かわら版 「風」
2001年8月15日号
第1巻 第3号 (通巻3号) 発行者 やまめの里 企画編集 秋本
治 五ケ瀬町鞍岡4615 電話0982-83-2326
今月のメッセージ
県北フォレストピア実行委員会総会に臨んで
2001年8月10日午後3時から、県北フォレストピア実行委員会が高千穂の自然休養村管理センターで開催された。フォレストピアとは、森を表すフォレストと楽園を表すユートピアをくっつけた造語で森林理想郷を意味する。宮崎県が昭和61年度策定した第3次宮崎県総合長期計画に政策目標として盛り込み、昭和62年に県北の日之影、高千穂、五ケ瀬、椎葉、諸塚の五町村をモデル圏域として指定。同63年に「県北フォレストピア整備基本計画」を策定して「フォレストピア宮崎構想」の具現化に向けて全庁的な取り組みが行なわれてきた。筆者も第3次宮崎県総合長期計画から審議会の専門委員として関わってきた。
その第1次の10年の長期計画が終了したので、本年度からは、新たに第2次の県北フォレストピア計画が平成13年度から17年度までの五ヵ年計画として策定され、スタートすることになったのである。
実際の計画策定は、圏域町村の企画課長や林務課長及び西臼杵支庁の総務課長、林務課長、東臼杵農林振興局の林務課長及び森林土木課長を幹事として幹事会で計画策定を行なう。
フォレストピアの事業は、「実行委員会が行なう事業」、「国や県が行なう事業」、「市町村が行なう事業」に分類され、道路拡張や学校建設、公民館の建設その他諸々の事業すべてがフォレストピア事業として扱われ補助金の傾斜配分に大きく貢献してきた。中でもフォレストピア学びの森学校は、全国で始めて取り組まれた全寮制の県立中学高校一貫教育の県立学校で林務サイドの発想を教育委員会が取り組むというフォレストピア構想の代表的な事業であった。
最初の構想は、国際森林大学という壮大なものであったが中学高校一貫教育に転化し、それでも大成功を収めた。
実行委員会では、こうした事業のうち「実行委員会が行なう事業」の収支決算や予算案等を審議するものである。実行委員会が行なう主な事業は、圏域マップや特産品紹介等の冊子の制作、フォレストプロデューサー育成事業、フォレストピア塾、イベントなどのソフト事業中心である。
実行委員は、圏域の町村長及び各団体の長など各町村から7人づつが参加して委員構成されている。筆者は宿泊業組合長という立場で委員に指名されている。したがって5町村の委員は全部で35人となり、各町村の事務方、西臼杵支庁、東臼杵農林振興局、県林務部山村対策室、森林管理署などを入れると総勢70〜80名の総会となる。
年に1度総会が開かれ収支決算や予算の審議が行なわれるが、実際は報告を聞く程度で、とりたてて審議できる状況にはなく、セレモニーのようなものである。
委員の報酬は、総会に参加した場合にのみ旅費日当が支給される。筆者の場合、報酬(日当)が7000円と旅費2240円である。往復時間を含んでも半日の会議であるから報酬としてはまあよいほうだ。
筆者は、こうした実行委員会にしろ、県のいろんな委員会にしろ出席した時は必ずおおいに発言することにしている。遠い道のりを長い時間とコストを掛けて出席し、しかも旅費日当を頂く以上発言するのは義務だと思うからである。ところがこの実行委員会で発言する人は非常に少ない。この日も県北部森林管理署長さんが高千穂森林管理事務所廃止にともなうご挨拶発言があったのみで筆者と合わせて発言者は2名のみであった。
実行委員会の事業は、前年度収入が各町村の負担金合計2287万と県補助金1628万で、支出の方は、事務局経費366万と事業費3591万円である。本年度計画では収入が各町村の負担金1395万円、県補助金0円、支出は事務局経費383万円、事業費1070万円となっている。事務局経費はほぼ横ばいで、事業費は、前年の3分の1にも満たないのである。この原因の一つに県補助金の1628万円が本年度は0となったためである。
こうした提案に対して発言がないのは一体どういうことであろうかと思うのである。活気がない。ただ、黙って座っていて報酬をもらって帰ればよいというものではない。筆者は補助金を突然0にしたことに対して県の考えをただした。県の山村対策室長の答弁はおおよそ次の通り。
「今は、大変厳しい予算の中で、特定地域のみに特別な予算の配分はできなくなった。現時点では予算が決定していないので数字を上げることができない。事業の個別対応でなんとか前年に近い補助ができるように努力したい。これからは補助金ありきからのスタートではなくて、個別の事業を吟味して成果を上げられそうなものについては補助を検討したい。概ね前年比の80%程度を目標にしている。」と。おおまかには以上のような答弁であった。
しかし、これは今日ではやむを得ないのかも知れない。これまでは、先ず県の補助金1628万円が座置きとしてあった。これをどのように使うかということで事業を組み立てていたから成果のあがらない事業が目白押しという構図になっていたのである。役所の特技は、先ず予算ありきから始まり、予算消化についてのテクニックは優れたものをもっている。しかし、それは現場論として必要に迫られたものではなく、或いは、新たな挑戦となる事業でもなく、机上論として体裁を整えるだけの成果の上がらぬ事業が多くなるのである。
これからは、まさに自治体間の競争の時代を迎えるわけだ。企画力のない自治体は埋没してしまうであろう。有能な職員のいない自治体は悲惨でもある。では、どうするか。情報を広く住民に開示して住民の知恵を発掘しなければならない。住民との共働作業が必要である。住民も自分の町は自分たちでつくろうとする意欲と勉強が必要である。そのためには役所は、情報の開示を積極的に行なわなければならないだろう。そしてかんかんがくがくと議論しなければならない。
質問その2は市町村合併問題を提起した。「山村の広域合併は過疎地の切り捨てにつながる。ただ短絡的に賛成反対だけでは地域の未来が見えない。この5町村の圏域としては合併をどう捉えているか、検討した経緯があれば開示してもらいたい。」と。
するとこの質問に応えられる担当者がいないという理由で答弁はなかったが、会長(稲葉町長)は「合併問題は、西臼杵3町で行なうということで只今3町の助役が合併推進協議会をつくり検討している」という説明があった。今度は、我が町の議会でもこの合併推進協議会の内容を追求し、情報の開示を求めることにしたい。
それにしても、たった年一回の総会である。もっと発言者は出ないのかと思う。以前は活発に議論していた。日之影町の梅戸勝恵前町長、諸塚村の甲斐重勝前村長、それに筆者の3人が必ず発言していた。今は、委員に梅戸勝恵さんも甲斐重勝さんもいない。寂しい限りである。
会が終わり懇親会の席で、ある委員は「せっかくいままでフォレストピアで5町村一緒にやってきたことは一体何だったんだろう。皆んなバラバラになってしまった。」と吐き捨てるように言った。また、合併の拠点と目される高千穂の委員は「無駄なハコものや赤字施設を目一杯しょい込んで合併といわれてもそれは困る」と吐き捨てた。
この計画が平成17年度までというのも象徴的だ。平成17年度が町村合併の時限立法の期限である。筆者もフォレストピア構想崩壊の予兆を感じた。
議会情報
今のところ議会は9月に開催されるというだけで何も情報がありません。それまでに質問事項を考えなければなりませんので目下勉強中です。
公民館長会では、議会を傍聴し易くするために、夜、議会を開催できないかと申し入れしてあるということです。議会事務局からなんらかの話しが出ると思いますのでその結果については分り次第ご報告致します。
鵜の目鷹の目
まちづくりを考える
五ケ瀬町の長期総合計を読んで
平成13年3月、「第四次 五ケ瀬町長期総合計画基本構想」が策定された。これは、平成13年度から平成22年度までの10年間にわたる五ケ瀬町のまちづくりの基本となるものだ。私達の郷土の未来を方向づける大切な計画書である。
どのような内容だろうかと思っていたところ、先日(7月30日)議会の打ち合せ会でその計画書が配布された。鞍岡の折立地区から祇園山を臨む美しい農村風景を見事に切り取った立派なカラー写真の表紙だ。四億3千万年前の地層が露出する祇園山とふるさとの農村風景は、町づくり構想のイメージを増幅させるにふさわしいものである。
構想は、序章で構想策定にあたって前提となるもの、背景となるもの、課題となるもの、関連計画との整合性などを述べ、第1章で五ケ瀬町の将来像とまちづくりの展開、第2章五ケ瀬町の将来像、第3章土地利用、第4章まちづくりの施策の大綱が記載されている。200ページを超える大作である。
読んでみると現状認識と課題についてはポイントをよく押さえてあるようだ。だが、読むうちにしだいに気になりだした。それは、まちづくりの基本を「ユニバーサルコミュニティ五ケ瀬」の実現を目指すとしている点だ。
「ユニバーサルコミュニティ」とは一体どういうことだろうか。直訳すれば「国際的な地域社会」ということだろうか。ユニバーサルは一般的には「全世界的」とか「宇宙的」「一般的」というふうに訳されている。ちなみに「ユニバーサルタイム」は世界共通の時間、すなわち「グリニッジ標準時」を表す言葉である。「ユニバーサルジョイント」はパイプの自在接ぎ手を意味する。「ユニバーサルシティ」に対しての「ユニバーサルコミュニティ」であろうか。コミュニティとは「地域社会」を表す言葉だ。非常に難解なコンセプトである。
「ユニバーサルコミュニティ」をキーボードに打ち込みインターネットで調べてみた。するとユニバーサルコミュニティがあった。それは世界中のパソコンの中古品を集めている企業の名前である。
町の住民の皆さんは、この「ユニバーサルコミュニティ」が理解できるだろうか。少なくとも私自身はまちづくりのコンセプトとしては理解できそうにない。お手上げである。住民の皆さんは「ユニバーサルコミュニティ」を地域の将来像として理解できるかどうかアンケートを実施したらどうだろう。
解ったような解らないような横文字は便利ではある。どのようにでも自由自在に意味づけできるからだ。しかし、それは本来の言葉の持つ意味やイメージとはかけ離れて造られるものだ。こじつけは、言葉の力が弱くなる。困ったものである。
もし、横文字がどうしても必要であれば、日本語も合わせて「ふるさとコミュニティ」としてはどうだろう。五ケ瀬町には「日本の心のふるさと」となるような農村の原風景や郷土芸能などの伝統文化、お盆の風習や八十八ケ所廻りのお接待に代表されるような四季折々に行なわれるくらしの作法や独特の文化と風土から産み出される特産品、そして雄大な自然がある。こういった「日本の心」ともいえるものを大切に磨いていこうとする気持ちが少なくとも「ふるさとコミュニティ」からはイメージできる。「ふるさと」に「コミュニティ」という横文字が付くことによって新しい文化を受け入れたり、創造したりする力もイメージできるのではないだろうか。
しかし、「ユニバーサルコミュニティ」は私たちの知らないところで、とはいえ、既に町で決定されたコンセプトである。困ったものではある。願わくば、「ユニバーサルコミュニティ」と「ふるさとコミュニティ」の二極文化の町などとでもしてもらえればありがたいのだが。どうしたものか。
町村合併を考える
喫緊の課題「町村合併」
今、まちづくりの中で一番真剣に考えなければならない課題は町村合併ではないだろうか。国の改革で全国3200余りの市町村を1000以下に再編するという「平成の大合併」が本格化してきた。このニュースが最初に流れた時「本気なんだろうか」「国は地域の実情を理解できているのだろうか」と疑ったものである。
都市周辺部の町村において、交通インフラ等の整備も終わっている地域、或いは、今でも生活経済圏は都市部におんぶされているような町村はよしとして、都市部から遠く離れ、広大な面積を持つ山村の町を更に大きく併合させれば、一挙に山村の周辺部を崩壊させることになるのではないだろうかと思ったものだ。しかし、これは決定された国の方針(2005年度を目標とした時限立法)である。困ったものだ。
思い出すのは、昭和31年のわが村の合併劇である。当時、私は中学生であったが村中が合併の問題で大揺れに揺れたのを記憶している。町史を開いても当時の合併劇が記録されている。「合併は経済的、交通的、文化的あらゆる面から不合理なり」として誰一人賛成した住民はいなかったもようである。村議会も県が押しつけた不合理な合併として自治庁(当時)まで全員出向いたが、ついに押しきられて泣く泣く合併に賛同したと苦渋の決断の記録がある。
市町村合併は学者のに中にも慎重論は多い。例えば地域総合研究所の森戸哲氏の論文を掲載するとしょう。
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まちの個性と市町村合併を考える
地域総合研究所 森戸哲
鈴木輝隆要約
「まちの個性」とは何か
決め手となる"ソフトパワー"
人を惹きつけるまち
□一度訪れただけでも好感の持てるまちがある。こうしたまちは比較的規模の小さなまちで人口の規模や財政力などにはあまり関係なく惹きつけられる。それは、そこに暮らす何人かの人たちの暮らしぶりや、その自治体のまちづくりの姿勢に共感を抱くときであり、豊かな自然やおいしい食文化は魅力的ではあるが、絶対条件ではない
□まちの魅力は主観的なもので、魅力の感じ方も人によって異なるが、実際には、惹かれるまちには共通性がある。それは、交流人口が多く、新規移住や定住が目立つまち、独自の考え方に基づく、ユニークなまちづくりをしてきたまちなどである。
"Small Is Beautiful."の明快なメッセージ
小さなまちは地理的条件や経済力などで、都市に比べて大きなハンディがある。しかし、小さなまちだからこそ、大きな都市にはない特有の魅力で人を惹きつけている。自然や環境、歴史や文化、産物や人的ネットワークなど、さまざまな地域資源に着目し、それを磨き上げるために知恵を絞ってきた「小さくてもキラリと光るまち」である。
□他のまちと異なる独自のまちづくりを進めてきた成果が、やがてそのまちの「個性」と呼ばれるようになった。個性とは本来、人間に関わる属性で、「まちの個性」も人間を離れて存在するものではなく、まちの人たちの生活や価値観の中に固く埋め込まれているものである。
□まちに優れた自然があったとしても、それだけでは「個性」といえない。その自然をそこに暮らす人々がうまく生かした結果として、「まちの個性」になる。小さなまちのよさを生かしながら、人を惹きつける魅力的なまちをつくり上げてきたまちは、その自信から、小さなまちであることに誇りをもっている。
まちの個性を抑える合併プロセス
□リーダーたちは、これまで培ってきた「まちの個性」を守りたいという気持ちが人一倍強い。合併によってこれまでのまちづくり路線が継続できるのか不安を抱いているのである。合併は、自主的というのが建前だが、交付金の削減などのペナルティがあり、小さなまちは財政基盤が脆弱なので、合併を拒否できる状態にない。このため、合併後もこれまでの「まちの個性」を存続させる手立てを模索している。
□市町村合併によって、自治体の規模は必然的に大きくなる。合併は「Small Is Beautiful」というまちづくりの方向とは逆の動きと言える。小規模か大規模かは相対的なもので、小さなまちがいくつか集まって「ミニ市」になったとしても、Smallであることに変りはない。これまで培ってきた独自の「個性」が、合併して新しく誕生した自治体のなかで埋没してしまうとすれば、これまでの努力が無意味になってしまう。合併のプロセスは、「まちの個性」を抑える方向で作用するからである。
合併協議会における議論や作業は、無事に合併にこぎつけるまで、長所であろうと短所であろうと、合併の相手の「個性」に触れないように気を使う。お互いの相違点によって合併促進に支障がないように注意深く進められるからである。
□象徴的な例が、合併後の新しい自治体の名称であり、吸収合併の場合には、吸収されるまちの名前は失われる。新設(対等)合併の場合は、お互いの特性が思い起こされるものは排除される。最近の名称は、「西東京市」のように、地域の歴史や文化が感じとれない無機的な響きを持つものが多い。
非個性化のベクトル
□合併に伴なう煩瑣で多岐にわたる準備作業では、格差の是正が重要となる。電算システム、職員の給与体系、人事制度などを統一する、上下水道の料金などの負担の公平をめざして同一にする。地域住民利用施設や生活道路の整備などに対する地元負担の仕組みは自治体によって異なり、住民と行政の役割分担や住民参加の手法など、その自治体特有の事情が関係しているからである。
□これは格差というより個性に近いが、事務事業の一元化として処理されることになる。旧来の「まちの個性」は格差の一種とみなされ、その平準化をはかることに多くの時間とエネルギーが費やされる。合併後も、異なる役所の文化で育ってきた職員同士が融和し、新しい行政文化を共有するまでにはそれなりの時間がかかる。
融和を優先すれば、個性の尊重よりも、個性の抑制が求められるのはやむを得ない。合併に関する一連のプロセスに働く力は、個性の発揮を抑える「非個性化」のベクトルとなっている。
財政危機が促す住民の行政離れ
□現在の合併推進の主な動機は、財政基盤の改善にある。破綻寸前にある国や地方自治体の財政状況は、合併によっても簡単に好転する性格のものではないことは確かだ。財政危機は合併後も続くのである。
□住民と行政のパートナーシップが重視されているが、その背景には逼迫した財政がある。住民はこれまでのような行政依存がもはや立ち行かないことを痛感し始めている。合併後は、多くの住民は新しい市役所が「遠く」なったと感じるだろう。物理的な距離だけでなく、生活のさまざまな場面において、住民と行政の間の心理的、あるいは社会経済的な距離が遠くなるからである。
□似たようなことが農協合併ですでに体験している。農協合併は農協の経営危機を回避するために進められてきたが、合併を機に、農家の農協離れの傾向を強めている。町村合併は、これまでの行政依存を見直すきっかけになるだろう。
地域自治の強化で合併後に備える
□行政依存を見直して、これまでの公共的な仕事を仕分けることが必要である。住民が分担できそうなことは、できるだけ身近な地域(コミュニティ)に置いておく。住民が担いきれない仕事は、「遠い」市役所に持っていき、行政の業務とする。住民が分担する仕事は、身近な環境や住民利用施設の自主的管理、学校への地域住民の積極的な関与、地域ケアの施設や仕組みの充実、高齢者の就労や社会参加を支える生涯学習の展開などである。
□地域の公共的な仕事を、町内会のような旧来の地域組織が地域自治の強化のために十分活用できるとは限らないだろう。ボランティア組織やNPOなどを新たに結成することが必要になる。
□行政に求められるのは、地域自治の新しい仕組みの構築、NPOの設立、人材の育成などの支援を惜しまないことである。合併後を見据えた新しいコミュニティ行政、パートナーシップ事業の展開といえる。
□地域自治がしっかりしていけば、これまでに培われた「まちの個性」の多くは、「コミュニティの個性」として生き残ることができ、合併の慣らし期間が過ぎた頃に、新しいまちの個性として開花することが期待できるだろう。
「まちの個性」としてのソフトパワー
□合併後も、国や自治体の財政は依然として厳しい。地域間の競争も激しくなる。第二段階の合併を検討する必要もでてくる。財政状況の改善をめざして、合併が推進されるので、まちの魅力は、何よりも財政や人口が基本になるという考えが蔓延する可能性もある。
□これからの地域間競争は、財政力、人口規模、大型公共施設などの「ハードパワー」よりも、開放的な地域社会、地域内循環の仕組み(地産地消)、快適な居住環境、豊かな地域文化、多彩な住民活動の存在などの総合力、つまり,そのまちの「ソフトパワー」が重要となる。
□このソフトパワーによって、住民の潜在能力を引き出すとともに、外から優れた人材を惹きつけるまちが、結局は激しい競争に勝ち残れる。こうしたパワーは大都市に偏在していたが、人々の生活スタイルの多様化や国際化、環境重視の価値観の浸透、情報通信技術の発達などによって、大都市以外の地域にも、ソフトパワーが生まれてきた。
□小さなまちが、多くの人を持続的に惹きつけてきたとすれば、それは特定の資源や個性というよりも、それをまちの魅力として生かしてきた、そのまちならではのソフトパワーである。ソフトパワーが住民や行政のなかに蓄積されていて、人を惹きつけるのである。合併後に、なおしっかりと存続させるべき「まちの個性」とは、そのまちの多様な資源を生かし、人々の多様な能力を束ねることのできる「ソフトパワー」である。
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自立のためのシナリオ
以上の論文は、町村合併の功罪を極めて正確にとらえられている。市町村合併は、安直にコスト削減のために広域化するという議論の前に「今の自治体が自立するためのシナリオをどうするか」ということをもっと議論しなければいけないような気がする。
どうしても自立できない地域であれば仕方ないが、自立できるように知恵を絞って必死になって経営するのを国が支援するのが本筋ではないだろうか。これまであまりにも国におんぶされ過ぎて無駄なことがどんどん膨れ上がっているのが現状で、このまま広域化してもまた同じようになってしまうだろう。
最良のコミュニティは、住む人の顔が見える地域で構成されるのが一番よい。それが車社会となって交通の便がよくなり今日では相当広域化してきている。これ以上山村が広域化すると住民が一同に集まるためには、40kmも50kmも車で出かけなければならない地域が増えるだろう。行ったこともない知らない土地や人の集合体になる。道路は狭隘なため町の端から端に出かけるとなると80kmも100kmも走り、2時間以上かかるところもでてくる。これでは町づくりへの参加も何もできない。コミュニティは、顔の見えるところでなければ成立しない。
一杯やりながら町づくりを話し合うのは楽しいものである。そこに知恵やアイディアが醸成される。が、一杯やるとなると公共交通機関のない過疎地域は代行運転となる。筆者も高千穂から深夜40キロの道をタクシーの代行運転で帰った経験があるがその料金はなんと2万円近くかかったのである。
自治体の数が少なくなれば国からの交付金は少なくすることができるだろう。また自治体の事務的経費は削減され効率がよくなるだろう。しかし、住民の時間と費用の負担は、増大するばかりである。いきおい行政と住民の共働作業というまちづくりは困難になる。行政は単なる手続き上の役所と化すことだろう。
消える地域ブランド
あらゆる生物は、長い年月の間に進化し最も競争に強い環境と条件のよい地域でそれぞれ固有の種を定着させてきた。広大な山村地域にはいろんな生態系が絡まっている。人々はその固有の自然の中でそれらを利活用しながら、くらしの作法や思想を身に付けて生活文化を築いてきた。私たちが九州ブナ帯文化圏を標榜するのもそうしたことからである。
生物は、地形や水、土壌、気候が変われば大きく変化する。日本は広大な平原ではなくて山岳地帯の多い垂直分布に特長がある。標高100mの地域と700mの地域では植生が全く異なる。当然ながら農林産物において人工的に生産した商品も品質が異なる。花卉では色の鮮やかさが異なり、野菜や果物、キノコ類も品質が異なる。米も品質に特長がある。地域のブランドとは、名前だけではなくそうした品質の違いがブランドでなければならない。机上で安易に行政区を線引きすれば、磨けば光るブランドも消えてしまうだろう。行政区は一つのブランドでなければならないからだ。
編集後記
今回は、議会情報が少ないので日頃考えて書き綴った原稿などを掲載しました。
皆様の投稿も歓迎します。これまでのかわら版の掲載内容について、或いは政策について、議会に対しての要望、または身近な楽しい話題など何でも結構です。どしどし投稿ください。
この私設「かわら版」は14区民の皆様を対象に配布しておりますが、14区以外の方にもお送りできますのでご紹介ください。
郵送料として年会費1000円のご負担をお願いします。
秋の蝉「ミンミンゼミ」の鳴き声も聞えるようになり、暑さも峠はこえましたが、まだまだ連日暑い日が続いています。ご自愛くださいますように。(治)
今回の広域合併論は、例えば恐縮だが休猟区や禁猟区の設定に似ている。山村では、野生生物の種を保存するため数年おきに数百ヘクタールづつの禁猟区が各地に設定されている。設定区域が人工林地でも面積を確保できればよしとされるようである。人工林地を外したら設定区域の面積がとれなくなるからかも知れないが、野生生物は人工林地では餌が無く生きていけないのである。現地の実情を無視して机上で広域合併の線引きを行なえばこのような矛盾が起こるのである。
コスト主義の広域合併論は国を滅ぼす
国の都合で磨けば光る地域まで強引に併合させられれば、山村は一挙に崩壊するだろう。山村が崩壊して無人の山になれば森林が荒れ果てて国土が崩壊する。今、日本では2,500万ヘクタールの森林を10万人弱の高齢者で管理しているという。今でも絶対数が足りないのだ。
宮崎県では国土保全奨励制度などの条例を制定してこれらの人々に手厚くしようとの取り組みが行なわれている。これは大切なことだけれどもそれでも決して増えることにはならず、減少の一途を辿っている。もはや時間の問題でもあるのだ。人工林は、最後まで人の手を入れないと森林は崩壊してしまう。戦後拡大造林政策で壮大な実験を繰り広げてきた山地が人の住まない山地に変わると森林災害が起こり下流域も襲われる。
今、山村は木の伐採や除伐のできる森林技能者も少なくなった。国有林を管理する森林管理署もこの夏には統合して森林地帯には事務所すらなくなくなった。100kmも離れた無人の山地の森林をどのように管理するのだろうか。
奥山に人が住まなくなり林道の利用もなくなれば路面には草木が育ち、ずたずたに壊れて通行すらできない。山地に人が住んで手入れをして始めて森林管理が可能となるのだ。この山に昔は人が住んでいたらしいと墓石の残骸をみるようなことになってはならないが、それが現実問題として起こりうるのだ。
国は、前回の合併も特別交付金をちらつかせて合併を迫ったようである。今回も同様に特例交付金が用意されている。合併前の旧市町村に褒美の飴を用意するだけで本当に地方は自立できるのだろうか。褒美の飴は食べてしまえばそれでおしまいである。本当に合併によって自立できるのであれば特例交付金は必要ない。
地域が自立するためのシナリオづくりはまちづくりの基本政策の如何にかかっている。今こそ未来永劫に自立できる地域主体の経営学、経済学に取り組み、自立のためのシナリオを書かなければならないと思う。