議員研修誌「地方議会人」7月号原稿
地方分権を担う議会と議員の責務
―まちづくりと議会、議員活動―
五ケ瀬町 秋本 治
はじめに
五ケ瀬町の議会に議席を与えられて二年が経過した。突然推されて告示一週間前に飛び込んだ世界である。もともと当地で育ち二十歳の時からヤマメの養殖をはじめ今年で還暦を迎えた。この間、ホテル経営などにも携わり目下厳しいデフレ不況の中で慌しい時間を過ごしている。議会活動との両立が課題である。
五ケ瀬町は、昭和三一年に二つの村が合併して誕生した町で、九州山地の中央部に位置し、人口五千人、議員一四名、面積一七〇ku余の典型的な過疎山村である。標高も四〇〇〜一、六〇〇mの山岳地帯にあり日本最南のスキー場や全国ではじめて開校した県立の全寮制中高一貫教育の学校などがある。近年は、エコ・ツーリズムとしてブナ原生林を辿る「霧立越トレッキング」など都市と山村の交流に取り組んでいる。
こうした地域づくりに当初から関わってきたが、議員としての活動歴は日が浅い。掲げられたテーマは荷が重たいがお許しを頂いて稿をすすめることにする。
かわら版の刊行
議員活動では、先ず住民の目線で議会に風穴を空けようと独自に月刊「かわら版『風』」を創刊した。紙面はB4に一〇〜二〇頁、情報量に応じて毎月勝手にページ数が変る。議会詳報と筆者の論評、おりおりのエッセー、全国各地のまちづくり情報などを掲載している。
紙面づくりは、正確な議会情報を綴ることを心がけてはいるが、それだけでは面白くないのでやや独断と偏見の批評も併せて掲載している。そうしたくて刊行したようなものでもある。
同僚議員や地域住民に若干の郵送料を頂いて百数十部配布する程度の小規模なものであるが、読者からは議会が見えるようになったと好評でこの六月で二九号を迎える。ついでにホームページにも掲載している。多分この紙面の原稿依頼もそのホームページが情報源ではないかと思っている。
今、過疎山村の抱える最大の悩みは市町村合併である。本町でも任意の合併協議会を立上げ、議会でも全議員による合併問題に関する研究会を設置し勉強会を重ねている。
そもそもこの合併の意義はどこにあるのか、どのように対応すべきか、他の地域はどのようにしているのか、与えられた一方的な情報だけでは視点や論点が見えにくく感情論ばかりに走り易い。情報が欲しい、もっと学びたいと昨年十一月には「市町村合併を考えるシンポジウム」を開こうと考えた。
全国のまちづくりや合併問題に取り組む先進地事例に詳しい先生方を中央から講師に招き、近隣町村の首長や行政の方々、そして住民をパネリストにしてフランクに語り合えるフォーラムを模索した。
当初、関係者の理解や支援が得られなかったりしたので個人的に進めた。組織として動けない時は、このように個人で行うしかないが、えてして個人プレーは憶測や疑心暗鬼が横行するものである。快諾頂いていたパネリストが突然欠席となったりして慌てたものだ。
ともあれ講師の先生の格別なるご支援により、これからのまちづくりの新たな視点、住民自治、地域自治や全国の合併事例の功罪など多くを学び、パネリストや会場からは、合併に対する不安や問題点などの多くの声を聞くことができてシンポジウムは成功した。
こうした住民によるフォーラムは、行政主導のシンポジウムよりも学ぶことが大きい。その記録をホームページに公開したところ各地から熱いメールを頂いたり、県も全市町村長宛に参考資料としてこのシンポジウムの記録を送付された。訪れた町で大変参考になったと感謝されたものである。こうした情報を共有するためには「かわら版」の役割は大きい。この事例は議員活動の番外編であるが、行政主導の情報に頼ってばかりいては学ぶものが少なく、定められた議員活動だけでは時代を読めないことが多い。
自然と調和する国土づくりを
ここからは、過疎山村に焦点をあてて筆を進めたい。現在すすめられている地方分権の三位一体改革は、地方交付税と国庫補助金を削減して地方に税源移譲を行い、自立した地域経営を求めるものであるが、その税源は地方においても人口密度の高いところにのみ集中する。この人口密度至上主義の発想に危機感を覚えるのである。
片山総務大臣は講演で「人口の少ない地域に医療や福祉施設をつくるには効率が悪いので効率のいい人口規模にまとめなければならない」とお話があった。確かに人口規模から効率を考えると正しいが、人間は人間だけで生きているのではない。都会派には理解できないかもしれないが、人間は自然界に生かされている面もあるのだ。
国土の六七%を占める森林を有する我が国では、広大な面積を持つ農山村の人口規模は小さい。こうした地域には税源がほとんど無いに等しい。税源のない農山村地域ではあるが、言い方を替えると農山村の住民は国土保全の防衛隊でもあるのだ。山村住民が山村から撤退するような改革は、いかに立派な森林や環境の保全策をうち立てようとも事業を実施する住民がいなければ絵に描いた餅となる。
今、日本では二千五百万fの森林を十万人弱の高齢者で管理しているという。その十万人でも充分な管理ができないのだ。まもなくその高齢者たちも急速に消えていく。これからは、都市部からどうやって十万人を見つけるかということも視野にいれなければならないだろう。そうしたことを考えると山村には誇りを持つ住民がいて都市との交流を盛んにし、次世代に橋渡しをしなければならない。
かつてスイスに出かけた時、その美しい農山村の景観に驚いた。それは自然景観だけではなく、牧畜やブドウ生産における条件不利地域に所得補償を行い人為的にも美しい農山村の景観が保たれるような国土づくりがなされていた。わが国の農業や林業者に対するデポジット制度もこうした事例を参考に始まったものと思われるが、理念や条件整備が不備である。自然との調和をはかり自然と共生できる国土づくりの理念を明確にすべきである。
国土保全への投資が必要
戦後の拡大造林政策に始まった短伐期皆伐方式の人工林は西日本の山岳地帯に特に多く、材価の低迷のため間伐も行われず放置された森林が多い。適正施業が遅れた林地では間伐をしても支えあっていた木はその支えを失って倒壊するし、放置林は尚更森林全体が倒壊へと進みつつある。森林の倒壊は、下流の河川の氾濫を引き起こす。長伐期や複層林、自然林再生への大幅な政策転換が急務で百年の大計づくりが求められている。
中国などのアジア経済が将来は台頭する。その時の木材需要を賄うのは日本の拡大造林による資源しかないのではないか。かつての中国の都も日本の木材で建設された。今は森林資源を蓄積していく時である。
近年、森林地帯における動植物の生態系の変化は異常だ。温暖化現象も影響していると思われるが、基本的には自然の荒廃が引き起こした現象といえる。もともと人間と獣の生活圏は別であったものが同一になってきた。鹿などの異常繁殖による食害も予想をはるかに超えて貴重種の絶滅も相次ぎ、深山の一部では禿山と化している部分が出現している。やがては、かつての欧州の森のように動物による森林破壊を招く危険性も生じる。生息頭数のコントロール等で自然界のバランスを保つ必要もある。
自然界において人間が手を加えた部分は最後まで人間が手を加え続けなければ自然は荒廃するのだ。国土づくりは地方だけに任せず山村機能を維持するための直接投資を国は行うべきである。税源空白地帯の山村では環境や森林資源が衰退している。資源の蓄積や環境づくりは補助金ではなくて投資だと思う。
山村では豪華な文化ホールを求めているわけではない。培われてきた地域文化を誇り、森林資源を蓄積し、環境資源を活用して産業化をはかる知恵の導入こそが必要だ。そのためのインフラ整備は必要不可欠のものである。
地域文化の復権を
過去において、山村の地域コミュニティや生活文化に大きな変革をもたらしたのは昭和三〇年代である。不便ながらも活気に満ちていた山村は、地域固有の生活文化が強烈にあった。鎮守の森のお祭りや学校の運動会行事などは村をあげて行われ、地域コミュニティーの核になっていた。道路を直したり、家普請や冠婚葬祭、農作業にもこぞって助け合う「もやい」があった。まさにそれは地方分権で論じられている地域自治、住民自治の姿ではないだろうか。
そこに昭和の町村合併がすすめられた。広域化した町では、行政は特定地域だけには入って行けなくなり住民は生活改善を掲げて都市をめざすようになった。そのころから住民自治はしだいに後退したのである。
これからの町村合併を考える時、かつての「もやい」の精神をもった地域の住民自治を学ぶことが必要ではないかと思っている。広大な面積を有する山村において広域化するほど住民が一同に集まることはなくなる。顔の見えない町では行政は単なる事務手続き上の役所と化すことだろう。地域自治における山村の最良のコミュニティは、住む人の顔が見える地域で構成されるのが一番よいと思う。
地方分権に向けて
新生日本の土台づくりとなる地方分権は、ローカルガバナンスの能力が問われることになる。NPM(ニュー、パブリック、マネジメント)理論等による政策転換、従来の公約主義からマニフェストによる一歩踏み込んだ政策形成、財務の複式会計による明確化とその情報開示、パブリックコメントの充実などが議論されているが、こうした時代背景のもと、議会も変革しなければならない。
マニフェストやパブリックコメントの成熟は、住民代表としての議会の存在意義を問われるようになる。これからの地方分権を担う議会は、企画力、政策能力、情報力を高め執行部局と拮抗する活動を行うことが議員の責務ではないかと思うこの頃である。(終)