九州ブナ帯文化圏・西日本新聞連載
1993年3月16日〜5月13日(24回)
渓谷の水ぬるむ三月一日はヤマメ漁の解禁日だ。渓流釣りファンはこの日が待ち遠しい。朝一番をめざして谷川へ出かけて、早春の水面に竿を出す。
今年は、とても寒い雪の解禁日となった。冬の眠りから目覚めたばかりでまだスレてないヤマメは、警戒心もなく容易に釣れるが、寒い日は釣りの引きも弱く釣果もあがらない。
産卵に疲れ、かろうじて越年した魚体はまだ回復できずやせて黒ずんでいる。味のほうもまだいまひとつである。
早春の釣りは下流ほどよい。水温が高く、えさも豊富にあるため早く回復しているからだ。ヤマメの盛期はやはり山吹の花が咲く五月ごろであろう。このころになると体側に並んだだ円形のパーマークはまぶしいほどに五色に輝く。早瀬を美しく矢のようにひらめき泳ぐさまは渓谷の女王といわれるゆえんでもある。
ヤマメの歴史をたどるとブナの森と密接な関係があることがわかる。今から約二万年前の氷河時代は寒帯針葉樹林に覆われ、河川は凍てついていた。晩氷期といわれる一万二、三千年前から気候は温暖、湿潤、多雪化へと移行する。こうした気候の変化に伴い、それまでの寒帯針葉樹は次第に後退してブナ帯へと移り変わった。ブナ林が全国へ広がったのである。
ブナの森は最も保水力にすぐれているので、豊かな水をたたえた河川ができた。豊かな水は、サケ科の魚が川をさかのぼり産卵擦るのに好条件を備えることになり、無数のサケやマスが海から産卵のために川をさかのぼっていたのであろう。
八千五百ー六千年前、現在より平均気温が数度高い時期があった。この時九州では、標高の高い山岳地帯にだけブナ林は残り、低地はカシ、シイ、タブなどの照葉樹林になった。
海は対馬暖流の流入など黒潮の接近によりサケ科の魚は生息できなくなった。こうして海へ帰れなくなった魚はヤマメになった。ヤマメが生息している河川の源流をたどれば現在でもおおむねブナ林である。
昔、ヤマメがいたが今は姿を見せないという流域では、源流からブナ林が消えてていることが多い。山頂まで開発が進んだ地域だ。
屋久島の原生林は美しい渓流をつくっているがヤマメは生息していない。日本におけるブナの南限は鹿児島県大隅半島の高隅山で、北限は北海道の黒松内町といわれる。このように考えるとブナ林はヤマメの育ての親である。
まだいくらかのブナ林を残す九州山地から、森の生活あれこれを報告したい。
ー山、また山。ネコのヒタイほどの杣(そま)地にその年の秋は早くも雪が降りました。夏は日照りでアワもキビも実りは少なく、冬が越せるかどうか里人は心を痛めておりました。
そんなある日、師弟とも思える旅の僧二人が行き暮れて、里にたどりつきました。もてなすものさえありませんでしたが、里人は『貧しいからとて』と宿をさせました。僧は出発の時『渕にシブキが飛ぶようになったら、これを浮かべよ』と衣のそでから何かを渡しました。春にそれを流すと魚になり、美しく矢のようにひらめいて泳ぎ始めました。渡したそれは、榎(えのき)の葉の形だったと伝えられていますー。
九州ではヤマメのことをエノハと呼びならし、こうした伝説がある。旅の僧は巧法大師といわれるが、伝教大師という地方もある。
南九州ではマダラと呼ぶ地域もある。これは体側のパーマークがまだら模様であることから、そう呼ぶものと思う。ヤマメは日本固有の種であるが、他にも同じような河川陸型でイワナとアマゴがいる。イワナは中国山地以北に生息し、日本で最も高地の水の冷たい渓谷にすむ魚である。
アマゴは瀬戸内海から琵琶湖沿岸地方にかけての周辺に分布し、九州では大分地方の河川の源流に生息している。大分では、このアマゴのことをヤマメと同じように『エノハ』と呼ぶ。
ヤマメとアマゴは非常によく似ているが、アマゴは体側に小さな朱点が散らばっているので簡単に見分けることができる。ヤマメがサクラマス系統に対してアマゴは琵琶マス系統とされこれからの生息分布は日本列島の形成を物語っているともいわれている。
ヤマメは食べて非常においしい。縄文時代の狩猟採集生活から近年まで山地に暮らす人々の貴重なたんぱく源であったものと思う。
昔から伝えられているヤマメ料理に『腹ぐすり』といわれる調理法がある。ヤマメの腹を開いて、刻んだニラとみそをまぜあわせて腹の中へ詰める。ついで竹の皮で二重に包み、残り火の囲炉裏の灰のなかに埋めて長時間かけて蒸し焼きにする方法だ。
の皮とニラとみそのなじあいが蒸したヤマメによく浸潤し大変おいしい。ホオ(朴)葉の季節にはホオ葉で包むこともある。
おおよそ物を加熱調理するには、火、水、木、金、土の五つの火があるといわれる。囲炉裏の灰の中の蒸し焼きは、灰の熱を利用した『土』の火と、竹の皮をと通した『木』の火と、その両方を同時に使って加熱する高度な調理法だと聞いた。先人の知恵に驚かされるのである。
五ケ瀬の源流『波帰』。山の斜面に二十数戸が点在する寒村だが、美しい渓谷があり無数のヤマメがすんでいた。子供のころは、釣りや手ずかみなどでヤマメを捕りながら遊んで育ったものだ。
近年、渓流釣りはグラスざおでフライやルアーなど精巧な道具が市販されていて大変便利だが、昭和二十年のヤマメ漁を思い出すままに記してみたい。
釣り道具はすべて手作りであった。さおは裏山から細くて伸びのよい竹を切り出し、枝を落とし、火であぶりながらまっすぐに伸ばしていく。しみ出る竹の油はよくふき取り何度も矯(た)めながら曲がりを菜直し、釣りのイメージでさおを振ってみる。ポイントに寸分違わず釣り針を振り込むイメージである。
釣り糸と釣り針は町へ出かけた時に買ってくるが、釣り糸がない時地駄引き馬のしっぽの毛をもらってつなぎ合わせて使うこともあった。毛針は庭先の鶏小屋から雄鳥の尾の両わきに垂れている美しい羽根を抜き取って針に巻き付けた。
春、ネコヤナギが白い芽を吹くころは白の羽根を、夏から秋にかけては赤い羽根を使った。時々、カスケの羽根も使った。カスケの翼は白と藍(あい)との美しいまだらがあり、この羽根は良く釣れた。春、苗代のタネモミを拾いにくるカスケを生け捕りにし、鳥籠(かご)で飼うこともあった。
釣り針には、先ず下糸をぐるぐる巻き付け、その上に鳥の羽根を数回巻く。さらに鳥の羽根先を釣り針の先端に向かうようにして上から押さえの糸を巻いて形を整える。最初に巻く下糸は赤でなければならないとされていた。このことは、後年、ヤマメの養殖を始めるようになって赤の赤の意味を発見した。
毛針釣りは朝、太陽の昇る前か夕方、日没寸前で毛針が水面上に見えるか見えないかのころが一番よい。毛針につばをつけてポイントに振り込むと大型ヤマメが水流を起こして出て来る。次々と釣れるので帰れなくなり夜道になってしまうことがある。
餌釣りでは、春はヒラコ(カゲロウの幼虫)、カンネカズラ(クズの蔓)虫、夏から秋は草むらに巣くうクモや植林地の下草刈りで見つけるアシナガバチの子、そしてミミズである。釣りは雨の日がよい。バッチョ笠(がさ)にミノをつけて沢を釣り登るが、釣れたヤマメがキュツキュツと鳴きだしたら入れ食いの豊漁である。近年はこのような釣りをしたことがない。
夏休みは金突漁だ。渓谷は上流になるほど勾配も急になり、滝と渕と早浅瀬が交互に続く。岩陰からそおっと箱眼鏡で渕の中をのごき込むと、そこにはヤマメの世界がある。
小さな魚は日当たりのよい早浅瀬で流れに乗ってたわむれているが、親魚は泡が渦巻く深い渕の岩陰近くでゆったりとかまえている。小魚が近づくとうるさいとばかりに大きな口をあけてサッとおいちらす。
金突き漁はこうした親魚に気付かれないよう、そおっと息を止めて五、六メートルもある長い柄を少しずつ繰り出していく。鉾先が魚に近づくにつれて胸がドキドキし、緊張感が高まる。
この時、身も心も自然と一体にならなければならない。少しでも不自然な動きをすると警戒心の強いヤマメはスーと岩陰に隠れてしまう。その時はジーッとそのままの姿勢で元の位置に戻るまで待たなければならない。
鉾が至近距離まで近づいたら一発勝負とばかりに一気に金突きざおを繰り出す。一渕で一回きりの勝負なので一番大きな魚を狙うのである。二番手でも二尾並んでいればその方を狙い同時に二尾を捕らえる。金突き漁はこの緊張感がよい。
次回に同じ渕をのぞけば前回と同じ型のヤマメが同じ場所にいる。それを捕らえれば翌日もどこから北のか同じ型の魚が同じ場所に陣取っている。
秋、紅葉が谷川に映えるようになるとヤマメは産卵を始める。産卵期が近づいたヤマメは産卵場所やペアの相手を求めて瀬を上ったり下ったりするようになる。
この時、オス同士の激しい戦いが始まる。横っ腹めがけて突進し、大きな口をあけてかみあう。婚姻色が赤く鮮やかになったぎ魚体は傷だらけになり、戦いに敗れたオスは傷口に白い水生菌が付き、やがて全身に広がって死んでしまう。強い子孫を残すため天が定めた悲しい運命である。
こうした時期にはウケ漁があった。ウケ漁は直径十センチほどの竹を節三つで切断し竹筒をつくる。竹筒の片方から筒の中央までナタ目を数十条入れる。ナタ目の入った側は外側に大きく広げて輪にし、輪っかを入れる。竹筒の節には水の通る穴を開ける。これでウケが完成する。
ウケは早瀬に二条の石を積んで流れをだんだんせまく誘導し、ウケの輪の幅になったらこれを上流へ向けて仕掛ける。下流へ下りるヤマメがこのウケに頭を突っ込んだら後ずさりできずにいるので捕らえることができるのである。
川魚は山猟とともに森の貴重なたんぱく源でもあった。
森全体が燃えるような紅葉に染まり、やがて山頂に白い冠雪を見るようになると狩猟のシーズンとなる。
昭和二十年代は村人すべてが狩人であった。夜明けとともにトギリはイノシシのカクラを踏み回しに出かける。足跡がキレているかどうかを確かめるためである。
トギリとは獲物の情報を収集することで、カクラとは獲物が潜んでいる特定の領域を指す。キレているとはカクラからすでに獲物が外へ出ていることをいう。
村人は狩りの集合場所に集まり、こうした偵察情報をもとに作戦会議を開く。ここではまずセコとマブシの割り振りが行われる。
セコとは猟犬を全部引きつれてイノシシの潜伏する場所を上から襲いかかる役割を持つ人のことを指す。マブシとは、逃げ出したイノシシを待ち伏せて狙う人である。
逃げ道で最も確率の高い場所には射撃に腕利きの猟師が立つ。主に古老である。セコは元気な若者ということになる。
マブシは持ち場を細かく指示される。谷川にある岩や朽ち果てた古木、斜面の特定の立木などを目標に、イノシシはどこを通り、マブシはどこに立って狙うかを細かく決定する。
見通しのよい谷は、獲物が斜面をかけ下りてまた登っていくので射撃に重要なポイントとなる。雪の冷たい山中で独りじっと動かずに立つマブシの足は凍傷にかかることもしばしばで強い忍耐が要求される。
狩りの合図はウソをたてて連絡を取り合う。ウソとは長さ十センチほどの小さな竹笛で、ヒョーッと長く鳴らしたり、ヒョッと短く、ヒョッヒョッと続けて鳴らすなどで、いろんな意味を持つ。長い音は谷や峯を越えて遠くまで届く。短くて低い音は至近距離同士で近くにカモを切っている可能性が高い場所での信号である。
カモを切っているとはイノシシの寝床があるという意味で、日当たりのよいヤブの中で、地や岩場の前庭利用してスズタケや小枝を切って集め、その中に寝ている。この寝床をカモという。
セコはカクラの上部まで猟犬を引き連れて遠巻きにして登る。獲物の臭いで猟犬はいきりたち、強い力で人をグイグイ引っ張る。首にかけた輪がのごに食い込み、ゼーゼーいいながら右に左にかん木の枝を潜り抜けていく。セコは鵜匠のようにうまく手網さばきをしなければならない。
目標の場所にたどりついたらウソをたてて仲間に合図を送る。人も猟犬も耳をそばだてて、緊張の一瞬を迎える。やがて一斉に猟犬が解き放たれる。
猟犬は解き放たれると風鼻をとりながら獲物の方向を察知し一斉に駆け出す。獲物に近づくとほえかかっていくが、獲物の種類によってほえ方が違う。イノシシの大物にはウワウ、ウワウと腹の底から響くような大きな声でほえるが。ウサギなどのときはキャッキャッと軽くほえるので声で獲物を察することができる。
大物イノシシと猟犬の対決が始まる。大木や岩場を背に猟犬と向かい合う。目を真っ赤にし、長い毛を逆立て、キバをぎしぎしと擦り合わせながら相手をうかがっている。やがて目にも止まらぬ速さで突進し犬を突き飛ばし、サッと元の位置に戻る。
この時かわせなかった犬は鋭いキバで切られ命を落とすこともある。こうした格闘を繰りひろげることをタテるという。この現場にいち早く駆け付け、犬の動きに注意しながら獲物を射止めるのである。
タテない場合は逃げていくので待ち伏せているマブシがこれを狙う。失敗したら次のトオリにスケて行く。トオリとは獣道のことで、先回りして撃つことをスケるという。
雪は狩りにとって重要な要素を持つ。雪面に残る足跡の大きさや深さ、足跡と足跡の距離などで獲物の種類や大きさ、通った時間、獲物が疲れているかどうかなどを判断する。長時間走り続けた獲物はヒズメの向こうづめと後つまの間が開いてくるのである。
雪のない場所では獲物の足跡を特定するのが難しく、早朝の踏み回しで、すでにカクラから出ているのを見逃すこともある。この場合をスッポ狩りという。
獲物を仕留めたらウソで仲間に知らせるが、トンッと聞こえたら命中しており、トーンと山に響いたらはずれているのである。
仕留めた獲物は四つ足を結び合わせ、長木を切って中を通し、両端を担いで山を下る。村の近くへ下りて来たら一服し、ヤタテを撃って村人に知らせる。ヤタテとは空砲を撃つことで、ヤタテの数が多いと大物が捕れたことを意味する。ヤタテを聞いて村人も出迎え、酒宴の準備が始まる。
イノシシは仕留めた方角に頭を向けてムシロの上で解体する。最初に肺臓の先端を切り取って竹串に刺し、山の神に供える。肉の配分は、鉄砲一挺一口、犬一匹一口、人一人一口、トギリ二口として串に刺し、狩りに参加した全員に平等に分配する。
酒宴は洗った内蔵と骨、それに大根をそぎおろして釜で煮たシシ汁がさかなである。三本じめの手拍子で打ち込んで杯をあげる。シシを仕留めた者は心臓を火ばしで串刺しにして炉端で焼き、仲間に回しながら勇壮なシシ狩り話が弾むのである。
深い森で狩りを行うには場所の特定を細かくしなければならない。通称の地名以外に次のような具体的な場所を表す狩り言葉がある。
『ウジ』 けものみち。ウジが踏めている、とは頻繁に通っていること。
『カマデ』『カサマキ』 山の斜面を仰いで右手をカマデ、左手をカサキという。鎌を持った手が右手で鎌の先が左ということか。
『シナトコ』 焼き畑の小豆やソバなどを収穫した跡。小枝を網状に編み棒の先端に回転するように取り付けたメグリボウと呼ぶ道具で種をたたき落とす床。獣はこぼれた実を拾いに来る。
『シャクナンワラ』 シャクナゲが密生している場所。シャクナゲは木が丈夫で固く横方向に枝がのびて重なり合っているのでイノシシもここは避けて通る。
『ズリ』 薪炭材などの木材を落とす場所で、斜面は土がえぐられて、むき出しになっており見通しがよいので待ち伏せのポイントにもなる。
『タオ』 横たわる峰で低くなった場所をいう。垰である。
『ズータワラ』 ズータとはミズナラのことでワラとは群生しているさまえを言う。ズータの実はドングリの一種で獣が餌を求めて集まる。ズーダの実の豊作の年は獲物も太り豊猟が期待される。ただし、ズーダばかり食べたイノシシはその内蔵が非常に苦い。
『ナガオバネ』 オバネとは峰のことで、長く横たわっている峰を言う。
『ニクダキ』 ニクとはカモシカのことで、カモシカが逃げ込む絶壁の高い岩場。
『ニタ』 尾根の平らな部分や山腹の湿地帯などに窪地があり、水をたたえている場所。獣はここへ来て水を飲み、全身に泥を浴びる。これをニタ打つと言う。そして付近の樹木に背中につけた泥をこすりつける。このニタの状況を調べれば付近の獣の動向を知ることができる。
『ホウバ』 森には高木の下にスズタケや灌(低)木が多く茂り見通しが悪い。その中に所々スズタケも灌木もない高木だけの見通しのよい場所が点在する。これがホウバ、その広いところをウウホウバと言う。イノシシが逃げるときはホウバを避ける。
『ホーレギ』 斜めや横に伸びている樹木。ホーレギを楯に待ち伏せれば木の上に立って遠くを見通すこともできる。迫や谷で待ち伏せる時、上から降りて来るイノシシはたとえ心臓を一発でぶち抜いてもそのまま惰力で猟師めがけて突進してくるのでかわせない。ホーレギを利用するのは狩りの重要なテクニックである。
裏山を三百メートルぐらい登ったところにブナの古木があった。目周り三ナートル以上はあるが、高さ十メートルほどのところからぽっきり折れて幹の部分だけが突っ立っている。
山側から見上げると、中ほどに直径十数センチの穴が見え、地面から穴まで動物の爪痕が続いている。モマ(ムササビ)が出入りしているのだ。
時々、この古木を観察に出かけた。比較的新しい爪痕があることを、磨けているというが、これを確かめるためである。そして、木の枝で幹の周りをこすり、ガサゴソと音をたてる。しっかりと穴を見つめながら続ける。
すると、ひょいとヒモが小さな顔を出す。とたんに時間を止めたようにジーッと動かず見つめたままでいる。モマはキョロキョロあたりをうかがっているが、やがて穴の中へ引っ込む。
しめたとばかり、いちもくさんに山道を駆け降り、村人に知らせる。近くにいるだれかが銃をもっている。胸をわくわくさせながら木のとのろへ案内していく。猟師は木の根元から少し引き上がったところに腰を落とし、銃をかまえる。
猟師の『よしっ』という合図で木の幹を枝でゴソゴソとこすりはじめる。ーなかなか出て来ない。『もっと高くを』と指示がとぶ。今度は灌木の枝の上に登り、丸太で幹をコンコンとたたく。灌木の枝は揺れて足場が悪く、危うく落ちそうになりながらも必死でたたく。
すると、ドーンと耳をつんざく音がし、白煙が立ち上がる。同時にマモがドサッと落ちてくる。
本格的なマモ猟は夜に行われていた。マモは夜行性で、ブナの実やカシの葉を食べながら、木から木へ渡り歩く。月夜の森に入るとキキキッと泣き声が聞こえる。木の枝に黒くうごめくものを見つけ、そこへ光を当てる。すると二つの玉が青く赤くキラリと光る。夜行性の動物の目は光に強く反射するのだ。そこへめらいを定めてズトーンと仕留めるのである。
冬の夜は、あかあかと燃える炉辺で玉造りが行われた。長い手のついた小さな鍋に鉛をいれて火にかける。やがてゆらゆらと鉛が融けてくる。これをペンチ様の鋳型の小さな穴に流し込む。そして水の中にギュッと突っ込み、ペンチの手の部分を開くと玉がころりと出てくる。薬きょうに雷管を詰め、黒色火薬を量って詰め、次に弾丸を装てんする。
『そら、猫がきた』。あわてて猫を部屋の外へ追い出す。この作業を始める前には猫を隣室へ移しておくがすぐ入ってくる。猫は魔の性があり、造った玉の数を数えるといわれる。獲物と向かい合う時、隠し玉が動物側に知られるからといわれていた。
ムラの中にも野性動物は姿を見せた。猟犬に追われたイノシシやシカが逃げてくる。
シカは大きな角を背中になびかせ、地響きをたてて駆けてくる。人に危害を加えないので村人が両手を広げて通せんぼする。すると頭上を飛び越えて逃げてしまう。追われたシカは低い方へと下りていき、川の渕に飛び込む。川では頭だけを水面上に出し、岩陰に潜んでいる。
シカは走ると体温が急速に上昇するらしく、しばらく水につかって体を冷やすといわれる。水から上がったシカはエネルギーがみなぎっており、もはや猟犬も狩人も追いつけない。しかし、川につかっている間にたいてい追いつき、そこで仕留めるのである。
シカはシバトコといい、仕留めたところに駆け付けた者にも肉が分配される。一方、イノシシはネドコといい、狩りに参加した者だけが分配権を持つ。また、セコアタマと称してセコには頭部分を、仕留めた人はウチモギと称して全肢の片方を特別に与えられる。
猟犬に追われるとイノシシは深い森の奥へ逃げ込む。シカは村に出てくるので、その習性から出た狩猟の作法であろう。
イノシシを仕留めた猟師は下顎の骨を家のケタに打ちつけて残す。猟の名人宅ではずらりと並んだイノシシのキバがみごとであった。
狩猟社会では、獲物は山の神からの授かり物と考える。毎年、正、五、九月の十六日は山の神の日と定められていた。この山の神の祠(ほこら)へカケグリを供えてお詣する。山へ入るのを禁じられた日である。
カケグリとは皮付きのシノダケを節から上十五センチぐらいのところを斜めに切断し、切り口から下三センチあたりで皮を切り取り、二本並べて結い合わせもので、これに御神酒を注ぐ。
山の神は女性の神で礼節を重んじ、掟を守らない者には猟の恵みを与えない。
イノシシの脂肪はアカギレの薬として用い、ユと呼ぶ胆嚢は軒下につるして乾かし、さらに板に挟んで平たく固め、胃腸薬とする。シカの骨はせんじて飲むと、産後の病気に効くといわれた。
近年、野性動物に変化がみられる。アナグマは絶滅したのではないかと思われるがタヌキやイノシシは増えた。かつては森が獣の生活領域であったが、今は人の生活圏と同じになった。人家の近くにすみ、農地に食糧を求めて出没する。人を怖がらない。環境の変化に順応できる獣が増えていくのだろう。
狩りをする人が少なくなったことと深い森が人工林に変わり、森に食べ物が無くなったことが原因だろう。過疎の村では被害に悩まされている。
ムラの一角には露天に大きな釜が据えられていた。釜のそばには電柱ほどの大きな基の柱が立っており、そのてっぺんからはハネ木と呼ぶ長い木が、斜めにぶら下がって揺れていた。
釜の上には高さ三メートル以上もある大きな桶が逆さにつり下げられ、周りからは湯気が上がっていた。数人の男たちが、立ち上る白い蒸気を見上げている。
ここは苧(お)蒸し場と呼ばれ、ハネ木は遠くからも見えた。ここでは昭和二十三年に、大麻取締法が施行されるまで麻苧(大麻)の栽培が続いていたのである。
麻苧は春タネをまき、夏には刈り取る。成長が速く、茎は人の指ほどにもなり、丈も二メートルに達する。鎌で刈り取った麻苧は『葉打ち棒』と呼ぶ刀状に削った竹を振りおろしながら葉をそぎ落とす。ちょうどこのころはトンボが無数に飛び交っており、これを『苧刈りトンボ』と呼んでいた。
葉をそぎ落とした麻苧は束ねて大きな釜で蒸す。ハネ木はこの時、釜の上に立てた麻苧に、蒸し桶を上からつり下げてかぶせるためのもので、長いハネ木の一方の端には引っ張るための長い網が結び下げられていた。
蒸し上げた麻苧は川の掟みの部分に浸け、浮いて流れないように川石を載せて沈める。この場所を苧浸け場と呼ぶ。数日して取り上げ、麻苧の皮をはぎ取る。この作業を苧ヘギという。
はぎ取った皮は木炭にまぶして土間の平釜で煮る。すると麻の繊維が美しく深いあめ色に発色し、しなやかになる。これを苧煮といい、この工程以後は単に苧とだけ呼んでいた。その後、繊維部分だけを取り出す作業を行うのであるが、これを苧コギという。
苧コギの作業は、幅五十センチ程の流れの速い水路で行う。苧の端を片手に持って水中にさらし、もう一方の手にクダと呼ぶはさみ様の竹を持ち、苧を軽く挟んで下流の方へしごいていく。すると粗悪な繊維部分は流されて精製されるのである。
クダは、長さ三十センチほどのシノ竹の中央を焼いて二つに折り曲げたもので、握りしめた時、二本がぴったりとくっき合うように作られている。
こうした作業が行われる苧コギ場は、唐臼(水力で穀物を精白する臼)の水路であった。水路の上には雨露をしのぐ程度の簡単な小屋が掛けられ、付近には精製された苧コギ場は地名として残っている。
苧コギ作業は女性たちの仕事で、にぎやかな笑い声が聞こえ、楽しい井戸端会議の雰囲気であった。
精製された麻苧(あさお)は糸に紡がれて麻となる。深いアメ色に輝く麻は『神代の色』といわれ、神社で修祓に使用される大幣に結わえ付けられていた。上棟式の吹き流しにも麻を結え、神楽の舞衣にも編まれていた。今でも神楽はこの麻で編んだ舞衣を着用して舞う。
宮崎県政八十年史によると、明治十七年から同二十一年までの五ヵ年平均で大麻の作寸面積五百六十八町歩、そのうち西臼杵郡が八十パーセント以上を占めていたとある。
飫肥藩士の平部きょう南が明治九年から八年間の歳月をかけて県内をくまなく現地路査してまとめた『日向地誌』には、五ケ瀬町鞍岡地区で麻の生産五千貫刄とある。
一方、五ケ瀬町史煮夜と、明治四十年、五ケ瀬町の畑総面積五百五十八町歩に対して大麻は四分の一に当たる百三十九町歩を作付けし、生産量は約一万六千六百貫刄、売上は二万一千九百円とある。加工品は麻布八百七十九反、蚊帳地六十反、麻糸百四十貫、麻網九百七十九貫、網糸四十四貫、売上二千四百九十円となっている。
衣類も手作りにすることが多い。その代表的なものにタナシがある。タナシは粗い麻糸で織った作業着で、風通しがよく、とても丈夫な着物あった。衣服以外で麻の利用を挙げると次のようになる。
ニノウ(麻を撚り合わせた太いロープ)は牛馬の胸当て、手網など。カネロー(物をになえるように幅広く織ったロープ)は田植え網、縫い糸、むしろの編み糸、豆腐漉(こ)袋、米を運ぶ袋などのほか、投げ網、コマ回しのヒモなど、数えあげればきりがない。
狩猟用として、猟犬をつないだり、獲物をくくったり、ワナをかけたりするには麻のひもでなければならなかった。
ひねりたびは麻糸を束にして撚りをかけながら編んだ足袋で、スズタケの切り口もこれを通さず安全に山歩きができたという。
苧コギでコギ落とされた苧糟(かす)は漆喰壁の材料、おけやふろの水漏れを防ぐ目詰めなどに用いられていた。
皮を剥ぎとった白い麻苧の殻は『アサギ』と呼び、竈(かまど)や囲炉裏のたきつけに使用した。また、茅(かや)ぶき屋根の下地材料として茅の葉が屋根裏に出ないようアサギを敷いてその上に茅をふいた。
こうしてみると、かつて九州山地の特産品は麻であったことがうかがえる。換金作物と同時にくらしを支える貴重な基幹作物であった。麻苧の栽培は自給自足の生活になくてはならないものであり、九州山地の文化をはぐくんだものと思う。
記憶の糸をたぐっていくと、一人の老人の顔が浮かぶ。老人は背を丸めてひょこひょこと歩いてた。村人は彼のことをボンクリ爺(じい)さんと呼んだ。
彼は、谷川から水を引いて水車を回し、轤轤(ろくろ)で木工品を作っていた。作品はブナやケヤキなどを材料に、臼受鉢(挽き臼をのせる鉢)や、丸盆、お碗などで、今でもそれを重宝している家庭がある。
ボンクリ爺さんの仕事場へ遊びに行くと木のおもちゃを作ってくれた。動力を伝える歯車も、数式を書いて木で作り上げたので、頭のよい人だ、と村人から尊敬された。
昭和二十四年ー五年ごろと思うが、いゆの間にかに引っ越してしまった。彼は多分、木地屋と呼ばれる人の末裔(まつえい)ではなかったかと思う。
やまめの里のホテルフォレストピア付近をキジヤと呼び、少し上流の波帰の集落近くにキジヤという地名がある。また、本屋敷の奥にはキジフジ屋敷と呼ばれたところもあった。
木地屋とは轤轤でお盆やお椀などをつくりながら全国を渡り歩いた木地屋職人の人たちである。木地屋には山の八合目以上の木は全国どこでも切ってよいとされる朝廷からの天下御免の免許状が与えられていた。
文徳天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王(八四四ー八九七年)は二十九歳の時、都をのがれて近江の国小椋郷に移り、貞観十四年(八七二年)に出家して素覚法親王と名乗った。親王は読経中に法華教の経典の丸い軸から轤轤を思いつき、その技術を付近の住民に教えたという。
こうした由緒に基づいて木地師は小椋郷をふるさととし、惟喬親王を轤轤の神様と仰いだ。祖神の氏子に対し朝廷は木地師の特権を認めた綸旨(りんじ)、免許状、鑑札、印鑑、往来手形などのいわゆる木地屋文書を与え身分を保障した。
木地師はこの文書を携えて全国各地に散り、独自に生産活動を行うようになった。人里離れた奥山での厳しい生活は、親王伝説が心のよりどころになったものと思われる。
氏子には二派あり、一方を筒井公文所、もう一方を高松御所として、氏子狩と呼ぶ制度によって全国的な組織に統一されていく。
氏子狩は小椋郷から奉加帳を持って諸国に散在擦る木地師を訪ね、祖神への奉加金を徴収し、人別改めを行った。
木地師研究家の杉本壽氏の資料によると、正保四年(一六四七年)から明治二十六年(一八九三年)まで、奉加帳に登録された木地師の延べ人員は筒井公文所約五万人、高松御所約一万人といわれる。
木地屋文書は、江戸時代まで先例通り許可したが、明治時代になり土地の所有権制度が確立されてからはその慣例は無効となった。木地師は特権が認められなくなると、山から山へ渡り歩くことをやめて、農耕を兼ねるようになり、定住してきた。
杉本壽氏の氏子奉加帳によると、明治三年(一七六六年)鞍岡山、木地屋九軒とあり十三名分の奉加金が登録されている。しかし江戸末期からはその消息を絶った。代わって明治初年、三ケ所地区に小椋家が移住してきた。小椋家には木地屋文書があり、家宝とされている。
五ケ瀬町史(昭和五十六年発行)によると、小椋家の木地屋古文書には次のようなものがある。承平五年(九三八年)左大丞(太政官の左弁官局長官)の名で出された免許状で『器質の統領として、日本国中の諸国の山に立ち入ることを免許する』という書状。
承久二年(一二二〇年)惟喬(これたか)親王を祭る筒井神社にあてた大蔵政卿雅仲、民部卿頼貞、藤原定勝、連署の惟喬親王由緒書。
元亀三年(一五七二年)『諸国の轤轤師(ろくろし)杓子、塗物師、引き物師の一族は末代其の職を許し諸役を免除させる』という書状。天正十一年(一五八三年)には豊臣秀吉から『日本国中の轤轤師の商売は、先祖からのしきたり通り異議なく差し許す』という許可丈が筒井公文所あて出されている。
九州において、一国の頭領が所持する木地師の由諸書や免許状を保存しているのは小椋家だけではないかといわれる。
古文書とともに、小椋家には手轤轤(てろくろ)が受け継がれている。手轤轤は、横に固定された円筒に網を数回巻きつけて網の両端をそれぞれ両手に持ち、交互に引いて軸を回転させる装置である。
軸の先端には鉄のつめがあり、これに荒木取りした木地を打ちつけて固定し、もう一人が軸の回転に合わせて木地にカンナを当てて削るようになっている。
手轤轤による制作工程は昭和五十五年、宮崎県教育委員会によVTRに記録されている。若い時、制作に当たった経験のあるただ一人生存者であった小椋シモさん(故人、当時八十八歳)の協力で再現したものだ。
小椋家では近年、木地師の伝統により轤轤製品を復活させようと轤轤工場を始めた。ところが困ったことに深い森に材料がない。ブナ林は金にならないと全部杉に植え替えてしまった。ブナやシオジの良材は今日ではまぼろしの木となった。使い捨て文化の終焉(しゅうえん)から本物を見直そうとする今、木の文化が滅びつつある。
ブナの森が紅葉に染まりやがて頂に白い初冠雪を見るようになると神楽の季節が始まる。笛や太鼓の音が、澄んだ冷たい空気に響きわたると遠い古代のにおいが漂うのを感じる。
神楽を舞う場所は、舞庭または神庭(こうにわ)と呼び二間四方に注連(しめ)を張る。注連の上えには紙に十二支などを彫った『彫(え)りもの』をめぐらす。
正面を神座とし、神座を東の座と呼ぶ。ここから方位を割り出し、東西南北の場所で舞いの『手』が行われる。神座に向かって右手が太鼓の座で、上から太鼓、楽(がく)、笛、手拍子(鉦鼓)と並んで奏楽する。
太鼓はドンドンと鳴る皮の部分と、カタカタと鳴る緑の部分をたたいて曲節をつくる。バチは親指と中指で軽く持って打つ。楽は太鼓の中央に座りカツカツと響く胴えおたたいてリズムをとる。笛は太鼓のリズムに色をつける。手拍子はグアングアンと余韻を響かせ全体のリズムを滑らかにする。
太鼓は胴より鼓の方が大きい『締め太鼓』と呼ぶもので、鼓には鹿の皮をなめして張る。胴はケヤキをくりぬいたものだが、鞍岡神楽解説には『白岩山の秘境に育つクルミの特殊材をもって胴となす』よある。
締め太鼓は、胴の両端に鼓をあてがい、鼓の緑に麻ひもを通して両端を引き締める。普段はこのひもはゆるめておき、神楽を始める時に引き締める。強く絞めるほど高音になり澄んだ音色を出す。天気の良い日は音(ね)がきれるが、雨の日は音のきれが悪い。天気によって締め加減を調整しなければならない。
笛は横笛で、しの竹を使う。竹林で一番古い竹を選び抜き、最もよい一節を切り取り、釜で煮て油抜きをする。陰干しにして十分感想したら、竹に指を当てながら穴の間隔を決める。
竹の節から指二本並べたところが息を吹き込む穴の位置になる。この穴は唇に合うよう楕円形に開ける。次に握りこぶしをつくり人差し指と小指を真っ直ぐ伸ばす。伸ばした人指し指を、息を吹き込む穴の上に乗せる。すると小指の先が音階の穴のはじめの位置になる。
音階の穴は指一本ずつの間隔で丸く六つ開ける。穴は刃物で開けると竹の繊維を傷めるので焼け火ばすで焼きながら開けていく。
大きめの竹笛は低音だが美しい音色をだす。小さめの竹笛は高音で澄みきった音色になる。
奏楽は音を竹に吹き込む気持ちで吹くという。太鼓も竹笛も生きた楽器だ。焼酎を吹きかけたり、卵の黄身を塗り込んだりしながら大事に使い込んでいく。
神楽は三十三番あり、地域によって舞の形がそれぞれ異なる。それは口伝によって伝承されたことと、時代の変遷による地域の思想の変化と異文化の導入によるものであろう。
九州山地の神楽はそうした地域の違いがありながらも流れは天の岩戸を目標とする神楽だ。天の岩戸とは古事記や日本書紀にある大和国家起源の神話である。
荒らぶる神、須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴に、お怒りになった天照皇大神(あまてらすおおみかみ)は、天の岩戸にお隠れになった。『かれ是に天照皇大神かしこみて、天の岩屋戸にさしこもりましき、ここに高天原(たかまがはら)皆暗く、葺原の中つ国悉に暗し.....』とある。そこで八百万(やおよろず)神々は『神集いに集い給い、神譲りに譲り給いて常世の長鳴き鳥を鳴かしめ、笛太鼓、手拍子よろしく天宇受賣命(あめのうずめのもこと)が伏せ桶を踏み鳴らし、小竹葉(ささば)を打ち振り神懸りして胸乳をかきい出し調子面白く舞い給えば天照皇大神のお怒りを解き給うなり』という物語である。
神楽には演劇風神楽と採りもの神楽がある。九州山地の神楽はどちらかというと採りもの神楽で、採りものでいろいろなを表す古典的な神楽である。
手に持つものには鈴、榊(さかき),扇、幣、杖、弓、太刀、鏡などがある。鈴は小竹葉が鈴になったものであろう。鈴の音は神の音とされ神の降臨を意味する。榊は神に捧げるみてぐらである。扇は神楽に能がとりいれられたことによるものといわれる。幣は神を降臨する力がある、神から授与されたものとされる。
杖はブチとも呼び、呪力や神威を表し、ある時は農耕具になり、ある時;は検地の道具となる。弓と太刀は悪魔払いである。鏡は御神体として天照皇大神を表す。
顔は神面をつけたものとつけないで舞うものがある。神面を付ける場合は千早を着る。千早は神の枕ことば『千早ぶる』と同義で神を表す。神面をつけない場合は毛笠か鳥帽子を付ける。
岩戸開きの舞は一般的に岩戸から鏡を受け出す舞であるが、鞍岡では稚児に神面をつけ天冠を破せて鏡を持たせこれを天照皇大神たして岩戸からお迎えする。
日本神話を繰り広げる神楽は、神をなぐさめ、また神の身代わりをなす神事として舞われるもので『礼儀を重んじ、厳粛の中にもまた、にぎやかでなければならない』とされている。
神楽はお祭りのメーンイベントであり、祭りがムラを構成していた。神楽はムラの根本をなすものであったに違いない。
日本では日本民族の起源を天孫臨とする考え方が近年まであった。古事記や日本書記の神話に起源を求めたのである。
神々が降臨するとき、成り成りて成りあまるところひととこありとする伊奘諾尊(いざなぎのみこと)の男の神と、成りあわぬところひととこありとする伊奘由尊(いざなみのもこと)の女の神が現れる。
伊奘再尊は日の神を産んでその神通力が消滅し黄泉(よみ)の国へ行く。一方、伊奘諾尊は筑紫の国、日向の橘の小戸の阿波岐が原でみそぎ払いをした。その時、右の御目から天照皇大神が生まれ、左の目から月夜見尊(つくよみのみこと)生まれ、鼻から素戔鳴尊(すさのおのもこと)生まれた。こうして天照大神と素戔鳴尊は姉弟として生まれたのであるが、物語では非常に仲が悪い。
素戔鳴尊は出雲の国に追放されるが、肥の川の上流で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して櫛名田比賣(くしなだひめ)を守り結婚する。神話では多くの神々が登場するが、天つ神と国つ神に分けられている。
木花開耶姫(このはなさくやひめ)は火照命(ほでりのみこと)を産む時『生まれた子が天つ神の子であれば幸せで、国つ神の子であれば幸くあらじ』と古事記では言っている。二千参百年余り前、縄文土器が忽然(こつぜん)と姿を消し、弥生時代になった。大陸から北九州に渡来してきた弥生人が日本を征服し、大和国家をつくった。
日本の起源を大和国家におかれてていることを考えると、古事記や日本書記に語られる神話は弥生人が縄文人を征服したことを勝者の立場から語られた物語であるとする説にうなずかざるを得ない。
天照皇大神は弥生人で素戔鳴尊は縄文人を表す。天つ神は弥生人で、国つ神は縄文人であるということになる。このように考えると神話もまた非常に興味深いものがある。九州山地には、ほとんどのムラに神楽が伝承されている。その神楽の大部分が天の岩戸を目標とした神楽である。なぜこれほど神楽に固執したのか。それは土着の縄文人と渡来してきた弥生人の接点が九州山地にあり、その中心が高千穂であったからではなかろうか。
山の神や水の神を崇(あが)め,自然を崇拝する。川の水を汚すとバチが当たるとか、木の実は全部取らずに残しておくなどの掟(おきて)があった。森の再生を祈る生活作法に違いない。これは縄文時代の思想に通じる。脈々と流れていた森の思想は神楽とともに次第に消滅しつつある。
ブナの森に軽快な音楽が流れ、樹氷をぬって滑るスキーヤーの歓声がこだまする。過疎の町、五ケ瀬町が開業した五ケ瀬ハイランドスキー場は雄大なロケーションとすばらしい雪質に恵まれ、連日多くのスキーヤーでにぎわった。
今シーズンは四月十一日まで営業、八万人の入場者があった。二十八日からは装いを新たに夏スキーが始まる。夏スキーはゲレンデにスノーマットを敷いて冬と同じようにスキー板で滑る。
スキーは楽しい。白銀の斜面をダイナミックに滑降する快感や、恐怖とたたかいながら急斜面を征服できた満足感、思う存分大地に転ぶ愉快さは人間に潜んでいる本能を呼びさますのかもしれない。雪面をギュッギュッと踏んでターンし、振り子のように身をゆだねながら滑り降りるのはスキーならではのだいご味だ。
スキーは健康によい、風邪で少しくらい発熱していてもスキーに出掛けると治ってしまう。雪山の純度の高い空気を胸いっぱいに吸い込みながら楽しく全身運動をするからだろう。だが、あまり無理をしてはならない。疲れは重大事故につながる。
日本のスキーヤーは一回でも多く滑ろうとガツガツした滑りをする人が多い。一日六十回以上も滑る人がいると聞いた。欧米のスキーヤーは適度に滑ってアフタスキーを存分に楽しむ。自然の中でデッキチェアに寝そべり、日なたぼっこをしてボケーッとした時間を過ごす。仲間とのふれあいもアフタスキーの魅力である。
日本には約七百カ所ものスキー場があり千二百万人もの人々がスキーを楽しんでいるという。スキーはブナ林の活用によるものだ。温度、湿潤、多雪がブナ林を育てた。ブナ林はスキー場に最適の環境をもたらしているのである。
スキー場開設により過疎の五ケ瀬にも変化がみられるようになった。これまで冬になると雪にとざされ仕事もなかった寒村が、正月休みも返上して、朝まだ暗いうちからスキー場のリフトにレストランにショップに出かけていく。
出稼ぎの人も帰り、都会に就職していた青年たちも故郷に帰るケースが目立つようになった。旅館や民宿、レンタルスキーなど地元の人々の事業参加も始まった。村の婦人会の皆さんが生き生きとあかぬけて見える。
スキーもまだ三シーズンを迎えてばかりで問題も多く、越えなければならないハードルも高いけれど、きっと克服できるだろう。
過疎の九州山地で大きい反響を巻き起こしたスキー場だが、これには十数年に及ぶ年月と関係者の血のにじむような努力があった。
波帰地区では昭和四十六年、地域の活性化を図ろうと『えのは振興会』を結成した。波帰川に区画漁業権を設定し、ヤマメの有料釣り場を開設したのである。
昭和五十年にはやまめの里構想のもとにカヤぶき屋根の炉辺を囲むレストランがオープンした。五十四年には宮崎国体の山岳競技が開催され、これを機に、ヤマメ釣りをベースにした民宿が五軒できた。
婦人会による山菜の加工場もできた。ほとんど都会から人の入り込みのなかった寒村に少しずつ観光客らしいものが芽生えてきた。その取り組みの中からスキー場の発想は生まれた。
他地域にできないものを探そうとして浮かんだのが雪であった。雪が多いのは子供の時から体験的に知っていた。雪が多ければどこかにスキー場ができるような場所があるに違いない。
スキー場の情報収集の傍ら町役場に陳情を始めた。『どこかにスキー場ができる場所があると思うから調査してみたください』。五十二年ごろのことである。ところが答えはいつも『何とも知れないものに大事な町費を使うわけにはいかない』。それでも辛抱強くお願いを続けた。
五十四年の暮れか五十五年の正月だったと思う。当時の町長から『そこまで言うのなら地元でもっと調査してみたらどうか、可能性があれば町も取り組んでもよい』というような返事をもらった。
『なるほど、自信のないことを陳情してはいかんのだな』と思ったが、ではどのようして広大な山地を調査していいかわからない。
途方にくれていた時、ヘリコプターが低空飛行を繰り返しているのが見えた。直観的に『そうだ、山を空から見てみよう』と思った。
当時は拡大造林政策がピークを迎え、標高千メートル以上の高地まで植林事業が進められていた。苗木を背負い、歩いて一時間半とか二時間かかって運ぶところもある。そこでヘリコプターで苗木を運ぶ方法がとられた。
毎年雪解けのころになるとヘリコプターで苗木を運んでいたのである。最初に飛んだのが五十五年三月三日であった。カメラをしっかりと握りしめ、ヘリコプターに乗った。深い山ひだが連なる九州の尾根、脊粱(せきりょう)の山並みを追って飛んだ。北斜面に雪がびっしり残っていて、スキーができそうな場所を二箇所確認した。その一つが向坂山だった。
標高一、六八四メートルの向坂山山頂付近は、深いブナの原生林だ。波帰から歩いて三時間半、スズタケをかきわけながら上空から確認した地点を目指す。
目標へ近付くにつれて次第に根雪が姿を現し始めた。三月上旬というのに六十〜八十センチの根雪が横たわっている。これならスキーができる。もっと詳しく地形を調べよう。二万五千分の一の地図で等高線を読みながらさらに山歩きを続ける。
春の息吹が感じられるようになると最初にマンサクが黄色いリボンの花を付けた。バイケイソウが落ち葉を持ち上げながら、みずみずしい芽を伸ばしてくる。イチイやナナカマド、ナツツバキやヒメシャラなど北国の木がブナの森に混生している。神秘的な森のたたずまいであった。
これは素晴らしい。スキー場だけでは、もったいない。森林公園にすべきだ。そう思いながら調査を続けた。
昭和五十五年五月、リポートを書いて町長に提出した。町長は『これは素晴らしい、あの辺には雪が深いとは知っていたが、これほどとは思わなかった』と言われ『やってみようじゃないか』ということになった。
かくてスキー場は五ケ瀬町の計画となったのである。だが、実は、ここからが大変だった。町にも議会にもスキー場の専門的知識を持つ人はいない。まして行政で取り組んだ事例を知らない。先例のない事業はとても難しい。
最初にスキー場の情報をもたらしたのは当時の営林署長である。スキー場予定地は国有林にある。営林署にも足繁く通ってお願いしていた。署長はスキー場に大変関心を持たれた。
まず現地を見ようということになりスキー板を持ってみえた。目指す予定地までは雪が深くて登れなかったが途中でテスト滑走された。『これはいいねえ、雪質も長野辺りの雪に似ている』五ケ瀬ハイランドスキー場で最初に滑った人とは営林署長であった。
五十五年十一月、営林署長の案内でスキー場視察に出発した。町長、財政課長、経済課長、そしてレンタカーの運転手として私、総勢五人のメンバーだ。四泊五日で群馬県や新潟県の主要スキー場を回った。特に前橋営林局では国有林を活用したスキー場の研修がよかった。
署長は上京の折り、林野庁でスキー場の計画を話した。すると『南国宮崎でスキー?』ということになったらしい。『特に中央から見た場合、宮崎は南国イメージが強い』という。そこで『きちんとしたデータがないと役所は動かない』とアドバイスを受けた。
昭和五十五年十二月二十一日、気象観測機材を背負って運び、向坂山に百葉箱と風向風速計を設置した。初めて町が百五十万円の調査費を計上したのである。以後六十年まで、気の長い年月をかけた気象観測が始まる。
五十六年春、再び植林地の苗木運搬にヘリコプターが来た。三月十日、五ケ瀬町長もヘリコプターに乗り上空からスキー場予定地を視察した。この年も向坂山には雪が、びっしり残っていた。
町長は積極的に営林局や宮崎県へスキー場建設の陳情を始めた。町長から声が掛かる度に雪山の写真や積雪データーを持参する。議会や担当課も四国や本州のスキー場視察に出かけた。関係機関からの現地視察も相次ぐ。
やがて、県地域振興課でスキー場の調査費が計上されたというニユースが飛び込んだ。いよいよスキー場の夢が実現する。期待に胸を踊らせた。
五十七年、委託を受けたコンサルタント会社がスキー場の調査に来た。やがて報告書が提出された。建設費は二十数億円。町の年間予算に等しい数字である。だれもスキー場を口にしなくなった。
精力的に陳情を続け、奮闘していた町長が突然、病魔に倒れた。スキー場は、もうだめだよと、だれもが言う。五十九年八月十七日地、新町長が誕生した。新体制もスキー場は県が事業主体とならなければ町財政では無理との見解。
県は町が主体性を持って進めなければ支援できないと言い、事態は前進しない。そんな時『熊本県にスキー場建設』のニュースが駆け抜けた。
当時の熊本県の細川知事がスキー場の計画を発表したのである。場所は五ケ瀬町で計画を進めている向坂山だ。ここは熊本県境で、両県にまたがった地形にある。
「困った」。関係者は頭を抱え込んで町長室に集まった。その時、隣接する清和村の村長があいさつに見えた。「突然ですが、知事がスキー場を建設するというので、ごあいさつに来ました。そちらの町が先に計画を進められていたのですが、よろしくご協力を」ということである。
これが発端となり計画が再燃する。町長はスキー場建設に腹をくくり、町民の理解を得るために地区ごとに座談会を開いた。議会では長い年月をかけたスキー場の案件が、ようやく全会一致で決定、改めて県へ陳情に向かった。
熊本県と宮崎県ではトップレベルで話し合われ方針が決まった。こうして昭和六十年、一気にスキー場建設に向けて行政が動き出した。
気象観測は困難をきわめた。標高八百bの波帰から標高千六百bの観測点まで高低差八百bを毎週一回登る。片道三時間半の行程だ。
大雪になると観測点までたどりつけず途中から引き返し、また翌日挑戦する。そこでスノーモービルを買い入れた。スノーモービルで登山道を登り、尾根伝いにたどれば観測点に着くかもしれないと考えた。ところが新雪は軟らかくて登れない。
東北地方のスキー場を回った時、青森でカンジキを買った。これはよかった。日当たりのよい斜面は雪が固まっている。この斜面をたどれば深い雪でも平気で歩けた。
恐い思いもした。北向きの斜面でかん木を埋めつくした軟らかい雪にはまった。もがけばもがくほど落ちていく。雪面へ上がることができない。助けてくれる人はいない。「気を付けてくださいよ、あなとほどの雪山装備を持った人は消防団にも警察にもいないから。」と役場の担当者は言った。
宮崎県スキー連盟が「五ケ瀬にスキー場を成功させよう」のキャンペーンを始めた。大淀川河畔で行われる"まつり宮崎"に発泡スチロールの粒をまき、スノーモービルやスキー用品、スキーウェアを着けたマネキンを設置し、雪山の写真やビデオを紹介した。
地元の青年たちも高山植物の盗採盗堀防止に森林パトロールを続けた。テレビ局と雪上プロレスなどの番組を仕組んだり、発泡スチロールの雪だるまに雪を詰めて宅配したりして雪山キャンペーンを続けた。
名称も「森林公園協力会」から「雪の五ケ瀬むらおこしグループ」へ、そして「むらおこしカンパニー」へと発展した。
昭和六十年からの行政の取り組みには、めざましいものがあった。スキー場開発基本計画の策定、道路の開設、保安林解除、国定公園の利用許可、運輸局の索道事業の申請、送電の協議など矢継ぎ早に進めていった。
県も観光振興課、地域振興課、地方課、環境保全課、造林課、林業振興課、林政課など、関係課による支援体制を敷いた。
スキー事業は自治省のふるさとづくり特別対策事業に採択され、平成二年十二月二十一日、オープンのテープは切って落とされた。
長年の夢が実現し、むらおこしの大きな起爆剤となった。リスクを背負って決断した町長や町議会には言葉に表せないものがあったに違いない。
「減っていくヤマメを殖やしてみよう」。材木を積んだトラックに便乗、街に下りていく途中フッと思いついた。子供のころ捕ったヤマメを人工的に殖やせないか、そう考えたのである。
未知の世界だが、すばらしいロマンを感じた。忘れちゃいかん。そう念じて、帰りにポケットのお金をはたいてセメントを買った。セメントは時間がたてば硬化する。単なる空想に終わらないよう歯止めをかけた。昭和三十八年のことである。今考えると、この日の行動が人生を大きく変えることになった。
やがて渓谷のほとりに小さな水槽を造った。毛針でヤマメを釣って集め、いろんな餌(えさ)を与えてみた。水中昆虫などの生き餌はいつの間にか食べているが、生き餌以外は食べようとしない。
水鉄砲の中にヤマメが好んで食べそうなものを入れ、水槽の陰から水面に飛ばしてみる。警戒心の強いヤマメは逃げ回り、人工の餌になかなかなじまない。生まれたての稚魚から餌付けすればうまくいくのではないか。そう考えて人工ふ化を試みることにした。
ブナ林の頂が紅葉に染まるころ、ヤマメは産卵を始める。産卵期には餌を食べないから、生け捕りするには網ですくう以外にない。
深夜、カンテラをともして谷川へ下りてみた。カンテラの赤い炎が谷川の闇を開いていく。岩も川面(かわも)も水音も夜の顔をしている。暗闇の聖域には知られていないヤマメの世界があった。
日中、岩陰に隠れているヤマメも警戒心を解き、浅いよどみに出ている。魚影を追って行くと光に驚いたヤマメが足元から砂浜に飛びだしてくることもある。
それからカンテラとポリ袋、タモを持って深夜の谷川に入り、ヤマメすくいを始めた。トラツグミの声に肝をつぶし、クモの巣を頭にかぶりながら、おっかなびっくりで山深い谷川を上る。産卵期は毎日のように深夜になると谷川へ入った。
採卵適期の天然親魚を得るのは、なかなか難しい。すでに産卵を終わっていたり、まだ固い腹の未熟卵であったり、魚体は大きくても抱卵していなかったりする。取り出した卵に雄の白子をかけて木箱の水槽に沈めて観察する日が続いた。
雪が積もったある日、雪かきしながらふ化槽にたどり着いた。ふたをそっと開けてみると、水底に初めて目にする小動物がうごめいている。薄いピンクの透き通った生きものだ。
ヤマメがふ化を始めていた。
23.ミミズに驚く水槽育ち・ヤマメの養殖(2)
初期稚魚の餌付けはうまくいった。ゆで卵の黄身と牛の肝臓と脱脂粉乳を混ぜたものがよかった。
水槽の水面にみそこしを浸け、みそをこすように練り餌をかきまぜると、餌は水中へ落ちていく。根気よく続けているといつの間にかこれを食べるようになった。次第に餌の食い込みも良くなり、育ち始めた。
ところが、体長三a以上にもなると動きが非常に敏捷になった。水槽の外へも飛びだす。特に注水口付近では水深と同じ高さをジャンプする。人影に驚いて餌を取らなくなる。共食いを始める。成長するにつれて野性がよみがえってきたのだ。
その時、一つの水槽だけは落ち着いて餌を食べ続ける魚群がいた。よく観察してみるとそれは魚数の多い水槽だ。そこで他の水槽も多くしてみた。するとみんな落ち着いて餌を食べる。
野性の強いヤマメは密度を高めることによって管理飼育が可能になる。昭和四十年にこれを学んだ。ヤマメだって『赤信号、みんなで渡れば恐くない』のだ。集団になれば自分を見失ってしまうのだろう。
人工ふ化した初代のヤマメは、見学者に驚いて餌を取らず困った。二代目、三代目と世代を重ねるにつれ、人影に餌を求めて集まるようになった。一代は二年間になるが、四代目以降、八年間続いた養殖ヤマメは固い乾燥飼料も食べるようになった。
こうして野生が抜けてヤマメは、本来の餌のミミズなそ、生きた餌に驚いて逃げてしまう。ひ弱な体質で病気にもかかりやすい。
天然では台風や大雨の前には食いがたつが、水槽のヤマメは天候の変化に反応を示さない。河川放流してもしばらくは餌を取ることができない、放流後、本来の野生がよみがえるにはどれぐらいの時間が必要なのかはまだ分からない。
ヨットによる単独世界一周を果たした今給黎教子さんの講演に次のような話があった。『航海へ出発して三ヵ月くらいで原因不明の頭痛がしてきました。二日か三日で治るんです。で、また頭痛がくるんです。何回もするうち、分かってきたことがありました。頭痛した次の日はあらしがくるんです。気圧の変化を頭で感じられるようになってたんですね』と。
私たちは、元々、宇宙や自然を感じる能力を持っていた。それが文明の発達に比例して退化してきた。今日の文明社会は野生の抜けたひ弱な人間社会なのだ。ヤマメの養殖を続けながら思うのである。戻る
春の雨を木の芽おこしという。霧雨に誘われてこずえは新芽を伸ばし、灰色の森はもえぎ色に染まる。南向きの暖かい山から北向きの寒い山へ、低地から高山の頂へとそれは広がる。山菜の盛期でもある。
やぶにはタラの芽が鋭いトゲに囲まれて生きのよい芽をふくらましている。棒で幹をたたくと、摘み加減の太い芽はポロリともげ落ちる。棒を隠して近付き、突然にポカリとたたけばより効果的だそうだ。
タラの芽はアクがないのでそのままいける。テンプラ、おひたし、みそ汁、吸い物、何でもうまい。ウドはさっとゆでて水にさらし、酢みそで食べる。若芽は佃煮にする。
山菜を茹でるにはかまどの火がよい。初め薪をドウと燃やし、沸騰したら薪を引きながら残り火でゆっくり煮詰めるのがコツだ。
ブナ林の谷川に育つヤマワサビも、春を代表する味覚だ。若い茎をさっとお湯にくぐらせ、コリコリ揉んでしょうゆをふりかける、容器に密閉する。半日もたてばツーンと鼻にくる。涙してほおばる。
コブシやシャクナゲ、ミツバツツジなど、森の花の料理もオツなものだ。コブシの花はさっとゆでて二日ほど水にさらすとおひたしで食べられる。高貴な香りと舌触りがいい。
山菜は若い芽もどおいしく、摘み取って食べるまでの時間が短いほどうまい。いのちみなぎる森の恵みだ。
九州の森は低地が照葉樹林で高地はブナ林だ。照葉樹林は四月の新緑がよい。まるで空気が無いように透き通って輝いて見える。ブナ林は五〜六月が新緑だ。朝霧に濡れた山々は空気にまで淡いみどりが溶け出す。
秋の紅葉は全山真っ赤に燃え上がる。木の実やキノコが森の恵みだ。ブナ林は一万年以上も安定した森をつくった極相林だ。強風の尾根や岩場にはナラやツガががっしり岩をつかんで育ち、深い谷間にはシオジやカツラがすくすくと樹高を伸ばしている。
ブナ林の伐採株や自然倒木の年輪を見ると、おおむね三百年が多い。三百年たつと幹の中から腐り始め、サヤができる。だんだん弱って風倒木となる。
自然更新で芽生えた樹木はあらゆる気象の洗礼を受け、伸びすぎる枝はもぎ取られ、風雪に耐え再び三百年の森をつくる。
ブナ林は縄文文化をはぐくみ近年までも森の文化を育てた。今、人々はブナ林の樹木の名前を知らない。個々の樹木の役割や利用価値を知らない。
今、森はひん死の重傷だ。ブナ文化を語り、本物の森を見つめ、自然との共生を考えよう。