。大会では、・地方分権の実現、・議会の活性化、・町村財政の確立と地方交付税の安定的確保、・教育 文化の振興、・道路網の整備促進、・生活環境施設の整備促進、・農林水産業 中小企業振興対策の強化、・地方 過疎地域振興対策の強化、・国土保全 地震 災害復旧対策の強化、の決議がなされました。その他に道路特定財源制度の堅持等に関する決議案が朗読され全員拍手で特別決議がなされ、その後、政治評論家の前田一郎氏の時局講演がありました。
夜は、宮崎市で懇親会が開催され賑わいました。筆者は、「みやざきツーリズムネットワーク会」に出席のため2次会には参加できず残念でした。
みやざきツーリズムネットワークの会は、この夏に立ち上げたボランティアの団体で、県内のグリーンツーリズム等に取り組んでいる地域や施設に出かけて体験し、そのデータファイルを作成、体験のコメントを加えてインターネット上でまとめようというものです。
すでに会員は、北郷町癒しの里、山田町かかしの会、日南市のやっちみろ会、西米良村などのグループを訪ねて体験交流を深めています。これからは、みやざきツーリズム大学や会のNPO申請などをすすめていこうとしているところです。
メンバーは、元シーガイアゴルフ場支配人の室之園一三さんを事務局長に、企画担当、原田大志さん(県地域振興課)、外園高士さん(県用地対策課)。広報担当に濱川哲一さん(県観光リゾート課)、島之内諭さん(MRT報道)、川口道子さん(鉱脈社)その他、毎日新聞記者などでそれぞれ個人の立場で活動することになっています。
事務局の室之園一三さんは、大淀川の川下りを始めた活動家でその活躍が期待されています。
筆者は、前回の会の欠席裁判で会長にされてしまい戸惑っているところですが、ツーリズムはこれから従来の観光に替わる新しい産業になるものと思われますので力不足ながら頑張りたいと思っています。
10月11日
前日の議員大会に引き続き、ソフトボール大会が県運動公園で開催されました。西臼杵郡代表の高千穂議会チームは、木城町と対戦しましたが、惜しくも僅差で敗れ、初戦突破がかないませんでした。
午後から五ケ瀬の議会は全員帰路につきましたが、筆者は、ここでも単独行動をとることになりました。団体行動をと強くいわれていましたので申し訳なく思います。
スキー連盟の会長として、県民体育大会の冬季大会開催を県にお願いしてその陳情のアポイントを午後にとっていたからです。緒嶋議長にお願いして関係課に働きかけていただいたので、前向きに検討していただくことになりました。
具体的になりますといろいろと困難な問題も浮上するかと思いますが、とにかく県内44市町村からエントリーできる県主催のスキー大会になれば、スキー客も増加します。
スキー連盟としては、来年2月下旬にプレ県民体育大会を開催することとして準備を進めます。みなさんのご支援をお願いします。
秋 季 運 動 会
先月は、久しぶりの運動会に出席しました。小学校は、あいにくの雨で日程変更となり出席できませんでしたが、9月8日鞍岡保育所、16日鞍岡中学校に出席しました。先生と子供たちのはつらつとした元気な姿に接し日頃の憂さも忘れて楽しい1日でした。
保育所の運動会
雨模様のあいにくの天気となり、急きょ鞍中の体育館に会場を変更して行なわれました。床にはテープを貼りつけてトラックが描かれ、可愛い飾り付けいっぱいの会場で44名の園児たちが元気よくかけめぐりました。
保育所の運動会は、初めての出席でしたが園児たちの繰りひろげるパフォーマンスや親子の微笑ましい光景に腹を抱えて笑い転げ、久しぶりに日常のストレスを忘れた1日となりました。
ギャラリーからは、カメラやビデオ、デジカメなどの放列です。運動会も日本の経済に大きく貢献しているのでしょうか新型の高級機種がずらりと並び、父母、祖父母一家あげての大声援で賑わいました。
スタートのピストルの音にびっくりして泣き出す子、音が聞えないように耳を両手で塞いでスタートする子、あわててコースを逆走する子、リレーで遅れた子を待って仲良く走ろうとする子、コーナーの内側を直線的に近回りして追いつこうとする負けず嫌いな子、などなど。なかでもリレーで遅れた園児がリレーのバトンをコーナー先のスタート位置に投げ飛ばしておいて悠々と走る負けずぎらいさには、もう、皆んな大爆笑でした。
特に幼児にとって初めての運動会は、体育館の屋内も広大な会場に映ったことでしょう。そして、びっくりするピストルの音や走り方、お遊技、周りの声援などなど、この世に生まれ出て、はじめての体験が、次々と不思議な光景として視界から飛び込んでくるのです。強烈な刺激となって断片的な映像が脳裏に焼き付いたことでしょう。
最初は、知らない若いお母さん方が多くて戸惑いましたが、運動会は地域のコミュニティの原点だと思いました。運動会で、その微笑ましい活動を通してお互いに知り合い、理解が深まりコミュニケーションが形成されます。そして、自分たちの地域意識へと発展する。それが、よりよいコミュニティ(地域社会)となるわけです。
コミュニティは顔の見える地域を単位として構成されていきます。昔は、それがお祭りであり、今日では運動会ということでしょうか。お祭りももっと復活してよいコミュニティを醸成して欲しいですね。
中学校の運動会
久しぶりに出席した中学校の運動会では、寂しくて胸が痛む思いをしました。いえいえ、生徒たちはとても元気よくきびきびとした素晴らしい運動会でしたが、寂しいのはその人数です。なんせ、3学年で43人という寂しさです。赤団、白団に分かれると20人あまりの構成ですから、息つく暇もなく次から次へとプログラムを全員参加でこなしていかなければなりません。
広い運動場にパラパラの生徒たち。一生懸命の応援合戦も、応援を受ける側がいなくて、とても寂しく感じました。自分の出番を待つ時間が取れない。気力をため込む時間もないのです。
「小学校と合同で開催したらどうでしょうか」。校長先生に聞きましたら、中学校側としてはそうしたいのだが、小学校側は、6年生にリーダーシップを持たせたいという理由などで合同はできないというこれまでの経緯があるということでした。
合同とはいっても小学生は小学生としてプログラムを分けてリーダーシップを取らせる方法もあり、また、中学生の組織力や行動力、パフォーマンスを学ぶという長所もあります。中学生は小学生をいたわるという体験もあることでしょう。来年はもう1度小中学校のPTAで話し合いをもってみたらどうでしょうか。
風船がしぼんでいくような光景
それにしても、私たちの中学生の頃(昭和30〜33年)は、180〜200名の生徒がいました。さぼることもできましたし、運動会では自分の出番を待つ緊張感もありました。また、そういう多数の生徒がいながらその上に小中合同の大運動会がありました。
グラウンドの周囲はギッシリと人波で埋まり、入場行進は、先頭は大人の背丈からずっと後方のとても小さい小学一年生までおびただしい長い列が続いて壮観でした。
入場門は、杉の葉を埋め込んだ大きなアーチをつくりました。それはどっしりとした素晴らしい入場門でした。グランドの上には幾条もの万国旗がはためき、周囲は多くの父母に囲まれて運動会の雰囲気はいやが上にも高まりました。親も子も先生も、とてもすさまじいエネルギーに包まれていたように思います。
生徒が、ぱらぱらとしか見えない広いグランドを見つめていると、往時の運動会の情景が瞼に浮かび、比較するとこの地域が、まるで大きく膨らんだ風船がしぼんでいくような光景に見えました。
鞍岡も、かつては多くの村人が住み、多くの子供を成してそのエネルギーが田畑を耕し、森林を伐採し、植林し、牛を飼い、苦しいながらも皆んな夢と希望に満ちていたのです。その後、子供たちは就職で都市へ出て行き、或いは、進学のために都市へ出て行き、親は山林田畑を売ったりして苦心してつくった大金をせっせと都市につぎ込みました。人材や、森林資源、大金など「人、物、金」のすべてを都市へ放出し、山村のパワーが都市のパワーへと転化されたのです。
山村の葬儀に参列すると東京の、大阪の、名古屋の、福岡のというように大都市にある有名企業や団体等からの弔電やおびただしい敬供の花輪が並びます。実は、過疎山村は全国ネットになっているのです。反面、都市部の知人等の葬儀に参列すると寂しいものです。花輪も町内会か商店会くらいのものがある程度で山村のような全国ネットはありません。
このように山村では、客観的に見た時間を縮めて映像化すると、例えは良くないですが、まるで蚕が桑の葉っをバリバリと食べ尽くすような勢いで森林資源を食べつくし「人、物、金」のすべてを都市に吐き出しました。一本植えれば一万円と思ってせっせと汗水たらして植林した木も経済の国際化により、お金にはならず、農林業の衰退は、過疎化となって山村の活力が急速に失われました。
少人数で走りまわる子供たちを見て、この子供たちの何人がこの地域に残り、何人の子供を産んでくれるだろうか。またその子供の子供が何人ムラに残り何人の子供を産んでくれるだろうか。頭の中でシュミレーションしていくと、人の住まなくなった荒れ放題のムラ、蔓のからまった墓石だけがムラの痕跡を残している光景が浮かぶのです。
それでなくても、21世紀には日本の人口は7千万、今の人口の半分近くになるといわれています。そう考えると、なんともやり場のない寂しい気持ちにさせられました。
追い上げるアジア
しかし、気を取り直して考えてみました。日本は、未来永劫に今のような経済状況が続くだろうかと。
今の日本はGDP(経済成長率)指標はマイナス成長で不況の真っ只中ですが、中国をはじめとするアジアの国々のGDPは2桁台で急成長しています。
筆者は韓国でヤマメ養殖の指導をして毎年訪れていますが、ここ10年の間でも目覚しい発展をしています。
確かに三星や現代等の財閥がひっくり返るような騒ぎがあったり、外貨不足でIMFから資金の導入を受けたりで財政状況は混乱していますが、庶民の生活レベルは、非常に高くなっている。
厳しい規制を敷いていたグリーンベルト地帯もこの秋開放されます。消費産業はますます活発化するでしょう。中国も昭和50年代に訪れた時から見ますと消費生活は比較にならないほど向上しているようです。
日本の数十倍の人口を持つこうしたアジアの人々が日本のような消費生活を始めるようになったら、世界の経済構造は大きく変わるでしょう。
その間、日本はほとんど変わっていない。やがて追い越されるかも知れないのです。六百兆以上もの借金をつくった日本経済の財政が如何に大変な状況にあるかについては、財務省のホームページに、わかりやすく下記のような説明がしてあります。
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我が国財政を年収690万円の家計にたとえた場合、月収が約57万円(税収・税外収入)となり、このうち約18万円は借金の返済(国債費)に充てなければならず、また、田舎への仕送り(地方交付税)に約18万円を要するため、実際に可処分所得として使えるのは約22万円だけとなる。一方、この家計は、家計費(一般歳出)として月々約51万円を必要としており、収入でまかないきれない約30万円は、借金(公債金収入)として調達しなければならない。年々、借金は増えつづけており、その残高は約4900万円に達する状況となっている。
(家計の前提)
家計調査による平成11年全国世帯の収入の平均を年収とし、他の項目は家計収入の国の税収・税外収入に対する比率により計算したものを月単位に置き換えた。
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日本は、このような財政の悪化と共に少子化となって国力が弱まるのでいずれ円安基調となる。円安は輸出産業にはいいのですが、インフレ傾向となる。
このことから考えれば日本は、いずれ円安、インフレ誘導によらなければ再建はできないでしょう。インフレは、お金の価値が下がるのでその分、国の借金が自然に棒引きされることにもなります。
そこに中国、韓国等のアジアが力をつけてくる。広大な中国の土地は、乾燥していて木材資源に乏しい国です。かつて中国の都は日本の木材で建設されました。
こうしたことを考えると将来は日本の森林資源が脚光を浴びてくると想定できます。化石資源、鉱物資源等は消費するほど減少するが、森林資源は時間の経過とともに増大します。
100年の森へ
日本は、戦後の拡大造林政策でおびだしい植林を行いました。アジアで森林資源をため込んでいる国は日本です。将来、アジアは木材資源を日本に頼らざるを得ないでしょう。そこで日本は、今はじっくりと森林を管理育成しなければならない時代といえます。
問題は、日本の政策です。2500万ヘクタールの森林を管理している人は、高齢者の10万人弱でそれも年々減っていきます。人工林は、最後まで人の手を加え続けなければ森林は崩壊していく。人手の絶対数が足りなくなる。
戦後の拡大造林政策は、40年を伐期とする考え方です。今、宮崎は日本一の木材生産県といわれていますが、言い換えると伐期が来た森林が一番多いということです。ここに、一つの大きな政策の誤りがあります。
人工林でもっとも歴史のある林業は、吉野林業で、江戸時代から今日までしっかりした林業の基礎が築かれたわけです。それは、100年の森をつくるという理念があった。数奇屋風書院づくりなどの小径木の需要と樽をつくるための樽丸という大径木の需要があったことが原因ですが、10年置きに収穫しながら100年以上の森をつくるという考え方があった。
また、国有林の施業計画も明治時代に国有林が制定された当時は、200年の輪伐という方針でした。自然界における樹木の自然更新は、大体300年ですから、やや自然の摂理に近い考え方です。
それが、拡大造林政策では、40〜50年で全伐という考え方で植林したわけです。壮大な実験を国は山村で行ったことになります。ここに環境破壊や経済効果のマイナス要因があるといえるのではないでしょうか。
40年を周期とした全伐方式から少なくともかつての吉野林業のような100年以上の森をつくるという政策に明確に転換しなければ日本の人工林は守ることができないと思うのです。
民間の事業は、経済が伴わなければ実施できません。このため、国や県の予算で先行投資として100年の森をつくるための除間伐等を大々的に進める必要があります。40年と100年の森とでは当然施業の方法が違ってくるからです。
間伐材を是が否ともお金に替えようとするから、それが目的になるから事業がおかしくなる。間伐材はお金にならなくてもいい。土地に返すと肥料にはなります。目的は、100年の森を作ることだからです。
そうして森林資源をため込んでおけば、いずれ国は将来輸出や木材流通に税金を課して投下資本を回収することもできます。
また、高地等の人工林不適地は、失敗は失敗として認めて元の自然に返せばいいし、なにより渓畔林の修復が望まれます。自然林では、渓谷沿いにはシオジ、クルミの広葉樹が覆い茂っています。これらの樹木は、川の中まで根をのばして谷川をがっしり掴んで自然を守っていたのです。こうした渓畔林を元の姿の森に修復するだけでも土砂崩壊等の災害は減少し、自然環境が良くなります。
ちびりちびりと小出しにした森林対策より、このようなマスタープランを作成して抜本的な事業の導入をはかると、山村に大きな雇用の場が生じる。国は雇用対策として見かえりのない予算をばら撒くより、資源をため込む方策に転換したほうがよほど理にかなっていると思うのです。
町村合併は、ますます過疎地を増やし、山村集落が消えていきます。山村に森林を管理できる人がいなくなれば森林の崩壊が起ります。国有林も森林管理署が統合されて、都市部の森林管理署管轄になりました。都市部から人手のいなくなった山村にどうやって入り込んで森林管理ができるでしょうか。
山村は、今こそ後世のための地域づくりにしっかり取り組み、知恵を絞って将来の布石を打たなければならない。人々が住みたいコミュニティにするために皆んなで立ちあがらなければならない。そんな思いを感じた運動会でした。「子供たちは、まさに地域の宝だ。頑張ってくれ」と。
鞍岡の祭り
10月9日は鞍岡地区の「くんち祭」がありました。この祭は、鞍岡に伝承されている「臼太鼓踊り」と「お神楽」が奉納されるお祭りです。臼太鼓踊りは、県内各地にもありますが、鞍岡の臼太鼓踊りは他地域にない文化財としての価値の高いものを持っています。それは、山伏問答に現われています。
その昔、源の義経が頼朝の怒りをかって東(あづま)下りをした時、安宅の関で山伏の姿をして通過する場面です。歌舞伎でいえば勧進帳の場面の問答です。義経は東北k平泉(ひらいずみ)まで行った。そこを支配している羽黒山は山伏の本拠地です。九州山地の山伏が羽黒山を重視したことがわかります。
以下山伏問答を記します。
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〇=山伏A ●=山伏B。ともに白装束に錫杖を持って山伏のいでたちで問答。
○とうざい
●えいさあ
○そうれに見えし山法師は、何山法師にて候
●たあだ山法師にて候
○まこと本山の山法師ならば御身の体のいわれを御開かれ候
●体は父の体内より血を丸め母の体内に九月の宿を借り阿吽と言う二字を受け生まれ出でたるがまこと本山の山法師にて候
○まこと本山の山法師ならば御身のかぶったるトキンのいわれを御開かれ候
●トキンは峰七つ谷七つ須弥山の山を表ぜたるものにて候
○まこと本山の山法師ならば御身の肩にかけたる袈裟のいわれを御開かれ候
●袈裟はこんにち天照皇大神を表ぜたるものにて候
○まこと本山の山法師ならば御身の手についたる杖のいわれを御開かれ候
●杖はつく日の形と申す
○形とはいかに
●形とは良きところにもつき悪しきところにもつき杖はつく日のいわれをもって形とは申す
○まこと本山の山法師ならば御身の腰に下げたる貝のいわれを御開かれ候
●貝は法螺にて候
○音はいかに
●音はポーポーと聞こえ次第のものにて候
○まこと本山の山法師ならば御身の足にはいたるわらんじのいわれを御開かれ候
●わらんじは神の前でも仏の前でもこれは礼なしのものにて候
○にせではない とうざいとうざい 皆を御尋ね御開かれ候 御仲直りに遊び踊りを 一度つかまつろうやと 若い衆方を進めいで 早く急いで急いで
●さっきから心得ておる
山法師のトキンの下なる乱れ髪 いくせの身にほかまわらん
山法師の肩にかけたる八重袈裟は いくせの身にほかまわらん
山法師の腰にさげたるホラの貝 いくせの身にほかまわらん
山よしが山よしがしげみで露をうけ ミノを召されよ腰ミノを召す
○とうざい
●えいさあ
○とうざいとうざい 今日は最上吉日日がらも良し 羽黒山の山法師子供 太刀踊りを一庭つかまろうやと若い衆を勧めいで早く急いで急いで
●さっきから心得ている
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この問答の後、更に踊りが延々続きます。
こうして地域に伝承されている貴重な民俗芸能は地区民こぞって大切にしたいものです。伝統芸能には、地域住民の魂があります。
ところが、この日はとても寂しい祭りでした。役場では、五ケ瀬町の公民館長会が開催され、また、五ケ瀬町の観光協会役員会などが、召集されたのです。この祭りの大切な歴史的民俗芸能文化財公演を、年に只一回の公演を、それより優先しなければならない会とはどんな会でしょうか。
町が召集する地域の役職の人たちは、祭りでも重要な役職にあります。祭りの進行上いろんな役不足が生じたり祭囃子が無くなったりすることにもなります。
もちろん祭りに役場からの出席者は一人もありませんでした。町は、地域文化を大切にすると言いながらその姿勢を示してほしいものです。口だけは、弁舌さわやかでも行動が伴わないことほどいやなことはありません。
地域の皆さんも積極的にお祭りに参加して地域の歴史を体験し、再認識してよりよいコミュニティを築こうではありませんか。祭りはふるさとコミュニティの原点です。ユニバーサルコミュニティ(直訳すれば国際的標準の地域社会)では、地域の誇りやアイデンティティ(地域の顔や独自性)が失われます。
投書・寄稿
―自然のすばらしさを語り合いたい―
那須利泰(66歳)
鞍岡本屋敷
私は、昭和30年に東京へ出て電気関係の会社に就職、そのうち電気検定1級の免許を取得して仲間と送電線工事の会社を設立しました。資源の少ない日本が復興するためには電気エネルギーしかないと思い、日夜この方面の勉強をして全国に電気の輸送線路を建設するため飛び歩きました。
送電線の輸送線路は電気のロスを少なくするため現在は100万ボルトの輸送線路が建設されています。その電線は10導体です。こうした送電線を支える支持物は高さ200M以上300トンのものです。ちなみに五ヶ瀬の山に立っている線路は単導体(1導体)です。したがってこれらを建設することの難しさは想像に絶するものがありました。その送電線建設のために自分達が破壊した自然の膨大さに気付きましたが、もう止まる事が出来ない状態になっていました。
私は、その頃、市川にマンションを買いました。盆栽が好きでベランダを作り盛んに盆栽いじりをしていましたが、ディズニ―ランドが出来て7〜8年目から盆栽が枯れ始めました。原因はディズニーランドの帰りの客が本道が込むので路地裏を自動車で駆け抜けることにより大量の排気ガスが充満したためと思われました。これと同じ現象ではないかと思うことが、五ケ瀬の山でも経験しました。
私は、ある時、ふるさとの山に帰ってきました。その時、親たちが汗水たらして植林した山が荒れているのを見て「これは自然破壊だ」と愕然としました。そこで、自然破壊をなくし本当の自然に作り変えようと会社を辞めて山にこもり、たった一人、自力で立ち木を柱にして雨露を防ぐだけの小屋を造りました。こうして平成9年から本屋敷の山中にに住んでいます。
そして小屋にこもり「本当の自然の森にするにはどうしたらいいのか」と斧やチェンソーを初めて手にしました。手探りで樹木と格闘する暮らしが始まったのです。夜が明けたら木を切りに出かけ、暗くなるまで働きます。育たない木は切って引っ張り出し、広葉樹や野草の育つ森も造ろうとしています。一時は腱鞘炎になって体が動かなくなったこともあります。
そんな時、私の山に200年以上の榧(かやの木)がまるで岩の上に置かれたように立っていました。5月の連休にはこの木の手入れをするのが楽しみで毎年帰っていましたが、突然木に勢いが無くなり市川の盆栽と同様に枝が枯れ始めたのです。
枝が枯れていく様は、まるで人間の手足が取られていくようで体験した者しかわからない切ないものです。原因がわかったのは数年してからでした。下の国道が整備されトンネルが抜けたため沢山の自動車が通り、またトンネルの中は坂道で車両の排気ガスを多量に排出する条件に合っています。岩の上できれいな空気の中で育った古木は、排気ガスに耐えることが出来なかったのでしょう。
私には先祖が残してくれた山が有りました。今まで日本復興という便利さだけを求めた人間のわがままの為に働いた私に残された事は、せめてこの山で自然のすばらしさを皆様と語り合い体力の続く限り私の理想の山造りにはげむつもりです。
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編集室から。
那須利泰様、投稿ありがとうございました。少し文章を刈り込ませていただきましたが那須さんの自然に対する洞察力とお取り組みがよく理解できて充実した紙面となりました。これからもよろしくお願いします。
(注)那須さんは、筆者も1度テレビで紹介しましたが、今や人気者で取材の申し込みも多数あります。けれども取材ぎらいであまり情報発信されていません。夏休みには、近くの子供たちを招待して薪で御飯を炊いたり、バーベキューをしたり、五右衛門風呂を沸かして入ったりして山小屋に泊まる体験などの交流もされています。最近は、パソコンを組み立ててホームページを立ち上げられました。
URLは、
http://www4.ocn.ne.jp/~tosiyasu/
です。パソコンのある方は是非HPをごらんください。
連載・まちづくり講座
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9月15日号の続きです。
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農山村地域における「中間領域」の創造(その2)
■新しい文化圏を築く「日本上流文化圏研究所」
山梨県早川町は県南西部に位置し、南北に走る南アルプスの稜線を境にして静岡県と接した山深い山村である。行政面積では県下最大ではあるが、森林地域が96%を占め、その急峻な谷間に旧6ヶ村からなる36の小さな集落が散在している。古くは縄文の生活遺構があり、その後、金山や木材の産出で栄え、近世までは焼き畑などの独自の山村文化が培われてきた。大正時代から発電所の開発が相次ぎ、人口が流入し、昭和35年にピークを迎えたが、その後、急速な過疎化が進行した。平成7年には1,977人となり、高齢化率も41%と高い。一次産業の衰退とともに、温泉を活かした観光業と建設業が主な収入源である典型的な山村地域である。
さて、日本上流文化圏構想について話を進めたい。早川町では、平成4年から第4次総合計画に取り組み、住民からなる50人審議会とボランタリー・ネットワークが一緒になり熱心に議論が行われ、平成6年、新総合計画「早川22世紀計画・日本上流文化圏構想」が策定された。
ボランタリー・ネットワークの発端は、平成3年、町に外からの風を吹き込もうと「南アルプス邑ゆうげぇし集会(結い返し)」が開かれ、全国から30人の研究者や地域づくりリーダーなどが集まり、まちづくりへの多様な提言を行った。その後、町長はこのメンバーに対して、総合計画立案のための知恵を求めた。心意気で引き受けた人たちがボランタリー・ネットワークであり、このメンバーは毎月のように早川町に集まり、助言やアイデアを提案した。週末を使って、早朝から深夜まで、国土論から文化論・文明論へと幅広く、論議は熱心に交わされた。
小さな山村が、グローバル経済の時代にあって、自らの意志で生き抜いていくためには、時間をかけた徹底した議論が必要であった。コミュニティから国は変わると信じた。町長は必ず毎回最初から最後まで熱心に議論に加わり、結果について責任を持つという町長の実行への担保が、いっそう激しい議論の場を作り出していた。そして、早川町住民にとっても、山村に暮らす価値を確認する場になっていた。こうした位置づけを得ることは重要なことだと気づいた。
総合計画「早川22世紀計画・日本上流文化圏構想」は、地域の利益をすぐに求める計画でなく、理念先行型の100年先を見た長期計画である。「上流」とは、水の源である森や川の上流を指し、上流文化圏構想は水を核とした新しい文化圏を築いていくことをねらいとした構想である。早川町は、南アルプスを源流とした清水や急峻な地形に守られた自然の資源を内包している。水文化や森文化は、縄文時代から人類を守り育ててきた文化・文明の基本であり、それを考えるには絶好の場所と位置づけた。全国各地の上流域が連帯して、中流・下流の地域とともに対等に役割を担いながら、新しい生活環境や文化を作り出すことをめざすことになった。
平成8年、日本上流文化圏研究所は日本上流文化圏構想を具現化するための中核として設立された。(註3)
早川町の上流文化圏構想は、範囲を「日本の上流圏」としている。それは、下河辺淳・日本上流文化圏研究所理事長が述べているように、「日本上流文化研究所は早川町の利益のためだけにあるわけではない。日本や世界のモデルとなる山村づくりをめざして研究することに意味がある。社会のため、人のためという前提がないと構想は実らない」ことに基づく。日本上流圏構想は人類の理想郷としての山里づくりをめざしているのである。地域に根ざして生きていくためには、誇りと自信を持つことができる自分の位置づけが必要である。
■研究所の活動
研究所の活動内容は、地元研究班による「遊び部会」(早川町に伝わる遊びを、自分たちも楽しみながら子どもたちに伝えていこうというもの)、「すばく研究会」(すばくという昭和30年代まで早川町内で広く食べられていた麦飯の復活と現代に合わせた普及の研究)、「ヤマトイワナの研究」(ヤマトイワナは古くから中部山岳地帯に陸封された魚で、地元天然資源の発掘調査の一環)、「水環境調査班」(山村の飲み水は天然水―町内の飲料水を水源ピクニックで調査)、「ビュースポット探索班」(毎日のように富士山の頂上から日の出を見ることができる景観地点の調査)、「歴史考察と古文書の研究」(早川の縄文人探しや金山の跡の調査)、「上流圏ライブラリーの整備」(早川町関連・地域づくり情報などをネットワークで収集した図書の整備)などである。
また、今まで研究員のネットワークを活かして「インド先住民族アート展とミティラー美術展」(インドから来て早川町に滞在して絵画を描き、地元住民との交流をする)、「ちょうちん展」(地域資源として、お年寄りの技の再発見)「ドギュメンタリー映画上映会」(山村や炭坑などの記録映像をとり続けている小林茂カメラマンとの交流)なども行ってきた。
そして、早稲田大学を中心とした学生研究員の地道な地域調査活動の存在は大きい。平成12年から、早川町を調査する全国の大学生に対して、3万円の調査助成金制度が創設され、筑波大学の大学院生も対象となり、地域住民と一緒になり、コミュニティから学生は人生を学んでいる。複数の大学から学生が来ると山村が学生街のようにも思えるから不思議だ。
早川町には「マンノウガン」(万能力)という言葉がある。「マンノウガン」でなければ山村では生きていけない」と年寄りは話す。「マンノウガン」は地域遺伝子のひとつであり、その力強い暮らしぶりが若い人たちを魅了する。地域にあるものを大切にし、活かしていく暮らしに感動する。生きる場面すべてを自力で作り上げていける野性的な力に惹かれるのであろう。孤独になる原因は、自然界にあるものによって生かされる自分、その実感がないと学生が気づく。
学生研究員が中心となって、早川町民全員2000人のホームページなどの作成に取り組み、地域遺伝子を収集し、編集し、デジタル化して後世に伝えようとしている。すべてが終わるには10年間かかる計算である。年寄りの知恵と学生の先端技術が結びつき、新たな山村文化を創造している。ものに溢れた贅沢な世代が、感動をデジタル化して地域のアイデンティティを再構築する楽しみを覚えつつある。そして、一人ひとりが大切にされる社会が生まれようとしている。
■全国からの参加「日本上流文化圏会議」の開催
日本上流文化圏会議の開催も研究所の大きな柱である。
楽しい思い出もあるけれど、田舎の貧しさや単調さや息苦しさから抜け出したい。誰もがそう思ったから農山村を去り、あるいは子どもはせめて高校や大学にやりたい。やむなく残っても、せめて貧しさから抜け出そうと懸命に働いてきた。農山村は都会を羨み、都会に近づこうとしてきた。しかし、貧しく不便、退屈だからふるさとを捨てる。それで良いのかという人たちが少しずつ地方に戻り、田舎をポジティブに捉えて、地域を変える試みが始まった。都会を追うのではなく、田舎として開き直って生きることの大変さと楽しさとすばらしさ、それを大きな声で宣言したのが早稲田会議であり、日本上流圏会議であった。
平成7年3月、早稲田大学で行われた集会は、全国各地で活躍されているリーダーが集まり、戦後の国土計画に深く関わってきた下河辺淳氏を囲み、「地域から国を考える」をテーマに語り合う会となった。北海道から九州まで100人近くの人が手弁当で集まり、「上流に生きる」と「上流からの国見」と題して、現場からの発言は新たな視点を発見させる。会場には全国各地から持ち寄った名物・銘酒が溢れ、交流会も盛り上がった。
早稲田会議に、当時高柳町税務課春日俊雄係長が参加し、「じょんのびのまちづくり」について語り、全国の仲間から高い評価を受けた。同年10月から、春日氏はふるさと振興課長(平成11年4月からは地域振興課長)となり、樋口昭一郎高柳町長のもとで、「じょんのび」をコンセプトにしたまちづくりに全力を注いで取り組むことになる。日本上流文化圏会議は、こうした全国のまちづくりのリーダーに対して、自律した評価を行い地域が自信を得る場となった。
8年8月、早川町で、日本上流文化圏研究所の開設記念の会議として行われた。「フォッサマグナの叫びーもうひとつのくにづくり談義」がテーマで、その手法や会議の内容が注目を浴びた。これが早川町からの情報発信の出発となり、全国規模のネットワークが築かれていくことになった。会場には手弁当で120人が集まった。下河辺淳・日本上流文化圏研究所理事長、大分県湯布院町の中谷健太郎氏、愛媛県内子町の岡田文淑氏、長野県小布施町の市村次夫氏の4人による「歴史未来談義」が行われ、10年間封印することになった。また、各地で活躍するリーダーたちによる「地域で生きる未来を展望する」と題したセッションもあり、白熱の論議がなされた。
9年10月、第1回日本上流文化圏会議が、宮崎県五ヶ瀬町で、秋本治氏らが中心となって始まった九州ブナ林文化圏構想に基づく第6回霧立越シンポジウムの一環として行われた。全国から150人の参加を得て、「全国の上流文化圏からの挑戦」「ブナ帯文化圏からのくにづくり」、下河辺淳理事長の総括「上流文化圏は何を伝えられるか」をテーマとして行われた。ブナ原生林の尾根伝いの古えの「駄賃付け」の道を歩く霧立越トレッキング「ミッドナイトウォーク」も行われ、好評を得た。その後も「霧立越」のシンポジウムは毎年開催され、その内容は全国から注目されている。
10年7月、第2回の上流文化圏会議が、北海道ニセコ町で、しりべつリバーネット(尻別川の自然を守り、楽しむことなどを目的とした流域市町村などの有志のグループ)が中心となって、「フロンティアとユーモアー北の大地で語る、次世代の地域哲学と暮らし」と題して行われた。160人の参加を得て、「地―ほのぼの大地・北の一撃」「人―21世紀のフロンティア」「天―新しい世紀に期待すること」をテーマとしてセッションが行った。しりべつリバーネットは、北の大地で住民の力を大いに示したとともに、その後もさらにヒューマンネットワークを築き、全国的な集会やシンポジウムなど、自信を持って開催している。
11年7月、第3回は、静岡県本川根町で、子どもたちの参加も得て参加者は200人となり、「1000年の学校in南アルプス」と題して、時間としての「未来の1000年」、空間としての「宇宙」に思いをはせた。「仙人の秘密」「仙人になる」「仙人の愛」をテーマに開催され、新たな山村文化の創造となった。会議後、全国規模のシンポジウム「第1回全国原生環境保全フォーラム」の開催とつながり、これを成功させた。さらに本川根町は、会議のテーマ「1000年の学校」をコンセプトにした長期計画に取り組み、コミュニティ・カレッジというシンクタンク機能も取り入れた構想づくりを進めている。
日本上流文化圏会議は、ボランタリーな精神で運営され、地域の独自の個性と食文化などのソフトを活かして開催された。NPO社会の兆しを予感させる会議は、全国に地域づくりの仲間を求める会となり、ネットワークが築かれるきっかけになっている。私はこれまでのすべての会議にプロデューサーとして携わってきたが、開催地の裏方の大変な苦労を見せていただき、感謝と感動が地域づくりの基本であると思うようになった。(註4)
■じょんのび研究センター
平成12年3月、新潟県高柳町に「じょんのび研究センター」が設立された。「じょんのび」とは、ゆったりのんびりして、芯から心地よいことである。「気持ち良い」の最上級を表すお国言葉である。理事長はまだ決まっていないのは、行政は枠組みだけは作り、内容は住民の自主性に任せているために、住民の熱気が凄く、まだまだ自分たちの思いや考え方が充分に出尽くしてはいないからである。土地柄・人柄がじょんのびなのである。
編集後記
運動会記事の一部は、毎日新聞紙上の「ピリッとからっと」覧にも掲載予定です。
今、筆者が受け持っているのは、毎日新聞の「明日のために―ピリッとからっと」(800字月1回)と、モニター原稿、MRTの「ふるさと情報ホッとライン」(月1回)などです。稿料は微々たるものですが、依頼があると断れません。頑張って続けていきたいと思います。
この私設「かわら版」は地域の皆さんへの長い手紙です。14区民の皆様を対象に配布しておりますが14区以外の方にもお送りできますのでご紹介ください。郵送料として年会費千円のご負担をお願いしています。
激励のお手紙やお電話を頂いて、とても嬉しいです。投稿も歓迎します。これからもいろいろな情報をお寄せください。お待ちしています。(治)
高柳町は、新潟県の中央に位置し、六日町と柏崎の中間の山あいにあり、西には黒姫山、東には薬師山と天王山に包まれている。町のまん中に流れる鯖石川に沿って集落が広がり、いまも昔ながらのかやぶきの民家が散在する。高柳町は東京23区の10分の1にあたる64.43平方キロメートルの面積に人口はおよそ2,600人が暮らす。
冬は3mを越す豪雪地帯。しかし、そんな雪にも住民は負けてはいない。豊かな地下水で育つコシヒカリを丹精込めて作り、雪の恵みをめいっぱい受けた野菜、ゼンマイなどの山菜、そして和紙などが自慢。畑作でのゼンマイの自然農法にチャレンジする人、他県から移住してきた画家夫婦やパン職人、豆腐職人、この町に暮らす人々は、みんな冬を楽しむ術を知り、冬の後に必ずやってくる芽吹きの季節の豊かさと喜びを知っている。
雪と上手につきあいながら自然の豊かな恵みを生かして営々と受け継がれてきた田んぼ、畑、棚田。そうした豊かな自然の中に、溶けこむように点在する、100年以上も風雪に耐えてきたかやぶき農家。ここで暮らす人は、「じょんのび じょんのび」と2回続けていい、毎日を楽しくイキイキと暮らしている。正真正銘の山間地で、「全国町村田舎度ランキング―住んでみたい田舎No.2」に選ばれている。(註5)
そんな高柳町も、かつて、昭和60年の国勢調査では人口減少率が17%、新潟県内ワースト1であった。「このままでは町がなくなってしまう」との危機感を感じ、「自分たちのことは自分たちで考えよう」と、開発協議会の活動からまちづくりが始まった。5年間で200回もの会合が持たれた。
高柳町のまちづくりを進めていく中で、「高柳町に日本上流文化圏研究所の分室はできないだろうか」という相談があった。行政だけでは、地域のテーマに根ざしたコミュニティづくりの調査や多様性への追求、さらに住民の要望にきめ細かく応えていくことができないとの話である。行政が普通の人になりたいと考えていた。
「じょんのびのまちづくり」は大量生産大量消費型の大都市ではない山里文化圏づくりであり、理念先行の地域づくりである。確固たる「理念」の掘り下げと住民の意欲に支えられた現場に即した各論の展開をしていかないと、大きな文明の浪に飲まれ、歴史の批判に耐えるまちづくりとはならないと考えたのである。知恵は現場にしかないのである。じょんのびの精神には、小さな地域社会が健全に生きていくための知恵やヒントが隠されている。
じょんのび研究センターでは、じょんのびな精神を深く掘り下げるための地域づくり講演会「源に学ぶ」「風の学校」の開催、じょんのびツーリズムの実践的研究、町立施設の経営を地域経営につなげていくための地域循環経済に関する研究、じょんのび選定図書館、今年のじょんのび人表彰制度、個性的な風景づくりに関する研究、じょんのびの食文化の研究、じょんのび生活文化の情報発信(原宿「ネスパス」)などを行う予定である。
(以下次号に続く)