禁・無断転載
九州ハイランドシンポジウム
テーマ:「都市と山村の交流による活性化について」

演題:「霧立越とエコ・ツーリズム」
(講演録校正原稿)

九州ハイランド構想とブナ帯文化
 昨年11月3日に6回目の霧立越シンポジウムを開きました。「日本上流文化圏会議」と題して、メインテーマは日本のブナ帯文化です。全国から150人ほど集まって頂き議論を深めました。日本上流域文化圏構想は山梨県の早川町ですが、私はこれにブナ帯文化を結びつけたいと考えました。
 
メインゲストに国土審議会の下河辺淳先生を迎えて、午後1時から延々と6時半まで続き、その間ずーっと緊張感が持続した会議になりました。場所が神社の境内というアウトドアで、その上寒かったせいもあるかと思いますが参加者全員非常に盛り上がりました。

 下河辺先生は次期全国総合開発計画について、少なくとも50年単位の考え方だとおっしゃっていました。政治・経済ともに難しい時期ですので打ち出すタイミングがつかめないということもあると思いますが、まだ発表になっていません。近いうちに発表になるということでございますが、こういう計画策定に地域からいろいろな現場論を出して国づくり反映させたいという狙いもあります。

 その中で、私ども過疎山村は、今後どのような生き方をしたらいいのかということを議論しまして方向づけをしようということであります。そして、それはブナ帯文化圏の位置づけでよいのか検証しようという狙いもありました。

 本日の「九州ハイランド構想」という非常にすばらしい概念ですが、これもまさに「九州ブナ帯文化圏」の活動と関係が深いと考えるわけでございます。そういうことで、本日は、ブナ帯としての切り口でお話をさせて頂きたいと思います。

 ブナのお話をしますときに、あとから伺いますとまったくブナのことを知らない方ばっかりで、ほとんど理解して頂けなかったというようなこともありますが、本日は皆さん九州ハイランドとしてブナ帯に係わっている方ばかりですので気楽にお話ができると嬉しく存じております。

風土が地域固有の文化を作る
 さて、地域づくりや地域の活性化論は、そこに住んでいる方々がどう元気がでてくるか、地域に誇りと自信を取り戻していくかということですが、これまで全国同じような町づくり、画一的な開発を進めてきたという反省に立つわけです。

 そこで、いかに違いをつくっていくかということですが、その違いはいろいろな角度からとらえられます。私どもはその地域の生態系や植生の中からも考えていこうというわけです。人の暮らしは、そこの空気や地形や植生が違えば性格も変わってくるということがあります。

 例えば、五ケ瀬町においても、大字三ケ所、大字桑野内、大字鞍岡と地域に大字が3つあり、それぞれの地域で人々の性格が微妙に違います。大字三ケ所は、特に宮の原や坂本地区は周囲を山に囲まれた小さな盆地でまとまりのよい地域です。暗黙の了解みたいなものが働いている。これは、荒踊りという400年の歴史だと思います。

 荒踊りは、国指定の重要無形民俗文化財ですが、地区をあげてのお祭りで100人にも及ぶような踊りの役割が伝統的な世襲制で受け継がれている。鷹匠はその家代々が鷹匠の役を担い、道化猿は代々決まった家が道化猿の役柄を演ずるという世襲制です。その歴史が、まとまりのよい村をつくり、暗黙の了解みたいなものに作用しているように思えます。

 大字桑野内地区は、南阿蘇の眺望がすばらしい台地で、真っ赤な夕日が村を染めて沈んでいくというロマンの地です。ですから、のんびりとした暮らしぶりです。昔から高台のため水のない地域ですが、水不足に苦しみながらもあまりお役所に対して文句もでない。道路などのインフラ整備も一番遅れてしまった地域です。これは、雄大な地形がそういうそういうおおらかな性格を育てたように思えます。

 一方、大字鞍岡の方は、急傾斜地が多くV字谷でその川は熊本県に流れているので熊本との交流が多い。ですから肥後人の性格に近く、険しい地形ゆえに役所に対してもよく文句をいい、行動的なところがある。

 五ケ瀬町のような小さなコミニティでもこのような違いがありますので、照葉樹林帯とブナ帯という違いは少なくとも数千年という地域の歴史がそれぞれの地域固有の文化を育んできていると思われ、その違いをいかに際立たせるかということは非常に重要なテーマではないかと思うわけです。

照葉樹林帯とブナ帯文化
 私は子供の時から鞍岡の山中で育ちました。小学校も高学年になるとイノシシ狩りに猟師さんたちについて山に入ったり、ウサギや雉、山鳥の罠を仕掛けて生け捕ったり、カケスやヒヨドリなどの野鳥を捕って飼育したり、魚捕りに行ったり、木の実拾いをしたり、山菜狩りをしたりといった狩猟採集的な暮らしがありました。

 その森は、秋になると山全体が紅葉に包まれる。紅葉が終わると葉っぱが落ちて裸の山になる。そこへ白い雪が降る。そして春になると山菜の芽が出てくる。夏を過ぎれば木の実が実り、キノコが採れる。そういう森の恵みで生きていく部分というのがあった。

 このような暮らしから、西日本は常緑広葉樹の照葉樹林帯と言われることに違和感を持っていました。子供の時から森の中で暮らしていた感覚は、冬に葉っぱが落ちない森なんて考えられないのです。秋になると葉っぱが赤や黄色になって落ちてしまい、雪が降る。冬は狩猟のシーズン。春になると雪が解けて、川に柳の芽が吹いて、淡い新緑が裾野からだんだん山のてっぺんの方へ駆け上がっていく。これが、私たちの暮らした森なんです。

 冬も葉っぱが落ちないタブやクス、シイなどの照葉樹林の森で暮らした歴史を持つ人々と、冬になると葉っぱが落ちて雪の上で狩りをする歴史を持つ人々とは、長い暮らしの歴史から生活作法や生活文化などいろんな点で違う文化を持っているという考え方です。

 私は若い頃、山で木材の伐採作業をしていました。ですからいろんな木の名前や材質の特徴、特有の匂いなどを知っています。また、昭和30〜40年代にかけては国有林の森林開発も盛んで、天然林の収穫調査などに駆りだされていました。10センチ以上のすべての樹木の胸高直径を測り、樹高を読み取り、空洞は叩いてみて読み取るわけです。乱暴な話ですが「空洞30%」などと勝手に呼んでおりました。このようにして、谷間に育つ木、尾根に育つ木、岩場に育つ木、などを見てきました。その中でブナという木の位置づけを感じていました。

ヤマメはブナ林が育てた
 もう一つブナに関心を持ちましたのは、ヤマメ、アマゴなどの棲んでいる地域は源流にブナ林を持っているということです。河川陸封魚といわれるヤマメやアマゴなどの分布と日本のブナ帯分布を重ね合わせてみるとイコールなんです。源流にブナ林を持つ河川にはヤマメ・アマゴが生息している。昔ヤマメがいたが今はいないという河川は、その源流のブナ林が無くなったところであるわけです。

 ブナの北限は、北海道の黒松内町、南限は大隅半島の高隈山、屋久島には世界遺産になるほどのすごい原生林がありますが、ブナの木がない。だから屋久島にはヤマメがいないと考える。現在はヤマメがいます。昭和43年の春、私のヤマメを放流に運びました。その後、鹿児島の水産試験場からも追加放流がなされました。その後の情報では、「常緑広葉樹の流域にはいなくなり、上流の落葉広葉樹の流域にだけ残っている」というふうにお聞きしました。

 ヤマメは日本固有の魚ですが台湾にもいます。台湾には標高1400〜1500mくらいから台湾ブナがあると言われていますので非常にうれしくなり、そのあたりから興味がでてきたわけです。こうしてブナ林をたどって行くとその奥は非常に深いものがあります。

 ブナ林は、1万2千年〜1万3千年前、氷河時代が温暖化してくると、西日本一帯はブナ林が広がったとされています。それまでの寒帯針葉樹林は北の方へ移動し、落葉広葉樹林のブナ帯になりました。ブナの森は豊かな水を湛えた川を造り、サケ科の魚が遡って来ました。

 6千5百〜7千年前、今より気温の高い時期がありました。氷河の氷は更に溶けてきて、海面が上昇して現在のような日本列島が形づくられたわけです。。これを縄文海進と呼ぶわけですが、このときにサケ科の魚たちはみんな水の冷たい北の方へ移動してしまったわけですから、渓流の奥深く水の冷たい水域に取り残されたのがヤマメやアマゴというふうに考えるわけです。それで、陸封魚なんです。縄文海進のとき西日本の低地は照葉樹林帯になり、ブナは高地に遷移しました。

ブナの森が縄文文化を育てた
 ブナの森は、ドングリやクリ(ブナの仲間)など、森じゅう実のなる木に覆われました。古代の人々はこの木の実をあく抜きして食べることを発見した。ドングリを容器に入れて焚き火にかざし、焚き火の木灰を入れて煮た後、水にさらすと美味しく食べられる。必要は発明の母といいますが、ブナ林が縄文土器を発明させたわけです。ブナ林がなかったら縄文文化は育たなかった筈です。

 九州は、最初の縄文時代の幕を開いたところですが、火山の大爆発などにより最終的には東北地方で縄文文化は花を開いた。それらを考えるとブナ帯のなかにさまざまなものが見えてくるというわけです。

 このように考えると、ブナ帯には約1万年続いた縄文時代にまで遡る暮らしの作法や哲学が潜んでいるのではないか。縄文時代は非常に高い文化を持っていたとされていますが、そういう森の思想が九州山地にもあったのではないか。それが今日では途絶えてなくなりつつあるのではないかということです。

ブナ帯文化のフィールド「霧立越」
 私たちの町の長期ビジョンに、九州ブナ文化圏五ヶ瀬構想というのがあります。そのとっかかりとしてはじめたのが「霧立越」なんです。アイディアというのは一つの哲学、ビジョンがあって、それがいつも頭にあるといろんなものを生み出してくれるものです。

 霧立越の発想は、不思議な人物の来社がきっかけでした。今もってその方の素姓はよくわかりませんが、ある時、薩軍が通った「霧立越」を歩きたいんじゃがと事務所に現れました。「あそこは今藪になっていて通れませんよ」と申し上げても「そこを行ってみたい」と言われるのです。そのうち、鞄から薩軍の旗だという布切れや、西郷隆盛の指揮棒だというもの取り出して見せられるので、この人は少し頭がおかしいのじゃないか思いました。時として、西郷隆盛の信奉者は、得体の知れないような方が多いわけです。

 「霧立越」というところは駄賃つけの道であるという話は知っていました。途中の白岩山まではよく登っていましたが、その先は藪に覆われて通ったこともなく、その先はどんな道かまるっきりわかりませんでした。だけど地形はだいたい理解できていたので、話の弾みでつい「ご案内しましょう」ということになり、無謀にも藪の中の始めて歩く道をご案内することになりました。その道は、ほぼ等高線上に延々と尾根伝いに続いておりましたが、最終的には、道を間違えてしまい、命からがら林道に出てきました。

 このように、最初はさんざんな目にあった霧立越ですが、「これはもしかしたら」との思いから地元の村おこしグループの支援を受けて藪を切り払ってもらい歩きはじめたところなんです。スズタケの藪を刈り払っただけで標高1600m付近のところに、延々と続く立派な馬道が現れたわけです。

 何でこんなところに道があるんだろうといわれますが、馬の背で物資を運んだとか、薩軍が行軍したとか、平家が通ったとか、タイシャ流が伝承されたとか、いろんな歴史があるわけです。そこで、新緑の一番いい時期と紅葉の一番美しい時期に霧立越を歩いてシンポジウムを開こうと思い立ったのです。

 霧立越は、昔は大変な難所でしたが、今はスキー場のリフトに乗れば標高1600mまで腰掛けたままでも上がれてしまうし、林道から20分も登ると稜線まで上がれて、尾根のいいところだけを歩ける。しかも、ブナ原生林の中ばかりですからそこが魅力となって一躍人気が集まったというしだいです。また、12キロの6〜7時間というのも程よいトレッキングの距離でしょう。これより長ければちょっと大変だし、短くても軽すぎる。6〜7時間という距離は、椎葉や五ケ瀬の宿泊施設にも大きく貢献できるわけです。

タヌキが出没した駄賃付けの道
 椎葉村に車道が開通したのは昭和8年です。住友さんから100万円出して頂いて開設した道路なので、100万道路と言われていました。車道が開通するまでは大まかに4つの駄賃つけのルートがありました。1つは神門口といい南郷村の神門の方へ越す峠道。もう1つは米良口で西米良から西都市の方へ抜ける道。3つ目が人吉へ通じる球磨口。4つ目が馬見原口。蘇陽町馬見原へ越す馬見原口が実は霧立越で、いずれの峠道も大変な難所であったといわれています。

 駄賃付けは、早朝暗いうちから家を出て、峠に上がって夜明けを迎えるというような時間帯で移動しておりました。この様子は「駄賃つけ歌」にも歌われています。山地からは、糊樽(ノリウツギの皮を剥いで積めた樽で和紙の原料となった)や川ノリ、キノコ類、毛皮などさまざまな物を運んでいたようですが、時代によっては、ろくろ製品も運んだ時期があるようです。ろくろ製品は木地屋の活動です。椎葉山中にも木地屋の地名があり、五ケ瀬にも木地屋や木地小屋などの地名が残っています。

 馬見原からは、酒、焼酎、塩、味噌などが運び込まれました。遠い道のりを運びますので、途中ではいろいろなアクシデントがありました。霧立越には、たちの悪いタヌキが出没するという話が有名です。タヌキに化かされて突然馬が暴れ出して、谷底へ落ちたり、積み荷の酒が減ったり、薄くなったりということもあったそうです。魚を運んでいると途中で魚を取り上げられたなどの話が語り継がれています。

 馬見原の明治生まれのおじいさんにもパネリストになってもらってシンポジウムを行いました。当時、馬見原は7〜8軒造り酒屋があったそうです。酒を馬で運搬する時にはコップのように細長い2斗樽が使われていました。

 駄賃付けさんは一人で2〜3頭の馬を使い、数人で連れ立って移動していたといいます。ですから10数頭から20頭くらいの馬の隊列が集団で移動していたことになります。一人の場合何かアクシデントが発生した時対処できないからです。

 馬の背に積んだ酒樽が薄くなったり減ったりするというのはどういうことでしょうか。この問題についてお話をいただきました。それは、樽の輪の部分に小さな穴が開いていたということで、どうも馬方さんがその穴から飲んでいたんじゃないかということです。桶の輪をコンコン叩いてずらして、そこに穴を開ける。飲んだ後には、付近の木の枝を削って開けた穴に打ち込み、桶の輪をコンコン叩いて元にずらすと跡形が見えないわけです。飲み過ぎた時には水を足していたんでしょうね。うすうす気付いてはいたけれど遠い道のりを苦労して運んでくれたんだからタヌキのせいでよしとしたんじゃないかということです。

馬の鞍を置いた鞍置村
 もう少し霧立越についてお話しましょう。これは伝説の域なのですが、五ヶ瀬町鞍岡の「鞍岡」の語源は、鞍を置いた村、すなわち鞍置村が転じて鞍岡村になったといわれております。その馬の鞍が現在でも大切に保管されています。この鞍は那須の大八郎宗久の鞍だと言われております。

 今を遡ること八百数十年前。壇の浦の戦いに敗れた平家一門は全国に散り散りになって隠れ住みました。そのうちの一団は肥後の阿蘇家を頼ってきて更に鞍岡から椎葉へ逃れたとの説があります。

 阿蘇神社と鞍岡の祇園神社は、古来から非常に深いつながりがあります。阿蘇神社の宮司さんが鞍岡の祇園神社の宮司さんになっていたという記録もあるそうですが、そういう深い関係にあり、阿蘇から鞍岡そして椎葉のルートができたというお話があります。

 鞍岡から更に山深い椎葉へと霧立越を越した時。霧立越は非常に険しいので鞍岡に馬の鞍を置いて行ったと伝えられているのです。その後も鎌倉幕府は追討の手を緩めず、那須大八郎宗久に平家の残党の討伐を命じたのですが、那須大八郎宗久もまた霧立越のあまりの険しさに馬の鞍を置いて椎葉に入ったというのです。その馬の鞍が現存しているというお話です。

タイシャ流の古武術が伝わった
 鞍岡には、タイシャ流の棒術と白刃という古武術があり、祇園神社の夏祭りに奉納されます。元々は人吉や椎葉にもあったといわれますが、その形は現在では鞍岡だけにしか残っていません。真剣と棒とで打ち合う激しい古武術です。その武術の秘伝書・巻物がご神体として鞍岡にお祀りされ3巻ほどあります。椎葉にもその秘伝書が3巻は確認されています。

 その秘伝書は、いつでもは見ることが許されておりません。隠し文字なども入っているため古文書の専門の先生もなかなか解読できないということです。

 この秘伝書が『霧立越』を行ったり来たりしている。秘伝書巻末の伝尾判を見ると、正保2年の山村四兵衛からはじまり、椎葉の人になったり鞍岡の人になったり馬見原の人になったり「霧立越」を行ったり来たりしていたことがわかります。

 タイシャ流は、剣豪丸目蔵人の武術で、丸目蔵人は晩年球磨郡錦町に隠居しました。錦町には現在でも丸目蔵人のタイシャ流を継ぐ宗家がいらっしゃいます。人吉から椎葉へそして鞍岡、馬見原へとまさに霧立越ルートで伝承されたわけです。

西郷隆盛率いる薩軍が敗走した
 明治10年4月、田原坂の戦いで敗れた西郷隆盛は、矢部に退却して軍議を開き、ひとまず人吉に集結して、日向、薩摩、大隅の兵を募って再度攻撃をかけるとの方針を決定し、馬見原、鞍岡、椎葉、と霧立越ルートを行軍して人吉に集結しました。

 霧立越の行軍は道が険しくて大変難渋したそうで、4月下旬なのに数尺の雪が残っていて、雨が降ってワラジがぬれて破れ、裸足で歩く人が続出しました。雪の上を裸足で歩いたために弾薬係の山路という人の凍傷がひどく、後に延岡病院に回送して足の指を全部切り落としたという記録があります。

 4月下旬でそんなに雪が残っていたなんて今では信じられません。やはりこれも地球の温暖化現象かなあという思いもいたします。

 こうした霧立越にちなむいろんな話が楽しいし、学ぶことも多いわけなんですが、ここでは時間の制約上詳しくお話することができません。もし、よろしかったらインターネットのやまめの里のホームページにシンポジウムの記録を掲載していますのでご覧ください。やまめの里とか霧立越などで検索すると出てまいります。

山地の民は尾根伝いに住んでいた
 霧立越は、なぜそんなに標高の高いところに道があったのでしょうか。これは、おそらく、かつて山地の民は尾根の近くに住んでいたのではないかと考えるのです。

 尾根の近くは湧水もあり、傾斜も緩やかで豊かなブナ林の森の恵みが満ちています。雪が降ってしかも根雪にならないところが一番暮らしやすいといわれます。そして、何よりも屋根を葺くための茅場が造りやすい。茅は毎年火を入れて焼かなければ森になって消滅します。阿蘇の草原が無くなるという話も野焼きができないから草原が無くなるわけで、茅場を維持するためには毎年火を入れなければならない。

 野焼きの火の管理はむずかしいです。谷間から火を入れると恐らく山の稜線のてっぺんまで火がかけあがって燃えてしまうでしょう。尾根を使って向かえ火で火を消していく技術があるのです。そのためには、尾根を囲んだ部分が火の管理に適しています。

 霧立越の途中に馬つなぎ場と呼ばれているところがありますが、そこは草原であったといわれています。そこには自然の作用ではできないような窪地があります。おそらく当時は粘土で固めた窪地をつくり、天水を貯めて馬に水を飲ませたのではないかと思われます。

 皆さんは、椎葉の佐礼というところの民家をご存じでしょうか。標高1000mほどのところの尾根に立派な家があるんです。今4軒ほどありますが住んでいらっしゃるのは80歳のおばあさんが1人です。
 ここの建物の構造は鶴富屋敷と同じ構造です。屋根は今は茅葺きができないので鶴富屋敷ほどの迫力はありませんが、相当古い立派な民家が残っています。昔の家は、クリやケヤキ、カツラ、モミ、ツガなど素材を吟味して巨木を使って建築してありますので丈夫で長持ちするわけですが、おそらく二百年くらいは経っているんじゃないかと思います。

 木材は完全地場調達で、しかも木挽きノコで挽いた材料を使っている。しかも、桁のところに彫刻まで施してあります。家具などもケヤキの1枚板を使った立派な作り付けの家具で、よく手入れされていてびかびかに光っています。この民家なども昔は尾根の付近にくらしていたという名残りではないでしょうか。それが車社会になってから、谷の方へ移動して降りたという経緯があるわけです。私はぜひ佐礼の民家を文化財に指定して欲しいと考えています。

 文化財はその形を保存するだけではつまらない。その民家付近ではヒエやアワを栽培し、家ではヒエをついたり、みのかさやむしろを編んだり、庭の筵には山菜や木の実が干してあったり、馬屋には馬を飼ってあったりして、ある時代を特定し、その時代の衣装を付けて生活を再現していくと面白いのではないでしようか。狩猟採集的な暮らしを再現して昔ながらの暮らし方を保存する。あるいわ体験するということに価値があるような気がします。その付近にはまだ直径1m以上もの大木がうっそうと茂っている森もあり、尾根の近くですから見晴らしも良いすばらしい環境です。これは学術的な資料としても価値があると思いますし、大きな観光資源ではないでしょうか。

森の作法・ヨキの語源
 そこで、森ではどういう生活作法が培われてきたかということについてお話をしたいと思います。それは、猟師さんや山師さん(木こり)のお話を聞けば大変判りやすい。猟師さんや山師さんの暮らしの根底にあるのは、山の神がいて、水の神がいて、自然というものはすごいものである。人間の力ではどうしようもできない。山の神がすべてを支配して森の秩序が保たれているという思想があります。それは哲学的です。

 ヨキの語源をご存じでしょうか。ヨキという道具は皆さんご存じと思いますが木材を伐採するときに使うまさかりの一種です。それをなぜヨキと呼ぶかということです。それは、ヨキの柄のところを見ますと4本の線が入っています。そしてもう一方に3本の線が入っています。この4本の線は、太陽と土と水と空気をあらわしているということです。ヨキは、即ち4つの気が入っているので4気ヨキと呼ぶわけです。

 私の父が山に仕事に行く時に、ヨキやノコを毎日持って通うのは大変ですから、大木の根元に道具を置いて帰っていました。その時に「4本の線の入ってる方を地面に向けて置くように」と習ったといいます。ヨキは木の生命を奪う道具ですから木の生命を育てる4つの気が入っている。自然の再生という考え方だと思うわけです。これは縄文時代に通じる思想だと思うんです。3本の線は山の神に捧げる御神酒に通じるという説です。陰陽五行の節の三合の理などもあるのでしょう。そういう小さな道具ひとつにも哲学的な思想が入っているんです。

のさらん福は願い申さん
 狩りの作法も哲学的です。椎葉の尾前善則さんは、昔からの狩りの作法を伝えている九州を代表する猟師だと思います。私たちの霧立越シンポジウムにもすでに2度程ご出席を願って講演いただいております。そのお話の中で、民俗学者の柳田国男の有名な「後狩詞記」にも出てこない部分、柳田国男も聞き落としたであろうと思われるお話があります。

 猟師の作法は「のさらん福は願い申さん」というのが根底にあります。正しい行いをしていけば、山の神が獲物を恵んでくださるということであり、恵んでくださったものだけで満足ですという哲学があります。それが森の秩序を保っていたと思うのです。その中で「オコゼ祀り」の作法は、もうこれは本当に哲学だなあと感じます。海のオコゼを白紙に包んで山の神に捧げるというものです。今、椎葉の民俗資料館にも残されているそうです。このお話を最後にしたいと思います。

 おおよそ猟師には、ウウリュウシと呼ばれる猟師とコリュウシと呼ばれる猟師の二つの猟師がいるといいます。ウウリュウシは強欲で他の猟師が捕った獲物でも取り上げてしまう、サカメグリの作法を犯してまで獲物を捕る猟師を指します。サカメグリとは、干支の方位の順番に山に入り、その日定められた方向でしか猟をできないというオキテを破ることです。一方コリュウシは、サカメグリの作法もきちんと守り、山の神を大切にする正直な猟師で森の作法をきちんと守る猟師を指します。

 むかしある時、ウウリゥシもコリュウシも山へ狩りに入りました。山には至る所に山の神がいるわけです。そして山の神は女性の神様です。その山の神がお産をしかかっている時にウウリュウシが通りかかりました。山の神はウウリュウシに、「何か食べ物を持たないか」と尋ねましたら「お前なんかにやるものは持たん」と言って通り過ぎました。次にコリュウシが通りかかりました。山の神は同じように尋ねると、コリュウシは「こんなこともあろうかと思って絶えずこうして持ち歩いています」と言って食べ物や飲み物を差し出しました。

 山の神はたいそう喜んで「ウウリュウシのような強欲なものには獲物はやらない、コリュウシのような正直者に獲物をあげましょう」と言いました。それ以後、ウウリュウシが猟に行くと獲物が目の前に見えていても逃げられて捕らえられず、コリュウシが猟に出ると、獲物が足元に転がり込んで来るかのようにたくさん捕れました。

 コリュウシの家では食べ切れません。隣近所におすそ分けしてもまだ余ったのでしょう、コリュウシの奥さんは肉を町へ売りに行くことにしました。肉はショウケ(竹で編んだザル)に入れて、頭の上に乗せて町へ出て行きました。こうして、コリュウシは毎日のように山に狩りに入り、奥さんは毎日のように肉を売りに町へ出ていきました。

 なりふりかまわず働いていたコリュウシの奥さんはある日、ふと橋の上から水鏡に映る自分の姿を見ました。すると水に写った自分の姿は、頭の髪の毛は抜け落ち大変見苦しい姿でした。「これは女でありながら見苦しい、みっともない」と嘆き悲しみ、とうとう身投げをしてしまいました。やがてどんぶらこどんぶらこと海へ流れていきました。海のオコゼはコリュウシの奥さんの化身だというお話です。ですから、猟師はオコゼを山の神に捧げてお参りをするというのがオコゼ祀りの起源です。

 このお話は非常に哲学的だと思います。猟師はウウリュウシのように強欲であってはならない、という戒めと、コリュウシのように正直でなければならないが、必要以上に獲物を捕ることを戒めるお話であると思います。この物語の奥には、森の資源は有限であるから人間も自然の循環の中に組み込まれて生きていかなければいけないということを説いているように見えます。

山村に誇りと自信を
 このようにいろいろな山村の暮らしの作法が今まさに消え去ろうとしています。多くの民俗芸能もそうです。例えばお神楽など。五ケ瀬町でも、鞍岡の神楽を去年の11月に33番全部を復活させ映像で記録しました。この神楽も調べてみますと、昔の人は何を考え、何を伝えようとしていたのかが見えてきます。民俗学的に考えてもいろいろな意味があります。

 山や森のお話はこのように際限なく話題がでてまいります。「霧立越」はこうしたテーマを持っており、村の青年たちはインストラクターとしてご案内しております。彼らは植物ひとつとっても学名は知らなくても地域に密着したことには詳しいわけです。街の方は感心して「先生これなんでしょうか」と聞いてきます。先生と呼ばれると山の青年たちは目の色を変えますよ。誇りを持ってきます。自分で植物図鑑やきこの図鑑を買ってさらに勉強します。たまにうそも教えているようですが(笑)。

 しかし、そういうふうにして調べてわかってくると、どんどん詳しくなっていくんですね。「霧立越」を始めた当初は僕が一番詳しいと思っていたんですが、もう負けますね。今ではみんなの方がうんと詳しくなっています。自信が出てきて誇りを持っています。都市と山村の交流において、対等な立場でと言われますが、決して対等ではないですね。山村の人が先生なんです。
 ところが今、そういった伝統的なことが忘れ去られようとしています。山に住む人たちが山のことを知らなくなってきています。これが今一番大きな問題ではないでしょうか。
--------------------------パネルディスカッションから
秋本

 奈須さんのお話で霧立越に参加して「生きていて良かったと山に住んでいて感じた」とおっしゃたことですね。とてもすばらしいと思いました。

 それから、若井さんのおっしゃった『野性の復活』これは大変素晴らしいキーワードだと思います。私もこういうツーリズムなどを考える場合に一番根底にはそれがあると思っています。それはヤマメから教わったことです。

 私は、昭和30年代の後半からヤマメの養殖を始めまして、非常に野性の強い魚を飼いならしながら人工孵化を続けてきたのですが、当初は考えられなかったような魚に変わってきました。たくましさというのが無くなってきたのです。自分で卵も産めなくなってしまうほどになってしまったのですね。産卵期にはオス同士がけんかして弱いものが死んで.......というようなことももちろん無くなってきました。明日の天気がどうかの予知もできなくなったわけなんです。

 野性のヤマメは、台風が来て濁流に流されては困りますから、事前に察知して避難したり、エサを摂って体力をつけたりするのです。それが人工孵化を続けていくと自然界で生きて行けない魚になっていくのが見えてきたのです。我々人間にも同じことが言えるのではないでしょうか。縄文時代、一万年続いた森のなかの暮らし、ブナの木が茂ってドングリがたくさんなって森の恵みがたくさんあるときは人口が増えるけど、不作が続くと人口が減ってくるわけです。

 だから自然界のいろんな変化を感じとる能力が高まってきた。私たち人間も元々は、明日の天気が体で感じられたはずなんですよ。かつて今給黎教子さんがヨツトで世界一周された話のなかで、航海して三ヵ月位したら低気圧が来るのが体でわかるようになったという話があります。人間ももともと野性的でいろいろなたくましさがあったのが、養殖ヤマメのようにだんだん退化してきたのです。

 今、まさに究極の都市文化を築いた。この文明というのは先が見えている。自然界から隔離されたような文明はもう無くなるわけですよ。正しい人間の遺伝子を後世に伝えられないようにゆがんできているのです。そこで自然界とつながりを持つこと、闇夜を感じたり、満月を感じたり、ブナ林の自然界の中に身を置いたり、そういうことが非常に大事なんです。山の人はマルチ人間、なんでもこなせるんですよ。都市の人はひとつのことしかできない、マニアルがないと何にもできない。ですから「野性」というキーワードは非常に大切だと思います。

 ところで共同作戦で何ができるかというお話ですが、例えば旧暦の復権なんかはどうでしょうか。要するに日本だけがアジア地域で唯一旧暦文化を捨てた国なんです。ところが、祭りや行事は旧暦で行われてこそ本当の意味がある。闇夜であったり、満月であったり、天気や植物の成長に関係している。九州ハイランドの中で旧暦祭の復活や旧暦と暮らしなどの暦を共同作成でおやりになってみてはどうでしょうか。

秋本
 先程から「野性」をキーワードにいくつかのお話を聞きまして、「野性への復活」がセラピーになるというのは大変おもしろいお話だなあと思いました。いずれにしましても、地域の方が主役になるということが非常に大切だと思うんです。

 ひとつの事例ですが、霧立越で、僕らはいつも山を見ながら,木を見ながら、お客さんを案内しているわけです。同じ山を見、同じ木を見ていてお客さんも僕と同じ気持ちで同じものを見ていると思いこんでいました。ところが、都市の方は同じものを見ているようで実は何も見えていないことに気がついたのです。

 例えば、ミズナラの巨木の枝の二股のところにユキザサが生えていたとすると、それを見た僕らは、あっ、あれはユキザサの赤い実を鳥が食べ落としたか、糞から種が枝の窪みに落ちてあそこに育ったんだなあ、と思って見ます。ところが都市の方はまったくそういうことが見えてないことに気付いたのです。

 TVの撮影で一年間ずっとTV局の方を案内したときのお話ですが、彼らは「案内してもらわなければ森がみえなかった」と言うんです。自分たちが歩くとただひたすらに歩くだけで森がさっぱり分からないとおっしゃる。案内してもらうと、例えば、木が倒れていると「これは雷木で落雷で裂けているのですよ」とか、「ブナの木というのは300年以上経つとこうやって空洞ができ一本一本倒れて新しいく世代更新をしますよ。倒れたところを見てください。そこには、必ずウドやタラの芽やイチゴ、キノコが出てきます。これは動物たちを寄せるしかけを自然が作っているのでしょう」とかいう話をすると森が非常に深く見えてくるんですね。そういう普段さりげなく思っていることをそこに住む人たちが教えてくれると、町の人は全く違ったふうに深く森を見ることができるということを体験しております。

 私どもは秋に「闇夜のブナ林ミッドナイトウォーク」というのをやっております。闇夜を選んで標高1600mの尾根を歩くんです。午前3時頃からスキー場まで車で上がり、そこから霧立越の尾根伝いに歩くわけです。今年は三人ずつ班編成しまして先の人が見えなくなるまで待ち、3人で懐中電灯一つだけを持ってもらってスタートをしました。

 夜中は、葉っぱのかすかにふれ合うような音がものすごく大きく聞こえたり、どこからともなく谷川のせせらぎがサーット聞こえてきたり、すぐそばで鹿が鳴いたり、いろんな音がきこえるんですよ。まるで森に妖精が住んでいるかのような凄さがあります。そこをずっと歩いて行って白岩という場所で夜明けを迎えるんですが、この夜明けがまたすごいんですね。東の方が少し明るくなってきて茜色になってきた。そうすると鳥たちも一斉に舞い立つんですね。そして上空を舞いながら餌場を求めて餌をついばみ始める。

 いろんな獣の鳴き声が聞こえる。雲海がたなびいていく。本当に魂が洗われるような瞬間なんです。それで一足先にバスの所で待っていますと、お客さんが美しい笑顔で、体全体で笑いながら降りて来るんですよ。もう全身で感動して、全身で笑っているんです。私はその時、こんなに人間は美しく見えるのかと思いました。そんなすごい感動を自然というものは与えてくれるんですね。そういう仕掛けができる場所というのはもういくらでもあります。

 九州ハイランド構想のこの地図を見ますと、まさに未知の世界があるなと思います。私どもの「えのはの家」というレストランの壁に文化十年の木版刷りの九州地図を貼っております。今のようにきちんとした地図ではないんですが、このハイランド構想の部分は別の色で塗り分けてあるんです。国境も何も書いてない。そこに何て書いてあるかといいますと「このところ、山深くして境目知れず」とあるんです。まさに今日においても未知の世界がこのハイランドの中には存在し、夢があるなという気がいたします。やはりそういう未知の世界、そして野性というキーワードがすばらしいと思います。

 構想の地域が一丸となる、ならないの問題ですが、これは「ビジョンを共有」しながら、ひとつひとつを大事にしてということだと思うんです。こういう夢の世界があるということで、さらにこの輪を広げていただけたらなというふうに思います。ちなみに3月15日から残雪を踏んで山開きをいたします。行政でやりますのは5月の第2日曜日ですが、私どもは最初に歩く第1日目が山開きだということで、お客さんにも来てもらって、テープカットがわりにカズラを引っ張ってカズラカットをしてもらってスタートということをやっております。よろしかったら3月15日にも登っていただけたらと思います。残雪の跡のブナの葉っぱがプレスされたようにきれいにデザインされた道を歩けるのです。