(千葉県「クリエイティブ房総」第34号原稿)

ポテンシャル 〜地域の挑戦〜

日本最南のスキー場

 平成2年12月、宮崎にスキー場が誕生した。県北部五ケ瀬町の標高1,684bの向坂山にぺアリフト3本を備えたスキー場だ。オープン当初は、小規模ながらも日本最南端という話題性もあり10万人のスキーヤーで賑わい、民宿、旅館、ホテル等宿泊施設も15軒になった。観光とは無縁であった過疎山村に新しい息吹が生まれた。

 平成6年度には、県立学校「学びの森学校」が開校された。中学校・高等学校一貫教育の全寮制学校である。日本最南のスキー場を持つ五ヶ瀬町において、地域の家庭にホームステイしたりしながら山のくらしや民俗芸能などの山村文化を学び、スキーなどの自然とのふれあいのもとに人間形成とハイレベルの進学も目指すという日本初の県立学校である。10倍の競争率で幕を開けた。

 住民による町づくり運動も活発になった。地域の農業者が連携して生活協同組合のネットワークで販売する[ふれあいの里づくり]や、発砲スチロールの雪だるまに雪を詰めて宅配する[雪の五ヶ瀬むらおこしグループ]、スキー場で軽食堂やレンタル業務を行う「むらおこしカンパニー」、「雪だるま共和国」などがつぎつぎ設立された。住民に自信と希望が生まれてきたのである。

 若者が雄弁家になった。村の青年たちはいう。「これまで都市との交流会で出身地を語るのが一番嫌だった」と。「あの山奥の村で、夢も希望も無いところ」というイメージがあったからだ。ところが、スキー場ができてからは自慢できる町になった。「あのスキー場がある町ですか」と町の女性が目を輝かせるからと自慢げに話す。過疎山村は嫁不足である。山村の若者は若い女性との交流の機会に恵まれず生活に自信がないから結婚できないのだ。それがスキー場ができてからは僅かではあるが結婚する若者が出てきた。女性たちが若者の目が輝いているのを見て結婚に夢を感じるようになったのかも知れない。

 村のおばさん達もあか抜けしてきた。これまで外部の人との接触が少なかった村で、多くの人々との接触が始まったからだ。民宿のおばさんなどは目をみはるほど活き活きとしてきた。嬉しいことである。町ではグリーン・ツーリズム構想を策定するなど町に夢が湧いてきた。目標のない町にスキー場のもたらす効果は大きかった。

 これまでの宮崎を知る人は、「なぜ宮崎にスキー場が?」と不思議そうな反応を示す。宮崎と言えばフェニックスやワシントン椰子をイメージする南国のためだ。そこがまた愉快なところでもある。こうした南国イメージは、宮崎交通創始者故岩切章太郎翁が宮崎観光のキーワードとして推進されたものである。日南海岸の鬼の洗濯岩といわれる波状岩を黒潮が洗う、その先に美しく太平洋が広がる。その風景をフェニックスの葉陰をとおして眺める光景はすばらしく、これを宮崎のアイディンティティとして観光宮崎の基礎を築かれたのだ。

 宮崎は、青島の熱帯林から綾の照葉樹帯、九州山地のブナ帯まで、南国から北国まで自然の植生の垂直分布を持つことが特徴である。九州山地の標高の高いブナ帯で冬季の雪に悩まされてきた私たちにとって温暖多雪を表すブナ林の斜面にスキー場をというのはごく自然な発想であり、特別な発想とは思えないのである。10年の歳月をかけて

 五ヶ瀬町は、昭和31年に旧三ケ所村と旧鞍岡村が合併して誕生した町である。延岡から太平洋に注ぐ五ケ瀬川の源流であることから五ケ瀬町となった。その町の最も僻地となる波帰地区は、標高800〜900mで山の斜面にへばりつくように民家が点在する小さな集落だ。私は、昭和38年にここでやまめの養殖に挑戦した。

 渓谷にやまめが多く棲息していたことからやまめを人工孵化できないかと考えたのである。当初は、養殖技術の確立に苦労したが生産が軌道に乗ってくると販売の壁に突き当たった。その一つ一つを克服しながら次第に生産施設の拡大を図った。昭和48年には500万尾もの稚魚の生産ができるようになっていた。

 昭和50年になるとやまめを軸にした地域おこしができないかと考えるようになった。折りから過疎という言葉が話題にあがるようになったのである。過疎山地では、まもなく高齢化率は30〜40%になる。その後お年寄りが亡くなったら急速に第2波の超過疎の波に洗われ、人の居ない崩壊した集落が一挙に増えることになるだろう。行政による企業誘致や公共事業による活性化対策も行き詰まり森林は荒れて災害を誘発し環境破壊、水不足等国土の荒廃が進んできている。九州山地のいたるところでこの予兆が現れはじめている。

 こうした思いから生産したやまめを都市部に向かって販売するだけではなくて、このやまめを使って地域づくりはできないかと考えるようになった。昭和50年の暮れにそれまでの株式会社五ケ瀬やまめ養魚場から株式会社やまめの里と称号変更をした。やがて集落ぐるみで渓谷にやまめを放して釣り場を作り、村の集会所に山菜の加工場ができ、民宿も数軒始まった。ところが小さな村の小さな取り組みは誰も注目してくれない。そこで何かこの地域の特徴を生かした新しい発想の事業はないかと考え他町村との違いを探しはじめた。

 地域の特性を思いつくままに個条書きにして近隣の町村と比較してみるとほとんどが共通項ばかりである。その中で唯一つだけ違いがあることに気付いた。それは当地は雪が多いという違いだ。紅葉の季節が終わると早々と雪が舞い、冬期はしばしば大雪に見舞われる。2キロ下流にある小学校の分校て゛は、大雪になると休校となる。この分校は91年3月、児童数が6人となり閉校した。 7キロ下流の中学校では、季節寄宿舎があり冬季中学生はこの寮に入る。村人は、冬になると雪にとざされるので都市部へ出稼ぎに行く。町の成人式も冬は雪のため参加者が少ないので夏のお盆に行っている。よく調べてみるとこの地域が九州でも最も雪が多いのである。

 そこで、どこかにスキー場適地はないかとなった。まずは町長さんへの陳情からはじめた。「スキー場を調査して欲しい」と。ところが町では誰も耳を貸してくれない。当時の町長さんは「町の予算は皆さんから預かった大事なお金だ、そんな何とも知れないようなものに予算を付けるわけにはいかない」とおっしゃる。それでも、諦めずに3年ほど頑張って陳情を続けた。

 ある時、町長さんから「そこまでいうのなら自分で調査してみてはどうか。可能性があれば町でも考えてみてもよい」という返事がきた。誰もスキー場なんてできっこないと考えていたのだ。九州脊梁の山々は、春3月になってはじめて雪が溶ける。渓流に柳の白い芽が吹く頃、残雪の山々を見上げていたらヘリリコプターが低空飛行してきた。大きなモッコをぶらさげて谷間から山地の奥深くへ飛びかっている。

 ヘリは、杉の苗木を運搬していたのだ。昭和50年代は、拡大造林の森林開発が次第に奥山へ奥山へと進んでいた。天然林の伐採搬出は、ワイヤーの集材機で行うが、その跡の植林事業は、山奥深くまで人の背中で苗木を運搬することになる。大変な重労働であり効率が悪い。そこでヘリコプターで運搬することが効率だと考えられるようになったのだ。

 素人が独りでスキー場の調査をするという無鉄砲なことに呆然としていた時、低空飛行するヘリを見て「そうだ先ずは空から見てみよう」と考えた。さっそくヘリポートへ出かけて相談し九州脊梁山地の上空を飛んだ。昭和55年3月3日のことである。その時、2ヶ所北斜面に雪をびっしりつけている部分があった。地図を頼りに上空から確認した地点に登ってみると、3月半ばというのにそこは一面の根雪に覆われていた。波帰の集落から3時間半登った標高1600m付近の山中である。

 幾度となく現地踏査を繰り返し、レポートをまとめた。そして町長さんに直接提出した。これにより町役場も関心を持ちはじめた。町長さんいわく「実は俺もあの付近に雪があることは知っていたよ。だけどこれほど根雪があろうとは思わなかった。前向きに検討してみたい」とリポートをじっくり見てくださった。

 現地が国有林であるため営林署にも陳情に上がった。時の営林署長さんは、きわめてスキー場に対して理解があった。その年の冬、署長さんはスキー板を取り寄せ現地をめざした。このスキー場で一番はじめに滑った人である。「なかなか雪質がよい、これは可能性があるね。」新雪を滑って最初の言葉に私は案内しながら、スキーヤーで賑わうスキー場が現実のものとしてまぶたに浮かんできた。

 しばらくしてから署長さんは、気象観測の重要性を力説された。「林野でスキー場の話をしたんだ。すると中央から宮崎を見るとまさに南国なんだ。少しくらい山に雪があるからってスキー場とはそんなものではないという意識だ。しっかりしたデータがないと行政は動かせない」と。そこで、町では150万円の補正予算を計上して頂き百葉箱と風向風速計を目指す目的地に設置した。歩いて片道3時間半の道のりである。

 気象観測は難渋をきわめた。1週間に1度現地へ登り観測を行う。もちろん予算もないので手弁当だ。大雪の時は徒歩では現地へたどり着くことができない。毎日のようにチャレンジして登ったものである。気象観測はその後5年間続けることになる。この間県庁や営林局に町長さんの陳情のお供をして現地の状況を説明することが続いた。

 本格的に調査するには調査用の道路建設からはじめなければならなかった。余程健康で元気が良い人でなければ現地へいくことができない。もちろん町長さんも足が悪いので現地を見ることができないのである。そうする内に、やがて県より最初の調査費の予算がついた。大きな期待を胸にコンサルタントを現地に案内し詳細にわたり説明した。分厚い計画書ができた。その数字を見て関係者のだれひとり計画を推進しょうと言う人はいなくなった。事業費が町の年間予算に匹敵していたからだ。町長は、病に倒れてしまった。

 昭和59年、新しい町長が誕生した。新町長もスキー場に替わる町の活性化策の切り札は無かった。再びスキー場建設を検証しょうということになった。町の財政力に見合うよう設備の縮小をはかり再度計画を練り直した。昭和60年、町議会がはじめて全会一致でスキー場計画推進を決議し県庁に陳情に上がった。そうして、スキー場のプロジェクトは国のふるさとづくり特別対策事業に採択され、ブナの森にブルドーザーがうなりをあげた。平成2年12月、日本最南のスキー場がオープンしたのである。自然のシッペ返し

 スキー場適地を発見した時悩んだ。手塩にかけて完成したやまめ養魚場の水源にその適地はあったからだ。開発により水が汚染することは目に見えている。しかし、過疎山村に夢を求めるにはこれしかない。それと未知の可能性に挑戦するのは、胸が高鳴り楽しい。生産は多少低下しても付加価値はつけられると考えた。

 計画を推進するに当たっては、水質汚濁に一番気をつけた。プロジェクト名もスキー場ではなく向坂山森林公園計画とした。それはすばらしいブナの天然林である。自然を学ぶ場とし、一部冬期はスキーもできるとしたのである。調査段階では環境破壊に最大の注意をはらうよう打ち合わせを続けた。

 ところが、国の制度事業として採択されてからは計画の内容が見えなくなった。行政は予算が付かない内は、官と民の境なく共に計画を練るが予算が付いた途端、官と民の間に厚いカーテンが降ろされてくる。そこでは開発の理念が変り、コンサルタント主導の会検を意識した開発に変換される。 スキー場の建設が進むにつれて雨の度に美しい渓流は濁りが増してきた。調査で大切にしてきた樹木は伐採され大幅な造成がはじまった。

これは大変なことだと計画の変更を町に申しいれた。聞き入れてもらえず県に駆け込んだ。県の指導で伐採予定の樹木に○保の印が入れられ、自然地形を利用し大幅な造成はしない旨の申し合わせが行われた。ひと安心したがそれも束の間、しばらくして現地を確認した時は見事にそれらは跡形もなくなって山地はえぐり取られていた。

 平成2年8月12日、雨模様の日に床屋さんで散髪をしていた。突然電話のベルが鳴った。「すぐ帰れ養魚場が濁りで大変だ」という。雨の日の濁りはこのところ続いていたので「そんなに心配しなくてもよい」と悟したが職員の声にただならぬ気配を感じ散髪の途中でぬけだして養魚場へ車を走らせた。渓谷に近づくにつれ緑の谷間に赤茶けた一条の布を張ったような不気味な流れが視界に入った。

養魚場につくと池に注水する水はドロドロとして、落ち込みからは白い泡も立たない。職員達は呆然として池の緑に突っ立っている。やまめはもがき苦しみ水面上にあちこちで飛びはねる。魚のエラには火山灰士の細かい粘土が詰まっていた。これは全滅だ。背筋に冷たいものが走った。

 池底は30aもの泥が沈殿し、やまめの死骸で埋まっていた。連日魚の死骸をトラックで運びだしながら「バチが当たった」と思った。人がほとんど入ったこともない神秘的なブナの森を「スキーに使わせてください」と祈りながら「このブナの木もあのイチイの木も大切にしなければ、すばらしい森林公園にしよう」と調査を進めた。それを多くの人達がよってたかってねじまげてしまったのだ。しかし言訳はできない。ここにスキー場を造ろうとしなければこの森は暴れなかったはずである。被害は時間の経過とともに拡大した。次の年から初夏の夜に無数に飛び交っていたホタルも姿を見せなくなった。渓流の魚達もほとんど全滅した。苦汁の中から哲学を学ぶ

 「あなたがスキー場を造れというからやったんだ。今度は被害が出たからといって町がすべてを補償するわけにはいかない。」町役場からは厳しい判断が出された。直接的には、ゲレンデの造成に問題があった。湧水地帯をそのまま埋め立てた為、連日の雨により湧水が吹き出したのだ。地元民がその土地の状況は一番知っている。地元を無視して行政やコンサルタントに何がわかるか。ほぞを噛むがすべては手遅れである。

 とうとうやまめ養魚場は止めて欲しいと申し入れがでてきた。これからも公共事業が続くので被害は防げないというのである。養魚場の移転費捻出のため養魚場跡地は、スキー場の駐車場として町に買収された。やまめの里にやまめが泳がなくなったのである。その後、被害発生から3年目に養魚場は、国の内水面振興事業の助成を受け別水系に復活した。が、被害の補償は僅かで、移転建設費用の膨大な借金と累積赤字に悩まされ、それが今日にも尾を引いて苦労している。

 どうしてこうなったんだろうと自問自答している。森林公園の理念を行政が共有できなかったのだ。哲学がなかった。このことから学んだものは大きかった。九州ブナ帯文化圏構想はここからはじまったのである。

 ある時日本地図を広げていた。地図上にやまめ等サケ科陸封魚の分布を重ねるといずれも源流はブナ帯であることに気付いた。ブナ林を調べた。日本は晩氷期に寒帯針葉樹が後退しブナ林が広がった。ブナ林は保水力が強く豊かな水を湛えた河川ができた。サケ科魚類は産卵のため川をさかのぼった。更に温暖化は進みサケ科魚類は北方へ移動しやまめ等の陸封魚が誕生した。ブナ林は縄文時代をも育んだのだ。自然への畏敬の念を持ち自然の生態系の中で暮らすブナ帯の哲学が必要と思った。

 やまめの里では、新緑の春と紅葉の秋に森の恵みの晩餐会を行っている。ブナ帯の天然自然の食材を採集すると、ほぼ三十数種程集めることができる。春は山菜類、秋は木の実やきのこ類だ。村のおばさん達に教わりながらあく抜きに苦心して試行錯誤の調理を行うこともある。ブナ林食の晩餐会は好評だ。

 こうしたイベントにより、村の皆んなも森のことをほとんど知らなくなってきたことに気づいてきた。植林した杉以外は樹木の名前も木の実も、どのようなところにどのような植物が育つかさえわからない。自然の生態系がわからなくなっているのである。山村の住民さえこうであるから都市化された都会の人々は尚更である。自然を知らない開発は恐ろしい。中山間地のリーダーシップ

 山村には、美しくダイナミックな自然と豊かな人情や生活文化、自然と一体化した生活作法などがある。一方都市では物質文明の終えんを迎えている。これまでの都市を築いた人々は自然を経験しているが都市で育つ子供達は本当の自然を知らない。物差しを持たない自然を知らない子供達がこれから日本を背負うことを考えると恐ろしいことだ。こう考えると山村の役割と未来が見えてくる。

 平成6年の秋、「霧立越」という杣道を歩いた。この道は、九州山地の標高1600m付近を14Km程歩く尾根の道で、あたり一面はブナの天然林の中だ。昭和初期まで椎葉村から五ヶ瀬町を通り熊本県側まで馬の背で生活物資を運んだいわゆる駄賃付けの道である。近年は誰もこの道を通る人は無くスズ竹に覆われていたが延々と続くブナの天然林は紅葉で目も覚めるように素晴らしい。自然が織りなす錦絵の世界である。この尾根をトレッキングコースとしてエコ・ツーリズムによる都市と山村の交流による活性化を仕掛けたらと考えた。

 そこで、地元のむらおこしグループと旅館組合で「霧立越の歴史と自然を考える会」を結成しスズ竹や草を刈り払って歩道を整備した。平成7年5月、100人余りの人々が霧立越を歩き、「駄賃付けの道」をテーマに第一回目のシンポジウムを開いた。霧立越は、シャクナゲやミツバツツジが満開となって迎えてくれた。以後毎年テーマを設定してシンポジウムを開催しながらトレッキングの輪を広げている。

 平成8年の新緑は、霧立山地の高山植物がテーマになりそうだ。秋は、平家落人のルートか西南戦役の西郷隆盛の敗走ルートか。当分は、霧立越の話題にこと欠かない。シンポジウムの内容は記録して製本化する。今度こそ環境破壊を招かないように慎重にすすめなければならない。

 ブナ帯に於ける生活文化や縄文からの森の思想、ブナ林の植生や生態系、森の恵み、環境問題等ブナの森に学ぶものは多い。やがて住民も行政も共通の哲学を持つ時がくるだろう。戦後50年、テクノロジーの発達は、目まぐるしく日本の経済を発展させた。が多くの歪みを作った。今後、この延長線上で走りつづけることはできない。ブナの森を学び、壊した自然の再生を図りながら、真に人間らしい暮らしを構築しなければと思う。