禁・無断転載
中小企業同友会全研集会講演録
地域の光の創造と発信
  やまめの里 秋本 治


太陽と緑の国「宮崎」
 このたびは、全国から宮崎においで頂き、ありがとうございます。みなさんは、宮崎についてどんなイメージお持ちでしたでしょうか。私が県外の方にお尋ねしますと、その答えの一つに「南国のイメージ」というのがあります。太陽と緑の国で、フェニックスとかワシントン椰子が茂る南国という印象です。

 このイメージは、観光宮崎の育ての親ともいえる故岩切章太郎翁の功績によるものです。翁がお元気な頃、テレビでおっしゃっていたのが今でも深く印象に残っています。「宮崎市から堀切峠を越えて日南海岸の方へ向かうとき、峠を越えたとたん眼下に鬼の洗濯岩といわれる波状岩が飛び込んできて、その先に太平洋の大海原が広がる。その光景をフェニックスの葉陰を通して観るーーこれがまさに宮崎だと感じた」と。

 これを観光宮崎のアイデンティティとして日南海岸を中心に南国宮崎の観光を完成させられました。これが南国イメージの原点だと思います。

日本神話発祥の地
 もう一つは、神話の国宮崎です。私たちが、今、ここに居る場所は阿波岐原といいます。阿波岐原は、古事記や日本書紀などの神話に出てまいりますところの「日向の橘の小戸の阿波岐原」であります。

 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉の国から逃げ帰り、阿波岐原で禊ぎ払いをしたとされる場所で、この海岸の荒磯で黄泉の国のけがれを払ったわけです。その時、天照大神(あまてらすおおみかみ)や須佐之男命(すさのおのみこと)がお生まれになりました。

 いろいろな神様が成りて成りて、そうして神武の神様になってから日向からお船出されて、大和国家を築かれたわけです。この地は、皇祖神の天照大神様がお生まれになったところですから、日本神話の原点となる場所です。

 神話に登場する神々は、国ツ神と天ツ神で構成されていますが、国ツ神は縄文人、天ツ神は渡来してきた弥生人として神話を読むとおもしろい。縄文と弥生の接点がこの場所にあったということになります。高千穂の天岩戸など県内全域にそうした神話がございます。

 お清めの塩を撒くという日本の風習は、伊邪那岐命がここの阿波岐原の潮水で禊ぎ払いをしたという故事に基づくものといわれております。

北国の顔も持つ宮崎県
 そんな二つのイメージが宮崎の顔ですが、もう一つ隠れた部分があります。それは雪国の顔です。私が暮らしている地域は、九州山地の五ケ瀬という標高500〜800メートルに点在する過疎の町です。ここでは、1990年(平成2年)に日本最南端のスキー場がオープンしました。

 私どもがこの宮崎市に出てくる時は、まるで違う国、黄泉の国にでも出ていくような気分になります。車で家を出るときは暖房ですが、こちらの市内に近づくにつれて冷房に切り替わっています。

 五ケ瀬の冬は広葉樹の葉っぱが全部落ちて裸山ですが、宮崎市にまいりますと冬でも広葉樹が緑のままで、フェニックスやワシントン椰子が茂っています。

 ですから、宮崎は「太陽と緑の国」と「神話の国」だけではありません。亜熱帯林から照葉樹林帯そして落葉広葉樹のブナ帯にいたるまで実に多様で多面的な顔をもっているのが宮崎です。せっかく宮崎にお出で頂いたわけですから、それぞれの地域にお出でになりお楽しみいただきたいと存じます。

やまめの養殖から地域づくりへ
 さて、やまめは河川の上流域に生息する日本固有のサケ科の淡水魚です。九州山地にも、かつては沢山いましたが森林開発が盛んになった昭和30年代からしだいに姿を見せなくなり、一時はまぼろしの魚とまでいわれるようになりました。

 そこで、減ってきたやまめをなんとか人工的に増やせないかと取り組んだのが、63年(昭和38年)です。そして養殖出来るようになって、生産したものを都市に向けて一生懸命販売していたというのが、昭和40年代です。

 ところが、作ったものを都市部に向かって売るだけでいいのかなという疑問を感じるようになりました。販売が伸び生産施設を拡張するだけでいいのかなという考えが出てきたわけです。
 山村の人口はしだいに減っていく。将来はこの地域に人が住まなくなるかも知れない。過疎という言葉を聞くようになりました。それから、私の関心は地域づくり、地域おこしみたいな方向へだんだん移り、企業の役割もその一部なんだと考えるようになりました。

試行錯誤の繰り返し
 73年(昭和48年)には年間400万から500万尾のやまめ稚魚を生産していましたので、これを武器にして地域づくりをやろうと考えました。これがやまめの里づくりのはじまりです。地域をやまめの里と呼ばれるようにしようと75年(昭和50年)には社名もやまめの里に称号変更し、地域全般について考えた取り組みをするようになりました。

 やまめを河川に放流して釣り場をつくり釣り客を呼ぼう。やまめと山菜の美味しいレストランを作ろう。裏山への登山道を整備して登山者を増やし民宿村にしょう。山菜の加工場をつくり地域の特産品を作ろう。・・・と考えました。

 やまめの釣り場は、集落全体で振興会をつくり区画漁業権を取得して取り組みました。民宿は、5軒のお家が取り組んでくれました。山菜の加工場は、婦人会のグループで、レストランはすでにやまめの里で取り組んでいました。

 ところが、山奥の小さな集落の小さな取り組みだけでは、なかなかうまくいきません。振り向いてくれる人もいません。情報の発信もできないし、中途半端でノウハウもありません。

民宿も無理して始めてもらったようなものですから、お客さんになかなか来てもらえません。たまにお客様がみえると、お風呂の掃除、トイレの掃除と家中が大掃除となってしまいます。

 ですから、たまにお客様がみえると「すみません、今日は農作業が忙しかったので、どこか他の家に行ってもらえませんか。」というようなことがおこる始末でした。

雪を生かす。
 そういうことで、悩みに悩んでいたとき、ふっと浮かんだのが雪が多いということでした。私たちの住むところは、標高800メートル。近隣町村の中でもいちばん雪が多い地域です。子供の頃は、冬、雪が降るとすぐ学校は臨時休校になりました。中学校は季節寄宿舎ができて、雪のシーズンになると寄宿舎は開き、春になると閉じていました。成人式も夏休みに行われ、これは今日でも続いています。

 こうしたことは他の町村にはないことです。雪が多いということは、スキー場立地の可能性が高いということになります。これを村おこしの切り札にできないかと考え、運動をはじめました。77年(昭和52年)のことです。

 私は、山奥の小さな山村で育ちましたので絶えず行政とのかかわり合いをもってきました。山村で生きる時、役場は心のよりどころであり、頼れる唯一の機関でもあるわけです。ですから、若いときから担当課や、町長室にもよく出かけていました。

 そこで「町長さん、私の村はとても雪が多いです。どこかにスキー場ができるところがあると思うから調査してください。」地図を出しながらお願いするわけです。「冬はみんな出稼ぎに出ていきます。夏、働いて冬、食い込んでしまう。これでは過疎は歯止めがきかなくなり、人が住まない地域になりますよ」と陳情を繰り返しました。

 すると「あんたのいうスキー場は、そりゃあ面白いことかも知れん。でも、そんな何とも知れんものに、皆さんから預かった大事なお金を使うわけにはいかん」となかなか前に進みません。それでも辛抱強く3年程陳情を続けていたら、とうとう町長さんも音をあげられて「そこまでいうのなら、地元で調査したらどうか。可能性がわかれば、町も予算化して取り組んでもよい」というような意味のことを言われました。

スキー場建設に向けて
 「それでは、自分で調査します」とは言ったものの、どうやって調査したらいいか分からず途方に暮れていました。そんな時、もっこをぶら下げたヘリコプターが谷間から山頂の方角へ飛んでいくのが視界に入りました。

 昭和50年代は、森林開発が奥地にまで進み、標高1300〜1500メートル付近の山地には、苗木をヘリコプターで運んでいたのです。

 それを見て「そうだ。空から見てみよう」と思い立ち、さっそくそのヘリコプターをチャーターして九州山地を空から見ることにしました。そして、二箇所適地と思われる場所を見つけました。80年(昭和55年)の3月のことです。それから、気象観測などの調査に取り組み、85年(昭和60年)まで続けました。

 宮崎は、南国というイメージが強いものですから、中央から見た場合は、スキー場と結びつきません。「少しくらい雪があるからといってもスキー場とはそんな簡単なものではありません」と、ここでも理解して頂くためにとても長い時間がかかりました。

 そうしながらも少しづつ理解が深まり、町の議会もようやく重い腰を上げ、90年(平成2年)の暮れにようやく「五ケ瀬ハイランドスキー場」として町営でオープンすることができました。スキー場開設の陳情を始めて15年ぶりのことです。

 こうして、観光という概念がなかった山村にも旅館、民宿、ホテルが16軒もでき「グリーンツーリズムで農村の活性化を」などと町でもいわれるようになりました。

やまめ全滅の危機を迎えて

 はじめに空からスキー場の予定地を発見した時、そこは、やまめ養魚場の水源地でした。困った、どうしょう。水質が悪化してやまめが危ない。と一時は悩みました。けれども、養魚場ばかりが良くても地域が衰退すれば面白くない。地域に元気がでれば、やまめの生産が落ちても付加価値でカバーできると考えスキー場実現のための運動をはじめました。

 ところが、やまめが危ないと心配したことがまさに現実になってしまいました。当初私たちが計画したものは森林公園事業とし、冬は一部でスキーもできるという「自然」をテーマにしたプロジェクトでした。
 制度事業に採択されてからは、官と民の間に厚いカーテンが引かれ、私たちには内容が見えないところに行ってしまいました。当初の理念は変更され、大幅に地形は変更され、水源の湧き水地帯に大量の土砂が埋め立てられました。このため後から湧き水が梅土の中から噴出しはじめて大量の泥流が発生し、養魚場を直撃して数百万尾のやまめが死滅してしまいました。

 不安はそのまま現実のものとなり大変な損害を出してしまいました。しかも「秋本君がスキー場というからスキー場を建設したのであって、そのために損害が出たら今度はそれを全面的に補償をするということはなじまない」と言う行政側の結論になったからたいへんです。

 あげくの果てに養魚場は公共事業に邪魔だから移転して欲しいということになり、もう大変な目にあいました。大きな赤字を抱えて、加えて多額の借金を重ねて別水系に移転しました。ようやく今、生産が軌道に乗りつつあるというのが現状です。

 私がこの世にいなかったらあの素晴らしい自然もブナやナラなどの巨木も残ったものを、これは神秘的なブナの森が、神様が下した罰だ思いました。

ブナ林とのかかわり

 このようなことがあってから特に、「地域づくりには行政と住民が共有する地域の哲学を持たないといけない」ということを身にしみて感じるようになりました。

 もともと私がやってきたことを振り返って見てみますと、どうやらすべてが「ブナ」につながっていたのではないかということを考えるようになりました。

 ブナの木は、北半球の温暖多雪地帯に広がった落葉広葉樹で、殻斗と呼ばれる殻に堅果を付けるのが特徴です。ブナの仲間には栗や、ドングリのなるナラがありますが、その一番基になるのがブナです。

 ブナの実は小さいですが、アクがなくてとても美味です。だから動物たちも大好物です。ブナが豊作のときは、動物たちがものすごく肥えて増えてきます。不作が続けば、だんだん減ってきます。

 このブナ林とやまめの分布の状態を重ねると、源流にブナ帯をもつ流域にしか、やまめがいないことが分かります。「昔やまめがいたけど、今はいない」という川は、源流にブナ林が無くなったところといえます。

その昔、氷河時代が終わると日本はブナ帯になりました。ブナ帯は豊かな水を湛えた川を造り、サケ科の魚が川を遡って上流域で産卵をはじめました。そのうちに今よりも気温が高い時代が来ました。そこで海のサケ科の魚は北方の水の冷たいところへ移動し、川に取り残されたのがヤマメになりました。それで、ヤマメのことを河川陸封魚と呼びます。

 この時、氷河の氷がたくさん溶けて海面が上がり、今の日本列島を形作ったといわれます。縄文海進と呼ばれるわけですが、この時、九州では低地は照葉樹林帯にかわり、ブナ帯は標高の高い地域へ遷移しました。ヤマメはブナ帯によって作られ、こんにちでもブナ帯の流域に生息していると考えるわけです。

 ブナ林は古代日本の縄文文化の形成にも関係しています。氷河期が終わりに近づき温暖化してきて、それまで日本は寒帯針葉樹の森だったのがブナ帯に変わり、たくさんの木の実がなる森ができました。川は豊かな水をたたえ、豊富な森の恵みが動物たちを増やしていきました。

 人々も木の実を蓄え食料の備蓄ができるようになりました。こうした木の実は、焚き火の灰を入れた土器で煮て水さらしすると、アク抜きができることを発明しました。木の実をアク抜きする必要から発明された土器が縄文土器のはじまりです。ですから日本にブナ帯が広がらなかったら、日本文化の基礎を創った縄文時代はなかったかも知れないわけです。

 また、日本はスキー場の数が多く、緯度が低いにもかかわらず世界に冠たるスキー王国です。この立地条件も温暖多雪のブナ帯故のことで、まさにスキーもブナ帯文化であると言えます。

九州ブナ文化圏構想へ
 それらのことから、ブナの重要性にだんだん気がついてきました。ブナ帯の分布は主に北半球で平均気温が6℃から13℃迄、年間降雨量が1300〜1500ミリ以上の地域といわれます。
 私どもの町の平均気温は12〜13℃、雨量は3000ミリもあります。ですから私どもの五ヶ瀬町は、垂直分布的に日本のブナ帯の南限にあたり、ちょうど境目になります。境目が力を持たなくてはいけない。そこで九州ブナ文化圏という考え方に至った訳です。

 この考え方は、私どもの町の長期ビジョンに「九州ブナ文化圏・五ケ瀬構想」という項目を一本入れてもらいました。当初、そんな哲学のようなものが、経済効果を産むのかというご意見もありました。でも私は、哲学があってはじめて、際限なくビジネスが出てくるし、経済効果もでてくるということをお話ししました。

エコ・ツーリズム霧立越

 ブナ帯に関連して注目したのが霧立越という尾根伝いの道です。その昔、馬の背で物資を輸送したといわれる峠道で標高1600メートルもある脊梁山地の尾根伝いを12`ほど続いています。そこのブナ原生林の中を6時間かけて歩くわけです。私たちはこの道を切り開いてトレッキングコースとしました。

 ほぼ等高線上に右に左に稜線を回り込みながら続いているのでアップダウンが少なく非常に歩きやすいコースです。これが今、大きなブームになってきました。昨年は地元のテレビ局で「九州遺産」という1時間番組を一年がかりで撮影されました。全国に放映されるということです。

第二の切り札として
 このようにしてスキーシーズンが終わり、グリーンシーズンになったら霧立越ということでスポットがあたりました。過疎地には、こうした都市と山村の交流によりいろいろな産業をおこしていく以外に方策はありません。これはもう切り札のような感じがしています。

 霧立越を歩くのに一番いいのは、新緑と紅葉のシーズンです。このハイシーズンには1日数百人の方が歩いています。何より、6時間から7時間歩くということは、五ケ瀬町か椎葉村に泊まらなければなかなか歩けない。ということで宿泊施設も恩恵を受けています。

若い世代への財産となる
 この霧立越をテーマにして、毎年春と秋にシンポジウムを開催して私どもは学んできました。地元の青年たちも、だんだんそういったことを理解してきました。

 まず彼らはスキー場ができたことによって、地域に対してものすごい誇りと自信をもちました。昔は五ヶ瀬の鞍岡というと「山深くて、雪が降って、行止まりのところ。夢も希望もなんにもないところ」と、自分から思い込んでいました。ところが、スキー場ができたことによって、それが一変しました。誇れる地域になりました。地域の自慢に繋がりました。そして、霧立越によって過疎地域の人たちが先生となり、出番となってきたのです。


都市の人の先生に
 都市と山村の交流事業において、山村の人々が都市の人々と対等に交流できるようにすることが一つの課題だと言われています。

 しかし、私どもは対等なんかではない。過疎山村の人たちが先生になるということです。例えば、霧立越の12キロを案内して歩く時、森のことやそこにある高山植物や樹木、野鳥、獣、蜂などの昆虫や毒蛇などについて説明し、危険回避の対処方法についても都市の人々に教えなければならない「先生」なのです。

 草本や木本類を学名や和名では知らなくても、昔は生活とどうかかわってきた植物であるかなど、その土地の名称でなら説明できる。山村での暮らしは、すべて一人でなんでもこなしていかなければ生きていけないわけです。マルチ人間です。都市の人々が驚いて山村の人が先生と呼ばれる。するとますます元気がでて、植物図鑑やキノコ図鑑などを買い求め勉強を始める。

 たまには、参加される方に専門の学者先生もいらっしゃってそこでも学ぶ。そういうことで村の自称インストラクターが非常に詳しくなりました。ですから、まさに街の人に対して、先生の立場になります。

「森の哲学」の重要性を考える
 山村において暮らしの作法などのような森の文化、あるいは森の哲学といった大事なものが、いま消えつつあります。

 森で生きる術というのは、狩猟採集的な暮らしの中で伝統的に培われてきたものによく現れています。狩猟は、子供のときからその作法を教えていました。今のハンターは猟師じゃない、伝統的なマナーを知らないと言われる。だから猟銃事故などが起きたりする訳です。狩猟は、本来もっと神聖なものなのです。

 森や自然は、山の神、水の神が支配していて自然の秩序が保たれており、人間はその中で生かされているいるという考え方がありました。これは、森の資源は有限であって自然の循環の中に組み込まれたような生き方をするという哲学がその中に見えます。

 神楽に見える神話にしても、森の暮らしというのは人間が人間の力を過信すると罰が当たるということを、非常に分かりやすく説いています。

 昔の人たちは、自然界には人間の力ではどうにもできない凄さがあるとみんな知っていました。
 それが近代以降、土地の形状も、山の植生も、簡単に変えられるようになりました。そのために過信してきた弊害が、今出てきています。たとえば災害です。山村には非常に危険なところが増えてきました。水不足や環境の問題もあります。

 こういうことに対しての哲学が森の暮らしにはあった。自然環境に組み込まれたような森の作法があった。私たちは、過去を振り返って学びながら未来を考えなければならないとと思います。

地域づくりに根ざした企業づくりを
 私どもは、過疎山村において、わが社はとか、わが企業はとか、そういうことだけでの生きかたはできません。雑草は種が落ちたところが、例え岩の上であっても、そこに根を張って生きています。私どもも、いろんな環境のなかでそこに暮らさなきゃいけないと決まったときから、何もない中から、何かを探し出して生きていかなければなりません。

 どうすれば地域をよくしていけるか。どういう役割を果たさなければならないか。地域全体でどうやって地域を誇れるものにしていくのか。そして地球環境をどう考えるのか.........。地域での中小企業の役割は大きいものがあります。

 都市にはない森の文化を尊重しながら、いろんなビジネスを作っていきたいと思っています。
【質疑応答】
質問 森の文化等の話で、秋本さんが影響を受けた人はいますか。

回答 私はやまめから影響を受けたといっていいかと思います。やまめの養殖を始めて30数年になりますが、野性の強いヤマメが今のように養殖やまめになるとは思いませんでした。というのは、やまめは渓谷の源流域の非常に狭いところで暮らしており、そこで生きていくために自らの能力を高め、進化をとげてきた魚だからです。外敵に対して、非常に敏感に反応する。また台風等による濁流にまきこまれないように、気象を予知する。そのようか能力が非常に発達した魚です。

 ですから、人間が生け捕ってきて、餌をやっても食べません。養殖を始めたとき、それが一番ネックでした。試行錯誤を繰り返して餌付けもでき、養殖魚となりました。しかし飼いやすくなった反面、自然に反応する能力が弱くなってきました。私は養殖というのは自然界で生きられない魚を生み出していることだと感じています。

 そういったことを考えると、人間も自然とともに生きていたときには自然に反応するたくましい能力を持っていたと思います。ところが究極の都市文化をつくり、自然界から離れることによって、正しい人間の遺伝子がなくなってきつつあるのではないかというような気がします。ですから、森の哲学について影響を受けたというのは、やまめからというふうにお答えしたいと思います。

質問 五ケ瀬中高一貫教育について、どのようにお考えですか。
回答 当初のフォレストピア構想のなかで、目玉になる部分として、国際森林大学をというのがありました。それを検討する内に、県立の中高一貫教育の全寮制の学校をつくろうということになり、フォレストピア構想の中心的事業になりました。

 生徒不足で廃校になった学校の跡に建てたのですが、フォレストピアの理念が入ることによって、10倍もの競争力を持つ素晴らしい学校ができました。ただ、実績を求めるために進学校になってきつつあるという声もあります。

質問 スキー場の資本、施設はどうされましたか。またスキー客の動向は。

回答 スキー場の事業は、最初からスキー場として打ち出すのは、行政としては難しかったため、森林空間事業として、森林広場や研修施設を作るために標高1300メートルのところに町が土地を確保しました。森林空間事業を一億円でやると。

 次に、森林空間事業のために林道の予算四億数千万円がつきました。こうして林道ができ、森林広場や研修施設が完成すると、あとはリフトを一本架ければ、目指すスキー場予定地まで行けることになります。こうして、現実味が増してきました。そして次に出てきたのがふるさとづくり特別対策事業で、13億5千万円。ここで、はじめてスキー場開設事業として採択されました。

 オープンした当初、予想を上回る四万三千人が来場しました。トイレやレストラン、リフトは長蛇の列です。次も国の制度事業でもう一本リフトを増やしました。すると七万人くらいの入り込みになりました。

 また、夏も滑れるように、リーリングプロジェクトの事業で一億五千万円をかけてスノーマットを張りました。すると今度は、スノーマット効果により冬に雪がとけなくなり、西日本のスキー場がほとんとど滑れない状況になっても、五ケ瀬だけは滑れるという現象がおこりました。

 当初は町営という形で運営委員会を組織して経営することにして、補助事業で次々とインフラ整備をしました。そして大体整ったところで、株式会社に組織を変えました。ただ補助事業としての対象に採択されると、当初掲げた理念がいつのまにか変わってくるということがあります。しかしそれはそれとして、五ケ瀬の活性化に果たしたスキー場の役割は非常に大きいと言えます。

質問 神楽等を、どのように観光資源として生かしていますか。


回答 神楽は秋のシーズンに毎週二回やまめの里で続けています。昭和52年頃から始めましたが、最初のころは、見てくれる人はほとんどいませんでした。年配の方は懐かしがって真剣に見てくれますが、若い人たちはあまり見てくれませんでした。

 それが、最近は変わりました。都市の若い人達、特に若い女性たちも非常に熱心に見てくれるようになりました。そうすると、神楽をやる村おこしグループの人たちも増えて、真剣さも増すようになりました。

 このようにして、昨年の秋、ついに地元の神楽、全33番を復活することができました。ここにいたるまで二年や三年ではなく、長い下積みがあったということです。

 神楽は、観光客に見せるというよりも、住民の誇りとしてそれを持ちつづけることが大切だと思います。けれども、見せなければその価値も判らない。大切なことは、神楽が伝える意味を学ことだと思います。
【グループ討論のまとめ】
・物事を発展させていけるのは、哲学がしっかりしているからでしょう。やはりこれは、哲学のある、ビジョンのあるものしか生き残っていかないのではと思います。

・やるからには粘り強く、諦めずにすることで、周りにも認められます。そうするためには自分が変わらなくてはいないという自覚を持つことが必要でしょう。

・これからは人と人との交流、心の通い合う交流が、経営に役立つのではないでしょうか。目先のことばかり考え、追い求めていては、やはり企業の発展というのはないのではないかと思います。

・地域の歴史、文化を基本にして、地域おこしをすることが大切。地域おこしは利益を求めるものではないが、長い目で見ると、ビジネスの立場で確立されたものでないと長続きしないのではないかと思います。そして地域密着型で、行政と連携を密にしないとうまくいかないのではないでしょうか。
【報告者の感想と補足】
 街づくりについて、今様々な形で、全国で取り組みが進んでいます。私が言ったような哲学を持って取り組んでいる地域もあります。それらの取り組みには、この街はどうあるべきか、そこのなかで自分達はどう生きていくのか、どのような企業を目指していくのか、新しいビジネスをどうやって興していくのか........そういう動きがあるなという感じがしています。

 私の場合は地域おこしのあり方を、ブナ文化圏に置いています。ここから学ぶことは非常に多く有ります。ブナ文化圏で培われたものが今失われようとしている。次世代に何を残すべきなのか、発信できる情報はたくさんあります。その情報発信基地としてのセンターもつくりたい。失われつつあるものを繋げていく役割、これが非常に大切でしょう。

 そして何より大事なのは極相の森が何を人間に教えているか、やはり実際に森を歩いて体験していただきたいと思います。様々なことを学び、体験し、その中でいろんなビジネスチャンスが出てくるでしょう。そのような関わり方をしていきたいと考えています。

【座長のまとめ】

 「岩の上で根の張る雑草のごとく」という言葉は、グループ討論の発表でも出されました。私たちは中小企業経営者の団体です。そして、大企業と違いますから、地域の中で地域の方に支えられながら、経営をしていかなければいけません。今日の報告等をお聞きしまして、その哲学があると感じました。

 改めて、自分たちの地域とはどういったものか、その中で自社の役割とは一体何なのかというところを考えていただく。その為のヒントをこの分科会から一つでも掴んでいただいて、明日からの企業経営の中に生かしていただければと思います。