全国過疎問題シンポジウム 2001 inおおいた
と き 2001年10月31日(水)
ところ 別府市ビーコンプラザ
第2分科会 パネルディスカッション
「地域における起業と産業高度化」
■コーディネーター
三和酒類(株)代表取締役会長
西 太一郎
■パネリスト
(株)やまめの里代表取締役
秋本 治
食品流通ジャーナリスト
川島 佐登子
(株)花の企画取締役
河野 忠美
(株)福田農場ワイナリー代表取締役
福田興次
(西 太一郎 氏)
おはようございます。
コーディネーターを務めます西と申します。よろしくお願いします。会場からも活発なご意見をいただければありがたいと思います。
さて、今日のテーマは「地域における起業と産業の高度化」となっています。実は、大分県は村おこし運動というのが昭和40年代の後半に始まりまして、これは全国の村おこし運動のきっかけを作りましたし、発祥の地という具合に自負しております。その時もこの村おこし運動というのは自立、自助、そういうようなかなり気負った連中が一生懸命に村おこし運動をしまして、その後に平松知事さんが提唱されました「一村一品」という言葉がこの村おこし運動の運動体の中からも起こりまして、現在に至っています。そういう意味では、今日の産業高度化というテーマも、私達が今からいろいろと考えていかなければならないことがいっぱいテーマの中に詰まっていると思います。
今日は、昨日の全体会で素晴らしいパネルディスカッションがありまして、あの先生方の進行のあり方をそのままそっくり頂きたいと思います。コーディネーターがあんまり喋りすぎないということが一番のことだと思いますので、まずテーマといたしまして、過疎地域におけるビジネスチャンスの可能性、そして持続的発展のための方策ということを一つのテーマにしながら、パネラーの皆さんから意見をたくさんいただいて、最終的には皆「あ、私たちもやりたいな」というような気運ができるような会で終わりたい、そのように考えています。
それでは、あまり喋り過ぎないようにしたいと思いますので、最初から自己紹介を兼ねまして、過去、現在、未来についてそれぞれのパネラーさんにお話をしていただきたいと思います。まず、自己紹介を兼ねて、今まで自分がどの様なことをやってきたかそういうことをお話していただければと思います。時間はだいたい目安5分位を考えてはいるんですけれども、非常に柔軟に議論を進めたいと思いますので、その点はそれぞれ皆さんの御発言で結構ですので、どうぞよろしくお願いいたします。それではまず最初に秋本さんからお願いいたします。
(秋本 治 氏)
はい、承知しました。秋本でございます。私は、宮崎の五ケ瀬川源流にある五ケ瀬町の一番奥に住んでおります。九州地図ではとちょうど真ん中なりまして、九州の「へそ」でもあるわけなんです。町の中央に祇園山という標高1300mほどの山があるんですが、ここが実は4億3千万年前のシルル紀の地層の山でして、九州島発祥の地ともいっております。日本で一番南にスキー場がある町でもございます。また県のフォレストピア構想のもとで県立の全寮制中高一貫学校を全国に先駆けて作っているというような町でもあります。
私どもの町は、昭和31年に町村合併して五ケ瀬町になったわけですが、今過疎化ということで悩んでいるんですけれども、昭和30年代前半は過疎の過の字もない頃で、一番山村の経済が活性化されていた時代なんです。そしてみんなが都市へ出て行きたいと思っていた時期でもあります。そんな中で都市へ出て行くことができずに地元で何かできないかと考えて昭和39年にやまめの養殖を始めたわけでございます。
同級生皆んなが町へ出るという中で、私も出たいと思ったんですけれど、事情があって出ることができない。そこにやまめがたくさんおりまして、ちょうど川辺で育ちましたものですからこの魚を増やしてみようと思った。昭和30年代の森林開発によってやまめがだんだん少なくなって幻の魚と言われるようになってきた。これをなんとか増やしてみたいなと。ここにひとつの夢を見たわけでありまして、今のように過疎だからどうこうとかいうことではなくて自分の夢でございました。
養殖できるかどうか分からない中で手探りで取り組み、昭和42年にはなんとか量産できるようになりました。生産が上がると販売です。まず最初は外へ売ることばかり一生懸命考えまして、東京へ行って築地で販売するようにしたり、百貨店やホテル、旅館回ったり、いろんなことやってたんです。販売ができるとまた施設を増設して生産を増やすということをしていました。
昭和40年代の後半になりまして、過疎という言葉がだんだん出て参りました。考えてみればこの地域は人が住まなくなるかもしれない。作ったのをよそに売るだけでいいのかという疑問が浮かんできたことから「やまめの里」というふうに商号も変更しまして、地域づくりの方へ取り組んできた。そのやまめを武器にしてというようなことで。村の人達とも相談して、民宿村として5軒ほど立ち上げてもらったりとかですね、やまめを放流して国民釣り場を作ろうということでやったりとか、いろんなことをやってきたんですが、どうも地域の小さな取り組みだけでは誰も注目してくれない。お客さん来てくれない。困ったと。
そういう苦境の中で何かやらないと駄目になると、四苦八苦しながら考えました。よその町にないのはなんだろかと一生懸命探したら、雪が非常に多いということに気が付いたんです。そこでどこかにスキー場ができるはずだということからスキー場建設の運動を始めた。最初は行政が動くということもありません。スキー場を見たことも滑ったこともない中でいろいろ調査したんです。
ちょうどその頃は森林開発が非常に奥地まで進みまして、標高1,500〜1,600m近くまで植林が進んできた。昭和50年代の初め頃っていうのはそういう時期でございまして、木材の伐採搬出はワイヤーでやりますけども、あとの植林作業は苗木を背負って、1時間半も2時間もあるいはそれ以上も登らなければ植林地へ到達しないところが出てきた。そこで効率が悪いということからヘリコプターで苗木を運ぶ時代でした。
民間の山林、あるいは県の公社、国有林そういったところも共同で苗木を運ぶ。そうしたヘリが毎年3月になると来て山のてっぺんに苗木を運んで行くものですから、「そうだ、ヘリに乗ればいい」ということで空から調査をして何箇所か見当をつけて、それから現地の調査に入った。いい場所が見つかったんですけど、ちょうどそこはやまめの養殖場の水源なんですね。非常に困ってどうしようかと思ったんですけれども、やまめの養殖場だけ良くてもおもしろくないと。皆んなが地域に住んで、そこで皆んな元気にならなければというような気持ちからスキー場建設を推進したわけです。
実際スキー場ができるまでのお話は、それは1時間2時間ではお話ができない位のいろんな紆余曲折があるわけですけれども、スキー場ができてみたら自分達が考えていたプランと違う方向へ変わってきたということもあって、養殖場が全滅してしまうはめになったわけですね。これは大変だと、どうしようもない、これは天罰だと。そこで、また考え方を変えまして、一つの理念に辿りつきました。
今は「九州ブナ文化圏」という考え方のもとで、霧立越(きりたちごえ)というブナの原生林を歩く。廃道、古道、昔の駄賃付道、歴史の道ですが、そこをトレッキングいたしまして、12キロあるいは6キロとか8キロとか4キロのコースがあるわけですけれども、これをメインとしまして、地域の宿泊業者の皆さんや実践活動家の皆さんで、それから隣町の椎葉村まで及んで「霧立越の歴史と自然を考える会」という会を皆んなで作ってシンポジウムを行なったりして資源の発掘などに取り組んでおります。
それが新しい産業としてエコツーリズムといわれるようになったんです。お客さんも非常に増えてきておりまして、シーズンには連日多くの方が歩いています。8時間位かかるものですから、泊まらなきゃ歩けないやというのがミソでございますけど、そういうような取り組みをしているところでございます。
その奥にあるもの、いろんな考え方については、また後程お話いたしますけれども、要するに都市と山村の交流の元で過疎山村をどう切り開いていくか、そこでいかにビジネスチャンスを作っていくかいうようなことに取り組んでいるというようなことです。
(西 太一郎 氏)
はい、ありがとうございました。それでは川島さんお願いします。
(川島 佐登子 氏)
おはようございます。川島と申します。
今日のパネリストの他の御3名は実際にやってらっしゃる方達なんですけども、私は実務をやっているというよりもむしろライター、それから業界紙関係の編集とかそういったものがメインの仕事になっております。元々は流通と言いましても、いわゆる町の小売屋さんの取材というようなところから入りまして、そういった町のお店を取材しますと、やはり熱心な方達は生産地を歩いてるんです。それで私も生産の関係の仕事がしたいなーというふうに思っておりましたところ、たまたま農業関係の団体で地域の特産品の仕事をちょっと紹介する仕事をやってもらえないかということで、平成5年からだいたい5、6年間地域特産品の紹介を毎月、最初は30品目始めまして、最後はもう少し減ってきたんですけども、最初1年間やったら30品目の12で360
品目、もちろん1月に30品目というのを現地取材というのはではできないので、だいたい電話取材でやっていまして、最後の頃に現地取材などもさせていただきました。そうした積み重ねでだいたい1000品目くらい特産品の情報というのを得られるようになりました。
また、農業との関わりということでは、今年1年間は地域の頑張っている直売所を取材いたしまして、JAがやっていたり、また生産者が会社を作って起業してやっていたりというような取材をいたしました。5年間特産品をやった時に、その頃たまたま特産品がブームになりかけていたわけです。ですから、ただ単にカタログだけの紹介では意味がないのではないかと思いまして、たまたま農業者が農業者に向けて発信する情報であったことから、まず買い手に対して役立つ情報、申し込み方法とか商品の特徴とかいったことがありますけれども、売り手に対しての情報を蓄積することが大事ではないかなというふうに思いました。やはり特産品であるからには商品の良さを売ることも大切ですけれども、地域をアピールしていく、その特産品がどういう人たちによって、どういう思いによって、どのように作られたか、またどのように販売に苦労したか、今成功しているけれども過去にどのような失敗があったか、そういった事の方が大切ではないかと思いまして、いわゆるヒストリーというのを伺う。それから、成功したポイントについて皆さんに上げてもらうということがありました。
実際に取材してみて思いましたのが、自分たちがやっていることについてこういうふうにしたから儲かったのだ、こういうふうにしたから利益が出たのだ、ということを意外と皆様方が分析していない。当たり前のようにやっていらっしゃった。それがいろいろ積み重なってくると、例えばイベントなどに出店して売りこんだとか、本物のこだわりの材料を見つけてそれを元にやってみたとか、いろいろあげられるんですけれども、そういったことを成功のポイントとして掲げるようにいたしました。そうしますと、編集部の人が何かいつも似たようなものが多いですねというふうにおっしゃったんで、それがほんとの販売の基本ではないかというふうに私は申し上げました。
今こちらにいらっしゃる方たちというのは、企業としては皆さん成功されていらっしゃいますけれども、ほんとに女性加工グループであっても、そこからスタートして大きくされるところもあります。やはり基本に大切にということが重要だと思います。私自身はそういった加工品がとても優れたものが多かったものですから、もっと一般の人に知らしめたいということで、今ホームページをまず地域特産品ということで開きました。その後、直売所とか、私が一番関わりを持っているのが果物ですから果物の情報、あと小売店の情報ということでだんだん内容がてんこ盛りになってきているんですけども、ホームページを通じまして過疎の農村の人からメールをいただいたりしてやりとりをして、過疎の状況というのもいろいろ教えていただいたりしたものですから、こういったシンポジウムでもなんとかお話ができるかなと思いまして参りました。
もう一点、ホームページですと、私いろいろネット上でアンケートを実施しております。普通アンケートといいますと、広告会社に出して多額の金額がかかるんですけれども、一人でやっても、景品として500
円のスープを10名様というのでも、1000人もアンケートを得られまして、それをまた発表とかしております。ですから、小さなことでも、これからインターネットを使えば、これからは大きな商売でもできるのではないかといったようなことも後程お話したいと思います。
(西 太一郎 氏)
はい、ありがとうございました。河野さんお願いします。
(河野 忠美 氏)
おはようございます。世間に認知された業種なのかどうかわかりませんが、私たちは勝手に観光農園業と言っておりますけど、久住町で「くじゅう花公園」を経営しております。
「久住」と言いますと、全国的にも、大分県でもたぶん長者原をイメージされる方が多いんじゃないかと思いますけれども、「久住」と言えるのはひさずみと書く久住町なんですね。広い意味でひらがなの「くじゅう」とか「九重(ここのえ)」と書いて言う場合もございますが、私も同じような認識で「くじゅう、くじゅう」と言っていまして、当然長者原の方だと思ったんです。
今一緒にやってます太田が、社長をやってるんですが、久住高原に行こうということで、やまなみハイウエイをずっと走ってまして、ちょうど長者原で下りるのかなと思ったらどんどん峠を越えまして、瀬ノ本(せのもと)から左に入って、そこはあまり私は行ったことがなかったので、今から10年ちかく前ですけども、そこにまた広大な高原がありまして、日本にもこんな広い所があったのかと思いました。その時、こっちが久住高原で、向こうは飯田(はんだ)高原と教えられました。「あっ、久住の本場はこっちなんや」という話をしまして、そこで久住山のちょうど南登山口の所、今私どもの入り口になっている所に車を止めまして、二人でたばこをふかしながら阿蘇山を見てましてですね、「ここらに花を植えたりしたら人は来るよな」と言った話が現在の始まりでございます。
まあ、資本もございませんし、私たちは今久住町の住民になっておりますが、私も社長の太田も久住町の出身ではございません。大分県の生まれではございますが。というようなことで、地縁もございませんし何もないんですけども、その時分太田が結構動ける仕事をしておりまして、あっちこっち動いておりましたので、まず地主の方とかいろんな情報集めを始めまして、そこの土地をなんとかしようという話で、地元の牧野組合の社長さんと割り勘でコーヒーを飲んだりお茶を飲んだりしながら、なんとか貸していただけるというような形になりまして、現在の久住町の西組牧場さんという牧野組合さんから現在の敷地を20丁お借りしております。
当初ですね、この花公園という構想を立てて、企画書を作ったりなんかするんですけども、まずいろんなところにお話に行っても皆さんピンとこないというか、こんなことができるんかいと、なかなかご理解いただけないということもありまして、ただ私たちはあの時にたぶんこういう時代が来るであろうという思いがありました。自分の周囲の問題もあるんですけども、私は学校を出まして10年ほど県外の建設会社に行ってて、ちょうど平松知事の地方の時代の始まりの頃に戻ってまいりまして、県内でいろんなサラリーマンをしてたんですが、やっぱり田舎者ですから、都会に出て行っていろんなことしてますけど、最終的には自分の資質的なもので田舎の方がいいのかなと感じで引かれて来ました。
今、学校ですとか職場ですとかで、ひきこもりの問題とかがありますが、おおげさな言い方をしますと、物質文明とか機械文明の行き着く先に逆に人間本来生き物として自然に返っていくのではないか、という漠然とした自分のイメージがありました。多分こういう素晴らしい自然の所には人が集まってくるような時代が来るんじゃないかというふうにその時は思っておりました。そう思ってた時は湯布院がすごい全国的にアピールしまして、全国ブランドになった頃ですけど、湯布院はあのロケーションであの広さですから遠からず満杯になるだろう。やっぱり最終的にまだまだ手の入っていない久住の方が価値が出てくるのではないか、と漠然と二人は焼酎を飲みながら話しておりました。それじゃ大分に帰ってきてサラリーマンをやってましたけど、リストラの走りであんまりこの商売も長くないだろうということで、せっかく帰って来たんだからほんとにやりたいことにチャレンジしょうということでやり始めたようなところでございます。
また、その時のいろんな苦労話やらなんやらはこの後お話をさせていただきますが、現在、くじゅう花公園という施設の中に会社としては二つございますが、従業員は両方合わせまして60名ほど、それから繁忙期等になりましたらアルバイトの方とかパートタイマーさんがかなり来ていただいて、年間を通して60〜70人の方々が働いてくれております。経営の方もいろいろあるんですけども、幸いお客様は当初目標としておりました年間50万人ぐらいのラインをクリアすることができまして、当初考えていたことがだいたい合っていたのかなと思っております。それも多分私どもがどうだこうだ言うよりも、久住町、久住高原自体の素晴らしい魅力が皆さんに浸透していったんだと思いますし、ちょうど平成9年にゴルフ場ですとか、地ビール工場ですとかいろんなものがオープンしまして、ちょうど私どももその時に今の広さにリニュアルいたしました。今、久住高原にいらっしゃる観光客が年間200万人と言われておりますが、その頃からそのラインに向けてブレイクしたのかなと考えております。あとちょっとお時間をいただきまして、そこに行き着くまでの失敗話ばっかりなんですけども、あとでさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
(西 太一郎 氏)
はい、有り難うございました。それでは福田さんお願いいたします。
(福田 興次 氏)
水俣から参りました福田と申します。私どもの農場もまさしく水俣病とともに歩んできた道のりでございます。水俣と言いますと、公害の原点として皆様もご存知だと思いますが、今、水俣も大きく変わってきておりまして、分別収集なども約23種類の物を分別収集しております。これは日本一だろうと思います。そしてエコタウンの指定、そしてまたISOの習得を行政がやっておりまして、瓶のリサイクル工場、家電のリサイクル工場、タイヤのリサイクル工場など今いろいろ立ち上がっておりまして、そういう体験を活かした一つの町づくりが始まっております。
私どももやはり水俣で生まれ、自分の故郷を語れないことの辛さというのを長い間体験してまいりました。家庭や自分自身の信用とか会社の信用とかは生活に密着してますから大切なものだと思いながら、やはり地域の信用とか国の信用となると誰かがやるもんだとついつい考えがちだと思うんですが、でもこれは一人一人がやっていかなくてはいけないことだと、我々水俣の体験の中で感じております。ですから、最終的に何が残せるかと言いますと、もう信用しかないんですね。だからその信用をどう残していくかというそのために、今自分に与えられた生活を通して何ができるんだろうかという、そういう気持ちで今の与えられた仕事にいろんな磨きをかけているということでもございます。
観光事業だけで成功しようと思えば、もっとイメージのいい所、人の動きのある所でやった方が成功率が高いかと思います。イメージによって人と物が動くとなりますと、イメージで人も来ない物も売れないじゃしょうがない。だったら切り口を変えて、物を動かし、そして人を動かしイメージを変えていく。ある意味では人を動かしながら物を動かして、ある意味ではイメージを変えていく。そういう切り口もあるだということに気付きました。
それから足元にある物を活かしていこうと取り組みをやってまいりました。農園としては約40年になります。みかん狩りからスタートし、そして2年遅れで飲食業を始めました。約30年も経っております。そして加工を始めたのが今から20年ほど前でございます。農協さんが原料みかんを引き取ってくれなかったことがきっかけになりまして、また食堂でジュースを絞って出してたことから、それだったらこれを加工しようということで、農産加工に入っていったということでございます。そして私どもの所は日本一の甘夏の産地でございます。これは学生時代に東京におりまして、江上とめさんという料理研究家の方がおられました。その方が自分の故郷のために「まるた印」の甘夏を持ってテレビにコマーシャルに一役買ってられたことを思い浮かべました。よし、これだったら全国に通用するんじゃないかなとそういうことを思って、加工という分野に、全く未知の世界に入っていったということでございます。そういうことがスペインという出会いになりました。
今お手元にパンフレットをおあげしたかと思いますが、何でスペインだろうかという疑問があるかと思いますが、これは地域のことを一生懸命考えてたらスペインになったということでございます。ちょうどその頃池田町の十勝ワインが非常に有名になった頃でございます。そこに私も何度かお伺いして、物を通してその人を動かすことができる、そして地域のイメージを変えることができるということを目の当たりにしました。それがサングリアというワインを作るきっかけになりました。私どもは柑橘ですから、柑橘からワインができる。当初はそれを発酵させて珍しいものを作ろうとしたんですが、やはり製品というよりも商品から作らなくては駄目だと思いました。そして柑橘系のワインでどんなものがあるのだろうかと調べてみましたら、スペインにサングリアというワインがあるということが分かりました。それからスペインというものをいろいろ掘り下げていきますと、地域と共通するものがいろいろとあったということでございます。
向こうではぶどうのワインをいかにおいしく飲むかというと、バレンシアオレンジを使って漬け込んで飲みやすくして飲むわけですね。それを我々は甘夏に置き換えてみたということです。そして今度はパエリヤという料理、スペインの代表的なお米料理があるんですけど、これはもともとオレンジの木などを焚き物にして海べたで作られた料理だと言われております。入れる素材がにんにくを若干使います。これは隣の町が産地でございます。そして玉葱を大量に使います。今水俣がサラダ玉葱ということでサラダ玉葱の一大産地になっております。そしてそれを大量に使う。そして海の幸、不知火海の海の幸、そしてお米、最後に色と香りにサフランを使います。サフランがまた水俣が産地でございます。そこにあるものが全てパエリヤという料理の中に活かせるということが分かりました。よし、これだったら地域にある昔の郷土料理と一緒なんだ。それを若い人に合うような味付けで提供していくことで、不知火海を地中海に見立てて、バレンシアオレンジを甘夏に置き替えて、リアス式海岸の綺麗な海岸が残っております、そのリアスというのもスペインの地名から来た言葉でございますので、この海を守っていくと。そういうことを目標にしまして、スぺインというテーマ性を今から14年前にひきました。
入園料を取るような施設ではございません。全て無料で開放しておりまして、こういうことは自分たちの暮らしの魅力づくり、それが結果として観光にならなければいけない。入園料を取れなかったという地理的条件とか、背後地という問題もございましたが、そういう生活の魅力に時間をかけ、取り組みをしてきたということでございます。そして、みかんという一つの物を掘り下げながら、いろんな商品構成に結び付けてきたということでございます。施設につきましても、水俣の体験ということもありまして、全てリサイクルでいろんな施設を作っていこうということで、建物は全部古電柱、地元で廃線になった時の枕木を活用させてもらったり、地元の山の石から川の石、そして溶鉱炉の跡の耐火煉瓦、ボーリング場の閉鎖した跡のレーンを頂いたり、ミシンの脚などを活用してテーブルを作ったり、いろんな中に創意工夫をしながら、いったん役割を終えたものに新しい息吹を与えるということでですね、これも私どもの新しい体験をしてきたからできるんことだという形で取り決めをやってます。
現在、修学旅行生の環境学習ということで、かなりの大勢の方がここ4、5年、急激に増えてまいっております。そういう環境を学んでみたらと、そして農業というものを通しながら多くの知識を知恵として活用していただけるようなそういう場を作り出していきたいということで励んでいるところでございます。あと詳しいことは後でお話申し上げたいと思います。
(西 太一郎 氏)
はい、ありがとうございました。起業の目的というのはやっぱり継続というのが一番のことじゃないかなと私は思っております。そういう意味では、今までにどのようにして継続されやってきたのか、そして今現状はどのようにあるのか、それからこの会の最後の力点はこれからの可能性をどのように探っていくのか、いきたいのか、そういうことを最後にかなり時間を本当はさきたいと思っております。そういう意味で、2回目の発言はできれば具体的な数字、差し障りのないところで、売上とか利益とか雇用の人数、そういうところも差し障りがなければ具体的にお話願えれば、なおイメージが固まっていくと思いますので、できればお話をしていただければと思います。それでは、秋本さんから現状等をよろしくお願いします。
(秋本 治 氏)
私どもの場合にはやまめの養殖をメインに、稚魚を年間400万尾ほど作っておりまして、出荷量が大体50〜60トンというところでしょうか、それとホテルフォレストピアというホテルの経営と併せておりますけれども、ホテルの場合、小さいホテルですけれども、政府登録の国際観光ホテルを目指して、政府登録のホテルとして建設したわけです。平成元年にオープンいたしました。スキー場のオープンを睨んで、民宿、旅館それからホテルというふうに一斉に皆んな取り組んだわけです。
当初フランス人のシェフを雇いまして、フランス料理を始めてですね、今思うと不思議なくらい1万5千円、2万円という料理が出たんですね。右肩上がりにスキー客もどんどん増えてくる。ところが、それからがおかしくなってきた。スキー場が12月にオープンする、今年の場合1日にオープンして3月いっぱいということなんですけども、十万人来ていたお客様が半分になった、半分以下になったということでございます。
フランス料理も1万5千円の料理は全然売れなくなって、1万円になり、6千円になり、それでも売れなくなった。それでフランス料理は止めてしまったということなんです。代わって和食の茅葺きの家の炉端を囲む食事が今のレストランの中心になってきたわけですけれども、そういう大きな変化が起きて、その変化にどう対応するかという、そこらあたりが一番難しいように思います。
今、私どもがその変化に対応しているのは、先程申しましたように、エコ・ツーリズムでございます。まあグリーン・ツーリズムというくくり方もありますが、私どもは原生の森をテーマにしてエコ・ツーリズムと呼んでいますけれども、これを始めまして5、6年くらいになりますか、全く宣伝というのはやってないんですが、川島さんのおっしゃったように私どももインターネットのホームページに載せるだけ。その情報を元にして各社テレビとか新聞雑誌社とか取材が相次ぐようになって、次々と新しい情報を出していきながらそれで広がったということなんです。
12キロのトレッキングコースを年間5千人ほど歩いてらっしゃいます。そういう非常に長い時間歩きますからほとんど泊まりに結び付くということなんです。その中で一番大事なことは理念だと思います。
先程お話された福田さんもそうとう昔からお付き合いさせていただいているんですけれども、水俣というのを抱えて非常にしっかりした理念を持って取り組んで、次々と新しいものを生み出してらっしゃる。それからコーディネーターの西さんの話を実はもっと聞きたいんですけれども、この方も凄い企業理念と新しい視点、切り口で素晴らしいなーと思っているんです。
過疎地というのは都市にはない個性を皆持っている。そういうのが一つの武器じゃないのかなという気がします。そこにきちんとした理念というのが必要だと。そういう理念を当初から持つわけないんですけど、苦しい中でいろんなものが出てくるということ、少し時間が長くなるけどお話させていただこうかなと思います。
実はやまめの養殖からスキー場ということに入っていって、自分が進めたことによって自分が被害を被ってしまうという問題が起きた。いろいろ考えてみましたら、自分がやってきたことが何であったか見えるようになった。
やまめというのは源流にブナ林を持っている地域にしか生息していない。今、源流域が全部人工林化された所はやまめはもう棲めないわけです。スキー場というのも温暖多雪地帯の文化みたいなもので、ブナはその温暖多雪のシンボル的な樹木である。ということでこれまでやったことはブナと関係があるというようなことが分ったのです。僕等がやらなければならないと思ってやったこと、突き動かされてる部分というのは実はそういう所から出てきていたわけです。
やまめというのは野性が強い魚なんですね。だから養殖はできないとされていた。最初の頃はそれを飼い馴らしていくことが非常に難しかったんですけれど、今考えてみると、池で泳いでいる魚を見ますと、養殖当初のころのやまめがこんなに変わったんじゃろかと。つまり、最初の頃は人間が作った餌も食べてくれない、人が水槽を覗くと逃げ回って水槽の壁に頭をぶっつけて弱ってくる。それが今は人の姿を見るとワーと集まって来るようになりました。
高気圧が張り出しいい天気になると警戒ばかりして全然餌をとらない。雨の降る前は猛烈に餌を食べる。そういうのが全くなくなってきた。何より変わってきたなと思うのは、野生が非常に退化してきて、自然界で生きれない魚を私たちは作っているということになっているということに気が付いた時に愕然としました。
最初は、元の種はどうやって採ったかといいますと、産卵期に親を生け捕ることから始めるんです。少し横道にそれて、現場論と机上論という話になってしまうんですけども、今、やまめの禁漁期は10月1日から2月末まで。3月に解禁となっていますが、これはまったくナンセンスなんですね。完熟したやまめというのは全然餌とらないですから、9月下旬から餌採らないですから、釣らないでおきましょうというのは意味がない。3月の解禁を1ケ月、2ケ月遅くすることの方が大事。
産卵期で痩せ細ってサビていて冬の低温期には餌を採れないでいて3月になると水温が上がり猛烈に餌を採り始める。その時解禁するものですから、釣れた魚は痩せていて食べてもまずい、そして飢餓状態のため入れ食いのようにして釣れる。ここが問題で、むしろ冬はやっててもいいと。そんなふうに現場と机上とは全く違ったことをやっているというのがあります。
最初は親を生け捕り採卵することと併せて、自然界で砂の中に産卵した卵を掘り出してきてふ化させるということもやりました。砂の中から取り出した卵は、発眼卵といいまして、生まれる前の卵を拾い出すと、100個のうち100個ともみんなキラッと生きてたんですね。
それを元に親を育てて人工孵化をずっと重ねて来ました。今、もちろんコンクリートの生簀じゃ全く産卵行動を起こそうともしませんが、砂のある自然の所に入れますと産卵します。しかし産卵行動がもの凄く弱い。そこで産卵した卵を掘り出してみると、100個の内に5個か10個、10%以下しか生きていない。もう間もなく自然界で生きることができない魚になる。非常にひ弱になってきている、たくましさがなくなってきている。
野生のやまめは天候の変化なんかはすごく敏感なんです。雨が降る前になると猛烈に餌を食べるし、高気圧が張り出している時は警戒心が強くて餌を摂らないとか、そういうのが養殖していくと全くなくなってきている。今、川にやまめを釣りに行っている人を見て不思議に思うのは、川の中に入ったり岩の上に立って釣れる魚になってるということなんですよ。今は放流以外天然ものはほとんどおりませんから。
昔はそんなんじゃなかった。絶対岩陰から姿を現わさないように竿をそっと出さなければ釣れない魚であって、それも引きがもの凄く強い。今そういう野生がなくなってきたんですね。そういうやまめの人工養殖でたどった道と人間世界の今の都市文明を重ねてみますと「これは人類の未来はねえわ」と思うわけなんですよ。
そこで子ども達の話、都市の人達の話聞いてもですね、公園でバラの花の匂いを嗅がせても「あートイレの匂い」と。何が本物か分からないんですね。非常にいびつになってきてるっていうのがあると思うんですよ。だから都市と山村の交流というのは、ブナの原生林とかそういう自然の中において、都市部の人たちが少しでもその自然界の中に身を置くことが非常に大事だと。
究極の都市文明というのは、その延長線上には、僕は本当の人間の遺伝子を伝えるということはできないと思うんですよ。正しい人間の遺伝子を後世に伝えるのはブッシュマンみたいな人でなくてはですね。ですから山村というのは今後非常に大事な役割があると。
そういうやまめから教わったりしたこと、経験の中から一つの理念が生まれた。そこでブナ帯文化というのが出てきた時に、そこからいろんなものを生み出す力が出てくると思った。そこで霧立越を考えたり自然を商品化できる。過疎地っていうのはまさにそういうところだというふうに思うんですね。
過疎は、深刻に考えるといろんな恐ろしいような問題が出てくる。先程打ち合わせの時にお話したんですけど、学校の運動会に行ってみますと、ほんとに子どもたちがいない。この子ども達が何人残って何人子どもを産むんだろうか、そのまた子どもの子どもが何人残って、何人子供を産んでくれるだろうかと思うと、おそらく村の大半はなくなる。しかし、戦後の拡大造林でこれだけたくさんの人工林をやった。人工林は最後まで人間が手を加えなければほんとに荒れてしまうわけで、そこに人がいなくなってしまう。どうするんだと。
だけど視点を変えればいろんな可能性がいっぱいある。それが実は過疎山村だというような認識の元で、楽しみながら、もがきながら、苦しみながら、逃げだそうと思いながら、またしがみつきながら、でも楽しい、後に必ず苦しみも有るんですけれども。そういうのが山村の生き甲斐でないかなということで取り組んでいるところであります。
(西 太一郎 氏)
そうしますとそのスキー場を作ろうという発想は今のような失敗から生まれたと、そこはどうなんですか。
(秋本 治 氏)
もともと過疎という言葉が出てきた時にシュミレーションしてみると、やっぱり人が住まなくなると思った。学校にその一番先が見えるんですよ。学校へ行ってみると「俺たちの時代からみたら今はこれだけしか子供がいないのか」と。「やっぱり過疎で人がいなくなるわ」というのが見えるんですよ。
そこで、やまめを400万とか500万とか稚魚を作ってよそへ売ることばかりやったことをこれじゃいかんということで、これを武器にしてとにかくやまめを放流して釣り客を呼んだり、山の自然もあるわとかで皆で民宿村を作ってやろうということでやった。けれども、地域の小さな取り組みでは誰も振り向いてくれない。お客さんも来ないし、ほんとに責任問題だということで困ってしまったわけなんです。
そこで何かないか、何かないかと一生懸命考えて、夜中起きてハッと思って近隣町村等と違うのは何かと箇条書きして消し込んでいく。そうした消去法で残ったのが「雪がうちの村にはあるわ」ということでした。例えば、成人式。今も夏やってる。雪が多いので冬は集まれないわけなんですよ。季節寄宿舎が中学校にあった。冬になると寄宿舎が始まる。他の町村はそういうことはないわけなんです。そこでスキー場というのが浮かんだんです。全くスキー場見たことも滑ったこともなかった。それを自分で調査しながら、今はスキー連盟の人達とも仲良くなって、いつの間にかスキー連盟の会長をやっているということでございます。
(西 太一郎 氏)
日本の最南端のスキー場といいますかね。ほんとに意外な所にスキー場があると考えられます。次に川島さん全国を回られたり取材をされたりして、ほんとに小さなお爺ちゃん、お婆ちゃん、お母さん、そういう方たちの小さな起業の事例をちょっと紹介していただけますか。
(川島 佐登子 氏)
特に事例ということではないんですけども、いろいろ数ある中から共通して起こってきた問題点とかをちょっとお話したいと思います。やはり先程もお話されてましたけども、目的をしっかり持ったところが成功にいたるなと感じがしました。始めはとにかく生き甲斐とか、お小遣いがもらえればいいやとような程度で始めましても、やはり事業として始めるからには収益を確保しなければ皆のやり甲斐にはつながっていかない。それがひいては農業の振興にもなるし、また地域の雇用拡大にもなるということで、地域に認められて発展するということがありました。ですから、まず何をしたいのか、何をしなければならないのかといったことをはっきりさせることが必要だと思います。
そうした場合にスタートしてどのような問題があるかというと、一番やっぱり女性たちとか高齢な方たちが問題になるのが資金の確保、資金繰りというのが皆様方非常に苦労されていました。特産品などの場合は、国とか各地域、県、市町村レベルでかなり補助事業とかがあるんですけれども、それを行政の担当者の方がよく把握していないと知らないままに終わってしまったり、実際に生産者の人たちも起業するまではそういった補助金があることを知らなかったということがあります。またその補助金も継続して、段階を追って補助金があればいいんですけども、2年とかそこいらで切られてしまうと、自分たちでやらなければいけないということがあるわけです。ですから会場にみえてらっしゃる行政の方も多いと思うんですけれども、やはり行政支援をどのような形でやっていけるか、また頼り過ぎてもいけないので、自主的に皆でやってもらうような方向を導くことも大切だと思います。
それともう一つ意外だったのが、こうやって地域で頑張って特産品とか起こしていれば、地域の人が皆応援してくれるのかと思いましたら、意外と地域の無理解がネックになっているということも分かりました。女性が起業する場合でも、かなり儲かっていても、とにかく目立たないように目立たないようにというか、あまりでしゃばってはいけないということを心掛けているということをおっしゃっていましたし、また地域の出身者の方が戻って、そこに産業を起こそうと思った時に、土地も借りられない、農協にも参加出来ない、資金面も全然援助してもらえないということで、独自でやられたということがあったんですけど、それで今度成功すると、それはそれで妬みに変わってしまうようなことがありまして、これではやはり地域の産業としては伸びていかない。
ですから、もっと地域が頑張った人に対して暖かい目を注いでいけるような地域になっていかなければいけないのではないかと。例えば私なんかが取材に行ったとしても、テレビで紹介された有名な所でも「あの社長さんはね借金抱えて大変なんだよ」とかですね。あれはOEMで作ってるんだよというようなことを教えて下さったりするんですけれども、決してマイナス面を見るのでなくて、特産品のプラス面を見て、皆で地域をあげて応援していこうという姿勢が大切だと思います。
あともう一点が雇用の確保ということがあげられると思います。やはりちゃんとした生産体制を確立したり、生産を効率化していくということでは優秀な人材を確保するということが言えます。ただ過疎地域では女性や老人、高齢者の方達がそういった対象になります。でも、ある女性グループのところでは「とにかくうちは高齢者が多いけれども、皆運転ができるから起動力が発揮できるんだよ」と、そのこともプラスになっているわけです。ただちょっと分野が違いまして、直売所に行った時のことですが、10億円以上売っている元気な直売所でも生産者はすごく零細で、ほうれん草を100円で売ろうと思ったら隣が80円で売ってたら80円で売ってしまうというすごい横並びでやっていました。そうしますと、それらの方達というのはすごい元気が出て、自分の生き甲斐にもなっているんだろうけども、若い人が継ぐような農業にはなっていない。だから生産者から消費者に直のつながりをもっていくという場合でも、若い人が生き甲斐のある、継いでくれるそういった産業、農業にしていかなければならないと思います。でも高齢者が年金とか恩給でもってお小遣いを得られますので、そうすると働く意欲も減ってきてしまう。社会保障が充実するにつれて、過疎の地域で雇用を確保するというのは難しくなってきていると思います。
あともう一点、原料を安定的に継続的に確保する。例えば、地域の産業として伸びてきた場合に、地域の特産品を売るということにしていましても、一時的に例えばマスコミなどで売れてしまった時にバーっとピークで拡大しても、原料をコンスタントに確保していくことが大変ということになります。また不作だった時にどうするかというようなことがありますので、ブームが去った後の対策とか、販路開拓なども考えていく必要があると思います。それと採算性の問題がありまして、大量生産によるコストダウンが難しいので採算がとれない、スーパーとかそういったところに卸すのではなく、直でやってらっしゃるところが多いのですけど、こういった対応をどうしていくかというような問題がありました。あと皆様インターネットの通販とかされているんですけど、販売が大量になってくると資金の回収、代金の回収が難しくなってくる。巧みな業者ですと、小さな注文から始めていて「やあお宅の製品すごくいいから」と言って大きな注文をして、ボンと詐欺にやられてしまったと、そういうことで実際に潰れてしまったようなこともあります。ですから、そういう回収面でもやはり気を付けてやらないといけない。
あともう一つ。最大の問題が、生産者は作るのがプロであって、販売、販売促進、販路開拓といったものが販売のプロでないので分からないというようなことがすごくありました。ですから、皆様一様にその販売が難しいということを挙げていました。いわゆる売るための仕組み、マーケティングが弱い方達が多い。ですから、行政などでそういったことを支援してあげられるとすれば、やはりそういった商品開発力とか販路開拓などをみつけてあげられるマーケティングのノウハウを提供してあげることではないかなと思いました。商売の場合でも、小売店さんの場合でもマーケティング力が強いところは残っておりますし、直売所でも、ただ単に品物を並べる所よりもいろんなポップを付けたり、販路をたくさん持ってられる所がすぐれた経営をやってらっしゃいます。私の場合には、ほんとに小さな小さなグループとか小企業とかいうことなんですけど、でもそこのところを乗り越えれば割と皆様順調にいっていらっしゃるので、初期の起業する場合の問題点などを行政が支援して差し上げればよろしいんじゃないかなと思います。
(西 太一郎 氏)
川島さん、よくテレビで噂になって、一時的にブームが爆発して注文が殺到すると、それに対応し、また他からのご支援を得て、いわば品質基準が下がってしまうというようなことで、悪い事例として倒産をしてしまうというような事例はどこかないですか。
(川島 佐登子 氏)
倒産した事例というのは、やはりお金が回収できなくて、一生懸命やりたいんだけれども、一応解散するとかそういうことがあったんですけども。あと原料が不足してしまってどこか同じ原料を作ってる所はないかというようなことはありました。皆様方作っているお饅頭一つにしても、その商品を作ろうといった時にノウハウがないんです。ですから先進地に行って、それこそそこだって工場を見せてくれるわけないので、工場のガラス戸の所に鼻をくっつけてジッと見ていたりとかして技術を盗んできたと。まち、他の所でお饅頭でも加工グループがやっているいろんなグループのを買い求めて来て、まず食べることからではなくて、外観から見て、それから中を半分に切ってあんこがどれくらい入っているかとかそういったこともやっているというような所がありました。
(西 太一郎 氏)
ありがとうございます。次に河野さんお願いします。
(河野 忠美 氏)
先程、川島さんのお話の中で、田舎でいろんなことをやる時のいろんな話が出てきましたけれども、それにちょっと絡めまして話をしたいと思います。
先程申しました社長をやっている太田も私も久住町には全く縁がなく、そこに落下傘でポーンと降りて、ある意味ではこうもりみたいな感じで、ある時には地元ですよと、ある時にはいやいやそれは、というようなところでうまいことやってまして、例えばああいったことを社長の出身地の町で、あるいは私の出身地の町でやった時にそういううまい使い分けができるのかなというのが一つあります。というのが、やっぱり私もとっても田舎は好きなんだけど、田舎にとっても嫌いなところがあるのは、よそが繁栄すると非常に面白くないと。あるいはよその火事は大変ですねと言いつつ、内心喜んでいるというような非常に心の狭い部分があります。それと横並びですね。隣がしたら負けとも何も考えずに同じことをするとかありましたので、地元で新しいことをやるという時に、そこら辺をバンと打ち破って突破するというのが非常に難しいのと、それからもう一つは田舎に入っていきますと旧来のしきたりやなんやかんやありまして、「若いのが何を言う。」というのをまず言われるような部分があります。
最近はそうでもないと思うんですけど。敬老精神が行き渡っていくことは非常にいいんですけど、なかなか若い人のやる気が出るような形にならないというのがあったんじゃないでしょうか。私ももう全然若くないんですけど。そういったような風土がありますのと、繁栄すれば妬まれるというような部分がありますので、なかなか一挙に突破して押しも押されぬと言いますか、持続的な発展をするとこまで卵がふ化していかないというかそんなところがあるように思います。
それともう一つはお金の問題ですね。私どもが最初資本金が1千5百万円ぐらいしかなかったんですけど、それも開業費でほとんどなくなってしまいまして、大した建物は建てきれなかったんですけど、やっぱり観光施設ですからある程度初期投資がいるわけです。
私どもは一つは農業を真面目にやる、自然をきちんと守るというような観点からいろんな方々にご協力やお願いをして回って、補助金とか取れればいいなというようなことで行ったんですけど、当初は農業関連の所に行くと「お宅は観光事業だから違うよ。」という話で、観光事業で一般的な中小企業として行きますと、すぐ担保だとかなんだかんだいう話になってまいります。担保というのは、土地の上に建てた建物ないし土地、いわゆるバブルが弾けた後だったんですけど、やっぱり担保主義なんですね。
企画書に対してお金を貸すということはまずあり得ない。なんとかしなきゃいけないんで、個人的に「自分の実家の田畑を担保にするから幾ら貸してくれるんだ」と言ったら、「あんな物はほとんど価値がないですよ」と。ですから先祖伝来の田畑あるいは山林等を非常に後生大事に守っていらっしゃると思うんですけど、はっきり言って大分とか大都市近郊のショッピングセンター「わさだタウン」の近くの農地とかいったものでない限り、はっきり言ってお金は貸してくれません。ですから先祖代々言ってる「たわけ者」とか「あの子どもの代で財産をなくしてしまった」とかいうような、いわゆる農家とか田舎の方で家を守るとかいう概念は何なんだろうかと非常に思いました。そういった意味では、いくら広大な土地があろうと、先祖伝来の立派な稲が採れる田んぼがあろうと、やっぱりそこで現実的な価値を生み出さない限りはほんとに借金の担保にもならないというように感じました。ただ、真面目に農業をやろうというのがあるので、そういう田んぼも担保の価値があるとかいうだけの話ではなくて、お米を作る、自然環境を守るという役目があるので、きちっとそこら辺はキープしていかなくてはならないと認識しております。
そしてもう一つ。自然の話になりますけど、大分県の場合雄大な自然がありますけど、手つかずの自然というのはほとんどないのではないかと思います。例えば、黒岳には原生林とかありますけど、一般的に言って、人が見て心が和むとかいうようなものは必ず人間の手が入ってます。特に久住町に関しましては、久住高原に春先から行きますと、非常に緑が綺麗に目に入っていいわけですけど、あれも何百年とそこに住む人たちが野焼きをやってきてくれたおかげで綺麗な草原がキープできているわけで、その野焼きができなくなるとすぐ藪になってしまって、ほんとは人間の手つかずだから自然なんですけども、全然見る人や訪れる人にとって心地いい自然になってないというのがありますので、自然を守るというのはそこできちんと人間が、大分の言葉でいうと「いのちきが成り立つ」ような仕組みがないと、なかなかその自然さえもキープできないんではないかというふうに考えております。
ですから、口はばったいような言い方ですが、とにかくここである程度商売とかそんなものが成り立たないと自然を守るとかへったくれもないんですよ、というようなところがございます。基本的には真面目に農業をしたいんですが、とりあえずは借入金の返済もありますし、従業員の給料も払わなければいけないんで、かなり観光という部分にもシフトして今日までやらさせていただきました。ただ観光と言いつつも、私どもは花と香りをテーマにして皆さんに心を和ませていただける施設を提供したいというようなことでやっているわけですけど、最近いろんな所、休耕田とかで花を植えるところが非常に増えてまいりました。そういうことでコンペティターと言いますか競争相手が増えてきまして、ただ漫然とやっていたのではお客さんが引き続き、継続して来ていただけない。
あと県の施設で二つほどコンセプトが重なるような施設がございまして、当然そちらの方にも流れて行くということがあります。先程、西会長さんもおっしゃっていただきましたように、一端あそこで風呂敷を広げた限りはやっぱり継続してずっと続くようなシステムを作っていかなくてはいけないのですけども、土が相手ですので、毎年同じ所に同じような花を植えたりすることで連作障害が出てまいります。そういったようなところからいきますと、きっちり有機農法ですとか自然循環サイクルのシステムを作るとかいうような形に持っていかないと、今ある価値そのものが失われてしまうし、持続とか継続どころの話でなくなってくるというようなことで、そういった意味では、本当に真面目に今日本の農業が抱えている問題をきっちり解決していかないと存続できないとひしひし感じております。
もう一つ、商品流通とか特産品づくりの話は川島さんがおっしゃったような現実がたくさんあるんですけど、私どもが一つ地元の方あるいは大分県のいろんなそういう方々に提案できるとすれば、私どもは一つは生産者の部分もございますけども、年間50万人のインターネット等でいろんな会員の方がいらっしゃる。消費者との接点が非常にたくさんございます。ある意味では徹底的に小売に徹してるところもございますので、消費者等のニーズ、消費者の情報をもっともっと物を作ったりする方にお伝えして、新しい流通とかできたらなと思ってます。またそういう商品でないとバブルが弾けた後、私ども方でも如実に結果が出ております。お土産品という形ですけども、やはり安全で地域のオリジナル性のあるもの。全国流通品などはほとんど動きません。お菓子にしろ何にしろですね。そのお菓子にしろ何にしろ賞味期限の短い物になってきますので、どうしても物を作る所から一緒にやっていかないとお客様に買っていただける商品を提供できないというようなことになっております。先程、地域の方で物作りとか直販所をやられてる方々が直面しているような問題に当然突き当ってるんですけども、私どもの方はもう少し小売りの方に特化してますので、そういった方々と一緒に商品作りだとか流通作りだとかできればと考えております。
私どもの会社の現状を申しますと。売り上げは7億ぐらい届くようになりました。累積赤字も一応解消しまして、13年の5月期から税金の払えるところまでいったんですけど、資金繰り的には非常に厳しい状況が続いております。先程資金面からの支援というようなこともございましたので、行政の方々とか金融機関の方々にもお願いをしたいんですけど、起業を後押しするような形で土地と保証人に貸すんじゃなくて、やっぱり事業性ですとか企画書ですとか、そこで一生懸命やってる人たちに投資をしていただくという部分が必要ではないかと思います。そこら辺の制度的なご支援ですとか、金融機関が本来の投資とか企業家を後押しする部分をしっかりやっていただくと、もっともっと早期に立ち上がって大きな形になるものになっていくのではと思っています。当然リスクはあります。これだけ変化の早い時代ですから、100%確実な事業とかそんなものはあり得ない。ただ徹底的にリスク要因をヘッジしながら、後20%位はやってみないと分かんないところがあるよとかいうようなところ位までのリスクを取らないと新しいことはできないというふうに思っておりますので、是非是非そういったところをご理解いただけたらと思っております。
(西 太一郎 氏)
私たちの事業活動というのは人と人との関係を豊かにする。人と自然との関係も豊かにする。そして継続が大事。そのように考えていきたいと思います。そういう中でちょっと私も言いたくなったんですけど、後で私の方のワイン工場を見学するような企画もあるようですけども、これを葡萄酒工房という具合に唄っています。なぜ葡萄酒工房というのかと言うと、ワイン工場であれば外国のワイナーになり外国のワインとは全然太刀打ちできない。日本の葡萄酒を作るんだということで、葡萄酒工房という名前を付けています。私は大分の麦焼酎「いいちこ」を作っておるんですが、「いいちこ」のマーケッティングも実はウィスキーのマーケッティングと同じ手法をたどれば絶対にウイスキーに追いつけない。エージングという問題は絶対に持ち出さないということで、焼酎というものをひたすら訴えていく。今、しっかりしなければ将来がないということもあると思います。そういう意味合いで、福田さんには今と将来の、まあ言えば「このように今しっかりして、将来はこのように考えたい」というところまで踏み込んで、ちょっと時間が少なくなったものですから、そのように踏み込んだ状態で将来的なところまでちょっとお話していただければありがたいと思います。
(福田 興次 氏)
考え方が大切かと思うんですが、見えるものと見えないものが世の中ございますし、また、いろんな発想といいますか、今まで一直線で物を見てたものを円で輪で考えてみたら、意外とスタートとゴールは背中合わせなのかもしれないんですね。半分以上行っていたら進んだ方がいいかもしれない。ちょっとしか行ってなかったら、逆に後ろ向いて走った方がゴールに近いかもしれない。自分がどう見るかによって、長所も短所も入れ替わっていくということだろうと思います。これから知恵の輪が大事だろうと。そしてそういう知恵を循環していく。
もちろん昔の人たちのいろんな知恵をお借りしながら、そしてそれをもう一回活用していく時代に入っていってるんじゃないかなというふうに思います。そして自然の環ということも、まさしく自然の環を考える時には、やはり水になったつもりで上から下りてみようと。そうするともっと違うものが見えて来るんでないかというのが、今日、コピーを、九州地図の方をお出ししておりますが、これは環不知火、ある意味では環有明という捉え方で、そこに流れ出す水の水系で線を引いております。いつまでも行政的な線引きで環境問題を語っても、それはほんとの意味での地域全体の循環にはならないと思います。これは世界的な中で環境問題が言われてわけですから、そういう中で我々は地元にあるもの、地域の特質というものを見ますと、不知火海という地形が見えて参ります。
この海を木に例えると、川が根である、山が土壌であるという捉え方をしますと、一つの山川海というのが全て一体になっている。そしてそこに水俣の体験があるということ。これは世界のブランドですね。今度はそういう水俣の体験を活かしてこの循環共生型の地域を作り出しますと、まさしくそれが環境が観光となっていくわけですね。そして世界の人たちがこの地域に循環共生型を学びに来るというような。そしてそこに住んでいる人たちが自信と誇りを持ちながら自分の故郷を語れるようなそういうふうな故郷を残せたらなという思いもございます。だからいろんな切り口があるということですね。それをあえて言いたくて資料をお渡ししたんです。そして後ろの方には自給率などを書いておりますが、これもほんとにそういう線引きをしますと、今までは都会の方が豊かと思っていたけれど、これを見るとわれわれ田舎の方が豊かなんだなと、そういうことがこの数字の中に表れてると思います。そういうことによって、まさしく自信と誇りが見えてくるんではないか。そして自分がどういうところでどんな形で戦った方がいいのかということをいろんな角度から見ることが大切だと思います。
そして何かをやる時には「人の和」、皆でそれぞれが得意とするものを持ち寄ってそして皆でそれをやり遂げていくという「知恵の輪」、「人の和」、「自然の環」ですね。三つの「わ」という形でできるんでないかなと今思っています。そういうことを我々は水俣でいち早く失敗をいたしましたけど、近代化、工業化でですね。だから今度は一周先の一番であると、一周先の一番を走ってるわけですね。ですから何も悲観することはない。失敗したことで成功することが一番の早道であるわけですからそういう取り組みをやっている。
また経営上の考え方としては、足元にあるものを活かすということで、先程お話しましたようにみかんからスタートしてるんです。私はあまり異業種を考えていないんですね。自分の得意とするものということで、最初はみかんのジュースから入りまして、それがサングリアというワインに変わっていったり、ある面ではそれがゼリーとかドレッシングとかそういう形に変わっていったり、またある面では一緒になって共同開発とかしたりして商品化してますが、それが果汁の分野ですね。今度は果皮という問題をとらえますと、マーマレードが出てくる。それから今度はみかんの皮から出るピールオイルを使って、洗剤、ハンドクリーム、そういう物も今チッソと一緒に生産したりもしております。
そして今研究開発してることは、皮にオーラプテンという成分が多く含まれてまして、ガンの抑制にいいと言われております。この皮をペーストにします。そしてそれをお菓子の原料としていろいろ供給をしていくことを今研究開発をやっているところです。来年、熊本で菓子博がございますので、それまでにそのような商品、原料として全国に紹介できるような取り組みをしていこうと、今身近な目標にしております。他にも皮の持っている効果として具体的にいいますと、猫が好きそうな餌の周辺にみかんの皮を置いておくと猫が寄り付かないとか、こたつの中の臭い匂いがみかんの皮をむいたのを入れておくと匂いが消えるとか、魚を料理した後の鍋の匂いがとれない場合にみかんの皮で洗うとか、それで煮沸するとか、そしてその液を魚を焼く時の網の下にみかんの液を入れておくと外に嫌な匂いが出ないとか、いろんなみかんからの効果があるんです。
すっぱいみかんは焼いたら甘くなるとか、それが風邪に効果があるとか、そういうことは昔から言われてる。みかん一個をたどってもいろんな可能性がまだまだいっぱいあるんではと思っています。そしてみかんの花から香料を採るとか、うちでは地ビールをやってますが、その中にみかんの蜂蜜を加えましてケセラセラという蜂蜜のビールを作ったりもしております。みかんからの蜂蜜だから決して異業種をやっているつもりはないとはそういうことなんです。全てみかん一つの中からいろんな展開ができると思っております。
今やってる事とこれからやっていこうという事でもあるわけですが、そういうことをいろんな角度から分析をしてみると、利は足元にあるということなんですね。ただ、考え方とか発想はいろんな素晴らしい人に数多く出会って、素晴らしいものに触れて、そして感性を豊かにしながら足元にあるものを磨いていくということが大切ではないかと思っています。同じ場面というのは当然ないわけですから、そういうことをこういう機会であり、いろんな機会に自ら出かけて行って、何かを得ていくという考え方でいくことが大事ではないかと思っております。あまり豊か過ぎますと、あれもあるこれもあるとついつい思いがちですので、ついつい見えるものだけで物事を追いかけてしまうというような気がいたします。
やはり、最終的には、行き着くところは教育の問題とか人材育成の問題になろうかと思います。人生80年とすれば、その4分の1だけの知識のレースだけで人生を優越されてしまうような今までの時代の中で、もう一度この多くの知識を今度は使う能力を身に付けさせてやるようなことが、今に求められてるものであろうと思います。そこに環境問題とか、ある面では農業の持っている特性を活かしながら、人材育成の中にそれを活用していくこともこれからの地方のあり方であるんではないかなと今思ってます。本当の豊かさは何なのか、そして本当に大切なものはどういうことなのかをもう一度原点から見直していく時じゃないかなと思います。
時代は今大きく変わると言われてます。これは大変な時代ということでもありますね。大変ということは大きく変わるということなんですね。決して悲観すべきことだけでもない。大きく時代が変わろうとしていることが、今大変な時代になっていることであろうかと思ってます。ですから、今までの流れ、川上の流れというものが全部今は川下の流れ、住民のサイドであり、消費者のサイドから全て物事を作り出していかなくてはいけない時代になってると思いますし、また業種に関係なく、自分の得意とするものをお互いに連携し、そして融合し合って、つなぎ合って新しいものを生み出していく時代に来てるんではないかなと思います。ですから、今までの固定観念を取っ払って、新しい枠組みをしていく。
今までの建物を建て替えようとする時に、基礎だけ残して建物だけ建て替えても、同じ物しかできません。基礎から一回取っ払って、更地にして、そこにどういう家を作りたいかということから設計が始まって、新しい基礎がそこから生まれていくんじゃないかなと。そうした時に初めて新しい枠が活かされていくことだろうと思います。その位今までの固定観念を取っ払うことが大事だと。不況というのもこれだけ長く続けば、今度は普通の状態になる。その「普況」ですね。今までがおかしかったということでもあろうかと思います。これからは富の状態ですね。これも「冨況」と言います。富の状態にするということ、冨況の状態を作り出していくということがある意味では大事ではないかと思っているところです。そう言いながらも、非常に厳しいものがいろいろとございます。片方に夢を持ちながら、もう片方にはソロバンを持ちながら、それをどう調和しバランスを取りながら、自分の夢であり理想にどう一歩近づいていくか。それがまず家族の幸せであり、そして社員の幸せ、そしてそれが地域に少しでもお役に立てる役割を持って、自分に与えられた仕事を見直していこうということで取り組みをしているところでもございます。
(西 太一郎 氏)
ありがとうございます。ちょっと順序を変えまして、河野さん、会場からもご質問を受けたいので、5分位で将来の思いとか、持続発展をこのようにしたいというようなところをお願いしたいと思いますけれども。
(河野 忠美 氏)
私どもの「くじゅう花公園」に関してまして、経営的に言いますと、1年12ケ月ありますけど、1年8ケ月、1年の12ケ月のうち8ケ月で勝負をしなきゃいけないというところがありまして、一つは持続的に経営を続けていくというところで、やはりその残りの4ケ月をなんとかしなくてはいけないというのと、もう一つ、消費者の皆さんと生産者あるいは地元の物をなんとかつなぐということで、県のご支援もいただきまして福岡の方に新しい展開をしたいというふうに考えております。これはもちろん私どものいろんなテイストを持って行くのと、九州で言いますと一番大きい消費地は福岡ですから、そちらの消費者のニーズをうんと生産の方に取り込むというのと、あちらは雪が降ったり寒いことがございません。1年365日できますので、経営的には資金的にも非常に平準化されるというような流れがございます。
それともう一つ、これだけ時代の変化が激しい時に3年先、5年先、商品はどうなっていくんだとか、何が売れるものになるんだろうかとか、はっきり言ってあんまり長いスパンでは考えつきませんし、時代の変わり方の方が早くなっている。そうは言っても、何を指針にして商売とか事業をやっていくのだろうかと言えば、やっぱり徹底的にお客さんの方に入り込んでいくというか、消費者の方に入り込んでいく。あるいは消費者の方と一体化するというようなところじゃないと、これだけ世の中の変わり方が激しい場合、業として成り立つためにはそれしかないんじゃないだろうか。
逆にそれをしっかりやっていけば、時代がどう変わろうと、お客さんの方が次はこういう物を作りなさいよ、こういう物を作ったら売れるよと教えてくれるんではないかということで、従来のいろんなCSとかマーケットインというような考え方があるんですが、それよりもっと踏み込んで私たちはホスピタリティでお客さんと一緒に成長いたしますという「ホスピタリティ宣言」をいたしまして、ホスピタリティ花公園というような形で、「ホスピタリティ」とは日本語に訳すと「おもてなしする」とか「歓迎する」とかそういう意味があるんですけど、要はホスピタリティ度を徹底的に高めていけば、そこにいろんな生きていける、あるいは事業を展開していける、いろんな答えが出てくるんではないかということで今取り組んでおります。
(西 太一郎 氏)
はい、ありがとうございます。川島さん、地域を回られてですね、これからどのようなことを重点に考えていかないと継続はできないし、発展できないんだというようなことがあればお願いします。
(川島 佐登子 氏)
岐阜県の郡上駅からタクシーでなんと5,000円もかかってしまう所に明宝村という所があるんですけども、ここで「明宝レディーズ」という女性だけのグループですが、トマトケチャップを作ってました。また、その地域で特産のハム・ソーセージも作って、ギフトセットについてはそれらをミックスにして販売していたのですけど、やはりこれから個々の取り組みというよりも、地域全体の産業として製品をアピールしていく方向が必要ではないかなと思いました。
それと、先程もインターネットという話が出ましたけれども、これからインフラが整っていかないと、過疎の地域というのは都市との交流などもできないと思います。ですから、行政の方達でしたら、とにかく情報網を発達させて、過疎の地域からでも情報を発信できるような状態にしていくことが必要だと思います。
あともう一点なんですけども、特産品を作られてる方達が消費者に直接売りたいのは分るんですけども、やはり零細規模でそこまでなかなか手が回らないといった時には、スーパーだとどうしても卸価格で叩かれてしまいます。デパートは特産品ということでかなり力を入れてます。しかし、同じ地域あるいは遠い地域でもいいので、商店街とか中小の小売店と結び付いて、販売をタイアップしながらやっていくということもポイントではないかなと思います。これから農業と商業との連携というのは欠かせないと思います。
また、先程水俣が公害でもって苦労されたというお話伺いましたけど、たまたま水俣茶生産組合という所を取材させていただいたことがあります。今お茶はやぶき茶という品種が主流なんですけども、これを無農薬栽培で作るのはすごく難しい。ところが、水俣はそういった公害があったがゆえに、無農薬の栽培、ほっといても丈夫に育つというようなお茶があったのだそうです。ですから、むしろ今まで不利とされていたことを有利なことに変えることができるということです。私がインターネットのホームページを出していて、地域特産品の所を見に来るのがどのような見方をするかとアクセスログをとってるんですけども、まず、どちらかなんですけど、自分の住んでいる地域を見る、それから多分生まれ故郷を見る。この二つは必ず見てくるんですね。そうした場合に、過疎の地域の人達がどんどん情報を出して、第二、第三の故郷、行ったこともない生まれたこともないんだけれども、第三の故郷にしていくという発想で地域をPRされたらいいのではないかと思います。
そういった時に、行政のホームページがあまりにも実際にそこに行ってみようかなというような魅力のあるページになっていない所が多すぎるんですね。もっともっと地域の産業はこうだよとか、地域の人たちでこういうような思いでこういうふうに作ってるんだよ、ということをホームページを通じて発信してあげる。もし、その品物を買ったら「あっ、こういう人に会ってみたいな、遊びに行ってみたいな」というようなことが起きてくると思います。
実際に私も、ホームページを見てメールをくれた高知県大野見村の方といろいろメールのやり取りしていた時に、そうか過疎の人ってこういうことを考えて、こういうような思いなのかということで、その方が作ったホームページをリンクしてあります。御礼は新米とその時々採れる生姜ということなんですけれども。都市の人がそうやって過疎の地域と結び付いて、なんか情報を肩代わりしてあげるというような仕組みも面白そうだなと思ってます。ですから、過疎の地域の人たちがもっともっと情報を発信すれば、意外と都市の人たちはそういった地域に対して魅力を感じると思います。魅力を感じないのは地方から都会に出てきているんだけども、地方を振り返りたくないという人の方が逆に地方に対して理解がないような感じがします。ですから、もっともっと都市との交流ということを考えていきたい。そのためにもっと情報を皆様方の方から発信していただきたいなというふうに思います。
(西 太一郎 氏)
はい、ありがとうございます。それでは秋本さん申し訳ないですけど、5分位で持続、発展の夢等をちょっとお願いしたいと思いますけれども
(秋本 治 氏)
持続的発展のための方策というようなキーワードでございますが、いかに変化に対応していくかという中で、絶えず新しいものを生みだす力、これが非常に求められてると思います。過疎地というのは、地域を見つめていくとまだ新しいものを発見する可能性がたくさんある所でもあるんですね。
事例を申し上げますと霧立越というトレキングコースの中で「違う桜があるなー」と、この桜ちょっとおかしいなと思ったんですよ。専門家の先生に聞くとああ江戸彼岸だろうよというようなことで片づけてしまう。どうも違うな。調べていくうちに東北、北海道にある大山桜らしいということになったんです。大山桜っていうのは九州にはないんですけど、それが九州にあったということだけでも面白いことなんだよということだったんですが、どうもそれでも違うなと思った。
遂にシンポジウムまで開くことに発展したわけですが、そうしましたら地域固有の桜であって、しかも素晴らしい花で色もいいし綺麗な桜なんですね。調べてみたら、69本ほど大きな木があるんです。群落を形成している。で、登録されて和名は「霧立山桜」と命名された。学名は「Cerasus
sargentii Ver.akimotoi」。私の名前が学名に入ってしまってびっくりしたんです。
そういうのが見つかってくると、今度はどうやってそれを増やそうかと。これを一つのチャンスとして捉える。接木講習会をやったり、実生(みしょう)でもこんなに増えるんだと。実生でも結構増える。接ぎ木でもこうして増やせるとか。差し穂でもいいよとか。これをわが村に5,000本位植えようじゃないかと、どんどん夢が広がっていく。ちょっとしたことでですね。
あるいは「幻の滝を発見」なんて最近は非常に話題になりました。今度11月に入りまして東京からフジテレビの取材も入ります。今年3月に、標高1,661メートルの扇山の山頂に立った時、ここでは水の音が聞こえる時があるという噂があるという。「こんな高い所に水の音が聞こえるはずがないよ」と。いやなんかそう言う人がいるという。そこで双眼鏡でずっと自然林の中を見ていたら白いのがちらっと見えた。改めてそこをしっかり覗いたら、まさに滝がある。地図にも全く載っていない。地元の人も知らない。
そこで探検を始めた。地域の猟師さんもそこは険しいからと誰も入らない所だったんです。険しい崖をよじ登って僕等はとうとう滝の所をつきとめたんです。落差150メートルくらいで、3段になっていて、一番上が75メートル。素晴らしい滝です。地図にも載っていないし誰も知らなかった。そういうことで、これも朝日新聞の一面に大きく載ったから大変なことになった。
とにかく何かを見つめてれば、次々と新たなものが出てくる。過疎地というのはこういうふうな魅力というか面白さがあるんですね。そういうことで、私どもの会社も厳しいながらも、地域とともにやっていく。そして絶えず新たなものを見つけていく。
今、まさに過疎地というのは永年培った地域の文化が消滅しつつある。それは郷土芸能もそうですし、植物とか草本木本類の関わり合いについてもそうです。いろんな語り継がれていることもそうですし、そういったものが今後ビジネスになるという部分もまた出てくる。だから、視点を変えていくと次々と面白いことがたくさん見つかってくるということなんですね。だから過疎山村は非常に楽しい、非常に豊かであると。自信を持ってやっていくと生き甲斐になるなとそういう気がするんです。地域と共にやっていくのが過疎山村の生き方だというふうに思っております。
(西 太一郎 氏)
はい、ありがとうございました。会場からも皆さんに何か困らせるようなご質問がないでしょうか。2、3名ぐらいしかお受けできないんですけども。なければ先生方喋りたいばっかりですから、またお話しますけど何かないでしょうか。はい、それじゃ手前の方、そのあとその後ろの方お願いします。
(会場)
ここにいらっしゃる方はほとんど行政関係者だと思うんですけども、パネラーの皆さんが各地で事業展開していく中で、行政の人間と喧嘩なんかして一番むっときたことは何なんでしょうか。
(西 太一郎 氏)
行政の方との軋轢でなにか問題点があった方はちょっと手を挙げていただいて、こういう問題がありましよというようなことがありましたら、いかがですか。
河野さんお願いします。
(河野 忠美 氏)
これからもいろいろお世話にならないといけないのであんまり・・・なんですけど。一つは当初なかなか私たちの言ってることが理解できない。まあ自分たちの表現力もないんですけど、理解できない。というのといろんな手続きで書類を出しに行くんですけど、最初持っていったら問題点を全部いっぺんに指摘してくれれば済むんですけど、極端になると一回に一つずつというところもあるんですね。それと担当者の方が代わると見解が変わるというようなことがあります。ただ、当初私ども農地をいろんな規制をはずして事業地に変えるとか、農地を宅地とか雑種地に変更するとか、非常に時間が掛かってたんですけど、最近は従来と比べますとスピーディーにやっていただいています。
それと、それぞれの農水の方ですと畜産振興とか農業振興とかの目的がありまして、農地をきちんと確保したい。これに対して農地持っていてもしょうがないからそこで何か違うことをしたいという時には当然そういう問題が出てきます。そこでビジネスの助けをするというよりもそれぞれの省庁は本来の目的の方を強調する、それが仕事なんですけども、どっちかというとブレーキをかけるような側面が出てきます。これはまたいろんなご理解の頂き方の話にも絡んでくるんですが、そういったところも相当出てくるんではないでしょうか。
(西 太一郎 氏)
はい、それでは次の方のご質問にお答えしていきたいと思います。次の方それではお願いいたします。
(会場)
秋本さんにお尋ねしたいんですが。秋本さんのお話の中で、やまめを人工飼育していると野生を失うというようなお話に私は興味をもって聞いていたんです。それが都会の人間にも通じるんではないかというお話を伺ったんですが、私自身も西先生のいいちこをいつもよけい飲んでいて糖尿の方をやられているところがある。で、米を無農薬で作るというような事で、自分で食べるだけですけど、合鴨を飼って、それで無農薬米を作っいる。そんな中で、私の所の合鴨もいわゆる野性を失っていくという共通点が見受けられる。最近ここ2、3日、冬場になったからと思うんですけど、野性をつけるために川に離してやるんですけど、野性が戻ってこないとういう面もある。で、合鴨の群れに真鴨の方が入ってきて仲間に入ってくる。そして人間を非常に怖がってるんですけど、その内にパッとわれわれの手の餌を採るようになってくるんです。そんな話を聞いてると、過疎地だけに限らず、都市の子どもたちに野性をつくるということを村づくりの柱にしてみたらどうなのかなと思うんですけど。秋本さん、人間の子供をどう育てたらいいのかという理念ですか、そういうものをお持ちであったらお聞かせ願いたいと思います。
(秋本 治 氏)
はい、わかりました。地球上の生命というのは絶えず自然界と交信しながら生まれて生きていくと思うんです。例えば、やまめの卵だって受精卵が発生するには、先ず天地を決めることから始まる。卵の中に油球の部分があって卵黄にくっついています。卵を転がすと必ず油球の部分が上になるように元の所の位置に戻ってくる。だから暫くすると、48時間ぐらい経つと動かすと死んでしまう。逆に鳥は動かさなきゃ天地が決まってしまうと死んでしまう。
地磁気を感じた耳石がその次には出てくる。最初2個出て、あとからもう1個出て3個になって1個消える。そこがまだ分からないと言われてるんですけども。要するに重力とか地磁気を感じた部分ができて初めて生命体となる。だから自然界の中に身を置くということは非常に大事なことだと思っています。
おっしゃるように僕等が子供にどうやって自然を体験させるか、自然に身を置く時間を作るのかというのが究極の目的なんですよ。例えば霧立越の体験などは今はお年寄りが多いのですが、もっと子供達をどういうふうにして体験させるかということが大事な部分と思っています。いろいろ働きかけていますけども、子供達もいろんな枠組みの中で動いていますし、部活だなんだと。休み中もいろいろあってそこら辺が難しいんですけども。
今、私どもが取り組んでいる一つは「闇夜のブナ林ミッドナイトウォーク」。恐ろしい夜中に森を歩くんですよ。鹿が出てきたり、猪が出てきたり、むささびが飛んだり、とらつぐみが鳴いたりで、そこで夜明けを迎える。本当に魂が洗われるような場面、そして宇宙を感じるような場面があるんですね。そういうことに身を置くことが人間性の回復に向けて本当に大事だと僕は思っているのです。これをなんとか子供たちに体験させたいなというふうに思っています。自然は、森も海も、全くその自然界を排除してしまうと、やっぱり人間も生命体としていびつになってくると思うんですね。そういうことを一つのビジネスとして新たなものを掘り起こしていきたい。そういう役割が大事なことだというふうに思います。
(西 太一郎 氏)
はい、ありがたい御質問ありがとうございました。ちょっと時間がせまってきましたので、ここで最後の締めをしたいと思います。それぞれの皆さんから1分ちょっと位で言い足りなかったことなどを最後に御発言をお願いしたいと思います。まず福田さんの方からお願いしたいと思います。
(福田 興次 氏)
はい、わかりました。先程、川島さんの方から水俣のお茶の件のお話もありましたが、これは昔の在来種なんですね。在来種は自分の外敵を守ものを持ってるんですね。ですから自然の力で生きていけるものを持っている。だから逆にそういうものがいっぱい残ってたから良かったんです。ということで無農薬茶みたいなものが今脚光を浴びてます。
私もスペインに行った時に感じたんですが、街路樹はオレンジなんですね。誰もちぎらないんですね。誰もちぎらないなと思ってたら在来種です。すっぱいから誰もちぎらない。街路樹がオレンジであるということだけで、その地域らしさというものをすごく印象づけられていく。だから品種改良でいかに早くて高値で売れるかだけではなくて、ハウスじゃないと育たないような、薬をかけなきゃ生き延びれないような品種改良だけをするんじゃなくて、もう一度昔の自然の力で生きていくようなそういうものを見直す時にきてるんじゃないかなと。そういう気候風土を自分たちの武器として生かしていく。そしてその地域らしさというのを強烈に進めていくとことが大切ではないかなと思います。
物事をする上で大事なのは、私は「天地人」ということわざがありますが、「天の時」、「地の利」そして「人の和」。いくらいいものでも早すぎたら失敗しますし、遅すぎたら空振りをしてしまいます。やはりグッドタイミングというのは、大きなものが動く瞬間に力が発揮できれば、相手の力を借りて大きなものを動かすことができます。ですから、そのタイミングをどう見極めるか、時代の背景ですね、今何が求められてるかということを的確に知ること。そして一歩先に計画を立てておかないと、今ブームという時に計画を立てたら空振りになってしまう。だからその時はなんだろかという論議されるくらいの一歩先の論議をしていくこと、そしてそれを押し進めていくという時代の背景を見極めるということが大事だろうと思います。そして「地の利」ですね。歴史文化から気候風土、人の問題まで踏まえて地の利をどう活かしていくのかということが大切であろうと思います。
そして「人の和」ということで人のネットワークですね。それぞれが得意とするものを持ち寄りながら、大きな目標に向かって皆が力を出し合っていくようなそういう関係が必要かなと思っております。そのためには、やはりまず町で皆でやろうよという掛け声だけじゃ駄目ですね。やはりオセロゲームと一緒だと思うんですよ。端と端が変われば真ん中が変わります。自分が本気で変わったらその周辺が変わっていくんですよ。それを助成金、補助金ありきで動いてしまったらもうまねごとだけですね。また同じ形に戻ってしまいます。だから本気で変わる人間をどう支援していくのかということが今一番問われてるんじゃないかなと。昔から中国で言われているのが「魚を与えるな。魚を与えるよりも竿を与えよ。」という言葉があるんですが、釣り方を教えてやる、生き方を教えてやる、その結果、自ら汗をかき、努力して魚を釣り始めるんですね。やはりどう生き方、考え方を伝えていくかという方が大事ではないかと。
そこを行政の方々がどうサポートしていくか、周辺、地域全体がサポートするかということが大事であろうと思います。言葉は悪いですが、役人というのは役に立つ人でございますから、基本は地域にお役に立つ人であり、役所も役に立つ場所であるわけですから、やはりそういう立場に立って、それぞれが自分に与えられた中に、地域をどうしたら物心ともに豊かになれるのか、そして子供達にどうしたらいい故郷が残せるのかということを、それぞれが自分に与えられた生活を通して取り組んでいくことが大切だと思っています。
やはり過疎といっても人口だけの過疎じゃないんですね。一番恐いのはそこに住んでる人の過疎が怖いんです。心の過疎です。だから心が豊かであれば、そこに必ず子ども達も戻ってきます。そしてまたそこに人々が集まってきます。ですから住んでる人がまず心を豊かにすること。そして心の過疎をとっぱらってやるということが一番大切ではないかなと。今まで目で見えることだけでいいか悪いか、プラスかマイナスか、長所か短所かだけを言ってきました。でも見えないものの大切さをもう一回ここで取り戻していくということが大切だと。必ず答えは二つある。どっちを選択していくかという。そしてその調和の中にほんとの豊かさがあるんだということをもう一度再認識しなくてはいけないんではないかなというふうに思います。
(西 太一郎 氏)
はい、ありがとうございます。それでは、河野さんお願いします。
(河野 忠美 氏)
はい。当初いただきましたいろんな資料の中に、地域の資源あるいは価値というよう議論がありましたんですけれども、結局どこにいってもよそにない資源というか価値があると思います。オリジナリティといいますか、それさえしっかり世間にアピールできて、いろんな人々に理解していただければ、必ずその価値に対して値段が付いたり人が来たりというようなことになっていくんではないかと思います。いろいろ言いましても、やっぱりある程度よそからいろんな人が来てくれない限りには、そこでいわゆるいのちきが成り立つ、あるいはお金が落ちる仕組みができませんので。多分、過疎、私の実家のある市町村でもかなりの予算を構造改善事業で、基盤整備ですとか、河川改修とかいうようないわゆる土木予算に、各市町村、過疎に行けば行くほど土木建築業が産業だと思います。そちらに割く予算の一部でもいいですから、地域ブランド、地域の価値を創るというような形で使っていただきますと、かなりリターンのある投資になるのではないかと思います。
例えば地域集落85戸で、そこに住んでる住民が200人とか300人位の所に何年にもわたって何十億というお金を、税金をつぎ込んだとしても、そこから生まれるリターンは、もう農業者は専業農業者は3人しかいないとかいうような形で。もちろん車の通行は良くなったとか、洪水の害はなくなったとかはあると思います。じゃあ田んぼの上に価値を生むような、あるいはお金を産むようなものになっていくのかと言うと、これはまた別の議論だと思います。やっぱり過疎とは言いつつも、いろんな人が来てくれて交流できなければそこで生活が成り立っていかないので、ハードよりももっともっとソフトといったものを生み出すところに予算を付けていただければというふうに考えております。
(西 太一郎 氏)
はい、川島さんお願いします。
(川島 佐登子 氏)
私の方はちょっと短めに。先程、行政の支援を考えて欲しいというふうに言ったんですけども、行政主導で作られた施設で、器だけ立派でも中身が伴わないと、やはり失敗するケースが多くなると思います。やはり自主的にやってもらえるような意欲づくりをしていくことが大切だと思います。
あと、外側からの目を入れるということで、よくコンサルタントとかを導入することがあるんですけども、場合によっては何か特産品づくりをした場合でも、儲かったのもはコンサルタントだけというようなことで、なかなか旨くいかないケースが多いです。コンサルタントの人選についても、自分だけ話すような人ではなくて、皆のことをよく聞いて、よく考えてくれて、しかもその地域の事に対して愛情、愛着地をもって考えてくれる人を選ぶんだったらいいと思います。
いろいろ回ってまして成功する所は人、リーダーになる方、社長さんが優れた方が多い。またその社長さん達というのはとにかく考えてらっしゃるんですね。やはりこれから二十一世は心の時代でもありますけど、物事をきちんと考えられる人が成功するのではないかと思います。
また情報化についてなんですけど、インターネットだけが情報ではなくて、むしろ私はバックオフィスの面が大切だと思っています。いわゆる数値や販売データということが情報であって、これを分析していかに活かしていくかということが大切です。でも販売システムとか生産管理とか受発注システムのこととか、そういったようなことを過疎地でその方々が全部やっていくのは困難である。その場合に、行政がいろいろそういった仕組みなどを提供してあげて、支援するのはいいのではないかなと。そうすれば生産と販売に打ち込むことができます。
最後なんですけど、高知県の大野見村の方が自分のことを過疎貴族って言うんですね。すごくゆとりがあっていい言葉だなと思ったんでご紹介したいと思うんですけど。四万十川の清流が今日まで支えられてきたのは、沿線の町とか村が過疎であったからであって、これから開発と自然保護の接点をどこに置くかということがありますけれども。そういった清流を守ために農薬などを使わないできたことが逆にこれから有利に働くということは考えられるわけです。
でも、そういういいものを作っていても、誰かそれを知らせる手段、またそういったものを知って努力を評価する消費者がいなければならない。そういったことをこれから考えていく仕組みづくりをしていくべきではないかなと思います。実は、これが終わりましたら岡山経由で高知県に入って、生姜堀りを三日間手伝って、過疎の現状というのはどういうものかなというのを実地で体験してこようと思ってます。それらをまたホームページなどを通じて発表して、都市と農村、過疎の地域の方たちともっともっと交流を深めていきたいと思っておりますので、何かお暇な折にはホームページを見てください。よろしくお願いします。
(西 太一郎 氏)
はい、ありがとうございました。秋本さんお願いします。
(秋本 治 氏)
ちょうど時間がきてしまいました。会場は行政の方ばっかりというようなことですが、行政の方はたくさんの情報の下で非常に理屈はこねられますけれども現場論がない。現場で悩み考えることがない。物事は「分かる」ことと「感じる」ことの二通りある。「分かる」というのは机上論であって「感じる」ことは現場論である。「分かる」ことは間違ったことであっても文章等で旨く表現できて、なるほどそうかなと思えれば間違ったことでも平気でやってしまう。「感じる」ことというのはどうも表現できないけども、なんか違うよと。これが実は大事な部分ですね。「感じる」ということは非常に重い。そういう現場論がちょっと欠けているんじゃないかという気がいたしておるところでございまして、「感じる」それをキーワードにして終わりたいと思います。
(西 太一郎 氏)
はい、ありがとうございました。時間がきましたけれども最後に。私が考える地域づくりというのは、一番大事なのは「独創的な発想」。これが一番大事だと思います。実は大分の麦焼酎というのは今全国一になったんですけども、なぜこのように売れたのか不思議でしょうがない。なぜなんだというように問われた時に、実は秘密があるんです。大分の麦焼酎は麹も全部麦。普通の焼酎は麹を米で作るんです。それを麦で麹を作る。全部麦。これが実はこの焼酎業界ではあっと驚く革命であったわけです。いわば独創的ですね。そういうような独創的なアイデアというのは非常に大事ですし、マネのないものを作って、マネのない地域づくりをすることがこれからの戦略上は大変大切なんじゃないかなとそのようにずっと思っています。
過疎問題。問題と書いていますけれども、私は大いなる田舎というぐらい胸を張れるような地域づくりが一番これから幸せなんではないかと思います。
今日はほんとにコーディネーターとしては幼稚なコーディネートでしたけれども、何かヒントになるものがあれば私も嬉しく思います。今日はほんとにありがとうございました。
(終わり)